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秦暉:多民族国家の多元化と一体化の道:インドとユーゴスラビアの比較

2011-02-02 17:50:11 | 中国異論派選訳
訳者注:冒頭で筆者はインドを例に「民族への帰属意識を希薄化」を言っているが、これは民族主義的意識の希薄化ととらえるべきであり、中国政府が東トルキスタンとチベットで進めている言語や伝統習慣、宗教の継承を否定する「民族文化の希薄化」ないし「文化ジェノサイド」とは次元が異なる。(4月30日追記)


出典:南方都市報 評論週刊
掲載日:2010-7-11

 世の中に一元化された事物などないが、もし本当に多元化しようとすれば、多民族国家においては「左右の多元化」こそが最も民族への帰属意識を希薄化する多元化であり、それゆえ、民族和解の促進と国家統一にとって有利である。多民族連邦と政治体制の関係の上で、左右の多元化を承認するインドは国家への帰属意識がますます強固になる一方、左右の多元化を許さず民族への帰属意識の多元化を強調したユーゴスラビアは解体してしまった。これは示唆に富んでいないだろうか?

 多民族連邦と政治体制の関係の上で、インドとユーゴスラビアは非常に興味深い比較対象である。この二つの国は民族、宗教、言語、文化の構成はいずれも非常に複雑である。しかも一つの共通の特徴がある。それは著しく優勢な「主体民族」がないということだ。中国の漢族は90%以上を占めるが、この2カ国にはそのような主体民族はおらず、しかも歴史上ずっと統一国家に対する帰属意識がなかった。近代になって、外部世界、とりわけ外部列強の大きな影響を受けた。インドは英領植民地だったし、ユーゴスラビアはかつてオスマン帝国とオーストリア・ハンガリー帝国の領地だった。この二つの国は建国後どちらも連邦制を採用した。興味深いのはこの二つの国が国際的にも非常に似た歩みをしてきたことだ。どちらも米国にもソ連にも頼らないと表明し、どちらも非同盟運動の創立メンバーであり、ネルーとチトーは非同盟運動の代表的人物とみなされている。

 両国とも連邦制だったが、ユーゴスラビアが行ったのはレーニン式の連邦制であり、インドは立憲民主制の連邦制だった。数十年がたって、両国の結果は周知のとおりだ。インドはもちろん問題は多いが、国家への帰属意識はずっと強まり続け、いまではすでに新興のブリックス諸国の一員である。一方ユーゴスラビアはチトー時代に輝いていたこともあったが、チトー後は次第に混乱を深め、1990年代には解体に向かった。

 この二つの国について、多くの人が誤解をしている。インドに対する最大の誤解は、その立憲民主制のゆえに、国内は大混乱しており、とりわけ民族問題、宗教問題は解決されていないというものだ。しかし、他はともかく、今のインドと民主化前のインドとを比べたら、さらには現在のインドと周辺のあまり民主的でない隣国、つまりパキスタン、バングラデシュ、ネパール、スリランカとを比べたら、これらの国の民族、文化構成はインドより簡単なのに、国家への帰属意識と政治的安定の欠如はインドより深刻である。いま人々は、インドの民族矛盾、宗教矛盾は非常に複雑だというが、インドは中国とは違う。中国は歴史上大部分の時期が統一されていたが、インドはグプタ朝解体後は地元住民が建てた統一国家はなかった。だから民主制の下で統一国家がすでに70年間存在し続けているということは、インドの1000年余りの歴史の中では空前の偉大な奇跡なのだ。

 ユーゴスラビアについても二つの大きな誤解がある。一つは通常チトーの社会主義モデルはソ連より開明的であり、より緩やかだったから、民族問題についても異端であったと我々が思い込んでいることだ。しかし私が思うに、チトーは多くの問題について独創的であったが、民族問題についてはむしろ非常にレーニン主義的だった。

ユーゴスラビアのレーニン主義連邦

 ユーゴスラビアが依拠したのはレーニン主義の民族理論だった。この理論の要点は、それが各民族が一律平等であり、大民族と小民族がどちらも等しい発言権を持たなければならないと主張する点だ。しかし注意してほしいのは、この同等の発言権は必ず各民族の共産党員によって表明されなければならないということだ。つまり各民族の共産党員に発言権があるのであって、どの民族であれ非共産党員には誰にも発言権がないのだ。彼は民族平等を承認したが、左右の平等は決して認めなかった。言いかえれば決して階級の平等を認めなかった。チトーは各民族の中では独裁、いわゆるプロレタリア独裁を行い、どの民族の中でも一部の人々を弾圧し、一部の人々を盛りたてた。しかもその手段はいずれも非民主的だった。

 各民族の中に分岐が生じるということが、多民族国家が存在するための一つの重要な条件である。多民族国家の中の各民族がそれぞれ一元化されるというのは良いことではない。各民族の中に分岐が生じるというのは実は正常な現象である。例えば米国では、白人と黒人のどちらも中で共和党と民主党に分かれている。これは人種矛盾希薄化の非常に重要な前提である。しかし、レーニン式の民族理論は一部の人々が別の人々を鎮圧するという手段でこの分岐を消滅させた。

 スターリンと反目してから、西側の支援を受けるために、また国内の支持を得るために、チトーは自治社会主義という大きな独創を行った。これは多くの面でソ連より自由で緩やかだったが、一つだけ変わらなかったことがある。それは彼よりも右の人の存在を認めず、また彼よりも左の人の存在も認めなかったことだ。

 しかしこの左右の多元化を認めない国家が、民族の多元化は喜んで主張した。チトーは彼よりも左や彼よりも右は容認しなかったが、エスニック・グループの多元化には極めて寛容であり、奨励していたとさえいえる。彼は非セルビア各民族が帰属意識を保持することを許しただけでなく、セルビアさえいくつかの部分に分け、多くの共和国と自治州を作った。しかしその前提はこれらの共和国が皆ユーゴスラビア共産主義者同盟の独裁を受け入れることであり、全ての共和国で左右の分岐を認めなかった。しかし同時に、チトーは非常に強く民族の平等を主張し、各共和国の共産主義者同盟がそれぞれの民族的特徴を持つべきだと主張した。一方で、各共和国共産主義者同盟が政治的個性を持つことは許さなかった。彼より右や左であることは許さないが、民族的個性を持つことは許した。例えば彼はボスニア・ヘルツェゴビナのムスリムがセルビアに同化しないよう働きかけたが、それは非常に奇妙なことだ。共産主義者同盟は無神論者の政党であるにもかかわらず、共産主義者同盟がムスリム人という名の民族を作ったというのは、非常に興味深い現象である。

 結果、ユーゴスラビア連邦全体が多党制国家のようだという人もいた。各共和国の共産主義者同盟にそれぞれ特徴があり、8つの党のようだった。だが、この8つの党は西側の多党制と同じではない。この8つの党には左右の違いはなく、あるのはエスニック・グループの違いである。この多党制がユーゴスラビアの分裂をもたらしたという人がいる。世界中の左右に分かれた多党制国家が統一を維持しているのに、この「エスニック・グループ多党制」のゆえに、ユーゴスラビアが分裂したことを我々は知っておく必要がある。

 チトー自身は終身大統領で、1945年から死ぬまで権力を握り続けた。しかし、チトーは生前に、彼の死後ユーゴスラビアは各民族平等の集団指導を実施するよう求めた。ユーゴスラビア連邦大統領評議会議長、ユーゴスラビアの党すなわちユーゴスラビア共産主義者同盟の議長は、必ず8つの共産主義者同盟が持ち回りで担当しなければならなかった。しかし、毎回の持ち回りは民主選挙によるものではなく、党組織が全民族平等という民族平等の枠組みを演出したのだった。左右両派の政党の政権交代は一般に国家の統合力に影響しないが、ユーゴスラビアのこの種の各民族持ち回り制度は、最終的に連邦の分解を招いただけでなく、各エスニック・グループが互いに敵対することとなった。

インドの立憲民主連邦

 インドも連邦だが、この連邦の構成原理はユーゴスラビアとは逆だ。インドの人種・民族・言語・宗教・文化の複雑さは、ユーゴスラビアをはるかに上回り、国家への帰属意識の基礎はユーゴスラビアよりさらに薄弱である。しかも優位民族、主体民族の不在という点では、ユーゴスラビアよりも顕著である。ユーゴスラビアはとにもかくにもセルビア人がいたが、インド、パキスタンには、「ヒンディー人」とか「ウルドゥー人」がいるわけではなく、そういう言葉を話す人々がいるに過ぎず、同じ言葉を話す人々にも様々な民族がいる。

 私たちは今インドには人種矛盾、人種対立があると思っているが、実はインドは建国当初が最も恐ろしかった。印パ分離独立のとき100万人以上の死者が出た。インドの歴代の指導者はほとんどがそれが原因で非業の死を遂げている。ネルーとシャストリが病死だったほかは、3人のガンジーはいずれも民族ないし宗教過激派に暗殺されている。しかし70年の間に、インドの国家への帰属意識は次第に堅固になっている。民族対立はあるが、強まるのではなく、次第に弱まっていると言える。

 インドとユーゴスラビアが逆なのは、インドは初めから立憲民主制を基礎とする左右分岐の多党制を構築し、すべての主要政党が民族を超えて組織されていることである。政党は民族で分かれているのではなく、政見で分かれている。左派もいれば右派もいて、たとえ実際には政党に固定したエスニック・グループの基礎があるにしても、特定の政党がより多く特定のエスニック・グループの支持を集めているに過ぎない。

 ここでインド共産党マルクス主義派について分析してみよう。インド共産党マルクス主義派の投票者はおもにふたつのエスニック・グループに集中している。ベンガル人とマラヤラム人だ。彼らは西ベンガル州とケララ州(マラヤラム人が主)でそれぞれ32年と25年にわたって政権を握っており、ベンガル人が多いトリプラ州でも長く政権を担っている。しかし、この3つの「赤い州」を除けば、他の州ではほとんど影響力がない。2009年の選挙を例にとれば、この年インド国会下院でこの党が獲得した16議席のうち1議席を除いてすべてこの3州のものだった。全インドの各州議会の中でインド共産党マルクス主義派は293議席を有するが、3つの赤い州で275議席を占め、他の32の州と連邦直轄地域では全部合わせて18議席に過ぎない。

 これと同じように、マハラシュトラ州、ハリヤナ州などは昔から国民会議派の天下だし、グジャラート州は人民党が長期にわたって優位にある。もしこれらの政党が民族への帰属意識をよりどころとしていたら、彼らが長期にわたって統治してきた州はとっくの昔にインドから分離しているだろう。しかし、インドの政党はみな民族性ではなく制度理念をよりどころとしている。だから我々は非常に興味深い現象を見ることができる。インド共産党マルクス主義派は「赤い三州」以外での影響力は非常に小さいが、党中央はずっとデリーに置かれている。党の理想は全国の多数の支持を得て、赤い州での政策実践を全国に広げ、インドに社会主義を実現することであり、西ベンガルの独立とかケララの独立を目指しているわけではない。

 印パ分離独立後、東西二つのベンガルには独立感情があり、ベンガルの東側は結局本当に独立してバングラデシュになった〔時系列としてはパキスタンになってその後パキスタンから独立〕。ベンガル西部にも独立思潮がなかったわけではないが、長期間統治してきたインド共産党マルクス主義派はあいにく民族主義に強く反対する政党であり、党を立憲民主体制の下における全インド左翼反対派の代表であり、ベンガル人の代表ではないと位置付けていた。党はベンガル人の代表としてではなく、全インドの貧しい人の代表として発言しようとしており、自己をインドのプロレタリアートと貧農の代表と定義している。インド共産党マルクス主義派の大部分の党員、支持者、国会議員、州議会議員はベンガル人であるが、党の創立から今日まで、歴代の書記長には一人もベンガル人がいない。

 今日のインドは何によって国を結束させているのだろう? ヒンズー教ではない。歴史的に「ヒンズー教があるだけでインドという国はない」と言われてきた。ヒンズー教は文化的帰属意識を築くことはできるが、国家への帰属意識を築くのは困難だ。今日インドの各民族はどんな問題について意見の一致をみるだろう? 彼らはたとえ全ての問題について意見の一致を得られなくても、少なくとも一つの問題については意見を一致させることができる。それはつまりインドは立憲民主制の国家であるべきであり、どの民族であれ、また左派であれ右派であれ、全インドを統治しようとするのであれば、この原則を守らなければならないということだ。

 インドという国は矛盾が大きい。インド共産党マルクス主義派が統治する西ベンガル州と中央政府の間にも深刻な矛盾があり、かつて何度か暴力事件が起こり、緊急事態に陥った。しかし、それらの矛盾はインド国民の間の左右の衝突であり、たとえ内戦になったとしても、それは敵味方どちらも一つの中国を承認していた国共内戦のようなものだ。それはベンガル人とどれか他の民族との衝突ではなかった。今日のデリーの統治者もインド共産党マルクス主義派を彼らの競争相手とみなしており、インド共産党マルクス主義派の勢力をどうやって抑え込もうかといつも思案しているが、彼らも西ベンガル州が独立するなどとは心配していない。しかも、インド共産党マルクス主義派の30年の統治の間に、西ベンガル州の民族融合とベンガル人のインド意識ないし国家への帰属意識は、明らかに強まってきたことを私たちは知っている。

本当の民族平等には民主化が必要だ

 本当の民族平等は民主主義の条件下で初めて実現される。米国ではずいぶん前から黒人の官吏、さらには高官までがいたことを誰もが知っている。ライス前国務長官、パウエル元統合参謀本部議長は黒人だった。だが人種関係を研究している人はこれが人種平等のブレークスルーだとはみなさない。理由は簡単だ。国務長官であれ統合参謀本部議長であれ、どちらも任命される役職だ。大統領が黒人を任命することは大統領の開明度を物語るに過ぎず、白人の開明度を反映したものではない。実はこれはユーゴスラビアでチトーが各民族が順番に就任するよう定めたことに等しい。それはチトーの開明度を物語るものであって、セルビア人の開明度ではない。もちろんチトーはセルビア人ではなくクロアチア人だが、それでもクロアチア人の開明度を示すものでもない。他の民族もこのことでセルビア人やクロアチア人に感謝するはずはない。

 米国やインドのような国では、数年に一度の選挙は民族大融合の洗礼である。毎回の選挙で全ての政党はそれぞれの中でさまざまな人種、さまざまな民族のメンバーが大団結をしなければならない。大団結しなければ選挙に勝てないのだ。

 私は階級分岐を認めてもいいと思う。階級には矛盾も闘争もあり得るし、それを基礎に左派と右派が存在し得る。しかし、左右両派は互いに殺し合う必要はない。ユーゴスラビアはレーニン主義の民族理論に基づき国家を作った。本来この理論は全くとるべきところがないわけではない。例えば、階級矛盾によって民族矛盾に「代替」させるというのは非常に賢明だと思う。しかも実は西側もインドも、階級矛盾で民族矛盾を薄め、左右の分岐によって民族分岐を取り除いている。これは非常に賢明と言うべきだ。しかし本来この賢明さは階級矛盾が比較的妥協、協力しやすいし、実際比較的容易に妥協が実現するからだ。比べて見れば、労使協力は「アラブ・イスラエル協力」よりもはるかに簡単だし、労働組合と経営者団体が妥結するのはユダヤ教徒とムスリムが合意に達するよりはるかに簡単ではないだろうか? しかしレーニン主義体制の本当の問題は、それが本来容易に妥協や協力しうる矛盾を人為的に激化させ命がけの非和解の矛盾にさせたことだ。この理論は利益関係の上では労使対立を意図的に「アラブ・イスラエル対立」に激化させ、イデオロギー問題の上ではまるでかつての宗教戦争における「キリスト教のムスリムに対する勝利」のように「ブルジョア思想」を弾圧する。その結果、どの民族にも被害者が出て、どの民族にも不満がたまる。しかし、民族矛盾が存在する状況下では、その種の不満は容易に他の民族〔への憎しみ〕に転嫁される。そこでこのようにすればするほどその国は分離傾向が強まる。

 階級の分岐もしくは左右の分岐が、一般的には国家を分裂させないのはなぜだろう?

 左右の分岐と階級の分岐は可変だ。左派に投票した人は次の選挙では心変わりして、右派に投票するかもしれない。しかし、ある民族の人は他の民族に変わることはできない。この帰属意識は固定している。一つの少数党がもしその政治理念に自信を持っていれば、たとえば社会主義を信じていたら、今少数派であっても、将来は多数派になるだろうと信じることができる。しかし、少数民族だったら、将来多数民族になるだろうと信じることができるだろうか? 独立するのでなければ不可能だ。だから、もしその国の政治を民族で分岐させたら、大きな問題になる。

 第二に、左派、中間派、右派の分岐は理性に基づいており、論理で説得でき、みんなの実益とリンクさせることができる。例えば私が左派なら、私は福祉国家を主張し、福祉国家が国民にさまざまな保障を提供することができると主張する。私が右派であれば、私は自由競争を主張し、福祉国家の欠点を上げて、自由競争は経済の活力を高めるなどと主張する。これらの主張は、理性的な分析を行うことができる。左派にも右派にもそれぞれ長短があり、その長短も容易に説明できる。しかし、異なる民族への帰属意識をどう説明できるだろう? 民族への帰属意識は結局のところ、はっきり言って一種の感情であり、ちょうど私が母親を愛するようなものだ。それは私の母親が他の母親よりきれいで、金持ちで、聡明で、有能だからだろうか? もちろん違う。彼女が私の母親だからだ。私が他人に自分の母親がいかに偉大であるかを説明して、他人にも彼女を自分の母親と認めさせることができるだろうか? できっこない。

 世の中に一元化された事物などないが、もし本当に多元化しようとすれば、多民族国家においては「左右の多元化」こそが最も民族への帰属意識を希薄化しうる多元化であり、それゆえ民族和解の促進と国家統一にとって有利である。左右の多元化を認めるインドの国家への帰属意識はますます強固になっている一方、左右の多元化を認めず民族への帰属意識の多元化を強調したユーゴスラビアが解体してしまったことは、示唆に富んでいないだろうか?

  実習生 孫俊彬 南方都市報記者 方謙華 撮影

原文出典:http://www.chinaelections.org/NewsInfo.asp?NewsID=181761

(転載自由、要出典明記)