旦那様の見舞いを午前中の早い時間に済ませ、午後からは、前々から楽しみにしていた“これ”に出かけた。
平和都市宣言20周年「記念式典・講演会」 講演会がテレビで見かけるあの人。
なかなか生で話を聴けることもないだろうと、申し込んだ。
面白かった。
講演会だというのに、舞台には演壇がなかった。
奥の壁に幕が用意され何枚もの写真が映し出されたのだが、
なにより登場から退場まで舞台を歩き回りながらの“語り”だった。
大きな身振り手振りを交えて、あの独特の言い回しで思いを語った。
講演会 というよりは、一人芝居 を観ているような・・・話を聴きに行ってよかったと思った。
「日本の平和」と「紛争地域の平和」の違いはあるかという問いに
「家族が一緒に暮らせる。一日一回でも家族が一緒に食事を取る。
日本でも、紛争地帯でも、それは変わりません」
としっかりとはなされた。
渡部さんは
「戦争をしている国、相手の国。この二つの国だけでは、戦争を終わらせることができません。
そこに第三の国があって、戦争を終わらせることができます。
では第三の国はどうしたら戦争を終わらせることができるかというと、
相手の国のことを知ることなんです」
「長崎でも、広島でも、チェルノブイリでも、そして劣化ウラン弾を秘密裏に落とされていたイラクでも
人々が口を揃えていうのが、情報を早く正確に伝えれば被害が大きくならないで済むということ」
「紛争地帯でも、子どもたちが笑う時があります。
学校に行けたとき、食事をしたとき、短い時間ですが日本のアニメを観ることができたとき。
“スラムダンク”やドラゴンボール”“ちびまるこちゃん”がアラビア語に翻訳されて
観られる時があるんです。その時、子どもたちは笑います」
「僕は紛争地帯で井戸水を飲むことが多いのですが、井戸水はとても美味しいです。
冷たいし・・・でも、あんまりたくさん飲むと、お腹がいたくなります。
お腹が痛くなると、写真を撮ることができなくなるので、気をつけなければいけません。
日本の水は、冷たいし美味しいし安全です」
「これから映す写真はちょっと衝撃的なものですので、小さなお子さんの目を10秒ほど隠してください」
と言って映し出されたのは、劣化ウラン弾によって体内被曝をし、右目を悪性腫瘍に覆われた少年の写真でした。
私は小さい子どもではありませんが、思わず目をつぶってしまいました。
それがあの国の子どもたちの実情です。
「戦場カメラマン症候群というものがあり、一度そういう悲惨な情景を目の当たりにしたものは
また戻ってしまいます。僕が心の平安を保てているのは、ずっとつけている日記を読み返すことと、
風呂掃除です」
最後に設けられた質疑応答の時に、ちょっとしたトラブルがあった。
混乱を避けるためであろう、あらかじめ主催者は質問を募集していたのだが、
渡部さんに伝わっていなかったようで、
「会場からの質問に、誠心誠意答えます」と言っていた。
だが、登場した司会者は予定通り、準備された質問に答えるやり方で進めていこうとした。
これが最後の質問という時に、年配の男の方が手を挙げられて異議を唱えた。
「渡部さんは、会場からの質問に答えるとおっしゃっているのに、司会者が一方的にすすめるのはいかがなものか」
おおおお、会場の空気が硬くなったが、これはこのご老人のほうが正しい。
どうなるかとおもってハラハラしたら、渡部陽一さんがきちんと引き受けた。
「僕が暴走してしまいました。勝手にそういうふうに言ってしまい、申し分けございません」
会場からは拍手が起きた。
「もし、今聞かれたいことがお有りになるのならば・・・」と声をかけられたその年配の人は質問をした。
渡部さんはきちんと答えられ、再度、その方と司会者に誤った。
この人はどんな相手でも、相手の話をきちんと聞いている人なんだと思った。
最後にこういう話をされた。
「今、世界の戦場ではロボットが人間の前、最前線で戦っています。
兵士がゲームのコントローラーのようなものでロボットを操り、仕掛けられた爆弾を探し、敵地を偵察している。
戦場で見るものが変わってきています」
私は、その話を聞き、写真を目にしたとき、
無心にゲームを楽しむ子どもたちが、実は兵士としての訓練を受けているような、
親としていたたまれない嫌悪感を抱いて、ゾクッとした。そんな目的でないといい。
そして最後に、特に子どもたちへのメッセージとして
「もう少し大きくなったら、是非世界に出かけてください。
目的は、勉強でも、スポーツのためでも、買い物でも、旅行でもなんでも構いません。
安全を一番に国を選んで、出かけてください。そこで見聞きしたことは、必ず糧になります。
そして、どこかで僕を見かけたら声をかけてください。世界情勢について話し合いましょう。
世界のどこかでの再会を楽しみにしています」
と締めくくられ、何度も、何度も、足を止め、振り返り、会場中にお辞儀を深々とされて引き上げて行かれた。
内容も心に残るものだったが、渡部陽一という戦場カメラマンを感じることができた満足の時間だった。
渡部陽一さんが、このあとも、無事に仕事をされ続けることを心より祈ります。
このあと、息子たちと待ち合わせをして大通りビアガーデンに出かけた。
長くなったので、それは次のページで報告したい。