天空の土木作業

鉄道模型レイアウトの制作記録

「雷鳥」の485系(1)

2013-03-28 | 資料
特急「雷鳥」が廃止されて2年。その次の人生を送っていた車両達も何時しか姿を消し、もうほとんど現存していないのが現状です。
そこで、「雷鳥」として北陸路を飛びまわっていた485系の生い立ちを調べて見ることにしました。
「雷鳥」の「巣」である向日町に、最も多くの485系が配属されていたのは「なは」として西鹿児島まで運用されていた1974年からの1年間で、翌年の山陽新幹線博多開業と共に、その多くが南福岡・鹿児島へと転属し、向日町の485系は北陸路だけを担当することになります。
当時の編成を元にするのも良かったのですが、あまりにも馴染みが無かったので、食堂車が廃止され、「だんらん」を連結し始めた1985年の編成表を元に、485系の歴史を調べてみました。

※あくまでも個人が調べたもので、間違いや曖昧な表記があります。

1985年 向日町


編成番号はわかりませんが、「だんらん」が501のものをトップに選びました。

◆大阪寄りのクハは112番です。
向日町に新製配置され、その後「ゆうトピア和倉」連結の為の工事がなされ、スカートが大きく欠き取られました。
ヘッドライトのカバーも外されますが、私にとっては「雷鳥」らしい顔立ち、という印象です。
七尾線電化時に金沢へ転出し、7両編成に組成されますが、その運用には「北越」があり、当時の国鉄色ボンネットで唯一、「北越」のヘッドマークを付けていたのがこの112番です。
しかし、廃車は他の車より早めでした。

◆2・3号車のユニットは80番です。
乗務員室がありましたので、私も大変馴染みのある車です。
1972年に青森へ新製配置されました。この編成の「だんらん」そして8・9号車の76番ユニットも、同じ72年の青森育ちです。
東北新幹線の本格稼働で「はつかり」等の運用を離脱し、向日町にやってきました。
そこからは向日町一筋で「雷鳥」の運用を黙々とこなし、その後、様々に組成されるも最後まで「雷鳥」として活躍を続け、「雷鳥」廃止と共に廃車となりました。

◆グリーン車は66番です。
元々向日町に配備されていましたが、金沢に転出。平凡な一生かと思いきや、20年経って激動の人生となります。
1997年、「スーパー雷鳥」のクモハが「しらさぎ」に転用されるのに伴い、「スーパー雷鳥」10連貫通編成のサハとして、新番台サハ481‐501を名乗ることになります。塗装も「スーパー雷鳥」色になりました。
さらに、「しらさぎ」のクモハが福知山に転属するのに伴い、次は「しらさぎ」色となって組成されます。
まさに、クモハ485の動きを陰で支えていた訳です。
それで終わりではありませんでした。なんと最終的には向日町に戻り、国鉄色に塗りなおされて「雷鳥」運用に復帰することになります。
編成こそ違えど、サロ当時と同じ4号車に組み込まれ「雷鳥」廃止の1年前まで活躍しました。

◆「だんらん」は501番です。
1972年、サシ481‐54として青森に新製配置、東北特急の食堂車として活躍し、向日町に転属して「だんらん」となりました。
この車両は「スーパー雷鳥」に改造されることなく、廃車となっています。

◆6・7号車のユニットは、235・131番です。
72年に向日町に新製配置され、20年以上、向日町で活躍しました。
1996年「北近畿ビッグXネットワーク」構築に伴い、機器を外して183系800番台として生まれ変わり、塗装も「福知山色」と呼ばれるものに変更されました。
A43編成として組成され、長らく活躍しましたが、2011年の287系配備により、廃車されています。

◆8・9号車のユニットは76番です
人気のある76番ですが、新製配置は青森でした。
6年後に仙台へ転属し、82年に向日町へやってきました。
以後、ずっと「雷鳥」として活躍。幾度の編成変更の後、最後はA1編成の5・6号車に落ち着きます。
そして、2011年3月の運転最終日、最後の最後である「雷鳥33号」として運転。多くのファンに見送られながら、北陸へ羽ばたいていきました。
その半年後、廃車となっています。

◆富山寄りのクハは21番です。
1965年製造で、この当時の向日町485系列では最も古いグループです。
仙台に新製配置され、17年間東北特急として活躍した後、1982年に向日町に転属してきました。
向日町での活躍は短く、4年後に新潟へ転属。その後、塗装は上沼垂色になりました。
他の古い485系が各地で廃車になっていく中、1997年にジョイフルトレイン「華」の種車として抜擢され、現在もクロ485‐2として小山車両センターに所属し、活躍しています。

以上、10両の車歴を見てみました。
一言では言い表す事が出来ない、それぞれの歴史があり、とても興味深いものです。
「雷鳥」として走っていた車両が、今でも「華」として現役なのも嬉しいことです。

※間違えや追記がございましたら、ご教授頂けますと幸いです。





「雷鳥」の羽根を紡ぐ旅 183系800番台

2013-03-23 | 日記
廃止から2年が過ぎた『雷鳥』。その殆どの車両が廃車になって行く中、最期まで活躍しているものの1つが、福知山の183系です。
交直流機器を外され、形式は変わったものの、その姿は在りし日の『雷鳥』を思い起こすには十分な姿を見せてくれています。
しかし、287系や、まさかの381系に押し出される形で、2013年3月の改正をもって全て廃止になる事が決まりました。
廃止までに何とかこの183系に乗りたいと思っていましたが、中々日が合いません。ところが、1日だけ夕方から神戸出張の日があり、朝も昼も特にアポイントが無かったので、この日に183系を満喫する事にしました。

早朝から出社し、事務作業を済ませて香里園駅に向かいます。ここから旅のスタートです。
幸先良く、こちらも今月のダイヤ改定で廃止となる『おりひめ』が、原色の2600系でやってきました。これは見ただけで、私は反対方面、京都を目指します。
最初の乗車は、3000系の快速急行です。この快速急行は、樟葉で後続の樟葉止まり特急の接続を待って発車するという、中之島線開通当初に枚方市で見られたようなダイヤパターンを持っているスジです。そして、香里園を出ると各駅停車との接続が丹波橋までありません。
淀で、車庫から出庫して来る旧3000系と併走しました。快速急行を丹波橋で下車し、程なくすると旧3000系が低速でやってきましたので撮影します。こんな平日の朝にも関わらず、同業者が3人もいて驚きました。



丹波橋から近鉄で京都まで行きます。先発が特急でしたので、スナックカーが来たら5分間500円のセレブ移動を試みましたが、伊勢志摩ライナーだったので後続の普通にしました。

京都に着き、みどりの窓口で乗車券を買います。
京都から宮津、豊岡、和田山、姫路、大阪経由の京橋駅までと告げると、普通に発券されました。優秀です。
売店に目をやると、183系グッズが売っていました。クリアファイルにキーホルダー、ピンバッジと、あまりパッとしないものばかりです。



弁当売り場にいくと、何故か姫路駅『まねき』のおかめ弁当があったので、それとビールを買い、31番線に向かいます。列車は既に入線していて、同業者も多数見受けられました。
指定席は5割程の乗車率で、自由席は4割程といったところでしょうか。グリーン車はほぼ満席でした。
編成はB66です。




私の乗ったモハ183-816は、元モハ485-123です。96年の3月まで向日町に所属していましたから、きっと何度か乗務した車です。座席に腰掛け、鉄道唱歌を聞いて、移りゆく車窓を眺めますが、こんな当たり前の事が間もなく無くなるなんてピンと来ません。ただ、やはり年月には逆らえないもので、揺れや騒音、設備の劣化は相当なものだと感じます。



弁当を広げ、ビールを飲み、恐らく最後になるであろう旧485系との別れを惜しみます。そこに、アンケートを持った係員がやって来ました。旅客行動調査はチョクチョクやってますが、昔はJRオリジナルの鉛筆を配布し、それをプレゼントしていたものの、今回は普通のボールペンでした。
アンケートには正直に回答しますが、京都から京橋に行くのに山陰特急を利用する私のデータに価値があるのかは解りません。



和知駅で381系とすれ違いました。私が乗っている編成のクロハ183-806は、元日根野の車なので、且つては紀伊半島で離合していたもの同士なのでしょう。
こうして形式の違う国鉄色同士が離合する風景も、あと1週間です。



あっという間に福知山に着きました。隣のホームには、183系の『こうのとり』が発車を待っています。国鉄色の並びにうっとりしていると、向かいのホームにやって来た『こうのとり』も183系で、3本の183系国鉄色が並びました!
威風堂々と並ぶ国鉄特急車の代表格。往年の上野駅を彷彿させる、感動の空間がそこにありました。



興奮冷めやらぬ間に、『はしだて』1号は発車。北近畿タンゴ鉄道に入ります。
北近畿タンゴ鉄道利用するのは本当に久しぶりで、特急『タンゴディスカバディ』に乗務して以来です。
途中、福知山マラソンで走ったコースが見えて懐かしくなりました。
そんな事を思いながらも、旧485系の旅は終わりを迎えようとしています。北陸のクィーンとして君臨した雷鳥の485系、栄光の国鉄型特急車両。この車内でよく働きました、笑いました、時に涙もしましたし、恋もしました。たくさんの思い出に感謝していると、鉄道唱歌が流れ、終着の天橋立駅に到着。車内で思いっきり深呼吸し、ホームに降り立ちました。



天橋立でも、たくさんの方が183系の前で記念撮影をしていました。中には老夫婦や若いカップルなんかもいて、荷物の様子からすると観光や宿泊を兼ねている様です。良い事です。




もっとじっくり眺めていたいところですが、直ぐに後続の列車が来てしまいました。次は特急『タンゴリレー』81号で、豊岡を目指します。
てっきり、乗務していた頃の『タンゴディスカバディ』に使用されていたKTR8000形が来るものと思い込んでいたのですが、やって来たのはデビュー時の『タンゴエクスプローラー』KTR001形の編成でした。これは意外でラッキーでした。
後で気付いたのですが、現在『タンゴエクスプローラー』の編成は北近畿タンゴ鉄道の線内運用ばかりなので、こちらが来ると考えるのが自然です。
これも後で知ったのですが、KTR001形もこの3月で定期運用から離脱し、予備運用に入るとのこと。また、「タンゴリレー」は特急から快速に種別を変更するとのことで、まったく知らずに乗った割には、価値のある乗車となりました。



まだ世の中がバブル経済に湧いていた平成2年、特急『タンゴエクスプローラー』は運行を開始しました。3月に京都駅でKTR001形とKTR800形の車両展示会があったのですが、その日は『あすか』が団臨として走り、さらにユーロ塗装のEF65が『ワイドビューひだ』を牽引して大阪を通過する(これも展示があったからではないかと思います)という、まさに1日中お祭りの様なもので、大勢のファンが大阪~京都に押しかけていました。



流石、バブル期の列車だけあって、オールハイデッカー&天窓付きというだけでなく、テレビ等のAV装置や読者灯も備えられています。現在ではバリアフリーの観点からハイデッカーは敬遠されますし、薄型テレビ全盛において昔ながらの箱型がドンと鎮座されている姿は、哀愁すら感じさせます。しかし、鉄道少年だった私にとって、展示会で乗ったタンゴエクスプローラーは、まさに憧れのジョイフルトレインでした。
その後、4006M乗務後の便乗列車としてタンゴエクスプローラーには大阪から新大阪までの一駅ですが、何度か乗車する事はありましたが、登場から20年以上が経ち、ようやく憧れの車両にゆっくりと乗る事が出来た訳です。

入線してきて先ず思ったのが、汚れの酷さです。最近は黄砂の影響で、確かに私の愛車も黄色くなっていますが、それにしてもよく汚れています。



車内に入ると、とても懐かしい匂いがしました。乗務していた『 エーデル鳥取』やキハ65リゾート編成と同じ匂いがするのです。ディーゼルカーの煤とトイレの匂いが合わさった、何とも言えないものですが、お世辞にも良い匂いでは無いものの、懐かしさが込み上げるものでした。
ハイデッカーの階段を上がり、客席に腰掛けますが、窓は大いに汚れていますし、側面窓の上部に遮光フィルムが貼ってあるので暗い感じがします。座席の根元部分が弱くなっているのか、空席のところはガタガタ音がして気になりました。また、ハイデッカーですから、やはり横揺れも気になります。
とは言え、なかなか乗る機会の無い車ですし、大阪や京都から来た観光客を『おもてなしする特急』としては、インパクトもあって面白いのではないかと思います。
天橋立からの乗車率は2割程度。指定席は10人程乗っています。
この区間に乗車するのは、やはりタンゴエクスプローラーに乗務して以来の事です。



2両編成の『タンゴディスカバディ』の乗務はとても退屈で、往復ほぼ満席でも売り上げは2万円を少し超えるくらいでした。サマーセールで女性乗務員が38000円売って来た事がありましたが、これは全商品を売って届くかどうかの金額。いったい何があったのか聞きたかったです。私は3度くらい乗務しましたが、それはそれは暇なものでした。
『タンゴディスカバディ』の運転区間は新大阪~久美浜間ですが、その折り返し時間の間で、列車は快速『タンゴレインボー』として久美浜~天橋立間を1往復していました。乗務員は久美浜で降りても、そのまま車内で待機して天橋立を1往復してもよかったのですが、久美浜駅の前に特に何かがあるわけでも無く、殆どの乗務員が車内で過ごしていました。乗客は休日でも5人くらい、平日は全区間全く無しという日も有りましたので、客席で足を放り出して寝ていたのですが、今考えるととんでもなくのんびりしていた時代に思えます。

峰山で多くの下車がありました。意外だったのは、木津温泉駅から10名程の乗車があり、若い女性のグループもいて驚きました。このグループは豊岡から『こうのとり』に乗って行ったので、おそらく大阪方面からの旅客なのでしょうが、木津温泉とはなかなかマニアックなチョイスだと思います。
ハイカラでいて実はノスタルジックなKTR001型の旅も終わり、豊岡に着きました。乗車券はここから和田山に向けての経路ですが、乗車する特急『はまかぜ』4号まではまだ時間があります。時刻表を見ると、浜坂行き普通列車で香住まで迎えに行くことが出来るのですが、ちょうど昼食どきでもあったので、券売機で切符を買って城崎温泉まで足を伸ばすことにしました。

その前に、京都行き「きのさき」が入線して来る時刻だったので、運用は判りませんでしたがカメラを向けていると、これもラッキーなことに183系B41編成でした。先頭車は元クハ481-201で、向日町に10年間所属した車です。96年に福知山へ転属していますので、私も乗務した車なのでしょう。



「きのさき」を見送り、城崎温泉に向かいます。キハ47系の2両は全員着席といったところで発車しました。何だか旅行客が多いなと思っていましたが、ちょうど青春18切符の有効期間だったのをすっかり忘れていました。まあ、今回は183系に乗るのが目的だったので変わりませんが、ひょっとすると福知山線から加古川線を使っての移動なんかも考えたかも知れません。



城崎温泉で下車すると、とても多くの観光客で賑わっていました。カニシーズン、と言うより、卒業旅行の色合いが濃い感じです。若いのに温泉を選ぶものでしょうか、ちょっと分かりません。
昼食処を探していると、魚屋さんに隣接した海鮮料理屋があり、『お持ち帰り可能』とあったので、ここで「かに飯」を買ってはまかぜの車内で食べることにしました。
駅に戻ると、折り返し『こうのとり』となる381系が止まっていました。何度見ても大いに違和感があります。しかも国鉄色。しばらくしてキハ47系が入線し、横に並びましたが、こんな米子地区で見られた様な光景が城崎で繰り広げられているというのに、やはりまだ馴染めません。



381系も色んな思い出がある車ですので、いつかやって来る終焉の時にはまた乗りたいと思います。
そしてその向かいのホームに、これまた違和感が大きいキハ187系が入線してきました。このデザイン、カラーリング、何度乗ってもしっくり来ません。しかし、車内に入って着席すれば、やはり快適な車両だと思います。



自由席は城崎温泉から7割程が埋まりました。指定席の方がよく乗っています。企画切符なのでしょう、さすがカニシーズンです。
お楽しみのカニ飯を開けて見ると、しっかりと味の付いたカニの炊き込みご飯に、身の詰まったボイルされたカニ足が結構のっていて、大当たりでした。お茶がついてこれで900円とは、かなりのお値打ち商品ではないでしょうか。
ついつい、福井駅番匠の「焼きカニ飯」1,300円と比べたくなりますが、こちらの方が断然リーズナブルです。



姫路で7割程が下車しました。進行方向に合わせシートを回転し、ゆったりと東を目指します。
今日の会議はホテルオークラだったので、神戸駅で下車しました。東海道本線の終端であり、一応県庁所在地名の駅として特急も止まりますが、三ノ宮の賑わいに比べると、どこか寂しげな佇まいの駅・神戸。学生時代に住んでいた街なので懐かしさもありましたが、駅からハーバーランドにかけては随分と変貌していて戸惑いました。

思えば、この神戸駅から大阪に通勤し、特急「雷鳥」に乗務していた訳で、この旅を締め括るにはピッタリの下車駅となりました。
この旅から数日後、ダイヤ改正が実施され、183系は予定通り運用から離脱しました。
何本かが廃車回送を行ったそうですが、聞くところによると何やら改造されそうな編成もいるということで、僅かながら期待が持てそうです。
今回の183系の旅は、最後の最後で「雷鳥」として羽ばたいていた彼らの羽を紡ぐ事ができて、とても有意義なものでした。
もう会う事は出来ませんが、写真や模型で残し、思い出を温め続けたいと思います。