鶴丸城の周辺の史跡です。
西郷隆盛が下野して、鹿児島に帰ってから開いた私学校跡です。
私学校の石垣に、西南戦争の弾痕が数多く残されています。
鶴丸城の隣にある薩摩義士の碑。
薩摩藩は、幕府から木曽川治水工事を命じられましたが、工事は困難を極め、84名の犠牲者と40万両を費やして完成させました。
総奉行の家老の平田靭負(ゆきえ)は、犠牲者と工事費の増大の責任をとって自刃しました。
城山に登っていく途中に、西南戦争で西郷隆盛が最後に立てこもった西郷洞窟があります。
洞窟のあまりの小ささに、観光客はたいてい驚くそうです。
西郷さんの像と、トンネルに西南戦争始末記三十六景展示場があります。
トンネル内に、西南戦争の絵図が展示されています。
さらに登ったところにある石仏十三体です。
谷山の慈眼寺など鹿児島のあちこちに、弘法大師の像88体がありますが、ここにはそのうちの13体があります。
石仏の一つです。
確かに洞窟がありました
最後さん風の人が案内してくれました。
もうあれから何十年経ったのかしら??
恐ろしい時が過ぎました。
こうして何十年も保存してあるんですね!!
石仏様の赤い服・・鮮明ですね!!
この付近は、鹿児島の代表的な観光地ですからね。
修学旅行で行かれたかもしれませんね。
昔、西郷さんに似た人が案内していました。
西郷洞窟は、本当に粗末な洞窟です。
こんなところに立てこもったのか、と思いますよ。
おななはん、懐かしいですね。
樫山文枝さんが、フレッシュでした。
ここのお堀で、撮影があったことは知りませんでした。
伊敷行きの市電もありましたね。
あっ、これ弾痕のあとななのですね。
歴史を感じますね。150年前の歴史ですね。
弾痕は、私学校の石垣のほか、大手門の石垣にも残っています。
歴史の証人で、生々しいです。
本当に大変な事でしたね。
現在のように矢板で水を止めることなどできないし
せいぜいどのう袋でしょう?
>84名の犠牲者
困難な工事だったんですね。
総奉行が責任をとって自刃 これも痛ましいことですね。
筑後川の5庄屋物語もそうでしたが
今まで末端労働者と職人にだけしか目がいきませんでした。
責任者も大変でしたね。。。命がけだったんですね。
弘法大師の像・・・・本当はもっともっとあったでしょうね。
鹿児島県と岐阜県は、この工事をきっかけにして交流を続けています。
一度、木曽川治水工事の跡を見たいと思っていますが、まだかないません。
本当に、昔の人は、職人も奉行も命がけでしたね。
筑後川も、同じような歴史があったんですね。
弘法大師の像は、慈眼寺公園など、あちこちにあります。