玄徳道

道を語るブログです。

坐息道

2023-11-06 18:53:00 | 坐道
坐と言うのは、この息を運化する。

運んで化する。

この息を真坐息と呼ぶ。

しかし、この息は、非常に難しい。

我々が息といえば、それは呼吸である。

呼吸とは、肺により連動し、空気の恩恵を受け入れて、不用なものを排出する。

はあはあ、スウスウ、して、音が聞こえるのは、本当の呼吸では、ございません。

動物も植物も呼吸します。

そして、植物の呼吸とは、聞こえない。

けれども、植物が呼吸しているのは、水の中に入ればすぐ解ります。

水の中に植物を入れると泡が出ます。酸素、また、二酸化炭素を吸収して、排斥している事実が、あるからです。

人の呼吸も、坐すると、今の呼吸から離れます。

口で呼吸しない。鼻で呼吸しない。

当然に、最初は、口と鼻を使って呼吸しますが、坐に深く根ざすと、呼吸を忘れて、呼吸がだんだん細くなり、呼吸しているが、わからなくなる。

そうすると、身体全体の細胞が勝手に、自然と呼吸しだします。

これを胎息と申します。

ここで、述べる、胎息と言うのは、特別な呼吸ではありません。

なんせ胎息は、全ての人間が経験しているからです。

生まれる以前、母の胎内に存在する時に、口や鼻で呼吸せずに、身体全体で呼吸していました。

オギャと生まれ、外に出た赤子は、即座に肺による呼吸に変わり、泣き叫びますが、胎息とは、人ならば、元に還り、出来る呼吸なのでございます。

人は知識を増やし、欲が増えて!留まる所を知りません。

自己の存在が滅びるまで、その探究心は止みません。

しかし、一度でも、胎息となり、生まれる以前の自分自神をしれば、この世の価値観とは、脆く、滅びへと向かってると、感じることでございます。

多くの人は、オギャーと生まれて、腹が減った、人の世の雑音の不快感、お尻に不快感、お母さん、かまって〜よ、お父さん、ウザい、などと、欲望に目覚め、それにより、生まれる以前の価値観を忘れてしまいます。

坐とは、生まれ以前の己を知ることが出来るのでございます。。。

古の道家は、「人間は、鼻で呼吸するが、神仙は、足の裏で呼吸する」と。

それは、嘘偽りでは無いのでございます。




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