秦暉:中国は西側の「社会主義」を学ぶべきだ
初出:財経網 2010年09月26日
米国人の「悪習」を批判する必要もあるが、中国人は米国人の民主主義を学ぶことの方をより必要としている。中国人の権益を擁護するには、中国の体制を改革しなければならない。
——『中国の台頭と「中国モデル」の台頭』シリーズその3
姚洋さんは最近たびたび「中性政府」が「中国モデル」の主な特徴だと述べています。彼は他の国の代議制政府は金持ちを代表して「右派」政策を実行するか、そうでなければ貧乏人を代表して「ポピュリズム」を行っており、唯一中国政府だけが貧乏人にも金持ちにも従属していない。だから貧乏人の機嫌を損ねることを恐れないし(彼は国有企業改革で一気に4,000万人以上の労働者を解雇したことを例に挙げ、他にどこの政府もそんなことはできないと言っている)、金持ちの機嫌を損ねることも恐れないと言っています。彼は多くの事例を上げてはいますが、この種の「中性政府」は中国にしかないと主張している点で、見聞が狭いと言わざるを得ません。
皇帝が「誰に対しても同じ」であることは、代議制政府がその選挙民(左派の貧乏な選挙民だったり右派の豊かな選挙民だったり)に配慮しなければならないのとは違います。この種の「中性政府」理論は100年以上も前の人によって「西側モデル」とは違う「帝政ロシアモデル」の特徴としてすでに描かれています。ロシアの極右思想家サゾノフ(Г•Π•Сазонов)は当時、西側の「統治機構は選挙により形成され、選ばれるのはみな金持ちだが、金持ちのやり方は不公平で、貧乏人を虐げている。ロシアの統治機構は選挙によらず、全てがツァーリにより行われ、ツァーリは金持ち、貧乏人に関わらず、全ての人の上に立っていて、……ツァーリは貧乏人であれ金持ちであれ全ての人に対して公平である。」と語っています(『レーニン全集』中国語第二版、第7巻115ページ)。
しかし、問題はこの貧乏人の制約も金持ちの制約も受けない「中性ツァーリ」自体が強力な利益主体であるということです。その私利を図る「政府会社主義」は非常に野蛮であり、それは「貧乏人に対しても金持ちに対しても同じ」です。金持ちを代表するロシア自由派が西側の代議制にあこがれるのに不思議はありませんが、貧乏人を代表すると自任するレーニンも当時代議制の西側をうらやんで、「中性ツァーリ」を次のように罵倒しています。「この話は全くのウソだ。ロシア人ならだれでもロシアの統治の公正とはどういうことかを知っている。……だがヨーロッパの他の国では、工場労働者も農場労働者も国会に参加できる。彼らは全人民の前で自由に労働者の苦しい生活を訴え、労働者の団結を呼びかけ、より良い生活を求めることができる。だれも人民代表がそういう話をするのを禁ずることはできず、警察も指一本触れることができない。」(『レーニン全集』中国語第二版、第7巻116-117ページ)。
ですから、中国が福祉国家でないことをもって中国が西側より「自由放任」であることを証明できないのと同様、中国の独占・統制・特権的発達をもって中国が福祉国家であることを証明することもできません。実のところ、陳志武、李維森などの方々が近頃たびたび指摘している、中国においては政府の蓄財が国富に占める比率が非常に高いことは、いわゆる「西側よりも自由」な経済とは全く逆の光景です。
たしかに、中国の地方政府が競って市場に参入して利益を追求する「政府会社主義」現象が改革前の中央統制の沈滞を打破したことは、中国経済が「精力旺盛」であることの原因の一つですが、政府権力を利用した「自由な利益追求」と民間の経済的な自由は全く相反するものであることは、全ての経済学者の、とりわけ自由主義経済学者の常識です。中国の「資本主義」はもちろん20世紀の福祉資本主義でも「人民資本主義」でもありませんし、19世紀の「自由資本主義」でもありません。もし歴史に似た物を探さなければならないとすれば、それはむしろ17世紀の原始的蓄積時代、「重商主義」時代、もしくは「旧救貧法」時代の「資本主義」に似ているといえるでしょう。周知のように、あの時代の「重商主義」は民間の商工業が尊重されたのではなく、政府が商工業活動の統制と独占を重視したのであり、政府自身の市場での利益追求を重視したのです! そして、あの時代の「旧救貧法」は貧乏人の政府に対する救済を求める権利(民主主義時代の「新救貧法」のような)を認めたのではなく、政府が貧乏人を強制収容、監禁、調教、懲罰するための法律でした(そのため当時「血なまぐさい立法」と呼ばれていました)。そしてあの時代の官営経済は、国家(王立)企業であれ国家(王室)特許独占会社(たとえば東インド会社)であれ、いずれも自由経済の中で民間企業と平等な民法上の地位と営業権を有する市場法人でもなく、福祉制度の下での公共サービスを行う財政引受人でもなく、「公権私用」の収奪装置でした。今日の自由主義経済学の開祖である重農主義者とアダム・スミスたち古典派がこれを嫌悪し、社会主義の創始者マルクスがこのような「国家干渉」と「国有経済」は自由放任よりもいっそう反動的だ(!)とみなしたのも不思議ではありません。
しかし、今日のグローバル化の中で確かに一つの現象が現れています。それはあたかも「20世紀の資本主義」は「19世紀の資本主義」との競争に勝てず、「19世紀の資本主義」は「17世紀の資本主義」との競争に勝てないという現象です。この種の「悪貨が良貨を駆逐する」現象が続くとは限りませんが、注意すべきことです。
「地方政府の競争」によって「中国の奇跡」を説明する説は一つの事実を指摘しています。それは中国の多くの地方が手段を選ばずに「投資誘致」競争をしており、提示する条件は確かにどんな民主主義国家(福祉国家であれ自由競争重視の国家であれ)も比べものにならない魅力を持っています。その条件はもちろん低賃金・低福祉を含みますが、同様に低自由――例えば好き勝手な土地収用がもたらす用地取得の便宜、野蛮な都市管理局が貧乏人を駆逐して作る「高貴な都市」、労働争議を禁止することによるいわゆる「取引費用」の低下などなど――を含みます。どんな経済学者も、「新自由主義」であれケインズ主義者であれ、これらの現象を「自由」だとか、「西側よりもっと自由だ」(!)などとは言わないと私は思います。
フォーゲル影響とサリバン影響:「20世紀、19世紀の資本主義対17世紀の資本主義」の競争?
しかし、それらの条件が「中国の奇跡」を促したのです。グローバル化の前提の下ではこれは決してそれほど難解な問題ではありません。もし「投資誘致」面での「競争力」がグローバル化した市場経済の下では成長率にとって極めて重要であると言うなら、労働組合もなく、好き勝手に土地収用もできる国と、労働組合が発達し、土地収用が困難な国(たとえば中東欧諸国)とで、どちらが「投資誘致」しやすいかは明らかでしょう。
まして搾取工場の福祉国家に対する「優位性」は言うまでもありません。国際競争どころか、国内競争においても明らかです。米国の自動車産業では労働組合が強く、福利厚生が最も良いデトロイトの三大「社会主義自動車工場」はみなどん底に落ち込んでいますが、米国南部の労働組合が弱く福利厚生も少ない日本や韓国資本の「資本主義自動車工場」は何とかやれています。もし彼らが我が国のように「農民労働者」を使って「原始的蓄積時代の自動車工場」をやったらどうでしょう? 中国の自動車産業のように儲かって笑いが止まらないことでしょう。最近のボルボの話題がそのことをよく物語っています。高福祉国家スウェーデンのボルボは数年前に経営に行きづまり、低福祉国家米国の会社に身売りしました。今回米国も行きづまると、マイナス福祉国家中国の会社に売られました。一連の話題はまさに張五常の次の話を具体化しています。「天下の大勢は欧州が米国に学び、米国が中国に学ぶ流れだ!」。
以前彼らはなぜうまくやれていたのでしょう? それらの国の労働者が中国の労働者より働き者だからではなく、今日良い自動車が依存するもの全てが、原理・技術・材料からデザインまで、彼らの発明と創作〔=イノベーション〕だからです(これこそが彼らの「モデル」の優位性です)! 我が国がもしグローバル化に合流しなければ、労働者がどれほど必死に働いても誰も買いたがらない「老牛車(時代遅れの自動車)」を作るに過ぎません。現在のグローバル化で彼らのイノベーションを全て学べるようになりました。また私たちは労働者に必死に働かせることができますが、彼らはそうはできません。その結果いかにも私たちは彼らよりうまくいっているように見えます。簡単な理屈ですね。
問題は、私たちがこの種の「優位性」に頼って本当に彼らを競争で打ち負かすことができるのかということです。(それにはもちろん私たち自身が引き続きこの「優位性」のために代償を払い続け、そのために累積した矛盾が爆発しないということが前提ですが)。世界の自動車産業が我が国の「命がけモデル」に独占されるとして、今後一体だれがイノベーションするのでしょう? 世界の自動車産業の未来はどうなるのでしょう? もし世界中に搾取工場しか残らなければ、「西側モデル」の下での旺盛な購買力がなくなったら、私たちの厖大な製品を誰が買うのでしょう? 我が国の「モデル」の最大の問題、すなわち生産能力過剰の問題はそのとき世界中に蔓延するのではないでしょうか?
このような「低人権の優位性」には確かに「悪貨が良貨を駆逐する」という論理が存在します。私は以前ノーベル経済学賞受賞者ロバート・フォーゲルの米国南北戦争前の南側奴隷制経済の「効率」問題に関する研究を引用してこの点を説明したことがあります。また逆の流れ、すなわちグローバル化には「高人権」地区が「低人権」地区の条件を変える作用もあります。これについては、私は以前欧米諸国が南アフリカの企業に対して「サリバン原則」(外資系企業はアパルトヘイトを行ってはならず、西側式の労働組合をとりいれるなど)を実施することにより南アフリカのアパルトヘイト制度の瓦解と黒人の権利の拡大を促進したことを取り上げてこれを説明したことがあります。私はこの二つの流れを「フォーゲル影響」と「サリバン影響」と名付けました。つまり、グローバル化は世界各国の相互影響を著しく増強しましたが、どちらの影響が勝つかについて決定論的な答えはありません。
二つの「尺取虫効果」の相互作用:どちらがどちらを「学んだ」のか?
つまり政治的関係がどうであろうと、経済面でグローバル化に加われば、上の二つの影響は免れられません。とりわけ私が前に述べた、今日の西側の「左によれば国は民衆のためにより多くカネを使わなければならず、右によれば国は民衆からの徴税を減らさなければならない」という体制は民衆の高消費・高借越(欧州では高福祉高赤字)を促進しますが、中国では「左によれば国は民衆からより多くのカネを徴収し、右によれば国は民衆のための支出を減らす」という体制が民衆の低消費・高生産を招き、外国が中国から借り越すことを「必要」とします。そこで、「二つの尺取虫効果の相互作用」(尺取虫は無脊椎動物の一種で、移動するときに体をアーチのように曲げたり伸ばしたりする。「尺取虫効果」とは、曲げたり伸ばしたりして一つの方向――中国では特権利益共同体を潤すために一般庶民を搾取する方向――に進むことを言う)により、いわゆるChimerica(中米相互補完、中欧相互補完ともみなしうる)現象が出現し、しかも一定の「相互依存」も生じます。西側は借り越しを通じて高消費を維持し、かつ債務の困難を緩和し、中国は「借り越される」ことにより高成長を実現し、供給過剰の危機を克服します。しかし、今回の危機はこのようなグローバル化の相互作用を持続不可能にし、そのため双方に変革の要求が出現しました。
現段階の危機は西側でより突出しており、しかも西側は言論が自由で、社会的感情もより表に現れるので、彼らの方が先に気が動転しました。米国は監督を強化し、欧州は福祉を切り下げました。「餌をやらずに馬を走らせる」良い生活は続かず、民衆も苛立ちを深めました。それをある人は「米国も中国から『社会主義』を学び始めた」と言っています。
しかし実際には米国政府が市場介入して大企業を救ったことは救貧と言うより「救富」であり、福祉国家の政策でさえないのに、どうして「社会主義」などと言えるでしょう? オバマの医療制度改革は確かに福祉国家への流れでしたから、「社会主義」と言ってもいいでしょうが、それは西側固有の「民主社会主義」であって、むしろ欧州から学んだと言うべきでしょう。「マイナス福祉」の中国から学ぶというのでは、志と逆です。
私は以前、立憲民主制、わけても普通選挙は必然的に公共の福祉を促進する傾向があると指摘したことがあります。民主主義に反対する李嘉誠さんが「民主主義は福祉社会をもたらす」(大陸にも福祉を嫌うゆえに民主主義に反対する似たような言説があります)と言ったのは、事実に即せば誤りとは言えません。もちろん民主主義は必ずしもスウェーデン式の高福祉をもたらすとは限りませんが、民主制は高低はあるにしても、間違いなくプラスの福祉をもたらします。「マイナス福祉」は民主国家にはあり得ません。社会保障は西側においては市場メカニズムと同じぐらい長い歴史があり、決してソ連式国家ができてから始まったのではありません。ルーズベルトが「ソ連に学んだ」とか、オバマは「毛バマ」だという言説は、1930年代に現れたルーズベルトはヒトラーに学んでいるという言説と同様、福祉国家に反対する右派からの中傷であり、福祉国家の擁護者が必死に否定し続けてきたものです。これは反福祉派が全体主義国家の「国家統制の悪しき前例」を口実に、人々の民主主義国家の干渉に対する疑念を生じさせ、福祉国家づくりを阻害しようとしているのです。このような中傷を根拠に社会保障は全体主義国家から学んだなどということを証明することができるでしょうか?
正反対に、今日の中国に現れつつある生活保護・国民皆保険・低家賃住宅といった、特権身分に基づいて分配されるのではなく貧困者と弱者向けの福祉制度、そして過去の強制収容とは逆の「来たければ来て、去りたければ去る」と言われている浮浪者救済制度は、我が国では改革前には決してなかったものであり、最近になって西側から学んだものなのです。
しかし、だからといって西側が「中国から学ぶ」ことがないというのではありません。それどころか、自由と福祉はどちらも重要なのに、現在の西側民衆の「馬は走らせたいが、餌はやりたくない」に関わる危機は一部の人々に中国に対する羨望の念を生じさせています。中国の馬〔共産党〕は走らなくてもいいのに、民衆は馬に山海珍味を供えなければならないのですから。「良い政府は苦しく、悪い政府は楽だ」と方紹偉さんが最近概括したように、中国に学ばなかったら政府のやりくりはつかないのでしょうか?
もちろん、それは決して中国から「社会主義」を学ぶのではありません。しかし、「世界の大勢は欧州が米国に学び、米国が中国に学んでいる」という張五常の言葉は全く的外れというわけではありません。上海の李居廉教授は最近冗談で「1949年に社会主義が中国を救い、1978年に資本主義が中国を救い、1989年に中国が社会主義を救い、2008年に中国が資本主義を救った」と言っていました。最後の言葉はつまり、中国は「独裁」によって「民主主義が資本主義に負担をかける」のを免れているということです。しかし、もし米国が本当に中国から学び、民主主義を放棄し、鉄腕統治を行い、右手で福祉を取り消し、左手で自由を取り消しても、国民は消費を続けられるでしょうか? そうしたら、米国人の「消費狂」症状はすぐに消失するでしょう。米国の自動車企業は「労働者に力がある」から苦境に陥ったんでしょう? だったら私たちに学びなさい! 組合自治とストライキ権を取り上げたら、労働者は自殺〔中国の外資系企業で自殺者が相次いだことを揶揄している〕することはできても騒ぎは起こせなくなります。騒ぎを起こそうとするやからは「投資誘致妨害」で「専制」に服させてしまいなさい! そうなったら企業はたちまち搾取工場として「競争力」を回復するでしょう!
しかし、米国人はそのような状態を望むでしょうか? もし彼らが望んだとしても、米国が搾取工場を回復して我が国と競争したら、私たちにどんな利点がありますか? 私たちは米国がそのように我が国に学ぶことに誇りを感じるのでしょうか?
もし西側が中国に学んだら:「ホーネッカー寓話」について
実を言えば、中国は政府であれ民衆であれ「中国モデル」を輸出する動機は確かにありません。なぜなら、中国の搾取工場は他人がまねできない条件で初めて競争力を持つからです。他人が私たちのまねをしなければ、私たちは苦労はするが「競争力」と高度成長を手に入れることができます。他人が私たちのまねをしたら、それさえ手に入れられず、苦労も水の泡となってしまいます!
私たちは他人が私たちと同じようにすることを決して望みません。しかし問題はグローバル競争の中の「悪貨が良貨を駆逐する」圧力の客観的存在です。民主主義国家の民衆は今になって「馬は走らせたいが餌はやりたくない」と思うようになったのではなく、中国という特大のカモが彼らの借り越しを支えたので今のようになってしまったのです。「福祉国家病」は今に始まったことではありませんが、中国のような巨大国家が「低人権の優位性」を発揮するようになってから、甘やかされた福祉国家は本当に行き詰ってしまったのです。最近一部の欧州諸国は金融危機の圧力の下で福祉削減・移民制限の改革を打ち出し、政情不安に陥っています。「中国化」の予兆なのでしょうか?
昨年私はドイツの友人と「ホーネッカー寓話」について話しました。東ドイツの以前の統治者がもし民主化に直面せず、「ムーランルージュ」をうらやんでユートピアを放棄し、政治的にベルリンの壁を残したままで経済開放を進め、「独裁」的手段で「投資誘致」を図り、全東ドイツを大型の搾取工場に変え、西側の資本を全部吸い寄せ、東側の低価格商品で西側を覆い尽くす。その時、東ドイツの失業問題ではなく、西ドイツの失業危機となるでしょう! もし危機が大爆発して混乱すれば、東ドイツが西ドイツを併合するという可能性さえあります! たとえそこまでに至らなくても、西ドイツは東ドイツとの競争のために「低人権」をまねないわけにはいかず、実際は東ドイツによって「体制転換」させられてしまうでしょう。もちろんそれは「社会主義が資本主義に勝った」のではなく、搾取工場が福祉国家を打ち負かすのであり、17世紀の資本主義が20世紀の資本主義を打ち負かすのです。もしくは、「独裁資本主義」が「民主社会主義」を打ち負かすのです! しかし、東ドイツ人はそのような「勝利」を見たかったでしょうか?
もちろん、民主化統一後の東ドイツは西ドイツと大体同じ高賃金・高福祉・高人権になり、西部の資本は遠路はるばる中国に逃げ出すことはあっても、東ドイツに行って現地の民衆を「搾取」しようとしないので、一部の東ドイツ人は製造業の不振による失業率の高止まりに不平を言っていますが、私が描いたような「勝利」を彼らはもっと見たくないでしょう。とりわけいま不平が最も多い東ドイツ左派は、なおのこと搾取工場の「勝利」を受け入れることはできません。まして、西ドイツ人が受け入れないのは言うまでもありません。ですから、そのような「勝利」は実は双方敗北の状況――東西双方の敗北であり、また左右(社会民主派と自由民主派)の敗北でもある――なのです。
原文出典:http://www.caijing.com.cn/2010-09-26/110530341.html
(転載自由・要出典明記)
初出:財経網 2010年09月26日
米国人の「悪習」を批判する必要もあるが、中国人は米国人の民主主義を学ぶことの方をより必要としている。中国人の権益を擁護するには、中国の体制を改革しなければならない。
——『中国の台頭と「中国モデル」の台頭』シリーズその3
姚洋さんは最近たびたび「中性政府」が「中国モデル」の主な特徴だと述べています。彼は他の国の代議制政府は金持ちを代表して「右派」政策を実行するか、そうでなければ貧乏人を代表して「ポピュリズム」を行っており、唯一中国政府だけが貧乏人にも金持ちにも従属していない。だから貧乏人の機嫌を損ねることを恐れないし(彼は国有企業改革で一気に4,000万人以上の労働者を解雇したことを例に挙げ、他にどこの政府もそんなことはできないと言っている)、金持ちの機嫌を損ねることも恐れないと言っています。彼は多くの事例を上げてはいますが、この種の「中性政府」は中国にしかないと主張している点で、見聞が狭いと言わざるを得ません。
皇帝が「誰に対しても同じ」であることは、代議制政府がその選挙民(左派の貧乏な選挙民だったり右派の豊かな選挙民だったり)に配慮しなければならないのとは違います。この種の「中性政府」理論は100年以上も前の人によって「西側モデル」とは違う「帝政ロシアモデル」の特徴としてすでに描かれています。ロシアの極右思想家サゾノフ(Г•Π•Сазонов)は当時、西側の「統治機構は選挙により形成され、選ばれるのはみな金持ちだが、金持ちのやり方は不公平で、貧乏人を虐げている。ロシアの統治機構は選挙によらず、全てがツァーリにより行われ、ツァーリは金持ち、貧乏人に関わらず、全ての人の上に立っていて、……ツァーリは貧乏人であれ金持ちであれ全ての人に対して公平である。」と語っています(『レーニン全集』中国語第二版、第7巻115ページ)。
しかし、問題はこの貧乏人の制約も金持ちの制約も受けない「中性ツァーリ」自体が強力な利益主体であるということです。その私利を図る「政府会社主義」は非常に野蛮であり、それは「貧乏人に対しても金持ちに対しても同じ」です。金持ちを代表するロシア自由派が西側の代議制にあこがれるのに不思議はありませんが、貧乏人を代表すると自任するレーニンも当時代議制の西側をうらやんで、「中性ツァーリ」を次のように罵倒しています。「この話は全くのウソだ。ロシア人ならだれでもロシアの統治の公正とはどういうことかを知っている。……だがヨーロッパの他の国では、工場労働者も農場労働者も国会に参加できる。彼らは全人民の前で自由に労働者の苦しい生活を訴え、労働者の団結を呼びかけ、より良い生活を求めることができる。だれも人民代表がそういう話をするのを禁ずることはできず、警察も指一本触れることができない。」(『レーニン全集』中国語第二版、第7巻116-117ページ)。
ですから、中国が福祉国家でないことをもって中国が西側より「自由放任」であることを証明できないのと同様、中国の独占・統制・特権的発達をもって中国が福祉国家であることを証明することもできません。実のところ、陳志武、李維森などの方々が近頃たびたび指摘している、中国においては政府の蓄財が国富に占める比率が非常に高いことは、いわゆる「西側よりも自由」な経済とは全く逆の光景です。
たしかに、中国の地方政府が競って市場に参入して利益を追求する「政府会社主義」現象が改革前の中央統制の沈滞を打破したことは、中国経済が「精力旺盛」であることの原因の一つですが、政府権力を利用した「自由な利益追求」と民間の経済的な自由は全く相反するものであることは、全ての経済学者の、とりわけ自由主義経済学者の常識です。中国の「資本主義」はもちろん20世紀の福祉資本主義でも「人民資本主義」でもありませんし、19世紀の「自由資本主義」でもありません。もし歴史に似た物を探さなければならないとすれば、それはむしろ17世紀の原始的蓄積時代、「重商主義」時代、もしくは「旧救貧法」時代の「資本主義」に似ているといえるでしょう。周知のように、あの時代の「重商主義」は民間の商工業が尊重されたのではなく、政府が商工業活動の統制と独占を重視したのであり、政府自身の市場での利益追求を重視したのです! そして、あの時代の「旧救貧法」は貧乏人の政府に対する救済を求める権利(民主主義時代の「新救貧法」のような)を認めたのではなく、政府が貧乏人を強制収容、監禁、調教、懲罰するための法律でした(そのため当時「血なまぐさい立法」と呼ばれていました)。そしてあの時代の官営経済は、国家(王立)企業であれ国家(王室)特許独占会社(たとえば東インド会社)であれ、いずれも自由経済の中で民間企業と平等な民法上の地位と営業権を有する市場法人でもなく、福祉制度の下での公共サービスを行う財政引受人でもなく、「公権私用」の収奪装置でした。今日の自由主義経済学の開祖である重農主義者とアダム・スミスたち古典派がこれを嫌悪し、社会主義の創始者マルクスがこのような「国家干渉」と「国有経済」は自由放任よりもいっそう反動的だ(!)とみなしたのも不思議ではありません。
しかし、今日のグローバル化の中で確かに一つの現象が現れています。それはあたかも「20世紀の資本主義」は「19世紀の資本主義」との競争に勝てず、「19世紀の資本主義」は「17世紀の資本主義」との競争に勝てないという現象です。この種の「悪貨が良貨を駆逐する」現象が続くとは限りませんが、注意すべきことです。
「地方政府の競争」によって「中国の奇跡」を説明する説は一つの事実を指摘しています。それは中国の多くの地方が手段を選ばずに「投資誘致」競争をしており、提示する条件は確かにどんな民主主義国家(福祉国家であれ自由競争重視の国家であれ)も比べものにならない魅力を持っています。その条件はもちろん低賃金・低福祉を含みますが、同様に低自由――例えば好き勝手な土地収用がもたらす用地取得の便宜、野蛮な都市管理局が貧乏人を駆逐して作る「高貴な都市」、労働争議を禁止することによるいわゆる「取引費用」の低下などなど――を含みます。どんな経済学者も、「新自由主義」であれケインズ主義者であれ、これらの現象を「自由」だとか、「西側よりもっと自由だ」(!)などとは言わないと私は思います。
フォーゲル影響とサリバン影響:「20世紀、19世紀の資本主義対17世紀の資本主義」の競争?
しかし、それらの条件が「中国の奇跡」を促したのです。グローバル化の前提の下ではこれは決してそれほど難解な問題ではありません。もし「投資誘致」面での「競争力」がグローバル化した市場経済の下では成長率にとって極めて重要であると言うなら、労働組合もなく、好き勝手に土地収用もできる国と、労働組合が発達し、土地収用が困難な国(たとえば中東欧諸国)とで、どちらが「投資誘致」しやすいかは明らかでしょう。
まして搾取工場の福祉国家に対する「優位性」は言うまでもありません。国際競争どころか、国内競争においても明らかです。米国の自動車産業では労働組合が強く、福利厚生が最も良いデトロイトの三大「社会主義自動車工場」はみなどん底に落ち込んでいますが、米国南部の労働組合が弱く福利厚生も少ない日本や韓国資本の「資本主義自動車工場」は何とかやれています。もし彼らが我が国のように「農民労働者」を使って「原始的蓄積時代の自動車工場」をやったらどうでしょう? 中国の自動車産業のように儲かって笑いが止まらないことでしょう。最近のボルボの話題がそのことをよく物語っています。高福祉国家スウェーデンのボルボは数年前に経営に行きづまり、低福祉国家米国の会社に身売りしました。今回米国も行きづまると、マイナス福祉国家中国の会社に売られました。一連の話題はまさに張五常の次の話を具体化しています。「天下の大勢は欧州が米国に学び、米国が中国に学ぶ流れだ!」。
以前彼らはなぜうまくやれていたのでしょう? それらの国の労働者が中国の労働者より働き者だからではなく、今日良い自動車が依存するもの全てが、原理・技術・材料からデザインまで、彼らの発明と創作〔=イノベーション〕だからです(これこそが彼らの「モデル」の優位性です)! 我が国がもしグローバル化に合流しなければ、労働者がどれほど必死に働いても誰も買いたがらない「老牛車(時代遅れの自動車)」を作るに過ぎません。現在のグローバル化で彼らのイノベーションを全て学べるようになりました。また私たちは労働者に必死に働かせることができますが、彼らはそうはできません。その結果いかにも私たちは彼らよりうまくいっているように見えます。簡単な理屈ですね。
問題は、私たちがこの種の「優位性」に頼って本当に彼らを競争で打ち負かすことができるのかということです。(それにはもちろん私たち自身が引き続きこの「優位性」のために代償を払い続け、そのために累積した矛盾が爆発しないということが前提ですが)。世界の自動車産業が我が国の「命がけモデル」に独占されるとして、今後一体だれがイノベーションするのでしょう? 世界の自動車産業の未来はどうなるのでしょう? もし世界中に搾取工場しか残らなければ、「西側モデル」の下での旺盛な購買力がなくなったら、私たちの厖大な製品を誰が買うのでしょう? 我が国の「モデル」の最大の問題、すなわち生産能力過剰の問題はそのとき世界中に蔓延するのではないでしょうか?
このような「低人権の優位性」には確かに「悪貨が良貨を駆逐する」という論理が存在します。私は以前ノーベル経済学賞受賞者ロバート・フォーゲルの米国南北戦争前の南側奴隷制経済の「効率」問題に関する研究を引用してこの点を説明したことがあります。また逆の流れ、すなわちグローバル化には「高人権」地区が「低人権」地区の条件を変える作用もあります。これについては、私は以前欧米諸国が南アフリカの企業に対して「サリバン原則」(外資系企業はアパルトヘイトを行ってはならず、西側式の労働組合をとりいれるなど)を実施することにより南アフリカのアパルトヘイト制度の瓦解と黒人の権利の拡大を促進したことを取り上げてこれを説明したことがあります。私はこの二つの流れを「フォーゲル影響」と「サリバン影響」と名付けました。つまり、グローバル化は世界各国の相互影響を著しく増強しましたが、どちらの影響が勝つかについて決定論的な答えはありません。
二つの「尺取虫効果」の相互作用:どちらがどちらを「学んだ」のか?
つまり政治的関係がどうであろうと、経済面でグローバル化に加われば、上の二つの影響は免れられません。とりわけ私が前に述べた、今日の西側の「左によれば国は民衆のためにより多くカネを使わなければならず、右によれば国は民衆からの徴税を減らさなければならない」という体制は民衆の高消費・高借越(欧州では高福祉高赤字)を促進しますが、中国では「左によれば国は民衆からより多くのカネを徴収し、右によれば国は民衆のための支出を減らす」という体制が民衆の低消費・高生産を招き、外国が中国から借り越すことを「必要」とします。そこで、「二つの尺取虫効果の相互作用」(尺取虫は無脊椎動物の一種で、移動するときに体をアーチのように曲げたり伸ばしたりする。「尺取虫効果」とは、曲げたり伸ばしたりして一つの方向――中国では特権利益共同体を潤すために一般庶民を搾取する方向――に進むことを言う)により、いわゆるChimerica(中米相互補完、中欧相互補完ともみなしうる)現象が出現し、しかも一定の「相互依存」も生じます。西側は借り越しを通じて高消費を維持し、かつ債務の困難を緩和し、中国は「借り越される」ことにより高成長を実現し、供給過剰の危機を克服します。しかし、今回の危機はこのようなグローバル化の相互作用を持続不可能にし、そのため双方に変革の要求が出現しました。
現段階の危機は西側でより突出しており、しかも西側は言論が自由で、社会的感情もより表に現れるので、彼らの方が先に気が動転しました。米国は監督を強化し、欧州は福祉を切り下げました。「餌をやらずに馬を走らせる」良い生活は続かず、民衆も苛立ちを深めました。それをある人は「米国も中国から『社会主義』を学び始めた」と言っています。
しかし実際には米国政府が市場介入して大企業を救ったことは救貧と言うより「救富」であり、福祉国家の政策でさえないのに、どうして「社会主義」などと言えるでしょう? オバマの医療制度改革は確かに福祉国家への流れでしたから、「社会主義」と言ってもいいでしょうが、それは西側固有の「民主社会主義」であって、むしろ欧州から学んだと言うべきでしょう。「マイナス福祉」の中国から学ぶというのでは、志と逆です。
私は以前、立憲民主制、わけても普通選挙は必然的に公共の福祉を促進する傾向があると指摘したことがあります。民主主義に反対する李嘉誠さんが「民主主義は福祉社会をもたらす」(大陸にも福祉を嫌うゆえに民主主義に反対する似たような言説があります)と言ったのは、事実に即せば誤りとは言えません。もちろん民主主義は必ずしもスウェーデン式の高福祉をもたらすとは限りませんが、民主制は高低はあるにしても、間違いなくプラスの福祉をもたらします。「マイナス福祉」は民主国家にはあり得ません。社会保障は西側においては市場メカニズムと同じぐらい長い歴史があり、決してソ連式国家ができてから始まったのではありません。ルーズベルトが「ソ連に学んだ」とか、オバマは「毛バマ」だという言説は、1930年代に現れたルーズベルトはヒトラーに学んでいるという言説と同様、福祉国家に反対する右派からの中傷であり、福祉国家の擁護者が必死に否定し続けてきたものです。これは反福祉派が全体主義国家の「国家統制の悪しき前例」を口実に、人々の民主主義国家の干渉に対する疑念を生じさせ、福祉国家づくりを阻害しようとしているのです。このような中傷を根拠に社会保障は全体主義国家から学んだなどということを証明することができるでしょうか?
正反対に、今日の中国に現れつつある生活保護・国民皆保険・低家賃住宅といった、特権身分に基づいて分配されるのではなく貧困者と弱者向けの福祉制度、そして過去の強制収容とは逆の「来たければ来て、去りたければ去る」と言われている浮浪者救済制度は、我が国では改革前には決してなかったものであり、最近になって西側から学んだものなのです。
しかし、だからといって西側が「中国から学ぶ」ことがないというのではありません。それどころか、自由と福祉はどちらも重要なのに、現在の西側民衆の「馬は走らせたいが、餌はやりたくない」に関わる危機は一部の人々に中国に対する羨望の念を生じさせています。中国の馬〔共産党〕は走らなくてもいいのに、民衆は馬に山海珍味を供えなければならないのですから。「良い政府は苦しく、悪い政府は楽だ」と方紹偉さんが最近概括したように、中国に学ばなかったら政府のやりくりはつかないのでしょうか?
もちろん、それは決して中国から「社会主義」を学ぶのではありません。しかし、「世界の大勢は欧州が米国に学び、米国が中国に学んでいる」という張五常の言葉は全く的外れというわけではありません。上海の李居廉教授は最近冗談で「1949年に社会主義が中国を救い、1978年に資本主義が中国を救い、1989年に中国が社会主義を救い、2008年に中国が資本主義を救った」と言っていました。最後の言葉はつまり、中国は「独裁」によって「民主主義が資本主義に負担をかける」のを免れているということです。しかし、もし米国が本当に中国から学び、民主主義を放棄し、鉄腕統治を行い、右手で福祉を取り消し、左手で自由を取り消しても、国民は消費を続けられるでしょうか? そうしたら、米国人の「消費狂」症状はすぐに消失するでしょう。米国の自動車企業は「労働者に力がある」から苦境に陥ったんでしょう? だったら私たちに学びなさい! 組合自治とストライキ権を取り上げたら、労働者は自殺〔中国の外資系企業で自殺者が相次いだことを揶揄している〕することはできても騒ぎは起こせなくなります。騒ぎを起こそうとするやからは「投資誘致妨害」で「専制」に服させてしまいなさい! そうなったら企業はたちまち搾取工場として「競争力」を回復するでしょう!
しかし、米国人はそのような状態を望むでしょうか? もし彼らが望んだとしても、米国が搾取工場を回復して我が国と競争したら、私たちにどんな利点がありますか? 私たちは米国がそのように我が国に学ぶことに誇りを感じるのでしょうか?
もし西側が中国に学んだら:「ホーネッカー寓話」について
実を言えば、中国は政府であれ民衆であれ「中国モデル」を輸出する動機は確かにありません。なぜなら、中国の搾取工場は他人がまねできない条件で初めて競争力を持つからです。他人が私たちのまねをしなければ、私たちは苦労はするが「競争力」と高度成長を手に入れることができます。他人が私たちのまねをしたら、それさえ手に入れられず、苦労も水の泡となってしまいます!
私たちは他人が私たちと同じようにすることを決して望みません。しかし問題はグローバル競争の中の「悪貨が良貨を駆逐する」圧力の客観的存在です。民主主義国家の民衆は今になって「馬は走らせたいが餌はやりたくない」と思うようになったのではなく、中国という特大のカモが彼らの借り越しを支えたので今のようになってしまったのです。「福祉国家病」は今に始まったことではありませんが、中国のような巨大国家が「低人権の優位性」を発揮するようになってから、甘やかされた福祉国家は本当に行き詰ってしまったのです。最近一部の欧州諸国は金融危機の圧力の下で福祉削減・移民制限の改革を打ち出し、政情不安に陥っています。「中国化」の予兆なのでしょうか?
昨年私はドイツの友人と「ホーネッカー寓話」について話しました。東ドイツの以前の統治者がもし民主化に直面せず、「ムーランルージュ」をうらやんでユートピアを放棄し、政治的にベルリンの壁を残したままで経済開放を進め、「独裁」的手段で「投資誘致」を図り、全東ドイツを大型の搾取工場に変え、西側の資本を全部吸い寄せ、東側の低価格商品で西側を覆い尽くす。その時、東ドイツの失業問題ではなく、西ドイツの失業危機となるでしょう! もし危機が大爆発して混乱すれば、東ドイツが西ドイツを併合するという可能性さえあります! たとえそこまでに至らなくても、西ドイツは東ドイツとの競争のために「低人権」をまねないわけにはいかず、実際は東ドイツによって「体制転換」させられてしまうでしょう。もちろんそれは「社会主義が資本主義に勝った」のではなく、搾取工場が福祉国家を打ち負かすのであり、17世紀の資本主義が20世紀の資本主義を打ち負かすのです。もしくは、「独裁資本主義」が「民主社会主義」を打ち負かすのです! しかし、東ドイツ人はそのような「勝利」を見たかったでしょうか?
もちろん、民主化統一後の東ドイツは西ドイツと大体同じ高賃金・高福祉・高人権になり、西部の資本は遠路はるばる中国に逃げ出すことはあっても、東ドイツに行って現地の民衆を「搾取」しようとしないので、一部の東ドイツ人は製造業の不振による失業率の高止まりに不平を言っていますが、私が描いたような「勝利」を彼らはもっと見たくないでしょう。とりわけいま不平が最も多い東ドイツ左派は、なおのこと搾取工場の「勝利」を受け入れることはできません。まして、西ドイツ人が受け入れないのは言うまでもありません。ですから、そのような「勝利」は実は双方敗北の状況――東西双方の敗北であり、また左右(社会民主派と自由民主派)の敗北でもある――なのです。
原文出典:http://www.caijing.com.cn/2010-09-26/110530341.html
(転載自由・要出典明記)