大学2年の夏休み、九州1週の一人旅をした。
私の中学では、3年生の修学旅行で九州旅行をするのが慣例だったが、その年は台風で甚大な被害を受け、親に負担をかけられないというので中止になった。
このため、私は鹿児島以外の九州を見たことがなく、ぜひ見てみたいと思ったのだ。
貧乏旅行だったので、宿泊にお金はかけられなかった。
福岡では、九州大学の学生寮に行き、1泊100円で泊めてもらった。
私も寮にいたので、そういう制度があることを知っていたのだ。
寝るのは、集会所などの和室の共同スペースであり、そこにいると、学生が自分の部屋に誘ってくれた。
鹿児島の甲南高校出身の3年生だった。
同室の寮生は皆帰省しており、彼一人が残っていた。
同じ鹿児島県人ということもあり、焼酎を飲みながら遅くまで語った。
本当はいけないのだが、空いているベッドに寝ていいというので、そこに寝た。
長崎では、平和公園、グラバー邸、眼鏡橋などの市内観光をして、長崎大学の寮に泊り、夜は稲佐山から夜景を眺めた。
当時は、若者の旅行ブームのときであり、リュックを背負って旅をする「カニ族」などという言葉があった。
このときも、多くの若者の旅行者がいた。
中央大学3年生の女子学生と知り合い、雲仙から熊本まで一緒に旅をした。
サングラスをかけた都会的な雰囲気の女性だった。(サングラスを頭に載せた彼女の写真が、私の古いアルバムに貼ってある。)
当時、私の周りには、ファッションでサングラスをする女性などおらず、東京の女は垢抜けていると思った。
阿蘇では、関西の私立大学2年の男と知り合いになった。
彼は、奈良○○ホテルの御曹司であり、ぼんぼんだった。
種子島育ちの貧乏学生の私とは対照的だったが、そんな彼が、なぜか私と一緒に旅をしたいと言い、自分はすでに済ませていたにもかかわらず、私の阿蘇観光につき合ってくれた。
一緒に別府まで行った。
私の宿が決まっていない、と言うと、自分の泊るホテルに泊ろう、と言う。
ホテル代は4千円だった。当時、安い宿なら千円以下で泊れた時代である。
その安宿代さえ節約している私にとって、4千円の出費は痛かったが、なけなしの金をはたいてホテルに泊った。
おまけに、夜は温泉街でストリップ見学につき合わされた。
別府観光をした後、彼と別れ、私は宮崎に向かった。
寮で同室の1年先輩が、宮崎市の実家に帰省していたので、そこに泊めてもらった。
ここでは御両親の歓迎を受け、豪華な夕食をご馳走になった。
あくる日は、先輩の案内で宮崎県内を見て回った。
別府での散財とは逆に、宮崎では1銭も使わず観光できたのだった。
このような旅は、今、したいと思ってもすることができない。