カンチャン狂騒曲

日々の事をあれこれと、大山鳴動してネズミ1匹がコンセプト。読書・家庭菜園・旅行・川柳・謡曲など際限なく・・。

新米がまだ・・・

2015-10-31 09:59:57 | 日記
 新米がまだ届かないと去年のぼやき記事が届いたが、今年もまだやって来ない。

 リフォーム作業の最中で、家具の置き場所をあちこち移動しながらの生活なので、むしろ終わるまで新米は来ない方がいい状況ではあるのだが。

 都合の悪いときに、次の都合の悪い状況が重なるのはいつものことなので、和室の一角に一時置いておく場所だけは確保して置くことにした。
秋の忘れ物
 新米がさっぱり届かない。 田舎の風景はすっかり稲刈りの終わった静かな秋の佇まいだったのに・・・。  今年は天候不順でウンカが大量に飛来し、稲の幹から弱らせる被害が発生したと...

 それにしても去年もそうであったように、今年も作柄はやや不良ということらしい。

 私の乏しい記憶力では、県下において「やや良」とか「良」とか、ましてや「豊作」など聞いたことが無い。

 たわわに実って穂先を垂れた稲田を見ながら、今年は台風の被害も局限されて米も出来が良さそうだなと思っていると、あにはからんや「やや不良」という具合なのである。

 今年は台風が日本全国津々浦々を漏れなく廻ったし、水没地域もあったようだから作況指数は相当悪いのかと思いきや、そうでもない結果を見せられると、「良」とか「豊作」とかの地域がカバーしている筈なのだが・・・・。

 リフォーム作業は来週には終わる予定なので、それ以降に新米が来てくれたらスケジュール的にはバッチリだ。

 などと、都合の良すぎることばかり考えている今日この頃である。

にほんブログ村
コメント

風邪とリフォーム

2015-10-30 11:24:51 | 日記
 リフォーム作業は、床を張った後、壁・天井のクロス貼りになるようだ。

 作業の大工さんは結構早くからやってくるので、今までのようにノンビリ朝を迎えるなどとんでもない話だ。

 そして各種のけたたましい音が響き渡る。

 

 今朝は朝から少し小雨が降っていたので、昨日まで外でやっていた作業も玄関先で行われる。

 

 床と壁・天井の張り替えだけなので、テレビでやるリフォーム番組の「何ということでしょう!」のあのナレーションにのって繰り広げられるビフォー・アフターの興奮も喜びもない。

 玄関の上がり口の部分の床をやっていて、半分だけ張り替えられていたので二階から写してみたが、床を桜材に替へたので色調が少し明るい感じになったという程度の変化だ。

 壁紙も適当に決めてしまった、そこら辺りが替わればある程度は雰囲気が変わるかもしれない。

 今朝は台所の流しの下の部分の床に手を入れるため流しを動かしたが、ついでに汚れていた流しの手入れにうっかり手を出してしまって、20数年ぶりの流し台の徹底掃除をまかされてしまった。

 風邪は依然として復調せず、むしろ悪くなっている。

 何故か、ここ一番大事なときに起きて欲しくない事が起きるのが人生の法則なのだ。

 風邪とリフォーム、どちらが先に終わるのだろう?

 
にほんブログ村

 
コメント

屋内のリフォーム

2015-10-29 09:40:23 | 日記
 今朝から屋内のリフォーム作業が始まった。

 屋外は妙な行き掛かりから、さほど不具合も無い時期に屋根・壁とも済んでいるので今度は屋内だけである。

 床材の張り替え、壁・天井の壁紙などが主体で、日常生活はそのまま継続しながらでもいいという。

 改めて家の中を見回すと、いろいろ不便なところが目につきはじめる。

 例えば玄関吹き抜けの高い天井からぶら下がった照明器具などもその一つである。

 

 築23年も経てば和紙で出来た照明は明かり取りの窓から射し込む太陽の紫外線で劣化してしまった。

 取り敢えず下の方から3ヶ所は2階の部屋から手を伸ばして類似品に交換したが、一番上は無理だとわかった。

 新築の時は何とも思わなかったことが、年月の経過と共に困難な問題として立ちはだかることがある。

 たとえば材質の問題や、手の届かない場所などの問題によって掃除が出来ないことも判ってくる。

 今回は位置関係や材質についても気づいたことは変えていこうと思っている。

 それにしても、一つの場所を完成させるために家具を別の場所に移動しながらの生活はそれなりにややこしい。

 およそ普通の生活とはかけ離れた、業者のいう普通の生活が何日続くのか、少し不安な心持ちになる。

 さて一句・・・「リフォームを平均余命と天秤に」

 程々がよろしいようで・・・。

 
にほんブログ村
コメント

風邪?

2015-10-28 09:11:13 | 日記
 先日の姪の結婚式から喉の調子が良くない。いがらっぽいのだ。

 やや寒気がしてだるいので、早めに寝たら汗を掻いて少し気分が良くなったものの喉の痛みは依然として続いた。

 今朝は喉の痛みは幾分和らいだが鼻水が出始め、なにやら喉の奥もムズムズして咳を誘発しそうになる。

 

 市販の薬やのど飴も限界のようだ。

 「風邪」と自己診断し、悪くならないうちに病院に行くことにした。

 風邪などは、「病院に行かないままだと1週間で治るが、行けば1週間で治ると言うよ」と配偶者が又しても言う。

 効力不明の高い市販の薬より、安くて効き目がある程度約束された病院の処方薬の方が、身体にも家計にも好結果が得られるというのが口癖なのである。

 2年前に二人で同時期に開始したピロリ菌の除菌では、私は2回目で駆除に成功したが、彼女は幾ばくかの菌が残ってしまった。

 喉だか耳だか忘れたが、耳鼻咽喉科からの抗生物質の投薬をかなり飲み続けたせいでピロリ菌に耐性が出来たらしい。

 開発された新薬で、3回目のピロリ菌駆除の開始にあたり申し渡されたことは、サプリメントに至るまで全ての薬を飲まない状態で病院に来て欲しいということだ。

 よって彼女は2週間後の駆除開始まで、「風邪など引かぬこと・引いても薬は飲まない」と堅く決意しているのだ。

 今回の風邪は配偶者にうつさないよう、私の身の内に封じ込めたままにすることが至上命題なのである。

 にほんブログ村 
コメント

安産祈願

2015-10-27 15:01:01 | おでかけ
 娘が二人目を身ごもったと知らせてきたのは先月だった。

 来月は五ヶ月にはいるというので、一人目と同じく「戌の日」に岩田帯を巻くことになった。

 先日一人目と同じ店から購入して、来月の戌の日に届けることにした。

 今日は大安なので神社でお祓いを受けに帯を持って健軍神社に向かった。

 
 (一人目のときも、帯のお祓い・生まれてからのお宮参りをした健軍神社)

 玉串料を納め、住所・氏名も記入し受付も終わり帯を渡すという段階で、肝心の帯を家に忘れてきたことを想い出して取りに帰るというハプニングを演じた。

 平日ではあったが、交通安全・早めの七五三・私達と同じ帯祝いなどと、大安の日を選んでのお宮参りはけっこう多いものだ。

 お祓いを受けた後、安産のお守りを頂いて神社を後にした。

 で、目出度しメデタシとなるところだが、一人目の子と同じく阿蘇の「子安原観音」にお願いに行くことにした。

 
 (阿蘇子安原観音)

 安産祈願の絵馬を奉納し、観音様の社殿裏手の谷底にあるご神体の脇から小石を頂いてきた。

 無事出産のあかつきには、お礼と共に頂いていた小石をお返しするのである。

 一人目の子とまったく同じパターンで事を進行させた。

 一人目と違うのは、お腹の中の子どもの動画はDVDであったが、今度はWeb上でログインして見られるようになっている。

 世の中の進歩への驚きと、相も変わらぬ神頼みというセレモニーに違和感を覚えない心境にも少し驚いた。

 そう言えば、先日は甥っ子の結婚式で賛美歌を歌ってしまったのだった。

 「アーメン」と「二拍手」それに「念仏」と三種混合の融通無碍さが日本教の神髄なのである。

 「同じ神教義を変えてする喧嘩」

 純化や報復などより、平和と安産を祈りましょう。

 
にほんブログ村
コメント

写真も楽しそうだ

2015-10-26 11:34:05 | 日記
 友人の写真展に時々顔を出すが、いつも思うのは同じ写真なのにどうしてこうも違うのかということ。

 早い話が、取り組む姿勢からして違うわけで、ましてや技術となると雲泥の差だから仕方のないことではある。

 ただ一つ言えるのは、総花的というか絵はがき的というか、取り敢えずベタッと何処何処に行ってきましたといった、記念写真というか証拠写真というかそうした部類の目的でしか写してこなかったのがいけなかった。

 ときどきは、重点を絞りこんだ写し方もいいのかな等と思う今日この頃である。

 
 (モミジ)

 個展に誘った友人の一人から、「桜は太陽を背にモミジは逆光だといいよ」と言われたのを想い出して思いきって葉っぱの裏側に接近して写してみた。

 本当は綺麗な葉っぱを選定したつもりだったが、メガネを忘れて虫食いの葉っぱを写してしまったがそれも又いいかと妙に納得した。

 
 (信号旗)

 船を見学に行ったのだが、旗がはためいているのが気に入って写してみた。

 一つの旗に絞ろうかと思ったのだが、一つ一つに意味があって、上から順にアルファベットで読むと「歓迎」の意味だと聞いて全部取り込んでみた。

 出来については、特段の期待もしていないのでどうということもないが、撮影目的には合致させたつもりだ。

 今後はオートばかりに頼らずにマニュアル操作も練習しなければと思っている。

 分厚い取説が立ち塞がるのが難点ではあるのだが・・・。

 
にほんブログ村
コメント

秘島図鑑

2015-10-25 08:31:30 | 本と雑誌
 何処かに行きたいと思うとき「離島」を思い浮かべることが時々ある。

 何故だか知らないが十五少年漂流記的願望がどこかにあるからなのだろう。

 そんな折図書館の新書コーナーで「秘島図鑑」なる題名の本が目についた。

 
 「秘島図鑑」清水浩史(著)2015.7河出書房新社(刊)

 離島という表現なら無人島だというイメージは薄い。

 しかし、孤島から秘島辺りになってくるとだんだん無人島らしくなってくる。

 多分生活には厳し過ぎる環境ゆえに無人島なのだろうし、ましてや物理的に人間の生存に最低限必要な水や足場さえもなく植物もない単純な岩ばかりの島も登場してくる。

 また、かつては大勢が水産であったり鉱物の採集などで生活していた島も、資源の枯渇などで立ちゆかなくなり住民が全て離れてしまった島もある。

 日本で一番南であるとか北であるとか、とにかく一番と称される島も登場する。

 秘島図鑑は、無知のものに対する希望や漂流記的わくわく感とともに、歴史の中に滅び行くものの寂しさに似たような気分にさせられる島が沢山出てくる。

 独特の雰囲気に浸ってしばし絶海の孤島を想い描くのも悪くは無い。

 
にほんブログ村
コメント

紅葉狩り

2015-10-23 10:55:27 | おでかけ
 紅葉がそこまで来ていて、来週あたりが見頃という新聞記事を見て、阿蘇・久住方面に出かけてみた。

 確かに標高が上がるほど紅葉は進んでいて、阿蘇の瀬の本高原付近からうっすらと色づき始め、やまなみ道路の大分県境付近から紅葉の盛りという感じになってきた。

 
 (瀬の本高原側から見た久住山)

 やまなみ道路の牧ノ戸峠付近には、久住への登山客と紅葉を見に来た人などで駐車場も満車状態、沿道に沢山の車が駐車していた。

 
 (牧ノ戸峠)

 峠を下りて長者原付近にも沢山の人が訪れていていた。

 
 (駐車場脇のモミジの紅葉)

 
 (湿原のリンドウ)

 湿原の木道を進んで林の中を散策したりしたのだが、配偶者がドングリを拾い始めたので中止を勧告した。

 20年以上もまえ、子どもと近くの里山に遊びに行って、沢山のドングリを拾って帰り、後で庭の隅にまとめて捨てたらしくモヤシが発芽するように沢山のドングリが芽を出して、処置に困って鉢の中で育てたらミニどんぐり林が出来てしまった。

 この管理は私の担当にされてしまって以来20数年、妙なドングリ盆栽の管理に手を焼いている。

 これ以上増やされてはたまらない。

 綺麗な野の花も、綺麗な紅葉も、そしてドングリも山野にあってこその自然の美しさだ。

 などと偉そうにのたまって、ポケット一杯のドングリをしぶしぶ諦めさせた。

 たぶん今日が、今年最後の紅葉狩りになる予感がする。

 来週から家の一部のリフォームが始まるし、風流なことは言っていられない仕儀になるはずだ。

 
にほんブログ村
コメント

〇〇の秋

2015-10-21 09:11:57 | 日記
 先日山あいの狭い道を運転中に栗のイガが道路上に落ちているのを見つけた。

 帰りに車に轢かれることなく残っていたら拾って帰ろうと思ったのだが、車に轢かれるどころか限界集落への道は車一台あうこともなく、栗はそのままの状態で落ちていた。

 足で踏んづけて剥くと大きな丸々とした栗のみが1個飛び出してきた。

 

 昨日「さて、どう処置すべきか?」と配偶者が問う。

 以前義父が元気な頃、皆で海に釣りに行ったとき、小さな「サヨリ」が1匹だけという釣果のとき「さて、刺身で喰うか、煮るか・焼くか」などと真面目に言って、義母の嘲笑をかったことを思いだした。

 たった1個の栗をいかなる方法で食するか、これはその魚の一件以来の大問題である。

 皮を剥いて米と一緒に炊飯器に放り込み、たった1個の栗ご飯というのも大袈裟で面白いと思いつつ、まだ食していない。

 朝晩は少し暖が欲しくなり、昼間は扇風機が欲しくなるという季節を迎え庭の隅のツワブキの花も咲き始めた。

 

 菜園の野菜も虫が少なくなった季節を謳歌している。

 「何はさて間引き若菜の一夜漬け」

 ウエイトコントロールが難しくなる季節の到来である。

 
にほんブログ村
コメント

老いと死を伝える子どもの本

2015-10-20 12:09:07 | 本と雑誌
 前回は「大人のための児童文学講座」(ひこ・田中)を読んで妙に感心したものだが、その勢いで子どもの本についての著作をもう一冊読んでみた。

 
 「老いと死を伝える子どもの本」谷出千代子(著)2011.5改訂2刷 大空社(刊)

 「老い」に対して子どもの本の姿勢は、過去から現在へどう変遷してきたのかが主たる内容である。

 「老人と子どもの関わり」「死の描写へのアプローチ」「性役割の視点」「老人を取り巻く環境」といったものを、更に細部にわたって分析している。

 脇役であれ主人公であれ、高齢者が描かれる立場は、家族や地域の中で好々爺で尊敬と畏敬の念の対象として描かれ、子供達の良き話し相手であった。

 しかし、子供達の世界そのものにも厳しい現実が立ちふさがっている今日、こうした老人像は通用しない。

 大人のための児童文学講座でも指摘されたとおり、認知症、高齢者と家族の葛藤、人間の終焉を現実描写でまざまざと描き出すことの緊張感がみなぎった作品が多くなってきたと指摘されている。

 祖父母の「老い・老醜・死に至る過程」「死体そのもの」「家族の対応」など体験することがなくなった子ども達へどう伝えて行くのかは、確かに大切なことなのである。

 私は個人的には6歳のとき母親が死に、裸を他人に委ねて洗われる理不尽さと、無抵抗でなすすべもない母親の無念を、目の当たりに見せられて泣き叫んだことを今でも克明に覚えているし、生きることの認識はその時芽生えたと思っている。

 その後、私が成人したあと祖父母とも相次いで亡くなったが、「老人」と「死」は常にそこにあったわけである。

 翻って、私の子や孫はどうだろう。

 努めて醜いものとして、あるいは経験しなくていいものなら忌諱すべきものとして回避して来なかったか。

 「老い」の領域に立ち至ったいま、胸に応えることばかりである。

 「夭折の母は夢にも出てくれず」

 
にほんブログ村
コメント