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きのうを思い、きょうを実感し、あすに想いを馳せよう。
若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

昭和22年5月3日、その日は雨だった

2009年05月03日 | Weblog
 昭和22年5月3日、その日は、敗戦後日本の葬式の始まりだったのではなかろうか。

 占領時に銃口を喉元に突きつけられて強制させられたのがこの憲法であります。日本人としてこの事実を忘れてはならんと思います。日本共産党などは占領軍を解放軍と呼んだというのだから、滑稽でもある。

 GHQの検閲指針(削除または掲載禁止発行禁止の対象になるもの)

 第3項:

 連合国最高指令官(マッカーサー)および司令部が憲法を起草したことに対する批判

 日本の新憲法起草にあたって連合国最高司令官及び司令部が果たした役割についての一切の言及、あるいは憲法起草にあたって連合国最高司令官及び司令部が果たした役割に対する一切の批判。

 GHQの検閲により日本国憲法誕生実態は未だに五里霧中であるが、占領軍が非占領国に占領国に都合のよい憲法を押し付け、その史実を語ってはならない批判してはならない。これが戦争に負けた国の哀れさというもんだろうが、GHQが去ってから、半世紀も経つというのにこの外交・政治的敗北の総括もできない日本の国民性こそが悲劇なのかもしれない。・・・・戦後の外交戦争においても負け続けて平然としていられる神経が涵養されたのは人類史上においても奇異な現象には違いない。


 今日は産経新聞の「産経抄」を書き留めておこう。

 産経抄 5月3日

 昭和22年5月3日の東京地方は気温8度で、季節外れの冷たい雨が降っていた。だが、皇居前広場で開かれた新憲法施行の記念式典には約1万人が集まった。昭和天皇も出席され、「憲政の神様」といわれた尾崎行雄が祝辞を述べたという。

 この時期、政府は国民の間に新憲法を浸透させるのに懸命だった。「記念週間」が設けられ、東京では花電車も走った。実際、この憲法が国民にかなりの期待感をもって受け止められことは、前後に生まれた人に「憲一さん」や「憲子さん」らが多いことからも推測できる。

 しかしその一方で、この日の雨のような冷たい視線を向けていた人がいたことも、忘れてはならない。作家の永井荷風もそうだった。日記『断腸亭日乗』の5月3日の項に、こう記している。「雨。米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑うべし」。

 新憲法の草案は日本側のものがGHQによって却下された後、法律の素人であるGHQ民生局の米国人らが作り直した。そのことは今でこそ、かなり知られてきた。だが、当時の国民がどれだけ知っていたかは疑問だ。何しろ国会での審議も重用部分は非公開だったのである。

 昨日の本紙「昭和正論座」でも、林修三氏の昭和50年の「正論」が、憲法の制定課程調査の重要性を説いていた。進歩派や革新派はそれを避けている。明らかになれば「日本国民の自由な意志で作られた」という憲法の神話を崩すことになるから、と述べている。

 それだけに、施行の日に「米人の作りし」と見抜いた荷風の眼力や批判精神はすごい。しかし、62年前「笑うべし」と喝破された憲法の呪縛から抜け出せない人が、未だに多いことはどうだろう。こちらは「笑うべし」ではすまされない。(以上引用)


 ほんとにまあ~、日本の憲法学者などここ半世紀もの間、一体全体何をしてきたのやら、アメ公の素人が10日かそこらで書き嬲った憲法におかしいと異を唱える者すら居ない低脳ぶりであります。

 田母神前空幕僚長は言ったとさ、「日本国憲法なんぞ『子供憲法』にすぎない」・・・・と。