INSIDE SORAMAME

私の頭の中のキオクを綴っていくつもりです・・

see the light of day(9)

2016年09月02日 | マスコミ
(つづき)
福岡にある6つの放送局による共同ラジオキャンペーン「#フクラジ」の開始を記念して(?)、ラジオに関する過去記事で未だに一定数のアクセスがある「KBC-INPAX」に関するものを再掲。

この記事を書いてから、もう10年が経っています(第一回第八回)。

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90年代のはじめにKBCラジオが行った大実験「INPAX」(インパックス)。
先日図書館で見つけたKBCとRKBの社史の中に、この頃のことがそれぞれの立場から書かれてあったので紹介してみたいと思う。
まずは当事者のKBCから。

以下KBCの社史より引用。
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話題集めた「INPAX」

1990年代に入り、ラジオではFM放送との競合のほかに、新しい地域メディアとしてコミュニティFMが各地で開局するなど、電波メディア業界は多メディア、多チャンネルという戦国時代を迎えようとしていた。KBCでは新しい年代を決戦の時と位置づけ、番組制作と編成の差別化、地域との密着強化などラジオの大変革に着手した。ラジオ部門あげて取り組む、24時間のスロープ編成による「KBC-INPAX」が登場するのである。

◇ラジオを変えろ
多メディア、多チャンネル時代を見据えた松本盛二社長は「ラジオを変えろ」という号令を発した。《ラジオ大変革》をキーワードに、ラジオ局長・長谷川弘志と制作部長・横野英雄を中心に新しいラジオの構想を練った。平成2年(1990)4月編成で「KBC-INPAX」がスタートした。「INPAX」とは information(情報)とintelligence(知識)それにinterest(面白さ)を未知数の可能性でpackするという意味の造語である。
この番組は地域、国内はもとより、世界各地、さまざまな分野にアンテナを張ったネットワークを活用して、切れ目なく情報を発信するKBCラジオを目指したものだった。
「INPAX」編成の情報が流れると地元よりも東京のほうが敏感な反応を示し、問い合わせや取材が続いた。3月に福岡と東京で開かれた広告会社会議には業界紙や通信社などが数多く参加し関心の高さを見せた。

◇スロープ編成
「INPAX」の狙いは従来のセグメンテーション編成による時間帯ごとの聴取者対象区分を改め、ノンストップと縦の流れを強調するスロープ編成という考えを打ち出したことである。1日の流れを4時間ずつ、4つの時間帯に区分し、それぞれの時間帯の聴取者層によって内容を構成した。

●月~金
「MORNING SLOPE」(6:00~10:00)
 世界中の《今》をリアルタイムで放送、インターナショナルな朝を情報満載で伝える。
「DAYTIME SLOPE」(10:00~14:00)
 兜町からの経済情報やニューヨーク、ロンドンからの最新情報を届ける。
「AFTERNOON SLOPE」(14:00~18:00)
 街の動き、人の動きそして世界の動きがコンセプト。
「NIGHT SLOPE」(21:00~24:30)
 「YOUNGからOTONAまで‘含み笑い’ INPAX」がキャッチコピー。

◇情報網の整備
KBCが開局して以来最大の改編といえる「INPAX」のねらいは情報の強化であった。そのためにKBCの屋上にインド洋上のインテルサットから外電の受信設備を整え、従来の朝日新聞ニュースと共同通信の配信に加えて、日本の民放では初めて通信社ロイターと受信契約を結び、24時間送られてくる英文のニュースを翻訳スタッフが翻訳して随時放送した。
また、朝日新聞や共同通信の海外支局、文化放送の「ワールドホットライン」の海外通信網とKBCスタジオを電話で結ぶ海外拠点は200ヵ所を超え、KBC独自の情報網を構築した。朝日新聞の論説委員、編集委員をはじめ、評論家・田原総一朗の人脈、日刊スポーツ記者・野崎靖博、芸能リポーターの梨本勝グループや音楽界、ファッション界に至るまで、コメンテーター、解説陣として幅広い人脈を整えていた。ローカル、地域情報についてはKBC報道局、朝日新聞、共同通信の支局情報網もフルに活用した。このように番組制作からキャスター陣まで、KBCラジオの持てるすべての力を投入した総力戦の新企画であった。
「INPAX」の放送開始以後、世界が激動の時期になり、平成2年8月2日のイラクのクウェート侵攻と湾岸戦争や、その翌年のロシアでのクーデターなどのニュースをいち早く放送して社内外の評価を得た。
この様に《ラジオ大変革》を掲げて華々しく登場した「INPAX」であったが、聴取率がいまひとつ低迷し、経費のかかり過ぎなどで、平成5年4月の改編で終わりを告げた。長谷川弘志は「ラジオ局あげての共同作業が必要な番組であったが、ラジオ担当者の意識改革が思うように進まなかったことや時代を先取りした仕掛けの大きさが時期尚早であった」と述べている。
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KBCの社史からの引用は以上。

続いて、RKBの社史からの引用。
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平成2年4月にスタートしたKBC INPAXの壮大な実験は、聴取者の支持を受けられなかったが、これは、まさしくKBCが置かれている事態のせっぱ詰まった突破策として行われた挑戦といえる。
INPAXは、「ビジネスマン・ラジオ」を掲げ、中波ラジオの未来を特定の階層のための一方向性情報サービス・メディア=「小さいラジオ」と規定したかに見える。
一方、われわれは、中波ラジオを「双方向性情報メディア」と考えてきた。スタジオからニュース・生活情報・音楽情報を送り出し、地域社会の人々からも身の回りの話題や意見を提供してもらう、この「情報」のキャッチボールのなかで、人々が「コミュニティ」との結び付きを実感し、共生感をおぼえる。そのような「コミュニティ・ラジオ」をコンセプトに「大きいラジオ」を目指してきた。

現時点では、われわれの思想の正しさが立証されている。40周年以後も「コミュニティ・ラジオ」の道がわれわれの選択であろう。「大きいラジオ」の「大きさ」が今後問題となろうが。
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RKBの社史からの引用は以上。

以上、それぞれの局の「社史」から、「KBC-INPAX」に関する記述を抜粋してみた。

「INPAX」の番組内容について補足すると、「MORNING~」の担当は永田時彦&清水千春、「DAYTIME~」は富田薫&奥田智子、「AFTERNOON~」は沢田幸二&千木良かおり、「NIGHT~」は「3P」というサブタイトル付きで中島浩二&アルトマンリカ(=久村洋子)であった。
また、土曜の「SATURDAY SLOPE」は、栗田善成が朝9時から夕方6時までを担当、日曜の「SUNDAY SLOPE」は文化放送から大野勢太郎を迎え、ホークス戦や競馬中継で構成するスポーツ番組であった。

人気番組の「PAO~Nぼくらラジオ異星人」まで終了させ、鳴り物入りでスタートした「INPAX」。
「KBCラジオ」という呼び方はやめて、「KBC-INPAX」という呼び方に統一され、ラジオカー「ひまわり号」も「INPAX号」に改称された。
ちなみに「INPAX」のジングルは、木村匡也が担当していた。

ただ、「KBCラジオという呼び方は今後使いません」と言いながら、夜中にKBCラジオの昔のジングルやピンキーのアナウンスが流れてきたり、「24時間のスロープ編成」と言いながら「オールナイトニッポン」や日曜朝夜などの箱もの録音番組も引き続き放送されていた。
当初は「○○ SLOPE」という無機質な番組タイトルだったが(夜と土曜を除く)、いつの間にか「○○ SLOPE」のあとに「奥田智子のマシュマロスタジオ」や「沢田幸二のイケイケドンドン」などのサブタイトルが付くようになり、他局の編成との違いもなくなり、迷走しているのがよくわかった。
また、「INPAX」を暗に批判するような発言を番組内で耳にすることもあった。

社史にはどれくらい不評だったかは書いてないが(当たり前か…)、一説によると「INPAX」になってからもともと低かった聴取率が半分になったという話もある。
現在のKBCラジオの出演者たちも、「INPAX」を過去の「汚点」と思っているのか、KBCにとっての大事業であったにもかかわらず、あまり触れようとしていない気がする。

RKBにとっては、ライバルが勝手に自滅してくれて、かつ、「こういうことをやってはいけない」というお手本をごく間近でみることができたわけで、思いがけない「貯金」を手にしたことになる。
ただ、それは努力して得たものではないだけに、最近はその「貯金」が底をつきつつあるように思える。
「仲谷一志アワー サプリメントスタジオ」の失敗などは、その好例と言えよう。

おそらく「INPAX」の発案者は、現在の「TBSニュースバード」(かつてのJNNニュースバード)や「日テレニュース24」(かつてのNNN24)のラジオ版みたいなものをイメージしていたのではないだろうか。
個人的には、「ニュースパレード」や「ネットワークTODAY」といった夕方の全国ネットニュースに物足りなさを感じることもよくあるので、普通のラジオで聞くことができるニュース専門局のようなものがあれば、聞いてみたいと思う。
ただ、地域との共生なしには存立し得ないローカルAM局がこのような大プロジェクトに単独で挑むにはやはり困難が伴い、「INPAX」も理想は高く掲げられても、それに現実が追いつかない面が多分にあったのだと思う。

今から振り返ってみると、新しいラジオの形を模索して実行に踏み切ったKBCの勇気は評価すべきだと思うし、形を変えた「INPAX」が将来東京あたりで誕生する可能性もないわけではないという気がする。

ただ、もし今KBCが「またINPAXをやります」と発表したら、私はすかさず「やめてくれ」と思うだろうが…(笑)。

ちなみに福岡の放送局の社史は、福岡市総合図書館2階の郷土資料のコーナーで見ることができる。
放送局に限らず、いろんな会社の社史を読んでみるのは意外と面白かったりする。

1つだけ、アップし忘れていたものがあったので本日掲載する。
以下はKBCの社史の囲み記事より引用。
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「KBC INPAX」をスタートさせた時のエピソード。
どこよりも早い外電をラジオの電波に乗せようと、ロイター通信と契約して、ほぼ24時間体制でニュースを放送した。
ロイターと本社間をラジオ線を使って結び、専門家や学生アルバイトの翻訳により生放送で使用した。湾岸戦争の勃発と同時に、NHKテレビの速報とスピードを競う時期もあり、担当者は随分とスリルを味わった。
その時期にロイターの提案により、香港のアジア支社から衛星を使って配信しているニュースを、直接本社屋上で受信する実験をしたことはあまり知られていない。
KBCの屋上の真西、仰角50度の何のさえぎるものがない位置にあるインド洋衛星からの電波は、直径2メートルのパラボラを使って、香港から来た技術者が簡単に受信した。
ロイターとしては、KBCを基地として九州の企業に経済ニュースを売り込むつもりだったらしいが、その後インターネットの時代になり、KBC衛星基地もまぼろしとなった。
横野英雄
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もしこの事業に着手していたら、KBCは「INPAX」から手を引くことができず、現在の「PAO~N」の復活もなかったかもしれないな…。

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(つづく)
コメント (2)
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