玄徳道

道を語るブログです。

永遠なる瞑想道

2020-01-26 17:15:54 | 坐道
へ。瞑想とは、黙って座り、自己を見出だす。そこに、神無く、グル無く、自然に孤独に、唯一無二の吾あるのみ。

ははは、音楽を聴き、瞑想する。やれやれだ。それは、瞑想では無い。それは、好む音楽を聞いてリラックスしているだけ。
好きな、音楽に、囚われて、好んだ世界感により、マスターベイションして気持ちが良いだけの世界。

何せ、瞑想とは、気持ち良くなる世界感では無いから。

瞑想とは自らの発露を知覚し、因果を悟り、自らの神を覚え、生誕した、吾を
貫く、道標なのであるから。

やれやれだ。視覚に光を点滅させ、意識をそれにより、瞑想させるだと、それは、瞑想では無い。視覚により、脳内が混乱しているだけだ。故に妄想の幅が広がり、姿形無き神を妄想し、それを神と捉え、得意となり、三次元と二次元の世界を曖昧とする。


何度でも言う。瞑想とは、音に、囚われず、色光に、囚われず、只、黙って座る。

そして、瞑想により、躁鬱なる精神的な病気を得るは、それは、瞑想では無い。

瞑想とは、孤独であるが、自然なる地球の呼吸と一体となり、免疫力を倍加する。故に、真鳴る瞑想者は病を知らない。

瞑想最大の弊害は、グルの存在である。
瞑想者には、絶対導師の教えを守らなければならない。言う。

笑止。嘗てオウム真理教のグルに、従った人は、人を殺した。サリンを蒔いた。

人は元より愚か。過去未来現在ですら、騙されている。

瞑想とは初心者案内してくださる人と縁が在れば有り難し。

何せ、瞑想とは常に意識は自己に向けるにある。そして、瞑想の師に従う輩は、永遠の追従者であり、永遠の盲信者、グルの永遠の奴隷者。そこに価値を見出だす、魂の擦り切れる、淘汰者。何れ、何の悟りを神覚を知らずに朽ち果ててしまうのみ。


やれやれだ。導師に依存する瞑想をすれば摩るほど、魂は磨り減る。

それでも、人は依存する。

吾が師老祖が述べる、先天坐とは、簡単。ただ、何も望まず、黙って座れば善いだけである。

ただ、日常の努力として、一日十六分の時間を割くだけ、費用と師は、不要なのである。


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やれやれだ。ぜ、道。3

2020-01-25 18:00:26 | 人倫
振り返れば、人の苦しみとは何なのであろうか。

苦しみ痛み、苦悩を慶び、艱難辛苦を我に与えたまえと、自己を研鑽、研磨する礎とされ大切とする、人は少ない。

なんせ、人とは、欲望の権化。我が一族、恋人のみの幸せが大切であり、見栄や地位や、お金、学歴が大切であると考える種族。

ははは、人は自らを苦しめる。

地位や名誉金や官位があろうとも、人は幸せにならない。

人が幸せに成らない理由とは、抑圧あるのみ。

それは、貧乏、男女の関係、苦しい病、借金や、人間関係、学歴、職歴、無限に広がる苦悩。

苦しみからの解放の為に、人が進める宗教やスピリチュアル、社会福祉、禅や神社参りをしようとも、苦しむが人。

苦しみからの解放の為に、瞑想しようがさらに迷走する。瞑想を苦悩からの脱却の扱えば、自殺者が増すばかり。

やいやい、苦しみからの解放を求めれば、それは、放棄あるのみ。

単純で簡単。全てを棄てれば良い。

されど、愛する人、家族、親族、友、恋人を持つ者、簡単には放棄出来ない。

では、どうすれば良い。

死ね。自己の意念を殺せ、自己の死、それを鶴鳴とせよ。自己が生きる
死人と限定すれば、即ち、無敵。なんせ、自分は、生きながら既に死んでいる。死人に恐怖が無く、只、目前を難敵、仕事を葬るのみ。

溺れる者は、藁をも掴む。ゆえに、永遠の苦悩に陥るのである。

溺れたら、じたばたせずに、死ぬこととを見つけたりと、溺れ、死人となれば、何れ浮き上がるは必然。

因果律とは所詮、陰陽における氣の働きでしかない。

あなたが、ドン底であるならば、死人となれば、何の煩いも無く、無敵なり。

各人。

此れを知れ。

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やれやれだ。ぜ、道。2

2020-01-23 21:03:46 | 考察
天災とは、人間から見れば、人間を損ない、害毒を与える。しかし、地球から観れば、地球と人類によるカルマの躍動に過ぎない。

天災も、何れ過ぎ去る。そして、人類には、必ず平安が訪れる。その一時を見て、人の世を平和と吟う。

笑止。

例え今の日本に天災と争いがなくても、同じ地球人類の大多数が死に瀕している。

今の情報世界に於いて、我は知る。世には餓死する人もいる。森林火災で焼かれる人もいる。戦争で惨殺される人もいる。強盗強姦、銃殺斬殺。

至聖先天老祖の弟子である者と、道を修める者は悟らねばならない。

これから人類に訪れる悲惨な予兆を。

この世とは、確かに天国写しでもあるが、地獄の写しでもある。故に老祖の弟子は、来るべき人類を滅ぼす、兵劫と天変地異を日々畏れ、油断なく、睥睨し、災いを先天の内に彌化するのである。


目に見える災害を怖れるが人類。道を修める人は、目に見えぬ兆しを恐れるのである。




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やれやれだ。ぜ、道。

2020-01-08 19:09:27 | 大道
人とは、神を語るが、神と出逢った事があるのであろうか。

イエスキリストは、本当に神に出逢ったのであろうか。然り、故に殺された。

釈迦は悟りを得た。人々の因果律なる阿頼耶識を観、故に、殺された。

孔子は、正道を得られない故に、殺される前に逃げた。

老子は、真実なる、道を表した、故に、亢龍悔いありと殺される前に逃げた。

マホメットは人類の幸せの法則を述べ、そして自己を最期の救世主と述べた、故に、イスラム教への抗魔は現在も衰えない。

出口王仁師は、霊学の先覚、神仕組みの当態を示されたが、老後は悔い、自己の真覚を伸ばされた。

出口日出麿師は、真覚を示されたが、大本に降りられた、艮の金神への対抗する亢魔により、廃人へと追い込まれた。

なんて、過去人には、如何様にも言える。

過去も未来も、現在も、人は様々な言動を示し、因果律の中を生きる。

詰まる処、神は決して、人の願いを叶える存在では無いと言うこと。

貴方が若し、神と本当に出逢いたいならば、最低限で、吾が内鳴る神と出合わなければ、話にならない。

ごく身近な、最も神に近い、近すぎて解りづらい、吾が内鳴る神。

吾が内鳴る神を知らねば、吾が神と出合わなければ、それは、他人の知識による、他人の宗教盲信知識による思凝り神なる、妄想でしかない。

そんな神と出合っても、維神なる神人合一の道は決して得られない。


弥勒の世とは、在家菩薩が法を説く世。尋仁聖師は述べられた。

法を説くには、吾が覚神あるのみ。
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