つれづれおもふ

思えば遠くに来たもんだ~ぼつぼつ語る日々の出来事

スキー遠足

2011年01月31日 | 子育て

今日は末っ子「スキー遠足」だ。
北海道らしいこの行事も「スキー」が好きになれない末っ子にとっては、小学校行事の中でワースト1に入るようだ。

体育の授業である「スキー」に私も疑問を持っている。
スキーはたいてい3学期に行われる。2学期の最後に先生から保護者に「お願い」がある。
いわく    ・スキー道具の点検をしてください・・・これは仕方がない。
        ・冬休み中に一度山に連れて行って、リフトに乗ってきて下さい。
学校のグラウンドには小さな築山がある。高さ3メートルか4メートルか、その程度のものだ。6年生の学校での授業は2回。足ならしでグランドを回り、その小山で登って下りて止まるを繰り返す。そしてスキー場に連れて行かれる。
たいていの小学校がこの時期に山に出かけるので、小さな市民スキー場は芋の子を洗うような騒ぎである。
とても先生が子どもたちにスキーの技術をうんぬんという状況ではない。先生のあとをついて回るのがせいぜいだ。
なにかとても中途半端な取り組みになっている。
これと同じ感覚を夏のプール授業でも感じる。今、札幌のすべての小学校がプールを持っている。
私はこちらで言うところの「内地」の人間で、夏場の体育は小学校も中学校もとにかくプールだった。
今はどうか知らないが、夏休みは学校のプールが解放されて先生方が泳ぎの指導をしていた。我々の年代では泳ぎを学校で覚えたというのが結構いると思う。だが、今、少なくとも札幌の小学校に泳げるようになることを望んでも無理だ。子どもたちは授業で困らないようにとスイミングスクールに通っていると言ったら、語弊があるだろうか。
泳ぐことは体にとてもいいことだから、どこで泳げるようになろうとそれは構わない。だが、形骸化した理念だけが残っては、教育の現場には負担だけしかないだろう。特別教科なら仕方がないと考えてもいいのだろうか・・?
おかしいなあと感じるのは特別教科だけではない。座学の中にも学校ではなんともならない感じがするものもある。
塾や家庭教師に頼らざるを得ないのだろうか・・・。
学校でいい評価をとる為にお金をかけて子どもをスクールといったものに通わせる。これでいいのか・・・?

札幌の中学でスキーが復活するという。小学校と違い、中学校では内申点という問題がある。
どのような授業が行われるのだろうか・・・このことが北海道に住むということから決められたことであるなら、それは受け入れるべきだと思うが、スキー産業をおもねってのことであれば、やっぱり日本の未来は明るくならないと考えてしまう。

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雪道を運転する

2011年01月30日 | 日記

この冬初めて車を運転した。
私は運転が上手ではない。地図が頭に入らないことが一番なのだが、車幅感覚も今一つだし、いろいろ足りない資質を感じる。
免許は会社に入ってからとった。かれこれ25年になるが、東京にいたころはほとんどペーパードライバーだった。
結婚して札幌に来て、この地は平らで広い。自転車が必需品だった。ところが私は自転車に乗れない。パートナーに笑われたのだが、父親が転勤族で2・3年おきに引っ越しがあった。邪魔になる自転車は与えられず、それに当時自転車は高価なものだったから持っていない子どもは結構いて、自転車で移動する仲間の後を走ってついていた。それに加えて実家は急な坂道の上にあり、降りたすぐの道が車の交通量が多かった。そういう理由から自転車に乗れない歴を積み重ねていたのだが、札幌で始まった生活には不便だった。
今から考えると若いってすごいことだなと思うのだが、よく歩いていた。5キロほど離れた場所にあるホームセンターにも歩いて往復した。そのうち子育てが始まり、ベビーカーを押してどこまでも歩いた。
8歳年上の私のパートナーは、そのころまだ免許を持っていなかった。「無免許・無資格を基本テーゼに生きてきた」と豪語していた。
彼はそんな自分勝手な理屈を抱える人だが、決断力はすごい。ペーパードライバーの私にある日、車を買ってきた。そして、自分も自動車学校に通い出した。40をいくつも越えてからのことだった。
今はパートナーのほうがはるかに車を自在に使う。私は路線バスだ。決まった道であればなんとかなる。
冬道は怖い。雪が降りだすと本当に嫌になる。これまでにもなんどか危ない目にあっている。あっているというか、起こしている。
赤信号で止まろうとしたらいきなり滑り出し、するするっときれいに後ろを向いてしまったことがある。他にぶつからなかったのが幸いだったが、ぶつけたことも一回ではきかない。今使っている車にはアンチロックブレーキシステムというありがたい装置がついている。ブレーキを思い切り踏んでもタイヤがロックすることがない。6人家族のため大きな車に乗っているが4DWだからはまってもなんとか脱出できる。
それでも冬の運転は心臓に悪い。でも、反対にこの緊張感が大事故を起こさないためには大事なのだろうとも考えている。
今日も日差しがある。少し運転して感覚を取り戻してこよう。

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定期検査…卒業

2011年01月29日 | 日記

2年前に大病をした。
私がかかった病気は「絨毛癌」子宮の中でおさまっているうちは取り除けばそれで済むものが、増殖細胞のためいずれは溢れてほかの臓器に転移していく。転移となると化学療法、俗に言う抗がん剤治療の対象になる。
病気が見つかって三日ほどの入院でまず子宮内掻爬を受けた。これで異常が出なければ終わりだったが、血液検査の値が正常値を示さなかった。再入院して子宮全摘出手術を受けた。子宮の外側には異常が見られず大丈夫でしょうということだったが、退院後の診察で膣への転移が確認された。レントゲンでは肺にうっすらと影もあった。時を移さず化学療法との診察がされた。
転移した場所からの出血があった。出血がなくならない限り退院ができないと愕然とした。それでも容体は安定していたので、外泊許可がおり、うれしくなってはしゃいで家に帰ったら、いきなり大量に出血。初めて救急車に乗った。あとから聞いたらこのとき2リットルも出血していたそうだ。

息子の大学受験の年だった。PTAの役員も引き受けていた。それやこれやで体調が変だとは思っていたが、一段落したらと先延ばしにしていた。誕生日を境に病院を中心に生活が回るようになった。
私が受けた化学療法は、2週間で1クール、1セットなのだが、そのしょっぱなに受ける点滴が一度始まるとすべての薬剤が体におさまるまでに16時間かかる。初めのうちはまだよかったのだが、副作用が出るようになってからは気持ちがついて行かなくなった。吐くようになり食べられなくなり、あのころ口を通ったのは「そうめん・スイカ・バニラアイス」だった。髪の毛もざっくりと抜けた。倦怠感がひどく、体が重かった。ベッドに横たわり、ひたすら時間が経つのを念じた。「家に帰りたい」泣き言をよく言った。「いやなものはいや」だった。
そんな私を家族、友人はもちろんだが、お医者様や看護師さんたち、それに癌友が笑って支えてくれた。

マーカーと呼ばれる私の数値が正常値に入ったのは5クールを終えてからだった。そこから3クール必要だった。
息も絶え絶えやっとの思いで治療を終え、1週間ごとだった来院が1カ月になり3カ月になり前回は、半年後と言われた。
それが今日だった。何もなければ検査結果は郵送してくれる。
「次は}と聞いたら「2年経ちました。この病気からすると、完治したと判断できます」

治った。

不思議・・・うれしいはずなのに、少々の不安。私の担当医は、私と同年齢の女医さんだ。同じ年ごろの娘さんがいる。入院しているときは、そんな話もした。多忙を極めるのか、以前よりまして痩せた先生の顔を見ながら「先生はじっくり話を聞いてくださったから」ときょうだいの闘病生活の気苦労を話した。涙目で聞いてくれる、「医は仁術」またもし、婦人科でなにかあったら必ずこの先生のところへ来よう。

帰りがけ、健康診断の予約をした。

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デート

2011年01月29日 | 日記

苦労をかけたパートナーとデートをした。
刺身好きの長男が東京で暮らすようになって、我が家の外食から「寿司」というものがとんと出てこなくなった。
末っ子に好き嫌いが多く、また、高校生の娘も他のものがいいときていては、ぐっと足が遠のく。
そこで、昨日、ランチタイムに近所にある回らないお寿司屋さんに行った。
握りの大きい寿司は、私には少々もてあまし気味だったが、さすがにお寿司屋さんおいしかった。
とくにパートナーが「かんぴょう巻き頼むか」と私の好物を別に注文してくれた、そのかんぴょう巻きが美味かった。
ランチのせいもあるのだろうが、テーブルに置かれた値段表を見てもそう高いとは感じられなかった。
たくさんは食べられなくなってきた今、回らない店に来るべきだなあと思った。

パートナーは還暦を迎えたのだが、若いころに比べると確かに食が少なくなったなあと感じることもあるが、とにかく食べる。
息子が言う「父は食べられなくなったら注意しなければならない」
食べている姿を見て、大丈夫!と思った。

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国民年金

2011年01月28日 | 子育て

昨年12月初め長女が二十歳になった。それと同時に国民年金加入のお知らせが届いた。
国民年金の第1号被保険者に該当するものは、「加入届け」に必要事項を記入して誕生日から14日以内に国民年金担当課にくるようにとある。続いて、届け出ないものについては該当するとみなして手続きを開始し、年金手帳と納付書を送るから了承するようにという内容だ。
昨年のこの時期、私は一番気持ちがあわただしい時期だった。娘に届いたこの内容を確認していたが14日以内という文字を読み飛ばし、手続きがいるんだったと次にみたのは暮れの27日だった。
ほっておいても構わないかと思ったが、年のため年金窓口に電話を入れた。対応してくれた人は、学生並びに若年者猶予を利用するのであれば早い手続きをお勧めするという。だが年末は翌28日で仕事納め。実家の援助もあり、とりあえず今年はおさめようと考えていたので、その旨伝えると、その場合なら、役所に行かなくても書類は届くという説明だった。
1月半ばになって年金手帳が届いたが、納付書や銀行引き落としの書類は入っていなかった。待っていればいいのか、だが、もう12月分は発生しているはずで、とりあえず再度電話をした。
「入っていませんか?」
そう言われてもね…どういうシステムになっているのか、こちら側ではわからないから電話をしているので・・・。
「それではこの電話で申し込みとさせていただき、必要な書類・納付書を郵送します」
翌日、12月から3月までの4カ月分の納付書と銀行引き落としの書類が届いた。問題なくと言えば、問題なくだが、なんとなくふに落ちない流れだった。

長男は10月生まれだ。1年が過ぎたころ、例の「年金特別便」が届いた。
それは私や彼の父親のもとに届いたものとまったく同じ形式のもので、年金特別便は不明なところがあるかもしれない世代に届くものと思い込んでいたので、ちょっとびっくりした。
確かにこれまでの経緯を考えると必要なのかもしれないが、被保険者になって1年やそこらの若いものの経過など、どうということはない。年金を納めている履歴を確認できる通帳のようなものがあれば、今わからなくなって困っている人のシステムを使う必要などないと思う。なんとまあ・・・としかいいようがない。
これは、もう、いわゆるお役人にやらせておいても永遠に終わらないから、民間に任せるべきではないかと感じた。民間であれば、もっと合理的に整理していけるのではないだろうか。

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