NHK大河ドラマの「篤姫」。
なかなか好調なようですね。
篤姫は、ドラマに決まるまで、地元鹿児島でもあまり知名度がありませんでしたが、今はちょっとした篤姫ブームです。
私も、原作者の宮尾登美子さんの講演会を聴きに行ったりして勉強しました。
篤姫の史跡を訪ねてみましょう。

篤姫(幼名、於一(おかつ)または一子(かつこ)とも)は、天保6(1835)年、今和泉島津家の長女として、ここ鹿児島市大竜町の屋敷で生まれ育ちました。
ひ弱な兄と異なり、聡明で活発な女性で、父親が
「この子が男の子であったなら・・・」
と嘆いたそうです。
屋敷跡は大竜小学校の左隣にあり、今も石垣に当時の面影を残しています。
現在、個人の住宅(というかお屋敷)になっています。
原作で、将軍の御台所となるべく、鶴丸城から江戸に向かうとき、実家の前で駕籠の中から家族に別れを告げる場面がありますが、この付近だったのでしょう。

大竜小学校。
西郷隆盛の「敬天愛人」の文字が見えます。

篤姫は、嘉永6(1853)年、島津斉彬の養女となり、ここ鶴丸城で2ヶ月余り暮らしました。
最初の写真の屋敷跡は、ここから約1km北東にあります。
なかなか好調なようですね。
篤姫は、ドラマに決まるまで、地元鹿児島でもあまり知名度がありませんでしたが、今はちょっとした篤姫ブームです。
私も、原作者の宮尾登美子さんの講演会を聴きに行ったりして勉強しました。
篤姫の史跡を訪ねてみましょう。

篤姫(幼名、於一(おかつ)または一子(かつこ)とも)は、天保6(1835)年、今和泉島津家の長女として、ここ鹿児島市大竜町の屋敷で生まれ育ちました。
ひ弱な兄と異なり、聡明で活発な女性で、父親が
「この子が男の子であったなら・・・」
と嘆いたそうです。
屋敷跡は大竜小学校の左隣にあり、今も石垣に当時の面影を残しています。
現在、個人の住宅(というかお屋敷)になっています。
原作で、将軍の御台所となるべく、鶴丸城から江戸に向かうとき、実家の前で駕籠の中から家族に別れを告げる場面がありますが、この付近だったのでしょう。

大竜小学校。
西郷隆盛の「敬天愛人」の文字が見えます。

篤姫は、嘉永6(1853)年、島津斉彬の養女となり、ここ鶴丸城で2ヶ月余り暮らしました。
最初の写真の屋敷跡は、ここから約1km北東にあります。