朝日新聞2007年6月28日朝刊より
67年5月、私は大学を卒業してイスラエルに渡ったが、6月に第三次中東戦争が勃発した。アラブ諸国敗戦の直後、占領下のエルサレム旧市街で、引きつった笑い顔で私に白旗を振る少年を見た。当時パレスチナ人の間では、笑って白旗を振れば、殺されずにすむと言われていたと、後に知った。
それから40年、パレスチナはあの時以来の危機にある。パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長の死後、05年にイスラエルがガザ地区から撤退したが、イスラエルの経済封鎖などにより、人々の窮状は進行した。そして草の根支援を続けて民衆の心をつかんだハマスが、06年1月にパレスチナ総選挙で圧勝した。しかし、PLO多数派のファタハ特にアッバス議長や、ガザで絶大な権力をもつ治安責任者ダハラン民政相は、既得権益を守るため、ハマスへの権力移譲を拒んだ。彼らを、欧米は経済的支援という切り札で後押しした。ダハラン民政相の私兵となっている防衛治安部隊とハマスの対立が激化した。
故アラファト議長は偉大な指導者だったが、晩年、彼やファタハ指導部の汚職や腐敗が伝えられていた。一方で民衆は飢え苦しみ続けた。アラファト体制における権力の集中や汚職は、彼のカリスマ性ゆえに表に出てこなかったが、彼の死後、負の遺産は、後継者たちにそのまま受け継がれ、選挙でのハマスの勝利とともに噴出したのである。そして武力衝突の結果、ハマスがガザ地区の実権を握った。
今年6月、アッバス議長は非常事態を宣言し、西岸地域でハマス抜きの新政府樹立を宣言し、パレスチナは真っ二つになった。欧米とイスラエルはこれを支持した。イスラエル内の右派にとっては、西岸地区でハマスとファタハの対立が激化するほうが都合がいいのかもしれない。イスラエルにとっては、窮地に陥ったファタハが、イスラエルの軍事介入を求める事態がもっとも望むシナリオだろう。しかしそのとき、パレスチナ人の解放闘争の歴史は終焉する。独立国家を夢見て多くの犠牲者を出し続けたパレスチナの民衆は、それだけは許さないだろう。
この事態の背景には、40年に及ぶイスラエルの占領がある。かつてパレスチナ人作家のエミール・ハビビを日本に招請した時、彼は共存(コエクジスタンス)のためには、まず存在(エクジスタンス)が保障されていることが必要、と述べた。現実に今パレスチナはどうなっているのだろうか。西岸地区は分離壁や検問所やユダヤ人入植地によってずたずたに切り離された島々のようになっている。国際社会がパレスチナ人に和平を求めた結果が、この無残な姿だ。共存のためにイスラエルは占領地から退かなくてはならない。イスラエルのユダヤ人の中にもこのように考える人たちがいる。対決ではなく真の和平こそ、自分たちの安全のために必要だということを、イスラエルは学んだはずだ。
パレスチナ問題は、48年のイスラエル誕生とパレスチナ難民の発生(パレスチナ人はナクバ=大惨事とよぶ)に由来する。来年はそれから60年になる。私はパレスチナ難民の映像記録のため、地図から消えた250の村々を撮影したが、ほとんどは瓦礫となり、草に埋もれている。今の内紛は、下手をするとさらに巨大な地域を瓦礫に変えることになりかねない。
私たちは今、無力感に陥るのではなく、こうした時期だからこそ、人びとが希望をもてるように、支援を絶やさないようにするべきではないだろうか。