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蘋果日報:アイ・ウェイウェイ(艾未未)出獄後初インタビュー

2011-08-03 19:01:06 | Weblog
評価日報:アイ・ウェイウェイ出獄後初インタビュー 「初志は変わらず、信念は衰えていいない」(2011年8月2日)

私の父親についてのもっとも深い印象は、父が入獄したことだ。獄中にあったとき、よく父を思い出し、自分の方が父より大変だと感じた。父が国民党の監獄に入った時二十歳すぎたばかりの若さだったが、私が共産党の監獄〔正式な監獄ではなく闇監獄〕に入った時は五十を過ぎていた。出獄した時には息子が私の顔を忘れているのではないかと私は心配した。君が投獄されたら、空がたちまち暗くなると感じ、しょっちゅう気分が変わり、いかなる楽観もできなくなるだろう。私はそれを入獄して初めて知った。まるで身の回りの酸素が突然なくなったようで、誰もが影響を受けないわけにはいかない。君は私が恐怖を感じたかと聞いたが、私は恐怖を感じたことを認める。あのような状況で恐怖を感じない人はいないだろう。君たちのような若い世代はこの種の恐怖を知らないが、私やその上の世代はいつもこの恐怖に付きまとわれてきた。私は以前、自分を、振り返ることのできない暗い洞窟の中を一人で歩いているようだと形容したことがある。君に私の弱点を教えよう。それは感情だ。感情の上で私は今までずっと脆弱な人間だった。--アイ・ウェイウェイ

草場地、fakeアトリエ、青草がそよいでいる。彼が戻ってきた。外国メディアが消息を聞いて駆けつけても、彼は中庭で「私は生活を楽しむことだけを考えている」と語るばかりだった。81日間の暗黒が、彼にそう慨嘆させた。彼を待ち続けた見知らぬ人々に対し、彼は心から感謝していると語った。私は銀行で彼と偶然会った。彼はたった一人で、古いTシャツ、太いズボン、サンダル姿だった。出獄当日理髪していた。以前のようににこにこして、透き通ったまなざしには、ずる賢さも混じっており、12キロ痩せてもまだ太っちょだ。私が「家に行ってもいいですか?」と聞くと、彼はすぐに同意して言った「携帯電話の番号は変わってないが、盗聴されている」。はたして私が彼を訪ねる前に秘密警察〔原文「国安」(国家安全部)、旧ソ連のKGB、旧東独のシュタージ、戦前日本の特高警察に相当する組織〕は訪問を知っていた。

「私の心配はこのまま声を失ってしまうことだった」
この数ヶ月間、あの暗緑色の門の前を通るたびに、悲憤と悔しさを感じてきた。その頃アイ・ウェイウェイは生死も明らかでなく、聞こえてくるうわさは根拠のないものばかりだった。極左派〔ウルトラナショナリストを指す、日本の政治地図では極右に相当〕はこれでもうアイが外に出てくる可能性はなくなったと見なし、公然と嘲笑し悪罵を浴びせた。中国の芸術界は誰もが自身の身を守るために沈黙した。さらには、アイの入獄は周到に計画されたもので、共産党が彼の名声を高めるために彼に手を貸したのだと見なして、水に落ちたアイに石を投げる者さえ現れた。より多くの人々は大声で叫んだり、じっと待ったり、楽観と悲観の間をさまよった。さらには新しい移民ブームまで巻き起こした。国の制度に徹底的に絶望し、一部の作家と外国籍の人々が急いで中国を離れた。私が毎晩通うフランス文化センターではフランス語を学ぶホワイトカラー達が「〔有名な〕アイ・ウェイウェイさえ捕まるんだから、〔無名の〕俺たちはどうなるんだ?」と心配していた。あの日、彼は空港でまるで拉致のように、頭巾をかぶせられ、手錠をされて、どこかに連れて行かれた(のちにその場所が密雲県だったということが分かった)。これは全く司法手続きを無視した手段であり、逮捕ではない。まして尋問や断罪なんてありえないだろう? 司法手続を無視した人々は強大な世論の下での〔正式逮捕できずに放免した〕この結果を、一体どう説明するのか? ほんとうに政府を冒涜したのは彼らだ。これはまさに恐ろしい不条理劇だ。今では当局も慎重になって、アイを「議論のある人」とだけ言っている。あの日彼を捕まえた人も、そのあとで彼を尋問した人も、芸術家が何かなんて分かっていない。アイが収監されたばかりの時、彼は「大胆不敵にも」自分の国際的な影響力は彼らに想像もつかず、劉暁波、胡佳、高智晟の3人を合わせたよりもっと大きい、と示唆したそうだ。すぐに想像がつくが、彼が獄中で受けた尋問は彼を政府転覆扇動の罪名を着せるための内容だった。それは前述の3人と同じだ。彼も以前語っていたが、やることは脅迫・拉致・失踪だけで、この〔統治〕集団には想像力がない。彼らは飛翔と自由の喜びを知らない。予想通り風雲が巻き起こり、彼が自由を失ってすぐに、国外の多くの政界・芸術界・民間団体がこの「失踪者」を探し始めた。だがアイ・ウェイウェイは、その時は孤立無援で外の動きを推測することしかできなかった。自由を奪われた人にとって、一日が過ぎるのが非常に長い。「外界との連絡が完全に断たれ、暗黒の中に身を置いていると、私は自分がこのまま声を失ってしまい、誰も私がどこにいるか知らず、永遠に知られずに終わることを心配した。私は一粒の大豆のように、地面に落ちて、どこかの隅の隙間に落ちて、声も立てられず、永遠にそこに閉じ込められそうだった」。彼は相手が強硬に出たら、長い刑期収監されるだろうと推測した。だが、もし獄中にあっても芸術はできる。考え付いたプランを外界に伝えて実施してもらうことができる。そうなれば、自分は監獄で作品のプランを作った最初の芸術家になる。この考えは彼を慰めた。「以前私は展示の現場に行きたくないとき、言い訳に飛行機に乗りたくないと言った。今でも理由が必要だろうか? 現場にいなくても思惟と意思は生み出すことができる--私にとってこれは一種の支えだ。困難は私にとって終わりではなく、新たな可能性の開始を意味してきた」。中庭は静かで、アトリエの若者たちはいつも通り仕事をしており、何匹かの可愛い猫が椅子を占領して休んでいた。奥さんの路青は以前と同じように美しくしとやかで、足にはペディキュアを塗っていた。家政婦はきれいに掃除をし、昼食の支度をしていた。時々客が来ると、声高のあいさつが二言三言聞こえてきた。

まるで何も起こらなかったようだ。あの数カ月の恐怖、心配、憶測、悲しみが、なかったかのように路青はにこにこと彼を見ている。この家庭が突然の災難に直面して見せた強靭さは人々の想像を超えている。彼が以前成都の警察に殴られたあとの開頭手術の傷跡は今でも分かり、足は無意識に揺れている。「出獄してから物覚えが悪くなった」。彼は自分の生命力を非常に気にしている。獄中の最初の日彼はよく眠れ、朝は警官に起こされた。彼は自身の状態に満足した。こんなに大きな事件が起きても眠れるというのは、彼の心理的耐性を証明している。ベッドはスチールのシングルベッド、ペラペラのベッドパッド。彼は自分の体重でベッドの金属枠を体感することができた。アイ・ウェイウェイは苦労したことがある。彼は子供時代、〔父が〕流刑された新疆の窯洞〔土を掘りぬいた家〕で寝たことがあり、青年時代にはニューヨークの地下室で寝たことがあり、陳情した時にはゲストハウスの板ベッドに寝たことがある。彼はかつて自由を奪われた人のために叫んだが、今は運命が彼により深い体験の機会を与えている。だが、傍らで人に監視し続けられるのは初めてだった。「二人の若い青年、19歳で、彼らはすごく眠いのに、何の罪があって眠らせてもらえないんだ? 収監された自分は『罪状』について考え、刑期を予想することもできるが、彼らは何を考えればいいんだ?」。

「芸術家って何だ?」と彼らは聞いた
彼は今でも人々を愛している。彼は自由を愛するゆえに個人を愛する。体制とは長年対立してきたが、個人に対して悪意を持ったことはない。たとえ四川省で暴行を受けても、個人に対しては怒りを抑えて相手を尊重する話し方をした。アトリエの外の中庭で監視している秘密警察に対しても、彼は同情を寄せる。「酷暑の日に、彼らも大変だ。インターネットが発達した今、こんなに古いやり方にどんな意義があるんだ?」。彼が拷問を受けているという噂話が流れていたとき、彼の家族は気が狂うほど心配していたことを、彼は出獄してはじめて知った。45日目に、警察が路青との面会を認めたとき、彼は拒絶しようかとすら考えた。「すべてがあいまいな状況下で、私は彼女に何を話せばいいのか分からなかった」。「81日間の拘禁中に、52回の尋問があった。毎日6時半に起きて、尋問はふつう午前1回、午後1回、毎回の尋問には二人の警官が付いた。彼らは世間話風に私に話しかけた」。彼は以前、もしいつか逮捕されたら、沈黙で対抗すると言っていた。なぜなら、彼はこの国の司法を全く認めないからだ。だが入獄してから考えを変えた〔中国法では黙秘権は認められていないが、権力に拘禁された場では完黙が最良の(普通の人にとっては唯一の)手段だと訳者は考える〕。「私は何でも話せると思った。もともとこれは司法手続きではないし、尋問などとは言えない。こういう近い交流もいい方法かもしれない。私はこの国の個人を信じる。彼らも人間で、感情があり、判断力もある」。彼らはまったく彼を理解していなかった。「芸術家って何だ?」と聞いてきた。「彼らは私のことをせいぜいが芸術従事者だと言い、作品をこんなに高い金額で売るのは詐欺じゃないかと聞いてきた」。彼の温和・誠実さらには善意が、尋問をだんだんと難しくしていった。どんな罪を着せるか? どうしたらこういう人間に対して罪を並べ立てることができるか? 最後には彼らは炸醤麺の醤は黄麺醤がいいか鶏蛋醤の方がうまいかという議論をしていた。獄中で、彼は自分の下着や靴下を洗ったが、禁固の下でのこれら最小限の日常活動が彼の幸福な時間となった。三日目に、彼はシャワーを浴びることを許された。「シャワーを浴びれるなんて嬉しいじゃないか。人はどんな環境のもとでも渇望し、あこがれ続けるものだ。私だけじゃなく、私を見張っていた兵隊たちだって、信念と渇望が途切れたことはない」。「私は今でも希望を抱いている。その希望はこの国の個人に寄せている。社会が大勢の個人で成り立っていることが私の信念をゆるぎないものにしている」。賑やかな昼食時、アトリエの若者たちはテーブルに並んだご飯と料理を食べつくした。太っちょは立ちあがって皿に残ったご飯を食べ終わると、体をゆすりながら中庭に出て、手に持った共産党創立90周年の記念パンフレットを開いて笑って言った「ここに書かれたどれ一つとして彼らは実現していない」。彼は本来ここにいるはずがない。もしこういう〔軟禁に近い〕状況でなければ、彼はきっと温州の高速鉄道事故の現場に行って、以前と同様に、質問し、問い詰め、死者の名簿を作り、彼らに代わって政府に尊厳の回復を求めているだろう。彼は今回のメディアと民衆の高速鉄道事故に対する抗議の声に慰めを感じている。彼は何年も前にモデルを作った。1、生命の価値、2、個人は何ができるか?

「今は元気だ。傷の痛みは忘れた」
六年前に彼を訪問した時私はまだ若かった。私は彼に大切にしているものは何かと聞いた。彼は辛抱強く答えた「たくさんあるよ。一人の人、一輪の花、一枚の紙、一本の髪の毛」。一年前私は彼に怖いものは何かと聞いた。彼は「遠くまで行きすぎて戻れなくなることだ」と答えた。デブの目は湿っていた。こういう人は自由を愛し、未来を愛している。彼は彼が形容したように生活を享受する権利がある。「私は行かない、どこにも行かない。私と私の家族の生命の危険が生じない限り私は出国しない。私は獄中で、やつらが私にこんな扱いができるのは、私が外国パスポートを持っていないからだろうと思った。だが、いまは傷も治って痛みも忘れた。人には修復能力がある。私は出獄したら出国したくなくなった。見続けるんだ、この国の変化を」。彼は全体主義のやりかたについて間違った判断をしたことがない。だが、楽観的な信念を失ったこともない。彼は珍しく自分を皮肉った「私にはいつも錯覚がある。たぶん私の間違った判断が一連の間違いを生み、今の状況に至ったんじゃないだろうか」。だが彼は自分が変わらないだろうと信じている。彼はノーベル賞作家のヘルタ・ミュラーを尊敬している。彼女は今でも様々な場所で全体主義(Totalitarianism)について語り続けている。「彼女は亡くなった人々のために話をする。彼らは、誰にも注目されず、誰も彼らの声を聞かない。だから私たちが彼らの声を伝えなければならない」。若者がネット上で彼に、自分の世代の人生の選択について聞いた。彼は正直に言った「君たちがここで彼ら〔共産党政権〕と闘い続けなければならない理由はない。もし条件があれば、出国すればいい。少なくともこの世の中に別の生活があることを知ることができる。何が良いのかを知って初めて、君と君の同胞の境遇を理解することができる」。

後記:アイ・ウェイウェイは今安静にしていなければならないので、私は彼の獄中での出来事について多くは書けなかった。彼はいつも若者の「年上の友人」だ。理性的、寛容で、有名な芸術家という地位にあっても人を見下したことはなく、人を煽動したこともない。彼が怒りっぽいと思い込んでいる人は多いが、彼は個人と向かい合うときは最大限の温和さと忍耐で接する。この太っちょは柔軟でユーモアがある。彼は出獄後、彼が獄中にあるとき、外でだれが彼を傷つけ、誹謗したかを知ったが、全て許し、彼らを憐れんだ。あのような暗黒の時を経験してもなお、彼は耀いている。(鞠白玉記者)

アイ・ウェイウェイ経歴

54歳、北京生まれ。学歴:1978年北京映画学院入学。1981年渡米。ニューヨークのパーソンデザインスクールで学んだ。2010年ベルギーゲント大学から社会学部名誉博士学位を授与された。父艾青と母高瑛はどちらも詩人。1958年アイ・ウェイウェイが1歳の時両親は中共の反右派闘争で新疆に流刑となった。1975年になってやっと北京に戻れた。妻の路青は画家で、アイ・ウェイウェイが脱税の疑いをかけられているアトリエ「フェイク公司」の代表者である。1994年から1999年まで中国の前衛芸術雑誌『黒書』、『白書』、『灰書』の編集長。2003年から2008年まで北京オリンピック委員会メイン会場「鳥の巣」の設計芸術顧問。2007年の作品『童話』は1001脚の椅子で自由の到来の待望を表現し、1001人の中国人をドイツに招待してカッセル・ドキュメンタに参加。2010年イギリスの雑誌『アートレビュー』の「現代芸術界で最も影響力のある100人」の第13位に選ばれる。2011年3月焼き物で作った一億個を超える『ヒマワリの種』がイギリスで三十五万ポンド(約440万香港ドル)で売れた。2011年4月アイ・ウェイウェイと4人の裸婦の写真「一虎八乳図」を発表し、メディアによって中共の官僚と商人の癒着、農民工〔出稼ぎ農民〕軽視など今の中国芸術データベース芸術総監督に対する風刺と解釈された。2008年12月から2010年3月まで汶川〔四川〕大地震市民調査を組織し、5212人の死亡学童・生徒名簿を作成。2009年8月成都に行って人権活動家譚作人のために法廷証言しようとしたが、警察に殴られ拘禁された。2010年2月、20数名の芸術家と横断幕を掲げて北京の長安街をデモ行進し、芸術エリアの強制収用に抗議し、警察と衝突。2010年11月上海の馬陸のアトリエが強制収用されることになり、アイ・ウェイウェイは千人に呼びかけて河蟹宴〔中共のスローガン「和諧」(調和の意)と同音の風刺〕を開催しようとしたが、沿海前に当局により軟禁された。(出典:『蘋果』資料室)

アイ・ウェイウェイの今回の拘束の経緯
4月3日香港に向かう際に北京空港で出入国係員に連れ去られ、住所とアトリエが家宅捜索を受け、妻と8名の職員が連れ去られて尋問された。4月7日新華社はアイ・ウェイウェイが経済犯罪に関与して当局の捜査を受けていると報道。4月9日新華社はネット上の情報を引用してアイ・ウェイウェイが脱税と他人の芸術作品の剽窃を行ったと報道。4月11日アイ・ウェイウェイを支援する落書きが香港に出現、警察は重大事件として捜査。その後香港では何度もアイ・ウェイウェイ支援デモが行われた。4月18日全世界37都市の民衆が中国大使館に抗議し、アイ・ウェイウェイの釈放を要求。5月10日アイ拉致38日目、刑事拘留期限(逮捕状なしで警察判断で拘束できる期間)を超過。5月15日アイと妻が15分間の面会。事件について語ることは禁止された。5月20日アイ拘禁48日目、新華社は北京市公安機関の話として、アイのアトリエ「フェイク公司」が脱税と会計証憑の隠滅等の行ったと報道。6月11日路青が再び〔1回目について言及なし〕公安部に対しアイと従業員の「失踪」事件の捜査を要求したが、回答を得られず。6月22日アイ拘禁81日目当局は〔中国法上の「逮捕」をしてないのに〕「保釈」名義で釈放。6月27日北京市税務局がアイに対し1200万元以上の追徴税と罰金を指示。7月14日路青が北京市税務局に公聴会を公開で〔!〕行うよう要求したが果たせず、また会社の財務資料の返還も認められなかった〔当局による証拠隠匿〕。7月15日アイはメディアに対して罪を認めたという情報を否定し、逮捕されたことも起訴されたこともないことを明らかにした。

出典:http://fatzone.org/news1/apple/art_main.php?iss_id=20110802&art_id=15485780

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