天空の土木作業

鉄道模型レイアウトの制作記録

三岐鉄道

2013-07-27 | 日記
三重県の三岐鉄道に行ってきました。

青春18切符の期間内でしたので、それを活用するため、往復JR線を使用する旅程です。
集合は0830に大阪駅を発車する新快速の一番後ろの車両として、後は最寄り駅からぞくぞくとその車両に乗ってきます。
あまりJRの在来線を利用することは無いので、新快速であっても十分旅行気分になれます。テンションが上がり、大阪駅で駅弁を買い込んで空席が目立ってきた山科発車後に食べました。神戸淡路屋の「ステーキ弁当」を食べましたが、美味しかったものの朝から食べるものでは無かったようです。



新快速ですが、大阪や京都、草津でもかなり余裕のある停車時間で、225系の性能が活かされたダイヤに思えました。昔は18切符シーズンともなると寿司詰めの車内になることもしばしばありましたが、今は土休日全て12両編成ということで結構ゆったりできて快適でした。

草津で草津線に乗り換えます。やってきたのは113系の両先頭車がカフェオレ、中間のユニットは原型でした。当然、湘南色の中間車に乗ります。参加者は私も含め胴周りの大きな者ばかりでしたので、シートピッチが拡大されていないボックスシートは少々窮屈なものでした。草津線は草津~貴生川まではお召列車運転の際に路盤が改修されたそうですが、貴生川~柘植間は特に改修が成されておらず、車端のボックスシートに乗っているとたまに飛びあがるような衝撃がありました。
それでも、113系のボックスシートで飲むビールは格別で、のどかな沿線風景と相まってなかなか満喫できました。



柘植から関西線に乗ります。キハ120の2両編成で、我々同様18切符旅行中と思われる草津線からの乗り換え客も多かったのですが、全員がちょうど着席する乗車率となりました。柘植駅をあらためて見まわしますと、敷地が広大な事に驚きます。かつて、加太越えに挑むD51達が、大量の貨車を従え、ここで組成されて出発を待っていた光景が思い出されますが、今では優等列車も来ない静かな山間の駅です。



そんなSL達の苦労を全く感じさせる事なく、キハ120はスーっと峠を越えました。中在家信号所も判らないくらいにスムーズな走行で、わずか3駅、あっと言う間に亀山駅に到着です。

亀山駅では少し時間がありましたので、改札口を出て散策しました。
最近では「亀山ブランド」という言葉もあるいように、シャープの工場が高品質の液晶画面を作っているイメージがありますが、亀山駅前には食堂とパン屋があるくらいで、実に静かな、ひっそりとした光景が広がっていました。ここからタクシーで10分のところに工場があるそうで、シャープの公式ホームページのアクセス案内も亀山駅を推奨しているのですが、日曜日ということを差し引いてもあまりにも寂しい感じがします。
そのパン屋さんに入りますと、お店の一角で和菓子も売っていました。「伊勢銘菓・亀乃尾」とあります。調べてみますと、このパン屋さん「瑞宝軒」はもともと和菓子屋さんのようで、「亀乃尾」誕生は江戸末期。かつて大正天皇・昭和天皇に献上された歴史もあるようです。パンはサイドビジネスで始められたのでしょうか。



お菓子とパンを買って駅に戻ります。私たちが乗車する名古屋行き区間快速が入線していました。転換クロスシートの313系2両編成です。
発車まで時間があったのでホームの端から亀山運転所の写真を撮りました。キハ40系「国鉄風色」が止まっています。もちろん、キハ40系に赤とクリームのツートンカラーは存在しませんでしたが、キハ23等のイメージに近く、何の違和感もありません。



中線には211系が止まっていました。クモハ211のトップナンバーを含む、かつての「シティライナー」編成です。あのブルーに細いホワイトラインが入った帯色はなかなかカッコイイと思うのですが、いつしかリバイバルもあるのではと期待しています。貴重なボックスシートの211系ですし、いつか長い区間乗ってみたいです。

ほどなく列車は名古屋に向けて発車しました。211系のボックスシートもいいのですが、やはり313系のスムーズな加速と綺麗な車内は素晴らしいものと感じます。少し立客が出る程度の乗車率です。車掌室の手前は、荷物輸送のために布で仕切りがありました。



しばらくするとコンテナ車がゴロゴロとあらわれて、専用線が見受けられるようになります。四日市に来たなぁと感じます。個性的なスイッチャーと併せて、専用線ファンにはたまらないゾーンなのでしょう。私も大好きです。伊勢鉄道の車両ともすれ違いました。



やがて近鉄線が接近し、北勢線の下を潜ると、桑名に到着。ここで下車します。
下車して目に飛び込んできたのは、近鉄ホームからJR利用客に向けて掲げられた看板でした。「近鉄王国」と呼ばれるこの一帯は、昔から熾烈な集客合戦を繰り広げているのは周知の通りです。JR東海は「区間快速」を投入し、特定区間運賃と併せて近鉄王国の牙城を切り崩そうとしていますが、対する近鉄も「四日市急行」を登場させ、戦いは続いています。ファンとしては、新幹線vs.近鉄特急による「名阪の戦い」をもう一度見てみたいところですが、どうでしょうか。



桑名駅の駅ビル食堂街で昼食を取りました。行列の出来ている餃子屋さんがありましたがカウンターのみなのでパス。次に串カツ屋さんの看板があり、良く見てみると何故か国鉄の銘版が貼りつけてあって、これは鉄道ファン打ってつけの店ではないかと店内を覗き込みましたが、この銘版以外は特に鉄道色があるわけではなく、値段も少々お高めだったのでスルーし、高山ラーメンのお店に落ち着きました。



次の北勢線まで時間があったので、駅に1番近い踏切まで移動しました。この踏切は、駅ロータリー側から北勢線、JR線、近鉄線を跨いでおり、順にナローゲージ、狭軌、標準軌を跨いでいる珍しいものです。渡ってみると、ナローゲージの狭さが良くわかります。



駅に戻り、窓口で切符を買いました。「三岐鉄道1日乗り放題パス」が1,000円で売られていましたのでこれを購入します。今日は三岐鉄道両線を全区間乗車しますので、もってこいの切符です。
改札口を入りますと、既に列車は入線しています。見ようによっては、遊園地にあるような、可愛らしい列車です。この編成は4両編成で、1番先頭のみが非冷房車、後は冷房設備が車内に取り付けられていました。2両目はかつて先頭車であっただろう乗務員扉の跡が見て取れます。ボディに釣り合わない大きなパンタグラフ、丸い妻面、魅力たっぷりの編成です。



三岐鉄道北勢線、我々には「近鉄北勢線」といった方がピンときますが、近鉄が営業から退いたのが平成15年の4月で、既に10年の月日が経った事になります。平成12年、近鉄が北勢線の廃止方針を打ち出し、沿線自治体が1万人分の廃止反対署名を提出。三重県と自治体が合計74億円もの巨費を投じ、10年間は三岐鉄道が運営することで、存続が決まりました。
その後、三岐鉄道も積極的に経営の改善を図り、近代化、速達化が進みました。三岐鉄道に移行直後の平成15年の乗客数が206万人で、平成22年度の乗客数は227万人とのこと。奮闘していると思いますが、平成15年度に立てられた10ヵ年計画では、平成22年度は289万人を予測しており、当初の予測に比べて60万人以上も低い実績となっています。
経常利益ベースでは平成21年度が▲4.7億円、平成22年度で▲3.8億円で、近鉄時代の▲5.5億円からはずいぶんと圧縮されましたが、依然独立採算には至っていないというのが現状です。
中日新聞の記事によると、三岐鉄道が平成29年までの支援を要請したところ、自治体は平成25年度単年度の暫定的支援を行うと回答し、そこに落ち着いたとの事です。今後の行方がとても気になります。



私たちが乗る非冷房車はガラガラですが、後ろの車はほぼ席が埋まったような乗車率で発車しました。地底から突き上げるような吊り掛けモーターの唸りに体が震えます。ゴトンゴトンと踏みしめるように坂道を上り、JR線と近鉄をオーバークロスして、いよいよ北勢線の旅が始まります。
住宅街を突き抜け、木々の中を走り、スプリングポイントを慎重に渡り、時速40キロ程度でコトコトと走る姿は、何物にも例え難い愛嬌を感じます。窓を全開にしていますので風が気持ちよく、モーター音やフランジ音も大きく聞こえます。本当に心地よい時間が流れていました。
駅はどれも綺麗で、自動改札口も全てに設置されています。運行面の安全に関わる近代化は近鉄時代に、周辺設備の近代化は三岐時代から行われたようです。駅の統廃合も大いに行われたようで、それらの駅前には駐車場や車寄せがきちんと整備され、パークアンドライド・キスアンドライドを促しています。
夏の日差し、高い空、緑の田畑に映える黄色のボディを満喫しているうちに、最後に大きな丘を登り越え、列車は終点の阿下喜に到着しました。



阿下喜駅にはとても綺麗に整備された「226」という車が展示されており、小さなターンテーブル、グルリと取り囲むより狭い線路、そして「軽便鉄道博物館」を書かれた小屋がありました。それを眺めていますと、関係者と思しき男性がカギを持って小屋に向かわれたのでお話しを伺いました。
この方は、「ASITA」という団体のメンバーで、松本さんとおっしゃいます。北勢線の両端で存続運動を展開してきた「阿下喜駅を残す会」と「北勢軽便鉄道をよみがえらせる会」が、北勢線開通90周年を機会に、沿線の市町を活性化する目的で合体し、結成されたのが「ASITA」で、軽便鉄道博物館の管理運営を行っておられます。



詳しくは「ASITA」や「軽便鉄道博物館」で検索していただくとそれぞれのホームページに書かれていますので省きますが、要は北勢線OBや自治体の鉄道愛好者が集まって、地域貢献と北勢線の活性化を目的に活動されているようです。
この博物館の敷地ですが、これが市の管理下であるものの、今年の4月で貸借契約が終了しており、処遇が保留になったままなので、博物館の一般公開が出来ない状態になっています。



御好意で中に入れていただきますと、北勢線に纏わる資料や当時の鉄道部品などが並べられ、敷地に敷かれたレールを走る車両が収納されていました。
敷地にある「226」という車両は、かつての北勢鉄道が全線電化開業した際に新造したモハニ50という車両で、その後、1977年に近鉄内部・八王子線に転属、1983年に四日市スポーツセンターで展示され、2008年にこの地へやってきました。雨ざらしで腐食の進んだ車体を、博物館の皆さんがひとつずつ手作業で修繕し、2011年に一般公開が行われるまでになりました。今でも適時修繕が行われ、とても綺麗な状態で現在も後輩車両の活躍を静かに見守っています。この車両の綺麗さを見ただけでも、メンバーの皆さんが如何に北勢線を愛し、大切に思っているかが伝わってきます。



モニ226ともう一つ、この地にやってきたのが腕木信号機で、これはJR東海の名松線家城駅からやってきたものです。これにもきちんとワイヤーが張られ、転換テコで切り換えが出来るようになっています。
3月までは月に2回、一般公開を行っていて、ブログでは修繕活動を頻繁に行っているように見受けられますので、保存鉄道の愛好家団体としては精力的に活動されているように思います。しかし、いなべ市と賃貸問題が解決されない限り、メンバーの皆さんも落ち着いて活動することができないことでしょう。松本さんもその事を嘆いていらっしゃいました。ただ、鉄道の保存はお金の掛かることですし、土地に関しては税金の事も含め、大変難しい問題です。良い方向に向かう事を願います。

阿下喜駅からはタクシーで三岐鉄道三岐線の伊勢治田駅へ向かいます。タクシーの運転手さんも、北勢線や内部線、八王子線の行く末を案じる話をしていて、地域の大きな問題である事を感じました。
ワンメーターで到着、すぐに貨物列車が通過していきました。これを追い掛けて、後続の普通列車で東藤原駅に向かいます。



東藤原駅に着くと、早速貨物列車の入換作業が始まっていました。押して、引いて、機回しして、放して、くっつけて…。何分見ていても楽しい光景です。
駅から少し歩いて、道路から車両の写真を撮りました。青々とした田んぼの向こうに見える、セメント工場の人工的な施設とのコントラストが魅力的です。
1本あとの列車で、終点の西藤原まで行くことにします。




車窓からセメント工場の荷積み施設を眺めます。山中に突如現れる巨大な施設、鉄道貨物が活き活きとしている姿は感動ものです。



終点、西藤原には、丹生川駅にある「貨物博物館」と並ぶ三岐鉄道が運営する鉄道博物館「ウィステリア鉄道」があります。「ウィステリア」とは花の「藤」の意味で、藤原町の花なのだそうです。
広い芝生の公園にミニSLの線路が敷かれ、機関車が3両展示されています。駅舎には写真などが掲示されていました。
展示されている車両は、SL・DL・ELが1両ずつです。



SLは三岐鉄道ができた時から走っていたE101型102号機。電化の際に一旦三岐の地から離れましたが、その後この鉄道公園の整備の際にこの地に戻りました。
DLはDB25号とあります。かつて関西線の八田に小野田セメントのサイロがあり、そこで入換作業に従事していたそうです。
ELは元・住友大阪セメントの伊吹鉱山で使われていた「いぶき502」号機です。鉄道セメント輸送の廃止に伴い、大井川鐵道へ貰われていったのですが、中部国際空港の埋め立て用土砂に藤原岳の土砂が使われることになり、双方とも三岐鉄道に貸し出され土砂輸送に活躍しました。その後、土砂輸送終了とともに501号は大井川に返却され、502号は帰ることなく、ここで長い眠りに着く事になったという経緯です。



西藤原から終点の近鉄富田まで、通しで乗車しました。
途中から部活帰りの学生が乗ってきて、まあまあ賑やかな感じの車内になりました。
地域の足としてだけではなく、最近ではハイキングへのアクセスとしても三岐線は活用されているようです。
収入を貨物輸送に依存するのではなく、旅客分野も頑張って欲しいと思います。
せっかく青春18切符があるのですが、時間の都合で近鉄富田から急行で四日市まで行き、名阪乙特急で大阪へ戻りました。

三岐鉄道の両線を巡る旅でしたが、単に満喫するだけではなく、歴史や現状、鉄道会社や地域の取り組みを知り、いろいろと考えさせられる1日となりました。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿