SOCCER NISUTA

なせば成る!!!!
レアル・マドリードについて書いていきます。

ムトゥ、23億の支払い命令は変わらず!

2009-08-02 18:03:09 | 海外and国内NEWS

ルーマニア代表でフィオレンティーナに所属しているアドリアン・ムトゥが起こした異議申し立てをCAS(スポーツ仲裁裁判所)が棄却しました。

ムトゥは、2004年にドーピング検査で陽性反応が出たため、7ヶ月の出場停止処分を科され、当時所属していたチェルシーを解雇されました。
その後、ムトゥはユヴェントスやフィオレンティーナでプレーしてドーピングショックから立ち直りました。

しかし2008年にチェルシーがドーピング問題でムトゥが7ヶ月の出場停止になったことによって、莫大な損失を被ったとしてムトゥに賠償を求め、FIFA(国際サッカー連盟)がムトゥに1700万ユーロ(約23億円)の損害賠償を支払うように命じたました。

これに対してムトゥは反論、CASに対しFIFAの決定を無効にするように求めましたが、CASはこのムトゥの訴えを棄却し、賠償金の支払いを命じました。
この決定を受けてムトゥの弁護士は、「スポーツ裁判での決定が満足いかないなら、一般法廷へ訴えることになる」と民事訴訟するとの意志を示しました。


ロブソン氏が死去

2009-08-02 10:42:41 | 海外and国内NEWS


1990FIFAワールドカップ(イタリア大会)でイングランド代表を4強に導いたボビー・ロブソン元代表監督が、7月31日(金)に癌のために死去しました。

享年76
ロブソン氏は、1969年から1982年までイプスウィッチで監督を務め、1986年からはイングランド代表監督に就任し8年間指揮を振るいました、その後はFCポルトやバルセロナ、ニューカッスルなどで監督をして2006年~2007年にはアイルランド代表の顧問として活躍しました。

ロブソン氏は、優れた教育性と人柄を持った指導者で、“サー”の称号を持つ名将として活躍しました。
選手時代には、1958FIFAワールドカップ(スウェーデン大会)にイングランド代表として出場しました。

哀悼の意
ズヴェン・ゴラン・エリクソン(元イングランド代表監督)
「私がイングランド代表監督になったとき、私は何度も彼に電話をかけたが、彼は常に惜しみなくアドバイスをくれ、私を助けてくれた。彼は私に対してそうだったように、誰に対しても親しみやすかった。実際、私にとっては彼こそがスペシャル・ワンだったよ」

ファビオ・カペッロ(現イングランド代表監督)
「サー・ボビーが癌との最後の闘いに敗れ、悲しみに耐えない。しかし、彼が人々の記憶から失われることは決してないだろう。サー・ボビーは素晴らしい人物で、真のジェントルマンだった」

アラン・シアラー(元イングランド代表、元ニューカッスル所属)
「彼に話しかけられ、頑張って欲しいと言われたら、誰もが彼のために頑張ろうと思った。なぜならみんな彼が好きで、彼を尊敬していたからだ。誰もが彼に共感し、彼がくぐり抜けてきたプレッシャーと痛みに思いを寄せていた。彼にはそういうオーラがあったんだ」

ポール・ガスコイン(元イングランド代表)
「私の気持ちは言葉では表せない。彼は私のもうひとりの父親だった。彼の死を聞いて流した涙に比べれば、90年(伊W杯準決勝で西ドイツとのPK戦で敗退し、ガスコンは涙を流した)の涙などものの数に入らない」

ギャリー・リネカー(元イングランド代表)
「彼の不在は大きい。素晴らしい人物だった。彼のもとでプレーすることの幸運を考えれば、その不在はますます悲しくなる。フットボールに対し、彼以上に情熱的で熱心な人のもとでプレーしたことはなかった」

キーロン・ダイアー(元イングランド代表、元イプスウィチ所属、元ニューカッスル所属)
「彼は癌に何度も勝ってきたから、100歳まで生きてくれるとみんな思っていた。(プレミアリーグは開幕戦で彼に対して1分間の黙祷を捧げると発表しているが)彼の人生を称えるなら、黙祷より拍手とスタンディングオベーションの方が相応しい。フットボールは彼の人生だった」

ジョージ・バーリー(現スコットランド代表監督、元イプスウィッチ所属)
「彼は私を人間としても育ててくれた。彼のことはいつも第二の父のように感じていた」

ジョゼ・モウリーニョ(現インテル監督、元バルセロナ通訳)
「我々は絶対に亡くしてはならない人を失ってしまった。なぜなら、彼は素晴らしい功績を残しただけでなく、『彼と時間を共有する』という幸運をわれわれに与えてくれたからだ」

アレックス・ファーガソン(現マンチェスター・ユナイテッド監督)
「ボビー・ロブソンのことを悪く言う人間は誰一人としていなかった。彼は素晴らしい友人であり、魅力溢れる男だった。また誰も太刀打ちできないサッカーへの情熱と造詣を持った人物だった」