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きのうを思い、きょうを実感し、あすに想いを馳せよう。
若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

浜松やらまいか精神(高柳健次郎)

2005年09月26日 | Weblog
 日本人が元気のである話をし続けたいと思う。

 今回、静岡七区から落下傘マドンナとして登場した「片山さつき」女史は、見事激戦であった選挙戦を勝ち抜かれた。これは、西遠の「やらまいか」精神が彼女の心意気が本物であることを買ったものと受け止めているものである。

 因みに、浜松城またの名を引馬城(ひくまじょう)というのであるが、この城は別名「出世城」とも呼ばれ親しまれれいる。徳川家康の征夷大将軍に至る夢の基点となった城である。

 浜松は、江戸と名古屋の中間にあるため、非常に奇妙な精神構造をしている。同じ静岡人であっても、静岡(駿河)の人間が浜松で事業を起こすのは非常に困難である。というのは、浜松人は頑なに借りは出世払いにするという気風があるため、売掛金をキチキチと取り立てようとする静岡人とは意外に気質が合わないのである。支払いに対して、意外と大らかな人たちである。見栄っ張りなのは名古屋の気質をより受け継いでいるのである。

 しかし、何事にも興味を持ち、研究熱心である。そういう土壌に生まれ育ち偉大な発明をしたのが「高柳健次郎」である。

 今の、少年少女はテレビ受像機の最初の発明者が日本人であったことを知っているだろうか?

 高柳健次郎は1899年(明治32年)浜松に生まれ、少年の頃は運動科目はまるで駄目な生徒だったと伝えられている。しかし、機械の構造などというものに対しては非常な興味を示したということである。

 最初、学校の先生になろうと静岡師範学校に進学し、そこで真空管の働きについて学び電気工学に興味を持ち、後に東京高等工業学校(東京工大の前身)に入学しました。其処で、中村幸之助という恩師から「日本の将来を担う青年は、十年、二十年先に日本になくてはならない技術を見つけ、それに専念することが大切である」という訓話を受け、当時折りしも「テレビジョン」という観念にとりつかれることになります。このテレビジョンという観念をフランスの漫画から得たというのですから、人生に何が幸いするか分りません。

 1924年(大正13年)静岡大学工学部の前身である浜松高等工業学校が開設され、助教授に採用されたのをきっかけに、本格的に「テレビジョン」の研究に取り組みました。

 欧米の研究者が機械式テレビジョンの開発を目指していたのを横目に、彼は複雑な画像に対応するには、ブラウン管を利用した電子式であるべきだという発想で、開発を進めました。

 そして、二年後の1926年(大正15年)12月25日「イ」の字を鮮明に映し出した世界最初のブラウン管式テレビ受像機の実験に成功しました。この日、大正天皇がお亡くなりになり、昭和元年となったのである。まさに大正最後、昭和最初の大発明というべきものでありました。

 高柳健次郎は「機械式テレビは猿の子と同じで、生まれてすぐに動き始めるが、知能の形成は途中で止まってしまう。しかし、電子式は人間の子と同じで、歩き出すには時間がかかるが、大きく成長する」と確信していました。

 また、1933年(昭和8年)アメリカのツボルキン博士が電子式画像送信機を完成させ、テレビ時代の幕開けとなったのです。
 撮像装置、受像装置共に電子式となることにより、映像の鮮明度は機械式に対して圧倒的に優位なものとなりました。

 日本でも、文部省とNHKが支援し、1935年全電子式のテレビシステムが完成しました。
 戦争が無ければ、1940年の幻の東京オリンピックは国産のテレビシステムで放映されたであろう。

 Boys Be Ambitious !(少年よ大志を抱き続ける人であれ)

 少年よ大志を抱けとは偉大な誤訳である。人の性格を表現すべきである。(資料は一部教科書が教えない歴史より頂いたことをお断りしておく)