私の予想に反して、菜緒は盤上のみに集中している。視野が狭くなっているといってもいい。こうした時の菜緒は、互角か、優勢を意識しているのである。もしかしたら、終局の輪郭も、ある程度描いているのかもしれない。長年、彼女と向き合っていて、嫌でも分かる様になってしまった。初めて対戦した時、私は中学2年、2つ年下の菜緒はまだ小学生だった。童顔の菜緒には、あの頃の面影が、まだ残っている。菜緒は自信に満ちた手つきで、守ることを手抜いて、私の玉に迫ってくる。彼女には、私に見えない戦況の真実が見えているようだ。
私も菜緒の囲いを、上部と側面から、包むように攻めた。しかし、終盤の勝負所で菜緒が放った攻防手が、実に効果的だった。この手が私には見えなかった。菜緒は何十手も前から、脳内に広がる盤上の宇宙に、その取っておきの攻防手を用意していたのだ。私は負けを覚悟した。ならば、最後は自分らしく攻めて終わりたい。
私は綱渡りのような攻めを繋いでいく。菜緒は冷静にそれに対処する。20手ほど進んだ後、菜緒が私に王手をかけた。少しだけ、これまでの道のりを振り返った。先生、やっぱり菜緒にはかなわなかった。あまりにもスケールが大きかった。でも、だからこそ、私はここまで努力を積み重ねられた。それは苦しくもあり、また幸福でもあった。
菜緒が放った138手目をもう一度確認し、私は投了した。私の様子を伺いながら、ポツリ、ポツリと話しかけてくる菜緒。時折見せる遠慮がちな笑顔が愛おしい。私はただ、「うん、うん」と頷いた。
※2023年5月27日に続きます
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