思いつくまま

みどりごを殺す「正義」はありや?
パレスチナ占領に反対します--住民を犠牲にして強盗の安全を守る道理がどこにあろう

劉暁波:「狼トーテム」が「龍トーテム」に取って代わった(2)

2006-12-01 22:24:38 | 中国異論派選訳
3、「オオカミ文化」が「ヒツジ文化」を飲み込む
 遊牧民族はオオカミ、農耕民族はヒツジ、狼トーテム崇拝から出発した小説はつぎに文明進化の過程を捏造する。中華民族の龍トーテムの起源は草原遊牧民族の狼トーテムであり、遊牧文化から農耕文化に変化したので、狼トーテムは龍トーテムに代わり、オオカミ気質はヒツジ気質に変わった。農耕民族は故郷・自給自足と閉鎖的保守にしがみつくが、遊牧民族はあちらこちら徘徊し、略奪し、拡張する。オオカミはヒツジの発明や想像を食い尽くすだけでなく、ヒツジの国と民族を滅ぼす。しかし、オオカミは満足せず、引き続き徘徊し、より進んだ文明を征服する。言い換えれば、残酷な生存競争の中で、オオカミは無敵だが、ヒツジは負ける。ちょうど『クールな狼――アメリカ西部開拓奇談』(中国国際広播出版社2004年10月)で宣伝しているように、「ある文明の勃興は普通は別の文明の滅亡という代償を払う」。
 しかし、『狼トーテム』の作者はなぜユーラシア大陸を席巻したモンゴル民族がヨーロッパにおいて長期安定帝国を作り出せなかったのか、なぜ中原における統治が80年しか続かなかったのか、説明していない。しかも、第2次大戦後、モンゴル民族というオオカミは2つの全体主義政権により真っ二つに分割され、半分はソ連の傀儡となり、半分は中共の属領となった。今日のモンゴル国はいまだ前近代的な低開発段階にある。一方、山海関を突き破った満洲族の創建した大清国が300年も存続し得たのは、満州族統治者が漢文化への同化を受け入れたからであった。
 作者はオオカミ族がヒツジ族に輸血するという神話を捏造する。小説の中で、テングリ(tegri, tenggeri、モンゴル語で天の意味)の父と草原大地の母が結ばれ、遊牧民族と農耕民族の兄弟が生まれた。遊牧民族が兄で、農耕民族が弟であったという。農耕民族がヒツジ気質に侵され軟弱になっていったとき、天の父テングリはオオカミ気質の遊牧民族を派遣し中原に攻め込ませ、ヒツジ化した農耕民族に輸血し、漢民族を度重なる敗北の中で奮起させた。軟弱なヒツジの弟が自らを救えなくなると、勇ましいオオカミの兄が中原を支配し、征服を通じて漢文明の血脈を保った。中国の歴史上、オオカミはヒツジに3回輸血した。一回目は秦の始皇帝の武力統一、二回目はチンギスハーンの中原蹂躙、三回目は八旗兵(満州族)の山海関突破であるという。
 作者は、ヒツジ気質がもたらした漢文明の本格的な衰退の開始は軍人を軽んじ文官を尊んだ宋朝からだという。しかし、実際には当時の歴史において、モンゴルオオカミの中原侵入は、野蛮による文明に対する蹂躙であり、中国の近代への転換のもっとも大きな可能性を中断させてしまったのだ。もしも、野蛮なモンゴル民族が中原を征服していなかったら、宋代の資本主義の萌芽は、大きく聳え立つ大木に育っていたかもしれない。歴史の事実は、オオカミ族は刀剣の力のみを信じ、自らを養うにたる文明を創造することができないばかりか、他の民族に進んだ文明を提供することもできないということだ。オオカミ民族のヒツジ民族武力征服は、殺戮・略奪・破壊と蔑視によってなされ、平和・建設・相互尊重をもたらすことは難しい。中国の歴史上、遊牧民族は生存のために中原に軍を進め、勝っても負けても、ほとんどの場合もたらされたものは農耕文明の破壊あるいは壊滅であり、つまり文明進歩の後戻りであった。
 中国と他の国あるいは民族との衝突の歴史を概観すると、近現代の中国と西洋との衝突の中にのみ、西洋列強の中国に対する本当の優越を見ることができる――科学技術の発達がもたらした軍艦と大砲、ヒューマニズム優位がもたらした自由である。一方、他の中原を武力征服したことのある民族あるいは国家は、モンゴル帝国や満洲帝国を築きはしたが、彼らのオオカミ気質がいかに激しくても、いかに残忍に噛み付いたとしても、いかに野蛮に略奪したとしても、いかに巨大な破壊を行ったとしても、蔑視がいかに理不尽であったとしても、これら異民族征服者には先進文明の蓄積がないので、最後の運命は、モンゴル帝国のように短命に終わるか、満洲帝国のように漢文化に同化されるかしかなかった。

4、オオカミ気質の大表出
 私が見たところ、『狼トーテム』は概念を図解する小説であり、人物描写は無味乾燥であり、言葉は粗雑で誇張されている。とりわけ、人物の対話は、説教くさくて少しも個性がなく、本当の審美的価値はない。この本がよく売れる原因は「オオカミ気質」の宣伝にこそある。
 『狼トーテム』の書き出しは、叙情的言語でオオカミ気質を賛美し、細かな筆致で残虐な本性と血なまぐさい熱狂を描写し、口の周りを血に染めたオオカミと、その牙(きば)は余すところなく表現されている。猟師が棍棒で一頭のオオカミの4本の牙をへし折ると、牙を折られたオオカミは「雪の上に倒れ、すすり続け、頭を上げて空に向かって必死に泣き叫んだ」。作者は続けて「オオカミの牙」に関する抒情詩を書く。「オオカミのもっとも凶暴で鋭利な武器は上下4本の牙である、もし牙がなければ、オオカミの持つ勇敢・大胆・賢明・狡猾・残忍・貪欲・傲慢・野心・大志・忍耐力・機敏・警戒心・体力・持久力など一切の品性・個性および悟性がすべてゼロになってしまうだろう」。『狼トーテム』の末尾では作中人物の議論のつぎのような結論が語られる。中華民族の祖先は遊牧民族であり農耕民族ではない。それに対応して、中華民族の最初のトーテムは「狼トーテム」であって「龍トーテム」ではない。つまり、「龍トーテム」は「狼トーテム」に起源をもつ。漢民族がオオカミを憎み、オオカミを罵り、オオカミを醜悪化し、オオカミを残忍邪悪な人の例えにするのは、漢民族の農耕文化が徐々に遊牧文化にとって代わり、中国人の体の中のオオカミ気質もそれにつれてヒツジ気質にとって代わられたためである。まさにこのようなオオカミからヒツジへの退化が、中国を列強のオオカミ気質の進攻の前に敗北させ、中華民族の近現代における後進性を招いた、というのだ。
 『狼トーテム』全体を概観すると、最初から最後までジャングルの掟(弱肉強食)に対する賛美に貫かれている。作者は世の中のすべての競争を野獣化して「人と人はオオカミ」の攻撃であり、戦争の勝敗の基準を全く是非善悪の判断を除外して「勝てば官軍」に野蛮化する。姜戎は言う「戦争の勝敗は、オオカミかヒツジかで決まる」。だから、勝ちたいと思ったらオオカミ気質を発揮して手段を選ばず、敵を窮地に追い詰めて勝利を得さえすれば、いかなる残忍・悪辣・陰険・裏切りも……すべて正当化される。一層重要なのは、このような勝利は勝利者にオオカミ気質による凱旋の中で最高の享楽――手段を選ばない殺戮を最高の芸術として観賞する機会――を与える。
 柳の下の二匹目のドジョウを狙った「オオカミ本」が宣伝する生存の道は、数年前のベストセラー『厚黒(面の皮厚く腹黒い)学』よりももっと恥知らず、『狼トーテム』よりももっと赤裸々で、抒情化された手段を選ばぬ残忍さに満ちている。
 中国映画出版社2004年10月出版の『狼の物語』には、「本書はオオカミに関する奇書であり、読者はこの本のすべての章、すべてのディテールから呼べば答えるオオカミの息吹を感じることができ、体中の毛細血管が百倍も広がり、血液が潮のように流れ出し、体中の神経末梢が緊張して命令を待ち、魂が風のように汚れを洗い清められるだろう」と書かれている。
 時事出版社2005年1月出版の『狼魂』の前書には、「オオカミの智慧と謀略は我々が永遠に学習すべき見本であり、オオカミの一連の行動の中から、我々は強者と智者の完璧な結合を見る。こうしたオオカミの謀略を学ぶことは、我々の市場競争において収獲大であろう。では、オオカミに見習わないとだめか?だめだ。なぜか?なぜなら、競争相手に優しくしていたら、相手から情け容赦なく食われてしまう。このことは無数の事実が証明しており、これからも絶え間なく証明され続けていくだろう」。
 地質出版社2004年8月出版の『狼』の言葉はもっとも直截的である。「勇気と理想を持ったオオカミは、生存と発展のために奮闘するすべての生命の手本となる。」「生存とは何か?生存とはつまり手段を選ばず生きることである。下劣でもいい、恥知らずでもいい、下品でもいい。この世界で生きていければそれでいいのだ。理想とは何か?理想とは生存よりももっと深い欲望である。」「草を食む者が慈しみがあるとは限らず、肉を食う者が残忍だとも限らない。おれはオオカミだ。おれはオオカミと運命付けられている。牙と爪の鋭いオオカミだ。鮮血と死亡がおれの命の源だ。おれが生きるためには誰かが死ななくてはならない。すべてのウシやヒツジが太陽の光を浴びて自由自在に食べたり飲んだりしているとき、それはおれが死んだことを意味する。」
 つまり、オオカミ気質とオオカミ文化が生存競争の唯一の法則としてロマン化され、残忍な野性・抒情的な凶暴・ロマンチックな悪辣と作為的な粗暴さが合わさって、「オオカミ気質の賛美」を形成している。
 われわれは、血に餓えた毛沢東時代に、内に向かっては残酷な闘争、外に対しては核戦争の準備を経験し、その二つがあいまって、中国人はオオカミの乳をたっぷりと飲んだ。そのころ、中国人は憎しみを吐き出すことを生存の動力とし、暴力闘争を崇高な理想を実現するための唯一の手段とみなし、強権の崇拝を最高レベルの美意識とみなした。
 今日、現実の「大国の勃興」がくすぐる虚栄心が「オオカミ気質の賛美」に再び火をつけた。国力の増大と大国外交の展開に伴い、毛沢東時代の「イギリスに追いつき、アメリカを抜き去る」の実現はあたかも目前である。そこで、中国人は「100年の恥辱を晴らせ」というスローガンを再び唱えだし、防御型の苦情申し立てから攻撃型の糾弾に転換した。中国の民族主義も虚構神話を持ち出す段階に入った。政権中枢からエリート集団さらに憤青にいたるまで、独裁大国の傲慢さが日増しにひどくなり、中華帝国復興の幻覚がひどくなり、ますます祝典のような言説に陶酔し狂喜している。対米・対日・対台湾の憎しみを吐き出すだけでなく、台湾の統一・ヨーロッパの超越・日本の征服を訴える。まずアメリカに対抗できる唯一のアジアのリーダーかつ世界大国を目指し、最終的にはアメリカを超越し、アメリカに戦勝して世界の覇者になろうとしている。そして、「核戦争」を恐れないという叫び声が再び高まっている。
 私が思うに、もしも『狼トーテム』の作者姜戎と共産党軍の少将朱成虎(ジュー・チョンフー、しゅ・せいこ)があいまみえたら、両者は意気投合するだろう。姜戎は小説の中で血に餓えたオオカミ気質を礼賛し、朱成虎は西側記者に向かってオオカミ気質を発散させて憎憎しげに警告した。「もし中国とアメリカが戦争を始めたら、中国は西安から東のすべての都市が壊滅させられる準備は出来ている。もちろん、そのときはアメリカ人も100或は200、あるいはそれ以上の都市が中国人によって廃墟にされることを覚悟しなければならない。」(2005年7月14日の発言)。
 このような「戦争狂」のおおっぴらなわめき声は、「オオカミ文化」と名づけるしかないだろう。
 姜戎はインタビューに答えて次のように呼びかけている。「狼トーテムも現代の精神トーテムにならなければならない」。たしかに、こんにちの中国の愛国憤青と自らの利益のみを追求する者たちの心の中では「狼トーテム」がすでに「龍トーテム」にとって代わった。
 「狼トーテム」崇拝は狭隘かつ狂信的な独裁民族主義の産物であり、それは人類の共同の価値を埋もれさせ、最低限の正義感や同情心を忘れさせ、自由と独裁・人道と非人道・善と悪・真と偽・文明と野蛮の間の実質的区別をあいまいにさせる。その唯一の感情は冷血と憎しみであり、その唯一の表現は悪罵の排泄であり、唯一の表情は野卑と獰猛(どうもう)である。
したがって、狼トーテムを崇拝する民族には救いはない!
2006年2月12日 北京の自宅にて(『争鳴』2006年3月号掲載)
原文:
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/
e/3b08063c8b7e57963e3392a8ba307f89

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。