福岡県飯塚市の伊藤伝右衛門の邸宅に再び行ってきました。
以前に研修で行ったことがあったのですが、配偶者がテレビで観て興味を覚えたらしく連れて行って欲しいと言い出したのです。
飯塚は子供が小さかった頃に住んでいたこともあった町で、転勤で戻ってこれる予定も無く購入して5年目建て売りも処分して引っ越してしまった町なのです。
そのころは、まだ市の施設として開放されていなかったために内部を見ることはおろか其所にその建物が有ることすら知りませんでした。
広大な土地に贅をつくした庭や建物が建っており、建物の左端の二階部分は妻として迎えた、柳原白蓮のために改装して建て増したもののようです。
庭は国指定の名勝となっておりました。
前回はガイド付きでいろいろ説明を聞いたのですが、今回は私が妻に説明するということになってしまいました。
この写真の右上部に白いコンクリートの建物が写っておりますが、この建物を見た妻が「あれ?この病院の名前には覚えがあるよ」と言い出したのです。
長男がまだ幼稚園くらいのころ、夜中に腹痛を起こし慌てて駆け込んだ病院でそのまま盲腸の手術をした病院だと言うのです。
わたしは病院に来たことや、手術に付き添って麻酔注射で意識が朦朧としていく息子の手を握っていたことも覚えていますが、病院の名前や場所については全く記憶に有りませんでした。
はからずも、病院を正面からではなく伊藤伝右衛門邸宅の庭から見ることになってしまったのです。
長男がここで盲腸の手術をし、その後間もなく長女がこの町の産婦人科医院で生まれました。
この辺りの地名は「幸袋」というのですが、地名もなかなか良いし住んでいた頃は思いもしなかった感慨がこみ上げて来ました。
たまたま妻が見たテレビで旧邸を訪れることになったのですが、若かりし頃の思い出までが一気に甦ってきました。
そう言えば五木寛之の「青春の門」を読んでいたのもこの頃でした。
現実の世界でも「川筋気質」の歯切れのいいお年寄りがお隣に住んでおられて、良い付き合いをさせて頂きました。
手放した家は、誰かの手に渡り、リフォームをした形跡も無く古びていました。
私が気に入っていたツツジの植え込みと低い煉瓦造りの塀は取り壊され、高いブロック塀に囲まれていて庭の中は見ることが出来ませんでした。
住んでいた頃の何倍もの年月がもう経ってしまい、子供達も独立してそれぞれの人生を歩んでいて、自分たちもすっかり老いている現実を、強く思い知らされた一日でした。