★《幻想ポロネーズ》《舟歌》~ショパン・ピアノ作品集
(演奏:ヴラディーミル・アシュケナージ)
1.バラード第4番 ヘ短調 作品52
2.子守唄 変二長調 作品57
3.ポロネーズ第7番 変イ長調 作品61《幻想》
4.ノクターン第17番 作品62-1
5.ノクターン第18番 作品62-2
6.ワルツ第6番 変二長調 作品64-1《子犬》
7.ワルツ第7番 嬰ハ短調 作品64-2
8.ワルツ第8番 変イ長調 作品64-3
9.マズルカ第36番 イ短調 作品59-1
10.マズルカ第37番 変イ長調 作品59-2
11.マズルカ第38番 嬰へ短調 作品59-3
12.舟歌 嬰ヘ長調 作品60
(1999年録音)
ロイターおよび時事通信の報道によると、ショパンの死後150年以上も行方が分からなくなっていた、彼が最後の演奏会で使用したグランドピアノが、イギリスで発見されたようですね。
なんでも英国人収集家が50万円弱で購入していたとか・・・。
そんなんだったら、私でも買えたのにねぇ・・・判らないまでも購入されていたその収集家の方が偉いのはもちろんですけど残念です。
とはいえ、私ではメンテできないんで、ちゃんとした方の手許に納まってくれていて、キチンと美しい音で鳴るという状態が確保されているらしいことはラッキーだったといえましょう。
フランスのメーカーのシリアルナンバーを追跡して発見に至ったそうですが、プレイエルのピアノだったんでしょうかねぇ~?
この記事を見つけて関連リンクを見ていたところ、ショパンの死因についての記載をみつけました。
一般にショパンは結核を患っていて、それが悪化した結果とうとう亡くなったといわれていると思いますし、私もそう思っていたのですが“嚢胞性線維症(のうほうせいせんいしょう)”という聞いたこともないような病気である可能性もあるという記述に目を引かれました。
ウィキペディアによると、この病気は遺伝性疾患の一種で、要するに体の粘液の粘度が高くなる病気なんだそうです。例えば痰の粘性が高くなると気道を閉塞し肺炎を繰り返す・・・ってことはショパンの症状にも確かに似ていますよね。
そしてさらに見ていくと、こんな記述がありました・・・「白人に高頻度で見られ、最も頻度の高いユダヤ人のアシュケナジーでは25人に1人は保因者である」・・・って、えっ、“ユダヤ人のアシュケナジー”って何!?
というわけで調べてみたところ、今日のユダヤ教徒社会の事実上の2大台勢力は“アシュケナジム”と“セファルディム”って言われる人たちだというんですって。
この違いも難しいことは判りませんが、簡単に言えばどこに定住したユダヤ人のご先祖様の子孫かということらしいです。違っていたらごめんなさい。
“アシュケナジー”と“アシュケナジム”というのは単なる表記の違いなんじゃないかと思うのですが、今日アシュケナージのショパンのディスクを全集を録音していた頃のものから最近に至るまでご紹介しようと思ったのは、ここにアシュケナージの名前を髣髴させるユダヤ人の分類の方法があることがわかったからであります。
要するに現在N響の音楽監督としてご活躍されているユダヤ人アシュケナージ氏は、正にショパンに深く関わりのある音楽家であるのみならず、そのユダヤ人としての出自からしてショパンと同じ病気にかかりやすい系統なのかもしれない・・・彼の高い評価を得たショパンの一連の録音は、そうした彼の血統にも保障されたものだったのか・・・などと考えての記事なのであります。
そのアシュケナージがユダヤ系のロシア人であることは前から承知していたのですが、ウィキペディアの“ヴラディーミル・アシュケナージ”欄をよくよく見ると「名前の通りユダヤ系だが母はロシア人」とある・・・。
これはやっぱりアシュケナージはユダヤ人の中でも、由緒正しい(?)ユダヤの民“アシュケナジー”の子孫なんだと勝手に思ってしまったのですが・・・。
とにかくも、彼が嚢胞性線維症でないのは確かですから幸いなことでございました。よかったよかった。(^^)v
さて、そんなこんなでアシュケナージの最新のショパン演奏のディスクからご紹介したいと思いますが、冒頭写真のこのディスクを最初に聴いた時に私は戸惑いました。
選曲は後期の作品ばかり、まさにこの曲が聴きたいという大傑作を網羅した超豪華版であります。
しかし、肝心の演奏がなんとも言えない・・・。
もとよりオーケストラの指揮についても世界的な第一人者と目されるほどになったアシュケナージのこと、それまでのディスクにおける実績からしても奇を衒ったところのないよく練られた解釈であるということに、いささかもためらいは有りません。
演奏技術について私がとやかく言うまでもなく、最高水準のそれが保証されていると考えて間違いありません。
よくよく聴けば、瑞々しい音といえなくもない音色だし、物静かであっても味わい深く生気がないとは・・・いや、残念ながらこのディスクに関しては、私はやっぱり生命力が弱いと感じますと言わざるを得ないのです。
この盤を聴いての違和感の原因は、多分この一点のみに起因するだけではないかと思うのですが、とくに冒頭のバラ4や幻想ポロネーズなどに顕著であるように、何かしら恐る恐る弾いているように感じられてならないのです。
彼はきっと声高にならず落ち着いた語り口で、慎重により深みを味わわせようと図っているのだと思いますが、残念ながら私の不徳の致すところで未だにそれを聴き取るだけのスキルを持ち合わせていないことを痛感させられます。
世界的ピアニストの彼のこと、登るべき高みを見つけてそれを表現できたからこそ演奏を世に問うているのだと思いますから、受けてたった私としてはその真意を汲み取ることが出来るようになるまで、根気よくこのディスクとは向き合っていく必要がありそうですね。
虚心に聴いた私の感想は以上です。
ちなみに、このころ時を同じくしてエクストン・レーベルにショパンのソナタ2篇を録音していますが、その録音ともどもメディアの評価は二分されているようですね。
このディスクで思い出されるのは、その演奏評を読んだ時に私はその評者の演奏を捉える姿勢をシビアに測った覚えがあるということ。
カンタンに言えば誰の論評を参考にしたらいいのかを、はからずも極めて鮮明な形で表してくれることになった作品なのであります。
「アシュケナージという名前を評価したのでは?」という方も、逆に「アシュケナージを叩くことで大勢に迎合していない自分自身のアピールを図っているのでは?」という方もいらしたように思います。
あくまでも私の感じ方ですが・・・。
もちろんこの文章も、もしかしたら“そのような評価の対象になりうる”とは思いながら書いているのですが、なにぶんシロートがいいたいこと言ってるだけなモンで、と開き直っておきましょう。
みなさんの評価の対象になるほどのものが書けているのであれば望外の喜び・・・なんてね!(^^)/
なお、先のソナタのディスクの関連で、アシュケナージは指が太くて短いのでソナタ第2番は大好きな曲であってもとても弾きづらいんだそうです。
「あれだけ弾けるくせに、そんなこと言うなよ!」という声が聞こえてきそうではありませんか?
★ショパン:26の前奏曲、4つの即興曲
(演奏:ヴラディーミル・アシュケナージ)
1.24の前奏曲 作品28
2.前奏曲 第25番 嬰ハ短調 作品45
3.前奏曲 第26番 変イ長調
4.即興曲 第1番 変イ長調 作品29
5.即興曲 第2番 嬰ヘ長調 作品36
6.即興曲 第3番 変ト長調 作品51
7.即興曲 第4番 嬰ハ短調 作品66 「幻想即興曲」
(録音年はバラバラです)
さて、これこそかの世評の高い全集収録の音源であります。
24の前奏曲はもちろん一時に録られているとはいえ、アシュケナージの全集は発表された当初、バラード集・ノクターン集といいったカテゴリーごとのアンソロジーではなく、各種作品をバラバラにプログラムしてリサイタル形式でリリースされました。
ですから、ここにある曲集はプレリュードとアンプロンプチュにカテゴライズされていますが録音は別々にされているものであります。
しかし、しかしです・・・。
確かに違う時期に録音されたであろうと思われる、音色や残響の質感の違いこそあれ、本当に極めて高い次元で整った解釈、演奏を展開しているこの凄さ・・・。
ことこの全集にあっては、いずれの録音をとってみても脱帽するよりありません。
全般的に、決して声高にならない温和にして柔和な表情をたたえ、仮に即興曲第1番のように翳りを帯びていたとしても、内的燃焼度は高いに違いないと確信させられる出来栄えです。
若い頃は行け行けどんどん的演奏スタイルを取り、このころもなおポジティブな解釈をするアシュケナージが、それぞれの曲から受け取った感興を静かに丁寧に語ったらこんなに含蓄のあるものになりました・・・という演奏であります。
『強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格がない』などとよく言われますが、このアシュケナージの演奏は限りなく慈しまれていながら頼もしい・・・こういうのを“優しい”というのではないでしょうか?
全集の中で“バラード・スケルツォ集”といずれを紹介するか迷いましたが、彼の美質がより生かされているのは、私は即興曲であると思います。
第一級の演奏が揃っているアシュケナージの全集の中にあって、なおかつそのデリカシー溢れる演奏が最も生きている“即興曲”は超第一級だと思います。
特に第2番・第3番・・・。この魅力にはなかなか抗うことが出来ません。
ついでにもう一つ感激させられるのは、録音の素晴らしさであります。
とくに左手に旋律が現われるような場合のピアノの音色の捉え方に出色のものがあると思います。
弾き手よし、録リ手よし。類まれなめぐり合わせと言えるのではないでしょうか。
なお蛇足ですがこの演奏を聴くと、私はフォーレの気配を極めて濃厚に感じます。彼のピアノ芸術には、アシュケナージがこれらの即興曲から感じ取ったのと同様な感覚を自分の中で発酵させ、発展させて行ったんだと確信させられるような要素がふんだんに感じられます。
★ショパン:24の前奏曲、ピアノ・ソナタ第3番
(演奏:ヴラディーミル・アシュケナージ)
1.24の前奏曲 作品28
2.マズルカ第49番 へ短調 作品68-4(遺作)
3.ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 作品58
(1992年録音)
さて最後に全集を完成して約10年、再びショパン録音を(単発で)世に問うた作品を最後にご紹介しましょうか。
これは私が長崎にいる時に発売されたディスクであります。
これを手に入れようと思って長崎市浜町(はまんまち)のとある販売店を訪ねた折に、店員さんにレコ芸を示して「これください(^^)/」と言ったところ、生憎在庫が切れていたか何かだったんでしょうけど、その店員さんからハラシェビチだかのショパンの名曲集を差し出されて「ショパンだったら、これでダメなんですか?」と尋ねられ唖然とするあまり目が点になってしまったディスクでもあります。
あんときゃ怒る気になる気力も吸い取られたなぁ~。
結局、お取り寄せで購入したのですが、このディスクで最も強く印象に残っているのはこのことかもね・・・・・・・・なんて言ったらぶん殴られそうなのでちゃんと感想を書きます。
全集時代より落ち着きを増した演奏、よい意味で枯れた演奏の兆候を示していると思います。
無理のない素直な解釈でありながら、勢いやパワーで押す部分はホントにわずかになり(わずかだからそのイザというときには効果が大きいように思われます)、表情付け表現のニュアンスの幅を広げることで、そこはかとない魅力とでも言うべきものを見つけ始めた頃であったのではないかと思います。
プレリュード最終曲の最高音から下ってきた最後の3音などに独自のアゴーギグというか“えっ”と思わせるようなアクセントを置いていることとか、中間のマズルカ(つなぎとしては好選曲だと思います)のラストのトリルの打ち震えるようなニュアンスとか、ソナタの第1楽章第2主題を奏でる時のバスの音(主題を繰り返し刷るときはまた少しニュアンスが違う)など、挙げ始めたら枚挙に暇がありませんが、かつては弾き連ねる文脈の中で旋律のセンテンス単位で表情付けをしていた彼が、“音そのもの”にもより多くの役割を演じさせることによって表現の幅を広げようと考えたのではないかと思われます。
私自身は、当時は上記のようなことを考えこそすれこのディスクをあまり高く評価していなかったのですが、本日ただいま聴きなおしてみてやはりアシュケナージはこの頃も凄かったんだと再認識した次第です。
特にショパンのソナタ第3番は落ち着いた運びの中にも“屈指の食いごたえのある演奏”であるように思い直しました。
そもそも発売当時、濱田滋郎先生がレコ芸の評で「CD時代になってようやく現われたこの曲の名演と認められる演奏」というような文章を示してらっしゃったのでこのディスクの購入を思い立ったのですが、一聴したとき以来その言をずっと怪訝に思っておりました。
しかし今、ようやく首肯できるというところまで自分の耳が育ったのかな・・・と思うと少し感慨深いものがありますね。
評といえば、このディスクにおいても「全集時代のアシュケナージと比して全然オモシロくなくなったので心配である」というようなものもあったように思います。
あの頃はむしろその言に共感を感じていた私ですが、本日ただいまから宗旨替えですな。
この盤も美しい音でなかなかに聴かせてくれる流石の内容である・・・・・と。
これだからクロートになれないんでしょうね。(^^)v
というわけでアシュケナージのショパン演奏について、全集制作以降の何枚かの変遷をご紹介しました。
これ以前の彼のショパンは極めて生気に溢れた、挑戦的と言っていいほど闊達な演奏のように聴かれます。そこから枯れ切った現在に至るまでのちょうどいいバランスの頃合で全集が制作されたことは、普遍的なスタンダードができたということに他ならないように思われるのでラッキーだったといえるのではないでしょうか。
ところで“ショパンの死因は?”というタイトルで書き始めましたが、本当のところはなんだったんでしょうねぇ~?
新婚旅行でペール・ラシェーズ墓地に墓参りまでした私としては、ハッキリした科学的根拠がもしわかるなら知りたいものであります。
最後に、ウィキペディアを読んでてズルッと来た一言を引用します。
“なおAshkenazyという苗字を名乗るユダヤ人の多くはセファルディムである。”
ややこしやぁ~・・・。
(演奏:ヴラディーミル・アシュケナージ)
1.バラード第4番 ヘ短調 作品52
2.子守唄 変二長調 作品57
3.ポロネーズ第7番 変イ長調 作品61《幻想》
4.ノクターン第17番 作品62-1
5.ノクターン第18番 作品62-2
6.ワルツ第6番 変二長調 作品64-1《子犬》
7.ワルツ第7番 嬰ハ短調 作品64-2
8.ワルツ第8番 変イ長調 作品64-3
9.マズルカ第36番 イ短調 作品59-1
10.マズルカ第37番 変イ長調 作品59-2
11.マズルカ第38番 嬰へ短調 作品59-3
12.舟歌 嬰ヘ長調 作品60
(1999年録音)
ロイターおよび時事通信の報道によると、ショパンの死後150年以上も行方が分からなくなっていた、彼が最後の演奏会で使用したグランドピアノが、イギリスで発見されたようですね。
なんでも英国人収集家が50万円弱で購入していたとか・・・。
そんなんだったら、私でも買えたのにねぇ・・・判らないまでも購入されていたその収集家の方が偉いのはもちろんですけど残念です。
とはいえ、私ではメンテできないんで、ちゃんとした方の手許に納まってくれていて、キチンと美しい音で鳴るという状態が確保されているらしいことはラッキーだったといえましょう。
フランスのメーカーのシリアルナンバーを追跡して発見に至ったそうですが、プレイエルのピアノだったんでしょうかねぇ~?
この記事を見つけて関連リンクを見ていたところ、ショパンの死因についての記載をみつけました。
一般にショパンは結核を患っていて、それが悪化した結果とうとう亡くなったといわれていると思いますし、私もそう思っていたのですが“嚢胞性線維症(のうほうせいせんいしょう)”という聞いたこともないような病気である可能性もあるという記述に目を引かれました。
ウィキペディアによると、この病気は遺伝性疾患の一種で、要するに体の粘液の粘度が高くなる病気なんだそうです。例えば痰の粘性が高くなると気道を閉塞し肺炎を繰り返す・・・ってことはショパンの症状にも確かに似ていますよね。
そしてさらに見ていくと、こんな記述がありました・・・「白人に高頻度で見られ、最も頻度の高いユダヤ人のアシュケナジーでは25人に1人は保因者である」・・・って、えっ、“ユダヤ人のアシュケナジー”って何!?
というわけで調べてみたところ、今日のユダヤ教徒社会の事実上の2大台勢力は“アシュケナジム”と“セファルディム”って言われる人たちだというんですって。
この違いも難しいことは判りませんが、簡単に言えばどこに定住したユダヤ人のご先祖様の子孫かということらしいです。違っていたらごめんなさい。
“アシュケナジー”と“アシュケナジム”というのは単なる表記の違いなんじゃないかと思うのですが、今日アシュケナージのショパンのディスクを全集を録音していた頃のものから最近に至るまでご紹介しようと思ったのは、ここにアシュケナージの名前を髣髴させるユダヤ人の分類の方法があることがわかったからであります。
要するに現在N響の音楽監督としてご活躍されているユダヤ人アシュケナージ氏は、正にショパンに深く関わりのある音楽家であるのみならず、そのユダヤ人としての出自からしてショパンと同じ病気にかかりやすい系統なのかもしれない・・・彼の高い評価を得たショパンの一連の録音は、そうした彼の血統にも保障されたものだったのか・・・などと考えての記事なのであります。
そのアシュケナージがユダヤ系のロシア人であることは前から承知していたのですが、ウィキペディアの“ヴラディーミル・アシュケナージ”欄をよくよく見ると「名前の通りユダヤ系だが母はロシア人」とある・・・。
これはやっぱりアシュケナージはユダヤ人の中でも、由緒正しい(?)ユダヤの民“アシュケナジー”の子孫なんだと勝手に思ってしまったのですが・・・。
とにかくも、彼が嚢胞性線維症でないのは確かですから幸いなことでございました。よかったよかった。(^^)v
さて、そんなこんなでアシュケナージの最新のショパン演奏のディスクからご紹介したいと思いますが、冒頭写真のこのディスクを最初に聴いた時に私は戸惑いました。
選曲は後期の作品ばかり、まさにこの曲が聴きたいという大傑作を網羅した超豪華版であります。
しかし、肝心の演奏がなんとも言えない・・・。
もとよりオーケストラの指揮についても世界的な第一人者と目されるほどになったアシュケナージのこと、それまでのディスクにおける実績からしても奇を衒ったところのないよく練られた解釈であるということに、いささかもためらいは有りません。
演奏技術について私がとやかく言うまでもなく、最高水準のそれが保証されていると考えて間違いありません。
よくよく聴けば、瑞々しい音といえなくもない音色だし、物静かであっても味わい深く生気がないとは・・・いや、残念ながらこのディスクに関しては、私はやっぱり生命力が弱いと感じますと言わざるを得ないのです。
この盤を聴いての違和感の原因は、多分この一点のみに起因するだけではないかと思うのですが、とくに冒頭のバラ4や幻想ポロネーズなどに顕著であるように、何かしら恐る恐る弾いているように感じられてならないのです。
彼はきっと声高にならず落ち着いた語り口で、慎重により深みを味わわせようと図っているのだと思いますが、残念ながら私の不徳の致すところで未だにそれを聴き取るだけのスキルを持ち合わせていないことを痛感させられます。
世界的ピアニストの彼のこと、登るべき高みを見つけてそれを表現できたからこそ演奏を世に問うているのだと思いますから、受けてたった私としてはその真意を汲み取ることが出来るようになるまで、根気よくこのディスクとは向き合っていく必要がありそうですね。
虚心に聴いた私の感想は以上です。
ちなみに、このころ時を同じくしてエクストン・レーベルにショパンのソナタ2篇を録音していますが、その録音ともどもメディアの評価は二分されているようですね。
このディスクで思い出されるのは、その演奏評を読んだ時に私はその評者の演奏を捉える姿勢をシビアに測った覚えがあるということ。
カンタンに言えば誰の論評を参考にしたらいいのかを、はからずも極めて鮮明な形で表してくれることになった作品なのであります。
「アシュケナージという名前を評価したのでは?」という方も、逆に「アシュケナージを叩くことで大勢に迎合していない自分自身のアピールを図っているのでは?」という方もいらしたように思います。
あくまでも私の感じ方ですが・・・。
もちろんこの文章も、もしかしたら“そのような評価の対象になりうる”とは思いながら書いているのですが、なにぶんシロートがいいたいこと言ってるだけなモンで、と開き直っておきましょう。
みなさんの評価の対象になるほどのものが書けているのであれば望外の喜び・・・なんてね!(^^)/
なお、先のソナタのディスクの関連で、アシュケナージは指が太くて短いのでソナタ第2番は大好きな曲であってもとても弾きづらいんだそうです。
「あれだけ弾けるくせに、そんなこと言うなよ!」という声が聞こえてきそうではありませんか?
★ショパン:26の前奏曲、4つの即興曲
(演奏:ヴラディーミル・アシュケナージ)
1.24の前奏曲 作品28
2.前奏曲 第25番 嬰ハ短調 作品45
3.前奏曲 第26番 変イ長調
4.即興曲 第1番 変イ長調 作品29
5.即興曲 第2番 嬰ヘ長調 作品36
6.即興曲 第3番 変ト長調 作品51
7.即興曲 第4番 嬰ハ短調 作品66 「幻想即興曲」
(録音年はバラバラです)
さて、これこそかの世評の高い全集収録の音源であります。
24の前奏曲はもちろん一時に録られているとはいえ、アシュケナージの全集は発表された当初、バラード集・ノクターン集といいったカテゴリーごとのアンソロジーではなく、各種作品をバラバラにプログラムしてリサイタル形式でリリースされました。
ですから、ここにある曲集はプレリュードとアンプロンプチュにカテゴライズされていますが録音は別々にされているものであります。
しかし、しかしです・・・。
確かに違う時期に録音されたであろうと思われる、音色や残響の質感の違いこそあれ、本当に極めて高い次元で整った解釈、演奏を展開しているこの凄さ・・・。
ことこの全集にあっては、いずれの録音をとってみても脱帽するよりありません。
全般的に、決して声高にならない温和にして柔和な表情をたたえ、仮に即興曲第1番のように翳りを帯びていたとしても、内的燃焼度は高いに違いないと確信させられる出来栄えです。
若い頃は行け行けどんどん的演奏スタイルを取り、このころもなおポジティブな解釈をするアシュケナージが、それぞれの曲から受け取った感興を静かに丁寧に語ったらこんなに含蓄のあるものになりました・・・という演奏であります。
『強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格がない』などとよく言われますが、このアシュケナージの演奏は限りなく慈しまれていながら頼もしい・・・こういうのを“優しい”というのではないでしょうか?
全集の中で“バラード・スケルツォ集”といずれを紹介するか迷いましたが、彼の美質がより生かされているのは、私は即興曲であると思います。
第一級の演奏が揃っているアシュケナージの全集の中にあって、なおかつそのデリカシー溢れる演奏が最も生きている“即興曲”は超第一級だと思います。
特に第2番・第3番・・・。この魅力にはなかなか抗うことが出来ません。
ついでにもう一つ感激させられるのは、録音の素晴らしさであります。
とくに左手に旋律が現われるような場合のピアノの音色の捉え方に出色のものがあると思います。
弾き手よし、録リ手よし。類まれなめぐり合わせと言えるのではないでしょうか。
なお蛇足ですがこの演奏を聴くと、私はフォーレの気配を極めて濃厚に感じます。彼のピアノ芸術には、アシュケナージがこれらの即興曲から感じ取ったのと同様な感覚を自分の中で発酵させ、発展させて行ったんだと確信させられるような要素がふんだんに感じられます。
★ショパン:24の前奏曲、ピアノ・ソナタ第3番
(演奏:ヴラディーミル・アシュケナージ)
1.24の前奏曲 作品28
2.マズルカ第49番 へ短調 作品68-4(遺作)
3.ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 作品58
(1992年録音)
さて最後に全集を完成して約10年、再びショパン録音を(単発で)世に問うた作品を最後にご紹介しましょうか。
これは私が長崎にいる時に発売されたディスクであります。
これを手に入れようと思って長崎市浜町(はまんまち)のとある販売店を訪ねた折に、店員さんにレコ芸を示して「これください(^^)/」と言ったところ、生憎在庫が切れていたか何かだったんでしょうけど、その店員さんからハラシェビチだかのショパンの名曲集を差し出されて「ショパンだったら、これでダメなんですか?」と尋ねられ唖然とするあまり目が点になってしまったディスクでもあります。
あんときゃ怒る気になる気力も吸い取られたなぁ~。
結局、お取り寄せで購入したのですが、このディスクで最も強く印象に残っているのはこのことかもね・・・・・・・・なんて言ったらぶん殴られそうなのでちゃんと感想を書きます。
全集時代より落ち着きを増した演奏、よい意味で枯れた演奏の兆候を示していると思います。
無理のない素直な解釈でありながら、勢いやパワーで押す部分はホントにわずかになり(わずかだからそのイザというときには効果が大きいように思われます)、表情付け表現のニュアンスの幅を広げることで、そこはかとない魅力とでも言うべきものを見つけ始めた頃であったのではないかと思います。
プレリュード最終曲の最高音から下ってきた最後の3音などに独自のアゴーギグというか“えっ”と思わせるようなアクセントを置いていることとか、中間のマズルカ(つなぎとしては好選曲だと思います)のラストのトリルの打ち震えるようなニュアンスとか、ソナタの第1楽章第2主題を奏でる時のバスの音(主題を繰り返し刷るときはまた少しニュアンスが違う)など、挙げ始めたら枚挙に暇がありませんが、かつては弾き連ねる文脈の中で旋律のセンテンス単位で表情付けをしていた彼が、“音そのもの”にもより多くの役割を演じさせることによって表現の幅を広げようと考えたのではないかと思われます。
私自身は、当時は上記のようなことを考えこそすれこのディスクをあまり高く評価していなかったのですが、本日ただいま聴きなおしてみてやはりアシュケナージはこの頃も凄かったんだと再認識した次第です。
特にショパンのソナタ第3番は落ち着いた運びの中にも“屈指の食いごたえのある演奏”であるように思い直しました。
そもそも発売当時、濱田滋郎先生がレコ芸の評で「CD時代になってようやく現われたこの曲の名演と認められる演奏」というような文章を示してらっしゃったのでこのディスクの購入を思い立ったのですが、一聴したとき以来その言をずっと怪訝に思っておりました。
しかし今、ようやく首肯できるというところまで自分の耳が育ったのかな・・・と思うと少し感慨深いものがありますね。
評といえば、このディスクにおいても「全集時代のアシュケナージと比して全然オモシロくなくなったので心配である」というようなものもあったように思います。
あの頃はむしろその言に共感を感じていた私ですが、本日ただいまから宗旨替えですな。
この盤も美しい音でなかなかに聴かせてくれる流石の内容である・・・・・と。
これだからクロートになれないんでしょうね。(^^)v
というわけでアシュケナージのショパン演奏について、全集制作以降の何枚かの変遷をご紹介しました。
これ以前の彼のショパンは極めて生気に溢れた、挑戦的と言っていいほど闊達な演奏のように聴かれます。そこから枯れ切った現在に至るまでのちょうどいいバランスの頃合で全集が制作されたことは、普遍的なスタンダードができたということに他ならないように思われるのでラッキーだったといえるのではないでしょうか。
ところで“ショパンの死因は?”というタイトルで書き始めましたが、本当のところはなんだったんでしょうねぇ~?
新婚旅行でペール・ラシェーズ墓地に墓参りまでした私としては、ハッキリした科学的根拠がもしわかるなら知りたいものであります。
最後に、ウィキペディアを読んでてズルッと来た一言を引用します。
“なおAshkenazyという苗字を名乗るユダヤ人の多くはセファルディムである。”
ややこしやぁ~・・・。