天空の土木作業

鉄道模型レイアウトの制作記録

三岐鉄道

2013-07-27 | 日記
三重県の三岐鉄道に行ってきました。

青春18切符の期間内でしたので、それを活用するため、往復JR線を使用する旅程です。
集合は0830に大阪駅を発車する新快速の一番後ろの車両として、後は最寄り駅からぞくぞくとその車両に乗ってきます。
あまりJRの在来線を利用することは無いので、新快速であっても十分旅行気分になれます。テンションが上がり、大阪駅で駅弁を買い込んで空席が目立ってきた山科発車後に食べました。神戸淡路屋の「ステーキ弁当」を食べましたが、美味しかったものの朝から食べるものでは無かったようです。



新快速ですが、大阪や京都、草津でもかなり余裕のある停車時間で、225系の性能が活かされたダイヤに思えました。昔は18切符シーズンともなると寿司詰めの車内になることもしばしばありましたが、今は土休日全て12両編成ということで結構ゆったりできて快適でした。

草津で草津線に乗り換えます。やってきたのは113系の両先頭車がカフェオレ、中間のユニットは原型でした。当然、湘南色の中間車に乗ります。参加者は私も含め胴周りの大きな者ばかりでしたので、シートピッチが拡大されていないボックスシートは少々窮屈なものでした。草津線は草津~貴生川まではお召列車運転の際に路盤が改修されたそうですが、貴生川~柘植間は特に改修が成されておらず、車端のボックスシートに乗っているとたまに飛びあがるような衝撃がありました。
それでも、113系のボックスシートで飲むビールは格別で、のどかな沿線風景と相まってなかなか満喫できました。



柘植から関西線に乗ります。キハ120の2両編成で、我々同様18切符旅行中と思われる草津線からの乗り換え客も多かったのですが、全員がちょうど着席する乗車率となりました。柘植駅をあらためて見まわしますと、敷地が広大な事に驚きます。かつて、加太越えに挑むD51達が、大量の貨車を従え、ここで組成されて出発を待っていた光景が思い出されますが、今では優等列車も来ない静かな山間の駅です。



そんなSL達の苦労を全く感じさせる事なく、キハ120はスーっと峠を越えました。中在家信号所も判らないくらいにスムーズな走行で、わずか3駅、あっと言う間に亀山駅に到着です。

亀山駅では少し時間がありましたので、改札口を出て散策しました。
最近では「亀山ブランド」という言葉もあるいように、シャープの工場が高品質の液晶画面を作っているイメージがありますが、亀山駅前には食堂とパン屋があるくらいで、実に静かな、ひっそりとした光景が広がっていました。ここからタクシーで10分のところに工場があるそうで、シャープの公式ホームページのアクセス案内も亀山駅を推奨しているのですが、日曜日ということを差し引いてもあまりにも寂しい感じがします。
そのパン屋さんに入りますと、お店の一角で和菓子も売っていました。「伊勢銘菓・亀乃尾」とあります。調べてみますと、このパン屋さん「瑞宝軒」はもともと和菓子屋さんのようで、「亀乃尾」誕生は江戸末期。かつて大正天皇・昭和天皇に献上された歴史もあるようです。パンはサイドビジネスで始められたのでしょうか。



お菓子とパンを買って駅に戻ります。私たちが乗車する名古屋行き区間快速が入線していました。転換クロスシートの313系2両編成です。
発車まで時間があったのでホームの端から亀山運転所の写真を撮りました。キハ40系「国鉄風色」が止まっています。もちろん、キハ40系に赤とクリームのツートンカラーは存在しませんでしたが、キハ23等のイメージに近く、何の違和感もありません。



中線には211系が止まっていました。クモハ211のトップナンバーを含む、かつての「シティライナー」編成です。あのブルーに細いホワイトラインが入った帯色はなかなかカッコイイと思うのですが、いつしかリバイバルもあるのではと期待しています。貴重なボックスシートの211系ですし、いつか長い区間乗ってみたいです。

ほどなく列車は名古屋に向けて発車しました。211系のボックスシートもいいのですが、やはり313系のスムーズな加速と綺麗な車内は素晴らしいものと感じます。少し立客が出る程度の乗車率です。車掌室の手前は、荷物輸送のために布で仕切りがありました。



しばらくするとコンテナ車がゴロゴロとあらわれて、専用線が見受けられるようになります。四日市に来たなぁと感じます。個性的なスイッチャーと併せて、専用線ファンにはたまらないゾーンなのでしょう。私も大好きです。伊勢鉄道の車両ともすれ違いました。



やがて近鉄線が接近し、北勢線の下を潜ると、桑名に到着。ここで下車します。
下車して目に飛び込んできたのは、近鉄ホームからJR利用客に向けて掲げられた看板でした。「近鉄王国」と呼ばれるこの一帯は、昔から熾烈な集客合戦を繰り広げているのは周知の通りです。JR東海は「区間快速」を投入し、特定区間運賃と併せて近鉄王国の牙城を切り崩そうとしていますが、対する近鉄も「四日市急行」を登場させ、戦いは続いています。ファンとしては、新幹線vs.近鉄特急による「名阪の戦い」をもう一度見てみたいところですが、どうでしょうか。



桑名駅の駅ビル食堂街で昼食を取りました。行列の出来ている餃子屋さんがありましたがカウンターのみなのでパス。次に串カツ屋さんの看板があり、良く見てみると何故か国鉄の銘版が貼りつけてあって、これは鉄道ファン打ってつけの店ではないかと店内を覗き込みましたが、この銘版以外は特に鉄道色があるわけではなく、値段も少々お高めだったのでスルーし、高山ラーメンのお店に落ち着きました。



次の北勢線まで時間があったので、駅に1番近い踏切まで移動しました。この踏切は、駅ロータリー側から北勢線、JR線、近鉄線を跨いでおり、順にナローゲージ、狭軌、標準軌を跨いでいる珍しいものです。渡ってみると、ナローゲージの狭さが良くわかります。



駅に戻り、窓口で切符を買いました。「三岐鉄道1日乗り放題パス」が1,000円で売られていましたのでこれを購入します。今日は三岐鉄道両線を全区間乗車しますので、もってこいの切符です。
改札口を入りますと、既に列車は入線しています。見ようによっては、遊園地にあるような、可愛らしい列車です。この編成は4両編成で、1番先頭のみが非冷房車、後は冷房設備が車内に取り付けられていました。2両目はかつて先頭車であっただろう乗務員扉の跡が見て取れます。ボディに釣り合わない大きなパンタグラフ、丸い妻面、魅力たっぷりの編成です。



三岐鉄道北勢線、我々には「近鉄北勢線」といった方がピンときますが、近鉄が営業から退いたのが平成15年の4月で、既に10年の月日が経った事になります。平成12年、近鉄が北勢線の廃止方針を打ち出し、沿線自治体が1万人分の廃止反対署名を提出。三重県と自治体が合計74億円もの巨費を投じ、10年間は三岐鉄道が運営することで、存続が決まりました。
その後、三岐鉄道も積極的に経営の改善を図り、近代化、速達化が進みました。三岐鉄道に移行直後の平成15年の乗客数が206万人で、平成22年度の乗客数は227万人とのこと。奮闘していると思いますが、平成15年度に立てられた10ヵ年計画では、平成22年度は289万人を予測しており、当初の予測に比べて60万人以上も低い実績となっています。
経常利益ベースでは平成21年度が▲4.7億円、平成22年度で▲3.8億円で、近鉄時代の▲5.5億円からはずいぶんと圧縮されましたが、依然独立採算には至っていないというのが現状です。
中日新聞の記事によると、三岐鉄道が平成29年までの支援を要請したところ、自治体は平成25年度単年度の暫定的支援を行うと回答し、そこに落ち着いたとの事です。今後の行方がとても気になります。



私たちが乗る非冷房車はガラガラですが、後ろの車はほぼ席が埋まったような乗車率で発車しました。地底から突き上げるような吊り掛けモーターの唸りに体が震えます。ゴトンゴトンと踏みしめるように坂道を上り、JR線と近鉄をオーバークロスして、いよいよ北勢線の旅が始まります。
住宅街を突き抜け、木々の中を走り、スプリングポイントを慎重に渡り、時速40キロ程度でコトコトと走る姿は、何物にも例え難い愛嬌を感じます。窓を全開にしていますので風が気持ちよく、モーター音やフランジ音も大きく聞こえます。本当に心地よい時間が流れていました。
駅はどれも綺麗で、自動改札口も全てに設置されています。運行面の安全に関わる近代化は近鉄時代に、周辺設備の近代化は三岐時代から行われたようです。駅の統廃合も大いに行われたようで、それらの駅前には駐車場や車寄せがきちんと整備され、パークアンドライド・キスアンドライドを促しています。
夏の日差し、高い空、緑の田畑に映える黄色のボディを満喫しているうちに、最後に大きな丘を登り越え、列車は終点の阿下喜に到着しました。



阿下喜駅にはとても綺麗に整備された「226」という車が展示されており、小さなターンテーブル、グルリと取り囲むより狭い線路、そして「軽便鉄道博物館」を書かれた小屋がありました。それを眺めていますと、関係者と思しき男性がカギを持って小屋に向かわれたのでお話しを伺いました。
この方は、「ASITA」という団体のメンバーで、松本さんとおっしゃいます。北勢線の両端で存続運動を展開してきた「阿下喜駅を残す会」と「北勢軽便鉄道をよみがえらせる会」が、北勢線開通90周年を機会に、沿線の市町を活性化する目的で合体し、結成されたのが「ASITA」で、軽便鉄道博物館の管理運営を行っておられます。



詳しくは「ASITA」や「軽便鉄道博物館」で検索していただくとそれぞれのホームページに書かれていますので省きますが、要は北勢線OBや自治体の鉄道愛好者が集まって、地域貢献と北勢線の活性化を目的に活動されているようです。
この博物館の敷地ですが、これが市の管理下であるものの、今年の4月で貸借契約が終了しており、処遇が保留になったままなので、博物館の一般公開が出来ない状態になっています。



御好意で中に入れていただきますと、北勢線に纏わる資料や当時の鉄道部品などが並べられ、敷地に敷かれたレールを走る車両が収納されていました。
敷地にある「226」という車両は、かつての北勢鉄道が全線電化開業した際に新造したモハニ50という車両で、その後、1977年に近鉄内部・八王子線に転属、1983年に四日市スポーツセンターで展示され、2008年にこの地へやってきました。雨ざらしで腐食の進んだ車体を、博物館の皆さんがひとつずつ手作業で修繕し、2011年に一般公開が行われるまでになりました。今でも適時修繕が行われ、とても綺麗な状態で現在も後輩車両の活躍を静かに見守っています。この車両の綺麗さを見ただけでも、メンバーの皆さんが如何に北勢線を愛し、大切に思っているかが伝わってきます。



モニ226ともう一つ、この地にやってきたのが腕木信号機で、これはJR東海の名松線家城駅からやってきたものです。これにもきちんとワイヤーが張られ、転換テコで切り換えが出来るようになっています。
3月までは月に2回、一般公開を行っていて、ブログでは修繕活動を頻繁に行っているように見受けられますので、保存鉄道の愛好家団体としては精力的に活動されているように思います。しかし、いなべ市と賃貸問題が解決されない限り、メンバーの皆さんも落ち着いて活動することができないことでしょう。松本さんもその事を嘆いていらっしゃいました。ただ、鉄道の保存はお金の掛かることですし、土地に関しては税金の事も含め、大変難しい問題です。良い方向に向かう事を願います。

阿下喜駅からはタクシーで三岐鉄道三岐線の伊勢治田駅へ向かいます。タクシーの運転手さんも、北勢線や内部線、八王子線の行く末を案じる話をしていて、地域の大きな問題である事を感じました。
ワンメーターで到着、すぐに貨物列車が通過していきました。これを追い掛けて、後続の普通列車で東藤原駅に向かいます。



東藤原駅に着くと、早速貨物列車の入換作業が始まっていました。押して、引いて、機回しして、放して、くっつけて…。何分見ていても楽しい光景です。
駅から少し歩いて、道路から車両の写真を撮りました。青々とした田んぼの向こうに見える、セメント工場の人工的な施設とのコントラストが魅力的です。
1本あとの列車で、終点の西藤原まで行くことにします。




車窓からセメント工場の荷積み施設を眺めます。山中に突如現れる巨大な施設、鉄道貨物が活き活きとしている姿は感動ものです。



終点、西藤原には、丹生川駅にある「貨物博物館」と並ぶ三岐鉄道が運営する鉄道博物館「ウィステリア鉄道」があります。「ウィステリア」とは花の「藤」の意味で、藤原町の花なのだそうです。
広い芝生の公園にミニSLの線路が敷かれ、機関車が3両展示されています。駅舎には写真などが掲示されていました。
展示されている車両は、SL・DL・ELが1両ずつです。



SLは三岐鉄道ができた時から走っていたE101型102号機。電化の際に一旦三岐の地から離れましたが、その後この鉄道公園の整備の際にこの地に戻りました。
DLはDB25号とあります。かつて関西線の八田に小野田セメントのサイロがあり、そこで入換作業に従事していたそうです。
ELは元・住友大阪セメントの伊吹鉱山で使われていた「いぶき502」号機です。鉄道セメント輸送の廃止に伴い、大井川鐵道へ貰われていったのですが、中部国際空港の埋め立て用土砂に藤原岳の土砂が使われることになり、双方とも三岐鉄道に貸し出され土砂輸送に活躍しました。その後、土砂輸送終了とともに501号は大井川に返却され、502号は帰ることなく、ここで長い眠りに着く事になったという経緯です。



西藤原から終点の近鉄富田まで、通しで乗車しました。
途中から部活帰りの学生が乗ってきて、まあまあ賑やかな感じの車内になりました。
地域の足としてだけではなく、最近ではハイキングへのアクセスとしても三岐線は活用されているようです。
収入を貨物輸送に依存するのではなく、旅客分野も頑張って欲しいと思います。
せっかく青春18切符があるのですが、時間の都合で近鉄富田から急行で四日市まで行き、名阪乙特急で大阪へ戻りました。

三岐鉄道の両線を巡る旅でしたが、単に満喫するだけではなく、歴史や現状、鉄道会社や地域の取り組みを知り、いろいろと考えさせられる1日となりました。


近鉄 あおぞら号

2013-07-13 | 日記
先日行われた近鉄あおぞら号を使用したツアーに参加しました。

この企画は、この度「あおぞらⅡ」に改造された15204-15104(旧12231-12331)の2輌が、初代「あおぞら号」に模した塗装になった事を記念し、大阪から6両、名古屋から6両の「あおぞらⅡ」を貸切列車として運転、青山町車庫に停車させた復刻塗装の車両と並べ、14両全ての車を終結させて撮影するというものです。

子連れの友人2組と私の5名で、大阪発着を申込みました。
上本町駅に付くとツアー参加のバッジを付けた人が大勢います。募集は350人で、私が申込んだときには30名程度の空きがあるとの事でしたので、ざっと300人が集合していることになります。
家族連れもちらちら見受けられますが、ほとんどが愛好者の中年男性でした。



入線してくると大勢の人が撮影を始めます。間近で「あおぞらⅡ」を見るのは初めてです。
小ぶりのヘッドマークも取り付けられていました。

乗車するのも初めてでしたが、乗ってしまえば「普通のスナックカー」でした。ただし、全車が禁煙車になっています。
6号車の真ん中が割り振られたのですが、申込みが期日ギリギリだった事もあり、その後ろはほとんど空席でした。
近鉄特急に乗ると必ずと言っていいほど「柿の葉寿司」を食べてしまいますが、この日も上本町駅で購入した、季節限定のものを食べました。定番の鯖・鮭と、夏だけの鮎が入っていました。



発車後、すぐに「鶴橋通過」を満喫します。列車は大阪線を下り、大和八木へ向かいます。
急行や特急、回送列車を次々に退避し、のんびりとした足取りです。

大和八木到着前に2つ目の満喫ポイント「八木の短絡線」を走行し、橿原線八木西口方面へ向かいます。
臨時の快速急行が運転された事もあったようですが、この短絡線を営業列車が通過することは極めて稀で、多くの人が撮影していました。



列車は橿原線を南下し、橿原神宮前に到着。暫し停車の後、今度は大和西大寺に向かって北上します。
そして大和西大寺から奈良線に入り、3つ目の満喫ポイント、宮津車庫に入線しました。
宮津車庫に入線とは言っても、昼間は停車車両が無く、ただの「留置線」といった感じです。
行きかう奈良線の列車や京都市営地下鉄車両、学研都市線の車両を見て時間を過ごしました。



宮津車庫を出ると奈良線を南下し、大和西大寺駅を通過して4つ目の満喫ポイント、西大寺検車区に入ります。
こちらは宮津とは違い、多種多様な車両が入出庫を繰り返していたので飽きることはありませんでした。



停車中に車内を一巡してみます。
車端部に車椅子が2台、設置されていました。「車内の移動にご利用下さい」と書かれていますが、車椅子を必要とされる方は乗車の際にすでに持ち込んでいると思いますので、どのようなシーンで活用されるのか、もうひとつ浮かびません。
湯沸かし器を備えたシンクと、簡単な調理が出来そうな設備もありました。



ここで配られたお弁当をいただくことにしました。
このツアーの為に作られた包み紙がプレミア感を出していますが、中身はそれはまあ残念な内容の幕の内でした。
お弁当と一緒に、復刻塗装の「あおぞらⅡ」が映ったカードの様なものと、お水、冷却材も配られました。
青山町車庫には日除けが無く、熱中症防止のためなのだそうです。



続いてのお楽しみは、北側からアプローチする八木の短絡線です。
こちらは、本数が減ったとはいえ京伊特急が毎日走行する路線ですが、やはりこういった所を走行する時は楽しいものです。



あちこち寄り道をして、ようやく青山町に到着しました。
到着前に車庫に停まる「復刻塗装」の車両が見え、職員の方が歓迎を示す横断幕を持って手を振っていました。
こういったもてなしは、とても嬉しくなります。



青山町駅の改札を出たところで集合し、列を成して車庫に向かいます。徒歩15分くらいでしょうか。
車庫に向かっている途中、名古屋からの列車も到着しました。こちらには18400系が連結されています。
会場にはグッズ売り場が設けられていました。冷たい飲料でも売っていれば良かったのですが、ありませんでした。
もし販売していたら、それはたくさん売れたでしょうに。



名古屋からのツアー客も集合し、18400系を切り離して入換をして、いよいよ撮影会のスタートです。
取り付けたバッジで3つのグループに色分けされ、それぞれ20分間の持ち時間が与えられました。
その間は線路内に入っての撮影が許されるというルールです。
私たちは一番最後の時間帯だったのですが、炎天下に小一時間待たされるのはなかなか辛いものがありました。
なんとか木陰を見つけ、とにかく子供たちが熱中症にならないように気を付けていましたが、通過する特急を見たり木陰で虫を見つけて遊んだりと、大人の心配をよそに子供たちは楽しそうでした。



従来の「あおぞらⅡ」は正面・側面とも行先表示窓が撤去され、愛称は車体に標記されていましたが、今回の編成は行先表示窓に愛称表示のパネルが取り付けられていて、印象が変わっています。



撮影はさっさと済まし、子供たちが暑さにバテてきたので先に駅へ帰りました。
撮影会はこの後、入換して編成の順序を変え、さらに続くとの事でしたが、そこまで待つ余裕がありませんでした。

冷房の効いた駅の待合室で帰りの列車を待ちます。喫茶店でもあればと探しましたが、唯一あったお店は定休日。その他にも目ぼしいお店は無く、駅で通過する特急を眺める事にしました。
撮影会はまだまだ行われていますが、やはり暑さに耐えかねた人たちが次々と帰ってきました。
大阪組・名古屋組と併せて600名くらいはいるでしょうから、青山町駅は大変な賑わいになっていました。

私は「撮り鉄」ではありませんし、近鉄特急を撮影する機会もそうそう無いので、駅の端でずっと撮影をしていましたが、他の参加者の方は「あおぞらⅡ」以外にはあまり興味が無いのか、それともこれまでに十分撮影しているからなのか、あまりカメラを構える人はいませんでした。
踏切がなり、ファインダーを覗くと黄色い車体が見えてきたので「伊勢志摩ライナーかな」と思って構えていると、だんだん近づいてくる車両は「楽」でした。この瞬間、青山町はドッと湧き上がり、シャッターチャンスを逃した人たちの悲鳴にも似た落胆の叫びが駅を包みました。



やがて名古屋行きの編成が入線して発車し、直後に大阪行きの編成も入線して発車となりました。
帰路は寄り道をせず、途中駅での退避はあるものの、割とスムーズに上本町まで帰ってきました。

近鉄の団体列車で様々な路線を巡り、撮影会まで付いた今回の企画。欲を言えば宮津車庫や西大寺検車区での停車時間と撮影会の時間をもう少し短くしてくれれば良かったかとは思いますが、大いに楽しめた一日でした。

山セクション15

2013-07-03 | レイアウト
特段に作業が進む事が無いので、レイアウトの記事は10か月ぶりの更新です。

先日、水島臨海鉄道に行ってきましたので、近くの宇野線が輝いていた頃のイメージとして80系を運転してみました。



さて、作業です。
手前から本線2本と、トンネルに入るのが非電化線、それが1周してオーバークロスする配線です。一番奥にトンネルポータルがありますが、これは道路です。
新聞紙に木工ボンドをベタベタ塗り、それを貼りつけて地形を形成し、木工ボンド水溶液にカラーパウダーを入れてペースト状にしたものを塗って下地とします。さらに木工ボンド水溶液を吹き付けて、ターフを降りかけました。
振り掛けたターフが湿っている間に、カラーパウダーの「ライトブラウン」をところどころに振りかけてコントラストを出しています。
ここからさらに木工ボンド水溶液を散布し、樹木を植えていく作業になります。



山の上の集落です。
トミーテック「ジオラマコレクション」の農家と農機具倉庫を配置しました。
道路に農機具と人形が転がっていますが、これらは仮置きです。
画像右下は田んぼで、グリーンマックスの石垣でそれらしく地形をつくり、津川洋行のシーナリーマットを貼ってカラーパウダーで周囲をまとめました。
この集落部分はレイアウト完成後、ほとんど手が届かない箇所ですので、今のうちに電柱なども建てたいところですが、あまり凝り過ぎると車両の走行も疎かになるので、バランス良く作業したいと思います。



非電化線のトンネルポータル周辺もカラーパウダーで下地処理までできました。
発泡スチロールやプラスターの色や灰色ではなく、緑色になることでイメージがグッと湧きあがります。

すぐ右側に本線が来ています。非電化線と本線の境目を上手に纏められるかがポイントだと思います。



オーバークロスしてきた非電化線と本線の間は徐々に幅が狭まり、高低差が大きくなりますので、グリーンマックスの石垣を配置して自然な感じになるよう造形しました。
本線の架線柱が非電化線に影響しそうな感じなので、ひょっとすると本線を少しずらすかも知れません。


反対側の山も作業しています。
久しぶりに「植林作業」をしました。ブログの履歴を見てみると、植林は3年振りのようです。

背の高い樹木は「ウッドランドシーニックス」社の製品を使用しています。
日本ではホビーセンターカトーが販売していますので、量販店でも手に入ります。
比較的安価で大量に生産することができます。



先ずはクランプフォーリッジをほぐし、タッパーに入れます。
これが地味で時間が掛かる作業です。一時期、仕事でしょっちゅう渋滞に巻き込まれる日々が続いたのですが、この時間を有効利用しようと材料を車に持ち込み、クランプフォーリッジをほぐしておりました。
しかし、当時勤めていた会社から「君が車を使用した後は足元に緑色のゴミが散らかっている」と指摘されたのでそれは止めました。

木の幹を成型し、ゴム系接着剤をふんだんに塗りたくってほぐしたクランプフォーリッジに突っ込みます。
さらに上からふりかけ、手で押しつけて固着していきます。
ちょうど、とんかつをつくる時、卵を塗った豚肉にパン粉を付けていく作業と似ているかと思います。



段ボール箱に発泡スチロールの台を置き、木を並べてゴム系接着剤を完全に乾かします。
乾いたら濃いめの木工ボンド水溶液をスプレーでふりかけ、これも1日以上置いて完全に乾かします。
レイアウトに設置する時にフォーリッジが落下するのを防ぐためです。



ドリルで穴を開け、根元に木工ボンドを塗った木を差し込んで固着します。
ここまでの工程で落ちてしまったフォーリッジをくっつけ、仕上げに再度木工ボンド水溶液をスプレーします。
徹底的にフォーリッジを固着するのは、劣化してフォーリッジが線路上に落ち、それに車両が接触するのを防ぐためです。

背の低い木や草の茂みは、ウッドランド社のファインリーフフォーリッジを使用しています。
これは本来の使用方法とは違うようですが、地面に押しつけて固着すると草むらになりますし、ふんわりさせると背の低い木になるので、とても使い勝手が良い製品です。



画像の左がこれまでの山で、右が作業後です。
木々で賑やかに、活き活きとした感じになったと思います。



あと、気になっていた個所を小加工しました。
架線柱ですが、KATOのラーメン架線柱を無塗装で取り付けていたものの、少々ギラギラする感じがあったので、周りをマスキングしてサーフェイサーを吹き付けました。塗料でも良かったのですが、この素材は喰い付きが悪かったのでサーフェイサーにしています。

約1年間でこれだけしか進んでいないことに自分でも驚きますが、これからも出来る時に出来るだけをコツコツと進めていこうと思います。

24系「なは」

2013-07-03 | 車両【国鉄・JR】
沖縄の本土復帰、その切ない期待を列車名に込めて名付けられた『なは』。歴史や時代背景を感じる名称ですが、そんな事を知らない子供の頃の私は、『南海の「四国号」が和歌山港から船で四国へ行ける様に、西鹿児島から船で沖縄へ行く為の列車なんだな』と、ずいぶん適当な勘違いをしておりました。

食堂車も個室も無い、実にオーソドックスな編成でしたが、『あかつき』に続いてレガートシートが連結される事になります。しかし、トリコロールカラーで派手な『あかつき』のものと違い、ブルー一色のレガートシート車は、今でこそ編成美を感じますが、当時は何か物足り無い感じがしました。

『なは』には乗務する事もありませんでしたし、便乗することも乗客として乗る事もありませんでした。ですからTOMIXから『さよならなは・あかつき』が発売されても全く興味がなかったのですが、先きにEF66牽引の『あかつき・彗星』を揃えたので、それならばEF65PF牽引の『なは』も揃えようと思い、この度通常仕様が発売されたので購入しました。

『なは』の編成が単調と言いましたが、晩年はなかなか賑やかで、レガートシート車の他にスハネ25-2000番台車も連結されていますし、さらに特徴的なオハネフ25-2000番台も連結されています。これまで緩急車の個室改造車は無かったので、小窓がズラリと並んだ側面に車掌室が付いた姿は独特な雰囲気を醸し出しています。



このオハネフ25-2000番台が最後尾を飾る姿がカッコイイのですが、熊本回転の付属編成も用意して、駅で離してDE10でコトコトと入換するのも面白いかと思い、カニを含めて10両の編成にしました。

加工は先の『あかつき・彗星』と同じです。
・トイレ側のカプラーをボディマウント密自連に交換し、165系のトイレタンクを取り付ける。
・銀河モデルのハジゴを取り付ける。
・N小屋のカーテンを取り付ける。
・個室車の壁面にN小屋のシールを貼る。
・側面サボにジオマトリクスのシールを貼る。
・トイレ窓を艶消し白で筆塗りする。
・付属編成のオハネフ25のカプラーを、KATOの24系「あけぼの」用に変更する。


レガートシートのサボは印象的なデザインで、ジオマトリクスにもこれが収録されていたので使用しましたが、これは登場時にのみ使用されていたもので、この編成時には普通の幕に変更されていたかと思います。


大きな窓の通路側はシールの効果も大きいです。
個室も比較的大きめの窓なので、作業する価値はあったかと思います。

これで『なは』の完成としました。
EF65PFの牽引はもちろん、ED73にも牽引させたり、駅構内を切り離した付属編成が行ったり来たりするシーンを再現したりして遊びたいと思います。