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カンチャン狂騒曲

日々の事をあれこれと、大山鳴動してネズミ1匹がコンセプト。趣味さまざまなどを際限なく・・。

予防災害は難しい

2025-04-16 10:17:06 | 熊本地震
 
8年前の震度7×2

 朝から曇っていたが、とうとう降り出した。 一日中この調子なのだろうか。 さて、現在時11時ちょっと過ぎだが、8年前の今頃は地震の後片付けというより余震対策中だった。......
 

 今日は朝からとても良い天気。

 最低気温は7℃ほどだったが、日中は23℃くらいまでは上がる予報。

 今日以降は、熊本地震から10年目に入る。

 10年一昔というが、何かの区切りとして10年という単位はよく使われる。

 町中を走る幹線道路だけは4車線への拡幅工事が終わる予定だが、さてどうなるのやら。

 他の道路は更に時日を要し、それを基準に進められる区画整理の完成はもっと後になる。

 その後に生活する人々が元の位置に帰り、新しく生活を再建するのはいつになるのだろう。

 

 gooブログも閉鎖されるそうだから、震災10年後の町の現状を当ブログで伝えることは叶わない。

 ocnのホームページから始め、それが廃止になってほぼ自動的にgooブログに移動した。

 9月末までには、なんとか自分の居場所を探さねばと思っている。

 それにしても、災害の予防の困難性を痛感する。

 災害列島に住みながら、明日への備えは逃げることと非常食の確保くらい。

 運命という言葉がふっと頭に浮かんでしまう。

 「存分に幸福適当に不幸」・・・しろ猫

 

  

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9年前の2度目の震度7

2025-04-15 12:49:09 | 熊本地震

 15日の朝はテレビの朝のニュースの電話インタビュー受けからスタートした。

 とても意気軒昂な対応であったと、今では情けない気持ちになる。

 倒れた家具などはそのまま床の上に水平展開。

 食器棚の食器はすべてダンボールに入れ、家電製品など台の上に乗っているものは全て床に下ろした。

 電気も電話も通じていたしテレビも視聴でき情報は入手出来た。

 余震に注意しながらその晩は早めに寝た。

 

 ところが・・・

 深夜日付が変わった1時半前に、布団ごと持ち上げられてドスンと落とされるような衝撃で目を覚ました。

 真っ暗闇の中で携帯の地震警報が鳴り始めた。

 強烈な縦揺れの後長時間に亘って横揺れが続いた。

 真っ暗闇の中で、屋根瓦が落ちて割れる音が延々と続いていた。

 咄嗟に考えたのは身の安全の確保だったが、揺れている最中暗い中の避難は危険と考えた。

 それに屋根瓦が大量に落ちれば屋根が軽くなり倒壊した場合もダメージが少なくなると考えた。

 二階の東の端が寝室だったが、とりあえず揺れが収まるまで布団を頭から被って寝た姿勢のままでいた。

 やがて音も揺れも収まった。

 夜が明けるまでその態勢を続け、少し明るくなった頃窓から庭を見下ろした。

 両隣の屋根の瓦が我が家の庭に大量に落ちて割れていた。

 不思議と小豆色をした我が家の瓦は一枚も落ちていなかった。

 両隣は、昔ながらの鬼瓦を含めてすべて落ち、大きなガスボンベが境界の塀を倒して庭に転がっていた。

 テレビもタンス類も事前に敷いて置いた布団の上に倒れていた。

 驚いたのは重い仏壇が1m以上も飛び出して部屋の真ん中に倒れていたこと。

 ・・・・・ 

 避難所に向かったが、入り口から奥まで駐車場を含め避難者で一杯になっていた。

 仕方なく家に帰ると、玄関に大きく危険立ち入り禁止の赤紙が貼られていた。

 聞けば我が家の倒壊ではなく、隣家が倒壊した場合我が家の玄関付近まで被害が及ぶのだという話。

 それから10日間くらいは近くの駐車場の電柱が倒れても大丈夫な位置で車中泊となった。

 途中から長男が持参した軽易なテントで寝泊まりした。

 電気は4日くらいで使えるようになって冷凍庫の食料で食いつないだ。

 相方もお産の手伝いを早期に切り上げて帰ってきた。

 車中泊もままならず、玄関に赤紙をつけたままこっそり裏口から出入りし、安全な東端の部屋で生活した。

 それから50日ほどは、毎日自衛隊の給水所のお世話になった。

 風呂は2つ隣の町の温泉にでかけ向かいにあるコインランドリーとセットの生活が続いた。

 建築や水道工事などの業者は、公共工事が最優先となって一般家庭までは手が回らない。

 墓も倒壊してしまったので、骨壷を購入して先祖の骨を移し替え墓の再建まで自宅で保管した。

 やがて両隣の家は解体され、我が家の玄関の赤紙も外された。

 業者が対応できるまで、一人で家の周りや庭・塀・門柱などを修理した。

 家は地震の半年前にリフォームしていたので、意外と家自体の被害は少なかった。

 ただ、それ以降は動けるようになった業者ともども復旧の毎日が延々と続いた。

 ちなみに2度目の震度7は一度目の地震で町の地震計が壊れ推定値となっている。

 私的には一度目が震度7なら二度目は震度8以上だと思っている。

 震度7以上がないのは、不思議でならない。

 「残照にすがる足元もう暗い」・・・しろ猫

 沢山の皆さんの善意に支えられての今であることを肝に銘じたい。

 

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前震という聞き慣れない震度7の日

2025-04-14 09:29:16 | 熊本地震

 ぐらぐら・ゆらゆらの震度7に驚いたのは9年前の今日。

 余震に注意と頭にあったが、本震が来た後で前震という言葉を初めて聞かされることになった。

 前震という言葉を聞いたのは何日後であったかは、記憶にない。

 14日前震・16日本震と言っても実際は2晩続きと言ったほうが分かりやすい。

 14日の夜21時過ぎと15日の夜の16日に日付が変わったばかりの1時過ぎだったから・・

 あれから9年が経過し、地震の数日前に生まれた孫は9歳になった。

 9年の時間経過の実感としての捉え方は人それぞれだろう。

 私はとても早いと感じているが、長女のお産の手伝いで隣県に行っていた相方は前震の日さえ思い出せない。

 9年前の今夜9時、食卓で一人酒を飲みながらテレビを見ていて面白いのでグラス片手にソファーに移動した。

 途端に揺れ始め、今まで食卓の私が座っていた場所に食器棚が倒れてきた。

 テレビは、キャスター付きの台の上で地震警報を映しながら居間をゴロゴロと前後左右に動き回っていた。

 照明は点いていたしテレビも情報を流していて、いわゆる情報難民の状態にはなく、不思議と冷静だった。

 余震を警戒して、倒れそうなものは中身をダンボールに入れ、すべて床の上に置いた。

 テレビやタンス・パソコンなどの周りに布団や座布団を置いて緩衝材とした。

 避難所も開設されたが、自宅を見回して安全を確認し相方が残してくれた40食の非常食を当てにして避難しなかった。

 

 夜間に息子から安否確認の電話があった。

 テレビ局から明朝のニュースの中での電話インタビューの依頼を受けた。

 こうして、やたらと沢山の布団を敷き詰めた部屋で携帯を横に置いて寝た。

 こうして14日の夜は過ぎていった。

 「ゆらゆらと闇の波紋は定まらず」・・・しろ猫

 

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8年前の震度7×2

2024-04-15 10:08:16 | 熊本地震

 朝から曇っていたが、とうとう降り出した。

 一日中この調子なのだろうか。

 さて、現在時11時ちょっと過ぎだが、8年前の今頃は地震の後片付けというより余震対策中だった。

 食器類や、2段重ね以上のものは全て床の上に段ポールに入れて水平展開。

 他県からの朝のニュースの電話インタビューも元気で状況を伝える余裕も。

 もっと強烈な震度7が襲って来ることも、本震と思っていたものが前震と名前を変えることも予想を超えていた。

 14日と16日の二度にわたりと表現されるが、実際は14日の夜と15日の深夜日付が変わって直ぐのこと。

 今でも2晩続けてのイメージしか湧かない。

 二度目の本震は、布団毎宙に浮いた感じを何度か受けた。

 ガラガラという屋根瓦の落ちる音が暗闇の中で続いていた。

 

 

 

 電気も水道も通信も交通も、ライフラインはすべて止まった。

 以後1ヶ月半にわたって、風呂は毎日郷里の温泉施設に通い、帰りにコインランドリーで洗濯をした。

 自宅は玄関に赤紙が貼られ、立ち入り禁止となっていた。

 自宅崩壊の危険性というより、隣家が我が家に倒れかかっているからとの予防措置だった。

 あれから8年が経過し、キャンピングカーに倒れかかったお宅も再建された。

 

 ▲(キャンピングカーのお宅の再建後)

 

 ▲(再建された橋)

 町の南部を2本の中規模の河川が流れているが、橋は2本くらいを残して全て崩壊した。

 その橋も、現在は全て架け替えたり補修がなされている。

 倒壊家屋等で幹線道路も緊急車両の通行がままならなかったが、拡幅工事は現在も続いている。

 

 ▲(幹線の四車線化工事)

 現在計画の4分の1程度が完了している。

 

 ▲(完成した四車線道路を横断する園児達)

 急に広くなった道路に、青信号時間内に渡り終えることが出来ない園児達。

 一本の紐を掴んで列をなしているが、途中で転んだり靴が抜けて付き添いの先生も大忙し。

 どの車もノンビリとそのユーモラスな光景を見やっている。

 

 ▲(保存される震災遺構)

 活断層が明瞭に地表面に現われた箇所が数カ所あるが、その内の3箇所は震災遺構として保存されることになった。

 神社の階段、クランク状に曲がった畑の畔、そしてこのV字型に二つの断層が交わった谷川地区の断層。

 保存状態を良好に保つため、屋根を設置し地面にはシートがかけられている。

 謳い文句になっている「創造的復興」にはほど遠いが、復興はユックリだが進んでいる。

 街中から、古い昔ながらの造りの家はまったく姿を消してしまった。

 屋根を軽くするため、瓦葺きの屋根も新築ではほとんど採用されていない。

 我が家の瓦葺きも、震災後は珍しい部類になってしまった。

 地震を起こした2本の活断層のうち、布田川断層の半分と日奈久断層の大部分は未活動で残っている。

 我が町は、この二つの活断層の分岐点に近かった。

 災害は「忘れないうちに何度でもやって来る」が正しい認識だろう。

 「事件事故みな美しく油断する」・・・しろ猫

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前震から8年目の今日のこと

2024-04-14 17:16:51 | 熊本地震

 今日は朝から良い天気で、気温は27度c超えなどと脅かされる。

 J2第10節ロアッソ熊本Vcヴァンフォーレ甲府キックオフ14:00から。

 お握り弁当を持って、颯爽とスタジアムへ。

 入場待ちの列が早くから続いていた。

 

  ▲ (入場待ちの列)

 列に並びながら入場ゲートの方を見やると、何やら子馬に乗った少年が目に付いた。

 

  ▲(子馬に乗った少年)

 入場して場所だけ確保して、再度場外に出て日陰の芝生の上で弁当を食べた。

 その後、楽しそうな子供達の集まった場所へ・・

 どうやら、移動ミニ動物園らしい。

 

 

 ▲(子馬に乗って記念撮影)

 記念撮影の後は、グルリと周辺を回る。

 子供達が次々と列をなしているので、子馬も休憩無しで頑張っている。

 

  ▲(山羊)

 

 ▲(鴨?)

 置物のようにじっとしている鴨たち。

 

  ▲(犬)

 子供達からどんな扱いをされようが、まったく動じないのは全ての動物に共通している。

 

 ▲(ウサギ)

 

 ▲(ヒヨコ)

 

 ▲(亀)

 

 ▲(豚)

 

 ▲(ロバ)

 この他、ヒツジ、モルモットなどが居たが皆温和しくしつけられている。

 ・・・・・

 さて、試合の方は8年前の熊本地震と今回の能登半島地震の犠牲者に対する黙祷から始まった。

 試合は3:3の引き分けで、勝ち点1を分け合う結果となったがとても面白かった。

 駐車場も予備の方に駐めていたので、出口が別でとてもスムーズに帰宅できた。

 ・・・・・

 さて、現在時間は18時少し前だから、後3時間チョットで一回目の震度7が襲うこととなる。

 今の私と同じように、地震など予期もしないでノンビリ夕方の一時を過していた。

 21時過ぎ、一人で焼酎のお湯わり飲みながら面白そうなテレビを見るため居間のソファーに席を移した。

 ものの数分もしないうちに、縦揺れ横揺れが始まり先ほどまで酒を飲んでいた席に食器棚が倒れてきた。

 目の前のテレビはキャスターごと、目の前の床を動き回っていた。

 沢山の偶然に助けられて、私は怪我も無く前震をやり過ごすことが出来た。

 次の地震が本震とも知らず、余震に備えて棚のものは全て床に置き、そのまま寝てしまった。

 相方は隣県に出かけており、自分一人の身を守ることに専念出来た。

 あれから8年が経過したが、「まだ」なのか「もう」なのかは何とも言えない。

 ただこの日は、以外と元気だった。

 ライフラインが次の本震でズタズタになるまでは・・・。

 「くたびれた時間を抱いて床につく」・・・しろ猫

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創造的復興?

2024-02-08 15:32:44 | 熊本地震

 今日は現在までのところ、晴れ時々曇りの予報通り。

 朝晩は冷え込むが、昼は幾分過しやすい気温まで上昇しそう。

 

 (午前中の空模様)

 今日は久々に街の外側に添うコースを歩いてみた。

 主として仮設住宅などの跡を回ってみた。

 

 (昨年撤収された仮設住宅の跡地)

 地震の後に町内では4~5箇所の仮設住宅が建設された。

 この場所の仮設住宅は、その中でも規模が一番大きかった。

 私の知人も何人が住んでいたが、昨年末で町内の全ての仮設住宅は建設から8年ぶりに撤収された。

 農地に建設されたものが多く、殆どは元の農地に戻して所有者に返還された。

 道路を挟んだ南側には、仮設の役場の庁舎が建っていたものだった。

 

 (仮設役場の跡地)

 ここも農地であったが、借上げて仮設の庁舎が建設されたが、元の場所に再建された。

 撤収した跡地は、買い上げられて町の複合施設が建設される予定で、現在基礎工事中。

 工事現場の向こうの建物は、町営復興住宅で仮設住宅等から入居した人達も多い。

 復興住宅は町内に6箇所くらい建設されている。

 住宅については、町の中心部ではまだ区画整理事業が進行中で家を建てられない人が沢山居る。

 テクテクと歩くと、今まで無かった道路の建設や拡幅工事が目立った。

 家屋倒壊などで、緊急車両の通行もままならなかったのだ。

 

 

 (道路拡幅と新設の工事現場)

 拡幅も新設も、いづれも前方に既に家が建っているのが気になる。

 

 (解体中の家)

 この家は、震災の数年後に再建されたものだが、残念ながら撤収の憂き目にあっている。

 まだ新築して5年くらいしか建っていないが、よく思い切って協力しているなと思った。

 暫く歩くと・・・。

 

 (新設の道路)

 新設の道路が、一軒の家の前で途切れていた。

 車道だけなら、十分な広さのとれる既存の道路がこの家の前を通っている。

 ところが、歩道も新設すると幅が足りない様子。

 しかも、道路の設計コースはこの家に向かって微妙にカーブし正面からぶつかっている。

 元はこの辺りは家は無くて、この家も3年くらい前に建てられたもの。

 私の頭に、?印のランプが3個ほど点灯した。

 ?1:何故、道路は左右の空き地を通らずこの家に向かって計画されるのか?

 ?2:何故、道路新設計画が有ったのなら、この場所に家を建てたのか?

 ?3:何故、住民は知らなかったのか、行政は周知徹底を図らなかったのか?

 まあ、町内を歩けば歩くほど??の数が増えるので、最近は数えないことにした。

 区画整理を待っていられない人達が、民間業者が整備した分譲住宅に集まる。

 そうした分譲住宅が何カ所か有るが、その住宅地の外れに花畑があった。

 

 (花畑)

 ヒマワリやコスモスの季節の花が一面に咲き誇るが、今は芝桜がやっと咲いている程度。

 眺めていたら、向こう側の土手に何やら花で文字が書いてある。

 「石川県 ガンバレ」の文字が黄色のパンジーらしきもので表されていた。

 復興の現実にうんざりしていた気分が、少しスッキリしてきた。

 「疑問符の次に疑問符列をなす」・・・しろ猫

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震災後7年、益城町の今

2023-04-16 15:49:09 | 熊本地震

 今日は4月16日、熊本地震の本震から7年が経過した。

 当日はライフラインが全て絶たれ、連絡手段は携帯電話のみだった。

 電池の消費を抑えるため、掛かってきた電話に対応するのみで、発信は子供達への安否報告のみ。

 地震の実態は自分の足で確認した。

 10日くらい経つと、次第に情報自体が落ち着いたものになり、受け手の方も落ち着いてきた。

 

 (地表面の偏移図)

 活断層が町の南側に、東西に走っていたので地表の偏移も東西に1.5mほどずれている。

 南北は0.5m程度で比較的小さい。

 時間と揺れた方向が記録され、地震から7年後の今も情報交流センターの展示コーナーの床に貼り付けてある。

 

 (活断層)

 阿蘇方向から伸びた布田川断層は、我が町を通って宇土半島方向へ伸びている。

 我が町で分岐した日奈久断層は八代市(日奈久町)から海へ伸びている。

 今回の地震で動いたのは、益城町付近の布田川断層の一部と、分岐した日奈久断層の一部である。

 本来の活断層のほとんどは、今回の地震では動いていないことを認識すべきである。

 

 (我が町の活断層)

 町の南部を通っている筈の布田川断層の系列で今回新たに3本の活断層の支線が見つかった。

 我が家は②の断層の破線の途切れたあたりに建っている。

 家の位置の微妙な違いや、比較的新しい建築基準法による建屋であったため倒壊を免れたようだ。

 あれから7年、町の復興は進んではいるが早いとは思えない。

 

 (4車線化工事の開通区間)

 先月末に開通した部分は、隣の熊本市の境界から800mだけである。

 全線開通は、5年後くらいになる予定。

 

 (内水排水施設)

 地面の地盤沈下もあって、堤防より低い地域の雨水等排水設備の整備が急がれた。

 ほぼ完成し、今年の降雨期には稼働可能になるだろう。

 

 (完成した木山橋)

 ほとんどの橋が被災したので、架け替え工事が進められ、この木山橋が最後になる。

 ただ道路の拡幅工事が完成していないので、通行が可能になるのは当分先になる。

 

 (総合体育館)

 総合体育館は、町の施設としては一番早く再建された。

 

 (町役場)

 仮設のプレハブ庁舎で7年間頑張ってきたが、今年の3月に新築が完成した。

 まだ入居はしておらず、5月のゴールデンウイーク明けくらいに移転予定。

 公的な建物や、インフラの復興は進んでいるが住民の復興は当分先になる。

 区画整理事業や、道路拡幅工事が終わらないと家の新築も、新しい店舗も開けない。

 転出者も続出した。

 当面の生活のために、10年も先の完成を待っていられない人々が沢山居たのだ。

 基本計画の10年が、3年後にやってくるが今の状況をみると・・・さて。

 ただ、完成は見届けたいものだ。

 「どうせなら明るい未来夢にみる」・・・しろ猫

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震度計が壊れる程の震度7

2023-04-15 13:49:21 | 熊本地震

 震度7は「本震」だと思っていた、と言うよりテレビも本震の後は余震が続くと注意喚起していた。

 「前震」と言う言葉は、夜半日付が変わって直後の1時半前に発生した震度7の地震の説明用として生まれたもの。

 「震度7の本震」の後の「余震が震度7でしかも本震より強烈」だったとは説明できない話なのである。

 ただ、14夜の震度7の後は、15日は震度4程度の地震はあったものの、比較的穏やかだった。

 

 (今朝の里山)

 音を立てて降っていた雨も上がって、里山も麓と頂上付近だけをのぞかせていた。

 この山が見えるのも手前の建物が見えるのも、久し振りで周りが全壊した後の風景に似ている。

 その後再建され、遠くの山も見えなくなったが道路拡幅工事のため又もや壊されて更地になった。

 下痢も治まってきたし、閉じこもってばかりも気が滅入るので少し歩きに出た。

 

 (交流センターの献花台)

 地震の直接の犠牲者や関連して亡くなった方々を慰霊するための献花台が設けてある。

 昨日は初日だったので、沢山の報道関係者も集まって賑わいを見せていたが、今日は人気は無かった。

 

 車中泊の車で埋まったグラウンドも、高校生達のサッカーの試合で盛上がっていた。

 

 (雨水の溜め池)

 溜め池も、春先には沢山いた鴨たちもいなくなり、牛蛙のヴォーヴォーという鳴声だけが響いていた。

 当時の15日という日は、避難所に避難した人達も自宅の様子を見に帰ったり、後片付けをしたりするような日だった。

 かなり傷んだ被災家屋に帰って、片付けたりしながらそのまま家で休んだ人々から多くの犠牲者が出た。

 

 (午後の西空)

 少し明るくなったかと思えば、厚い雲が覆うということを繰り返している。

 当時の私も、内部は物が散乱していたが建屋自体は問題はなかったので2階の寝室で寝た。

 夜中に布団ごと持ち上げられ落とされるような衝撃で目が覚めた。

 携帯の緊急音が流れたのはその後である。

 強烈な縦揺れが続いた後、横揺れが長く長く続いて立ち上がれなかった。

 外では屋根の瓦の落ちる音が続いていた。

 家の倒壊が頭に浮かんだ。

 瓦は落ちてくれた方が屋根の重量が軽くなるとか、倒れる方向は多分構造的に南西の方向とか。

 2階の東端の部屋だから多分1階よりヒシャゲずに残る公算が大きいとか。

 布団中での結論は、このままじっと布団の中で倒壊物から身を守っていよう、だった。

 とんでもなく長い時間のように思えた揺れも、やがて静かになった。

 夜明けで明るくなるまで、布団の中に居た。

 明るくなって、部屋を見回すと私が緩衝材として設置した布団や座布団の上にタンスもテレビもPCも乗っかっていた。

 想定外は仏壇が飛び出して、和室の真ん中で横になっていたこと。

 庭に出ると、落下した屋根瓦は両隣の瓦ばかりで、我が家のものは一枚も落ちていなかった。

 両隣とも避難した後で、家はどちらも無人だった。

 この後、電気は4日、水道は1ヶ月半こない生活が続いた。

 ネット環境が整ったのは、どのくらい経過していたのか記憶にない。

 避難所の携帯充電コーナーが、やたら混んでいたのは覚えている。

 家は建っていたが、隣家が我が家方向に倒れるおそれがあるとかで、玄関に立ち入危険の赤紙が貼られた。

 避難所は満員を越えていて、車中泊とその後息子が持参したテント生活を続けた。

 震度6弱以下の地震は数多く、震度4程度では驚きもしない自分になっていた。

 地震の詳細やメカニズムがいろいろ出てくるのは暫く後のことである。

 因みに我が町の震度計は、前震で壊れてしまい更に強烈な本震の方は熊本市の震度からの推定値である。

 この間、新聞やテレビのインタビューは何度か受けたが、前震の後の意気揚々さは影を潜めた。

 「車中泊やさしく照らす十三夜」・・・しろ猫 

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前震という名の震度7

2023-04-14 15:58:58 | 熊本地震

 今日は、朝からやや曇り空だったが、予報通り午後には雨が降り出した。

 7年前を思う日とすれば、天も日本晴れでは拙かろうということだろう。

 

 如何なる災害でも、起る前は平和なものであって7年前の今日もそうだった。

 ただ、かなり前から震度2~3程度の地震の頻度は高くなっていた。

 しかし、大地震の予兆として捉えるものはいなかった。

 当日のブログも、地震が夜だったので、その前にアップしたノンビリしたもの。

 相方は、長女の出産の手伝いで数週間前から家を留守にしていて、家には私一人だった。

 食卓で飲んでいて、面白そうなテレビにつられて居間のソファーにグラスを片手に移動した。

 移動しても30秒もしないうちにドーンと音がして食器棚が倒れた。

 飛び出した食器やその破片が私が先ほどまで座っていた椅子やテーブル周りに飛び散った。

 ソファーにつかまりながら、落下する食器やキャスター付きのテレビがコンセントを自分で引き脱いで部屋中を転げ回るのを眺めていた。

 揺れが収った後、情報収集のためテレビのコンセントを挿してやったら正常に地震情報を伝えていた。

 電気Ok・水道Ok・固定電話Okでインフラはほぼ正常だった。

 外の様子は分らないが、暫くしてテレビ局からの電話があった。

 翌日の朝のニュースでの電話インタビューに対応を依頼する内容だった。

 隣県のテレビ局だったが、部屋中の物の散乱以外は被害は無いし気丈に対応してみせた。

 この震度7が前震で、本震はこの後予定されているとは知るよしもなく・・・。

 

 

 取り敢えず、家の中の整理をしようと思ったが、余震を考えて暫く水平展開にしておくことにした。

 落ちるおそれのあるものは、あらかじめ床の上に並べ、倒れる可能性のテレビやPCの前には布団や座布団の緩衝材を広げた。

 暫く続くであろう余震に耐えれば、何とかなる。

 相方が留守で、二次被害などの危険が軽減されているのはもっけの幸いだった。

 田舎の墓まで、確認に行ったが墓にも異常はなかった。

 始めの震度7は、かくして通り過ぎたのだ。

 「落ちるだけ落ちて安定した食器」・・・しろ猫

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熊本地震は復興の途上

2023-03-29 13:48:05 | 熊本地震

 麗らかな春の一時、ゆっくりと歩いてみた。

 少し急げば汗が出そうで、のんびりかつキョロキョロしながら歩く。

 

 (桜と里山)

 桜はほぼ満開で、里山の下の部分を覆っているように見える。

 私的には花の雲にポッカリと浮かんだ丸い里山というイメージでパチリ。

 近くのグラウンドでは元気な子供達の声が響く。

 

 (ソフトボール大会)

 この大会、もうかれこれ4日ぐらいは続いている。

 応援も相当に熱が入っているので何事かと覗くと。

 

 (大会の横断幕)

 掲げられた大会の横断幕には、都道府県対抗日本中学生男子ソフトボ大会とある。

 此処の野球場は、4面しか取れないので全国となると長期になるのだろう。

 横断幕の一番下には、「熊本地震益城町災害復興記念大会」と記されている。

 我が町を励まそうと、始まった大会のようだ。

 確かに元気な子供達の声は、何よりも励ましになる。

 道路拡幅工事の一部供用開始区間を見に歩くことにした。

 

 (惣領木神社)

 我が町内の鎮守さまで、森とは言えない程だが大きな木が何本かあって、桜も花盛りだった。

 どこでもそうだが、道路拡張工事などでは、神社の敷地は少しずつ削られたりするのが通例。

 地域住民は神様に甘えることが多いのだ。

 

 (近所の工事現場)

 4車線化の工事も進行中だが、更地になった部分での新しい建築も始まる。

 やがて我が家への出入りも工事のため制限を受けることになりそう。

 

 (道路拡幅工事完了区間)

 実は、昨日この区間(熊本市~益城町入り口0.8Km)は開通したばかりで、供用開始2日目である。

 そこかしこに、バタバタして期限に間に合わせました感が漂っている。

 4車線化し、両側に自転車道と歩道を設置する予定だが、歩道・自転車道は片側しか完成していない。

 来年の今頃に、先ほどの神社のある交差点まで(約0.8Km)が開通する予定。

 さらに1年遅れて、私の住む地域が開通する・・かも、というあやふやな予定。

 4月が来れば地震から7年が過ぎようとしている。

 道路拡幅ひとつとっても、10年の歳月をかけても完了するかはあやしい。

 個々人の復興は、それから更に遅れる。

 今更ながら、災害列島に生きていることを思い知らされる。

 「時々は家間違える震災後」・・・しろ猫

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