玄徳道

道を語るブログです。

黙真人訓、功行道。

2024-03-29 18:38:00 | 道院
功行のニ字は、各仙仏真人が多く発揮せられたところであり、修行の導師とするのに、過ぎるものである。

自分(黙真人)に一悟するところがあったので、未だ適当か、否かを詳らかにしないが、同修(道を修める者)も共にこれを研究することを希望する。

功の意義は、包含するところ、甚だ多く、行の候(情状)を証するに、また、いたるところに妙理がある。

ニ字について言えば、功行とは、行いに、功を得たものである。

その要(かなめ)は、もとより、行いにある。

すなわち、行いが「允(まこと)に厥(そ)の中を執れ」の中を得たものであり、「これ精これ一」を得たものである。

(注 鬼雷述べます。允に厥の中を執れ=道統の相伝。中庸の奥義)

(注 これ精これ一=道統の相伝であり、允に厥の中を執れを補助するものでもあり、一とは無欲を、精とは、太極を指すものと考えます。)

このようにして、言えば、行いに功を得るのは、なんと困難なことではないか。

それ故に、どうしても、切実に到るところ、何処でも、その、時々、何時でも、何事でも、事毎に、修悟をなさなければ、ならないのである。

発顔した以上は、堅固恒久に、怠ることのない、志をたてなければ、ならない。

そこで、求修願文の第一句に曰く「願わくば功候を修められますように」と謂うのである。

功行は、誠恒の修でなければ、得ることは出来ない。

そして、吾々は日々に修め、時々刻々に行い、何時でも、何処でも、みな言うところ、常に行うところが、
功行に合するものは、すぐに枢冊(魂の数)に記録される。

功行に合しないものは、これを何と謂うか、
過行である。

何を過行と謂うか、過ぎたることと、及ばない行いである。

修により、悟りにより、時により、事によって忽然と覚る者は、則ち、過行を整えて、功行とすることが、できるのである。

功行の記録があるように、同じく過行の記録もあるので、過行を功行に転換する事が出来れば、その記録は功行の方が超過する者となる。

修によって悟り、覚によって照らすことは、ただ、功行が記録されるということだけではなく、功候を養い、功候を増進させた事になる。

これを以て考えるならば、聖神仙仏の成功が、常に戒慎驚惧して、臨むが如く履むが如くして、決して少しの放恣の心があるように、しなかったのは、まことに、故あることなのである。

修人は、皆、よくこの理を明からにして、朝、夕努力すれば、過行があると雖も、これを化して、功行とする事が出来るのである。

凡人は、このようにせず、修行の正しい締まりを悟らず、我儘勝手な言葉を言い、気のむくままに、その行いを乱す。

それ故に、罪行があり、邪(よこしま)な行いがある。

同じように、狂って、道理に外れる者があり、その為に枚挙し難い、罪行も同じようにある。

だが、その因を植えたとしても、ひとたび、能(よ)く、懺悔する者は、直ちにその悪因を化、する事が出来るのに、ただ、知るだけで悔い改めることのない者は、悪因が善行を除去して、一たび、善功が尽きれば、災いの応報これに随って来る。

まことに、憐れむべき、憫(うれ)うべきことである。

これを以て、五教の教主、釈迦、イエス、老子、マホメット、項先師(歴史ではいないとされる、孔子の師であり、儒教の祖である)、は自らの身体を断ち切るのを、厭わず、地獄に入って、普(あまね)く、救済をなし、各仙仏は、苦言を以てねんごろに、繰り返し、教えを告げて、深く溺れ、迷う人や、それを聴いても、ぼんやりしている人を救って、挽回する事を希望しているのである。

幼児がまさに、井戸に堕ちようとしているのを見て、仁人君子に、痛み、悲しむ心を生じない、者は無く、それを挽き戻して、救おうと期望する者は、もとより、幼児の優劣によって、救おうか、否かを考えないのである。

天地は、大徳を以て、万物を生じ、仙仏は、慈悲を以て衆生を救うのである。

善を修め、善を悟る、各々の修人は、自ら、これを悟覚することが、出来るであろう。

修行に励み、努めなさい。

吾は、各同修の修悟の前途の為に、慶賀することを禁じることが、出来ない。






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黙真人訓 真修道。

2024-01-17 17:45:00 | 道院
各地では、災劫が頻発して多難である。

吾が道の堅誠にして、仁慈憐憫の士は、みな誠心でこれを弭化(災害が起こす、因果のカルマを消す)しようと、吾が師(至聖先天老祖)及び、各教の教主(釈尊、キリスト、マホメット、老子、孔子、最澄、空海、王仁師等等)、ならびに聖神仙仏に祈っている。

吾が師及び各教の教主、聖神仙仏は、各方の誠願に感じて、再三各聖神仙仏、各教教主及び、各真人菩薩に一致して、合霊弭化するように、訓を伝え、その功効は、大きくない、ことは、無い。

しかるに、災劫が出現するのは、これを推し測るのは、難しいようであるが、それは、どうしてであろうか。

化し去るところの、劫は無形にあり、それが化す、ハジから造られ、生じるハジから、有(業が形となる)となるのは、劫を造ることが、人心に在り、また、測り難いものも、人心に在るからである。

人心は、何を以て、知らずに覚(し)らずのうちに、劫を造るのであろうか。

そうではないのである。

人心には、善があり、悪があり、善となったり、悪となったりするのは、みな、物欲に因って蔽われ、私心に引きずられるからである。

時には、知っているようであったり、昧(くら)まされているようであったり、時には明らかなようでありながら、これを押さえることが出来ずに、故意に犯している。

また、定見なく、主宰なく時には、その理を明らかにせずして、ただ、目前の勢いで為すべきことを為すのみを見て、為すべからざる事を為して、それが顕現されることを見ないのである。


これを為して覚るに至っては、すでに事前に明らかに弁じ慎んでおもうことが出来なかったので、既に為した後に、過失を改めることは出来ない。

事に出くわしては、前者の鑒(かがみ)を参考にせず、遠い先の結果を明らかにすることがないのは、みな錯縦粉雑のところがあり、左右逢源(自然にこれを用いて尽きることなく、これを取りて、竭きることなく、自由自在である)で、玄微の機を徹見することが失われるのである。

これによっても、人の一心の変化は事の正理をつかまえる事は難しく、また、事ごとにその真を得て、その正道正理をつかまえることは難しことが分かるのである。

一般の人は、このような状態であり、善く修める者も、また、このような、状態である。

吾が道院の修人が求修するときは、みな、大願を発し、第一に「修」を願うのはニ字(功候・一こい願わくば、功候を修めさせ給え。)
は、大いに修めることを発顔している。

[注 道院に求修し、老祖の弟子となるには、神前にて、四つの誓願を言わねばならない。一つこい願わくば、功候を修めんことを。願わくば真諦を得さしめんことを。願わくば上乗に到らんことを。願わくば衆生を度せしめんことを。]

修めるところのものは、なんで何であろうか。

内功を修めるのか、外行を修めるのか、一心を修めるのか、一身を修めるのか。

心は身の主であり、心を如何にして以て修め、自ら、吾が心を渡(すく)うことが出来たか否か。

或いは、言うに修坐は、即ちこれ吾が心を修め、以て自ら渡(すく)うのであると。

修坐する人も心は、それぞれ同じでは、
なく、気質もめいめい異なっている。

しかし、誠で、修めることが出来れば希望がある。

ただし、いくら坐ってみても、大きな進歩がないようである。

一体いつになったら、自ら、吾が心を渡い、以て自ら吾が身を度(すく)い、以て衆生を渡い、以て、一切の災劫を有形無形の中に、化すことが出来るのであろうか。

この中の道理を話してみると、非常に容易であるが、これを行なってみると、実に、容易なことでは無い。

それは、一個人の心が後天的に成長する過程
の中において、各人それぞれ、環境があり、各人それぞれの因果があり、その各人の環境を超越することは、自分では不可能であると思っている。

君の環境を超越しないで、君はいたるところで、いろいろな事務と日用の人の守るべき道の間において、動定言行挙止の際に於いて、切実に功を用いることが出来たかどうか、顧みることが出来たであろうか。

この第一句の意義は特に重要であり、この第一句を実践することが出来なければ、上乗に到り、真諦を得て、衆生を度することが出来ないので、その上に四つの願いもみな、切実に求修することは出来ないのである。

度(すく)いは、吾が心より、する事が一切の災劫を弭化する本である。

吾が心を渡(すく)うことが出来て、はじめて吾が身を渡うことが出来、吾が身を渡うことが出来て、はじめて吾の行を修め、吾の功を成すことが出来る。

吾の功を成して、吾が心は自ら化し、吾が身の劫を化し、吾が一身の災難を化す。

吾が一身の災難を化して、吾が一心の因果罪業を弭(な)くし、はじめて、われ、自らを渡(すく)う心をもって、人を渡い、自ら、この身を化し、劫を化する事が出来る。

全ては、第一句の修は、その功を成し、功はその行を成すことに在る。

内外に偏することなく、道慈が平行して進めば、自然に、その真の功候を得られ、自然に上乗に到り、真諦を得て、一切の衆生をことごとく渡(すく)い、一切災難を弭化することが出来る。

そこで、はじめて、坐功においては、その浩然の気を成し、その先天の炁を充す事が出来る。

先天の炁は、充すことに因って、固まり、息息綿々として、上下四方に通じる。

これを真炁が発動するといって、一切の有形無形の災劫を運化するのである。

もし、四つの願いよって順を、追って進んで功候を得るとなく、心性一身の中において、功夫を用いるのでなければ、たとえ、能(よ)
く、真炁の動きが突然見えたとしても、また、それによって吾が心身を渡うことは、出来ず、かえって魄魔に乗ぜられて、一切の災劫を化することが出来ないだけでなく、吾が一心一身の因果も弭(な)くすことが出来ず、化することも出来ないのである。

これは、すなわち、大道真修の深遠な道理を平易で、身近に説いただけである。

男女、掌長監職修、各々は、みな、このこの、災劫不測の時機に、このわずかな光陰を大切にして、一切の不真不正の仮相を放棄して心を回して、渡いは、吾が心よりし、化するは、吾が心よりし、吾が一身の先後天の三宝を渡い、これを固め、これを運(めぐ)らせ、これを化し、吾が心、吾が身を渡うことが出来れば、一切の因果災劫魔難は、自ずから消え、自ら化してしまう。

先天の炁霊性を以て、一切を弭化すれば、必ず大道真諦上乗を得証して、衆生を渡化して、石門(かつて、六万年前に、先天老祖が降臨された場所。)で発顔して来たことを完成させる事が、でき、再び輪廻の苦しみを受けることは、無いのである。

これが自分(黙真人)の深く切に祝禱(いの)るところである。

時期が移り変わって、道運はこれが為に否となり、滞(とど)こうりし、従って種々の現象が発生している。

一つには、各方の功候の練磨を経て、一つには、道運のしからしめる(そのような結果に至らせる)ところである。

然し寒冬の滞(とど)こうり、塞がっていた、機は将に尽きんとして、春機の動きが、既に朕(きざ)している。

望むところは、各地の男女掌長監職修各方が、過去の一切を水に流して、新しく、合霊して、和気を保ち、以て有形無形の災劫を弭化を助けるようにし、曙光の機を凝らし、運(めぐ)らし、忠心より、誠で合し、共にその機に応じた佳(よ)い朕(きざ)しを、成じ、以て漸次、春に生じて夏に盛んになるように隆盛に転じることを期するのである。

自分(黙真人)は厚く望む。



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昭和五年綾部道院聖訓文。

2023-10-10 18:18:00 | 道院
弥勒仏。

老祖の命を奉じて妙山より、前駆を為して至る。

老祖、妙山より来る。

世界の残酷なる殺し合いの闘争の過を弭(とど)め、人類の善を愛して、熙暭(やわら)ぐ、幸福を謀るに果たして、何を以て導けば、能く其の功を致す事が出来るのであろうか。

曰く、中道あるのみである。

中なるものは、天下の正道にして、人世の普遍の真理である。

大にして、包まざる所無く、細にしては、微(かす)かにして、入らざるは無く、己に偏らず、人に滞(こだわ)らず、自然を以て広大なる徳化を行い、公正を以て、乱を治める方法とする。

故にその用(はたらき)たるや適(ほどよ)く、その体を守るや恬(やすら)かである。

それ故に能(よ)く育て、能く化し、しかも平易(たやす)く無為にして、為さざる無きの大道と為す所以である。

今の世を以て、その未来を推測するに、その能く人群を融和して、一体と為し、世界を一家の如く、為さしめる者は、大・中の道を除いて外(ほか)にその効果を致す、由(でだて)が無い所以(わけ)である。

各修方は、既に世界の平和と人類の幸福を以て、共々に提唱する以上、世の人我の相の相互について、能く深く、その極まるところを研究して、その中を取って、大同世界の為に、一つの恒久にして、かつまた、堅固な基礎を立てねばならない。

それぞれ、それを悟るを可(よし)とす。

運霊(出口日出麿)を派して、大和中央主院の責任統掌と為す。即日職に就くべし。来月十五日籍を授く。

運霊の生まれは由って来る所有り。

尋仁(出口王仁三郎)を継いで、大同の法要(枢要の法義)を世界に布(し)く者である。

汝の負う責任は甚だ重大である。

然も尋仁は基(もとい)を固むる時代を為し、汝は展布の時期を為す。

基を固むるは、固むるは困難であると雖も、その実は至って容易である。

展進は容易であると雖も、その実は至って困難である。

何故ならば、基を固むるに時には堅忍して、信じ守れば、宜しいのであるけれども、開展に至っては、これと大いに異なる。

必ず時代の潮流に順(したが)って、人心の趨勢(なりゆき)に合し、道の自然を以て、人心について、これを正し、道の平易を以て、人心について、これを導く、しかる後に世界大同の真境が出現し得るのである。

若(も)し、そうしなかったならば、我の唱える所を以て、世界の宗教を統一し、得るであろうか。

所の行ずる所を以て、世の宗教を化(みちび)
き、御(おさめ)る事が出来るのであろうか。

時代は既に同じからず。

宗教もまた、背(そむ)くものと、従うものと有り。

人心も並(とも)に反対するものと、賛成するものと有り。

これ、大にして、包まざるなき、中道を以て、世界各教の宗(とうと)ぶ、所を集めて、研究するものでなければ、宗教門戸の見解と道徳境域の区別を化(みちび)き、除くことは出来ないものである。

これ、大道が仏教と和し、回教と和し、道教と和し、耶蘇教と和し、儒教と和して、共にその精微なる奥義を参解(りかい)し、以て世界人類の互愛互善、大同和楽の本と為す所以である。

汝は既に道運を継承し、斯に霊化を宣揚する以上、必ず、まさに、眼光を四海に放って、以て大同の妙機を悟り、智慧を人群に着(あたえ)て、大道の玄諦を悟るべきである。

運霊、細(つぶさ)に之を悟るを可(よし)とするのみ。
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黙真人訓、善の解明道。

2023-09-25 21:33:00 | 道院
善は一切の宗家

北極真経に曰(い)う。

真道有るは、「善道に他ならず」、又曰う「吾が善、気を練り、吾が善、行を踏み、吾が善、霊を回するに如かず」と。

こうして、修養一切に関して、わが老修(道の先輩)は能(よ)く研鑽して実行したものである。

新しい修方においては、只善の一字に対して、徹底して明らかにせねばならない。

或いは言う、善の字は即ち、良い事をすることであると。

しかし、誠心ある修方にとっては、善の一字は、そう簡単な事では無いと覚える。

われわれ修人は、善を以て一切の宗となす。

つまり、善における、その範囲を詳細に分析、解明して、新しい修方のために、ここに先覚の経験や、その効果の大要を分析し.諸子と共に、これを討議、研鑽することにしようではないか。

善といっても、その種類は多い。

善に真と偽がある。

直と曲がある。

陰と陽がある。

是と非がある。

偏と正、半と満、大と小、難と易のように、善にして、その理は、際限がないものである。

善を行うに、その真理を極めなければ、いくら、自分は善を実行している積もりでも、豈はからんや、罪を造る事になる。

折角の努力も水泡に帰してしまう。

何をもって真、偽と曰(い)うか。

昔、儒教を学ぶ数人があった。

天目山に参詣して、高僧普応国師、中峰和尚に質問し、「仏教家は、善悪応報は、形に影が添うようなものだと言うが、現在、ある人は善であったが、その子孫は、必ずしも栄えなかった。これに反して、悪人の家が隆盛となっているが、仏説は真実ではない。

中峰、答えて曰う。

「俗情(世間一般の人)は、まだ、洗われて(仏の道、また、人の道を学ばれていない)おらず、正しい眼織は、まだ開かれていない。善を以て悪とみたり、悪を指して善となすのは、己の是非(自己の正義)が傾倒しているのをうらまず憾(うら)まず、して、反(かえ)って天の応報の違いを逆恨みするのか。」

さらに数人が問うて、「善と悪はどうして、相反するや。」

中峰曰う。

「例えばどんなことか。」

儒者一人が言う「人を罵り、人を殴ることは悪であり、人を敬し、人に礼を尽くすことか、善となる。」

中峰曰う、「未だ然らず。」

また、一人が言う「財を貪り、矢鱈に取得することは悪であり、清廉潔白を守ることは善である。」

中峰曰う、「未だ然らず。」

数人は互いにそれぞれの所見を述べたが、中峰は「そうではない」と。

中峰曰く「人に益することは善であって、己を益する事は悪である。

人が益することならば、たとえ罵ろうと、殴ろうとも、これは、皆善である。

これに反し、己の益することは、たとえ、人を敬し、礼を尽くしてもみな、悪である。

人に益することは、[公]である。

公は即ち真となる。

己に益することは、[私]である。

私は即ち偽である。

また、良心に根(もとづ)く者を真と言う。

他人の形だけ真似るのは偽である。

無為にして為すのは、真。

有為(人為)にして為すのは、偽である、

人に益することと、己に益することと、これ(悪)をよく分解して修行上の規準とするならば、一心の妙法は、その経験と思慮によって時々刻々、簡潔にして明白となるものである。」

何を以て正、曲と曰うか。

今の人は、謹厳といわれる士を見て、おおむね、善なる仁というだろう。

しかるに、聖人はむしろ、狂狷(変人)の方を取る。

狂は、積極性を有しているが、短期で小中に拘束されない。

狷は、進所出退を厳行するが軽挙を肯じない。

謹厳居士は、同郷の者を是(よし)とはするが、聖人は、偽善者と見る。

つまり、郷里に在っては表面恭順を装い、内心では奸智策謀を有しているからである。

これ、一般世人の善悪観と聖人のそれとは、全く相反していることは、明白である。

以上の推論を以て種々、取捨選択すれば、すべて誤っている。

およそ天地の善を福にし、悪を禍いにすることは、聖人の是非する所と同じであるが、世俗の取捨と、相反するものである。

善を為さんと欲すれば、只見た形ではなく、須らく心の奥から浄めて、世の為、世を救うという心こそが真の正である。

少しでも世に媚び諂う所あれば、曲である。

少しでも世に憤る事があれば曲であるし、純粋に人を愛するは正である。

純粋に人を敬うは正であるし、これを弄ぶようならば、曲である。

何を以て陰、陽と曰うか。

善を行っても、これを人に知らせないことは陰徳である。

人に知らせたならば陽善である。

陽善は世に名声を享ける。

陰徳は天から報われる。

名声も幸いであるが、しかし、造物主からは忌む所である。

名声を享けて、もし、実が伴わなければ、必ず不測の禍いがあるものである。

これに反して、罪なくして、悪名を被せられた者は、その子孫は急に栄えるのである。

何を以て是、非と曰うか。

昔、魯(孔子のおられた戦国時代)の国に一定の法があり、すべて諸侯にそれぞれ家臣や侍女を政府より、奨金を得て、買い戻しをする者は貰える制度であった。

当時の官吏や宮廷の役人は、罪を犯せば、家中の者が皆、奴隷となって終身、自由を得られなかった。

ある義人が金を出して、これらの家臣家僕を自由の身に戻してやろうとしたので、魯の国人は、これを義挙とし、魯の政府もまた、金を出してこれを褒賞した。

子貢(孔子十大弟子の一人)は、家臣を贖ったが、政府からの金を受けなかった。

孔子はこれを聞いて、「間違っている。聖人が事を為すには、一般の世俗に影響しやすいのように、百姓町民に道を教えてやらねばならぬ。魯の国には富める者は少なく、貧者が多い。金をうけることを潔しとしないが、何をもって贖ってやろうとするか。今後も諸侯が、人を贖(か)わなくなるだろう。子貢の賢明は理財に適い富む事であろう。金を受け取らないことは是と思ったが、豈図らんや、是は大非であった。」

子路(孔子十大弟子の一人)は、溺れる人を救い、その人は牛を以てお礼にした。

子路はこれを受け、牛を貰った。

孔子は喜んで曰う、「今後、魯の国で.多くの人が溺れる者を救うであろう。表面だけを見れば、子貢が優で、子路は劣で、これは現時点を以て論ずるからである。それでは、将来の流弊は大である。善を為すには今後の流弊如何をよく顧みて、一人の行為だけ、適すれば、良いというものではなく、一身のみさえ、相合すれば良いものでもない。」

大衆の力が良く行えるか否か、天下に利害が何に多いか、少ないのか、衡(はか)って事の是非を弁(わきまえ)るのである。

何を以て偏、正と曰うか。

昔、呂文懿公が大臣を罷めて帰郷した時、海内の人々は泰山の如く、北斗の如く仰ぎ迎えた。

ある村人が酒に酔って呂文公を詈(ののし)ったが、公は動ずることなく、下僕に曰う「彼は酔っているから、門を閉して謝った。(酔っ払いには帰ってもらった)」

翌年、この人は殺人をして死刑を判決される。

呂文公は、これを悔いて曰う、「われ、その時の酔っ払いを懲らしめれば良かった。わしが厚い心を以て、その悪をここ迄、養っておった事を計り知らなかった。」

これは善心を以て悪を行うことになる。


また、悪心を以て善事を行う者もある。

ある所に、一つの自家のみが栄える富家があった。

丁度飢饉で荒れた年、飢えた民主が白昼、町に於いて掠奪、暴行を働いた。

これを受けた県の役所はこれを処理しなかった。

暴徒は益々勢いを増し、まさに大乱とならんとする時に、富家がその首領を捕らえ、懲らしめて、その争乱は遂に息(や)んで了った。

本来は正者は善を為し、偏者は悪を為すことを、知っておる。

しかし、善心を以て悪事を行う、正中の偏。

悪心を以て善事を行う、偏中の正。

まことに、微妙な次第であるが、道を修め、心を修める者は、明白に理解出来るのである。

何を以て半、満と曰うか。

易に曰う、「善は積らなければ、名を成すに足らず、悪は積らなければ、身を滅ぼすに足らず」。

積もることは満つることである。

怠慢は、不満ということである。

次の様な話がある。

ある娘が寺に行った。

施しをしたいと思い、身体のあちこちを探して、僅かに二文の金を全部施した。

この時、それを見た大僧正は自ら、その娘の回向を行った。

後日、娘は富貴の身となり、数千金を携えて、施しにやって来た時、大僧正は、弟子に回向をやらせた。

娘は問うて言う「昔、二文を施した時、大師、御自分で回向をしてくださった。今、数千金を以て施したが、大師は弟子に回向をさせたのは、何故か」大師は曰う「昔、二文を施した時、その心は甚だ真であった。私自らでなければ、その徳を報いられないからだ。今、高額を施すといえども、その心は二文の時ほど、真(まこと)ではない。弟子で十分である。」

これは二文が満であり、数千金は半である。

かつて、鍾離(中国八仙の一人呂祖の師)、呂祖(中国八仙の一人)に法授して曰う、「この法によって鉄が金になる。金をもって、世を救いなさい。」呂祖曰う「何時までも変わらないか。」鍾離曰う「五百年後に元通りに変わる。」呂祖曰う「この弊害が五百年後の人に及ぶ。吾はそのようなことは願わない。」鍾離曰う「仙を修めるため、先ず三千の善行を為さねばならない。汝の一言は、三千の善が円満となる。善を為さんとして、善に執われないならば、至るところで成就し、皆、円満を得る。もし、善に執着すれば、終日勤勉し能(よ)く励んだとしても、得る所のものは半満である。

大小の極致も同じである。

衛仲達(宋の官吏、夢にて鬼に拘束され閻魔に引き合わせられる)の訴状を以て、生涯の罪悪を化除する事が出来た。

その一念は万民の上に有るから、その功徳もまた、斯く不可思議である。

だから天下に志しあらば、小もまた、多であり、志が一身にある者は多もまた、小である。

大小の計量は如何に心に存するかということである。

何を以て難、易と曰うか。

昔、二年を要して僅かに得た給金があった。

人の夫妻をまっとうする為にその給金を全部与えた。

また、十年貯蓄したものを全部、他人の借金を代わって返済し、人の妻子を活かした。

さらに、ある老人は子供がなく、幼女の奴隷がいたが、これを郷里に帰し、金を支払った。

これらは、皆、為し難い処を為し、忍び難い処を忍んだので、天は福を以て特に厚く報いるのである。

富と財がある者や、勢力のある者は、徳を立てることは非常に容易なようでも、それを為さないのは、むしろ、自爆である。

貧賤の者は礼を尽くすことは難しい。

この難しい中を能(よ)く為せば、それは、貴いことである。

根本問題は、いわゆる、難とか、易とかの問題ではなく、すべては、一心にして、善行を実践するにしても、この一心を肯(うべな)うか、否かにかかるのみである。

以上は、簡略に種々概要を列挙したが、各位の参考の一助とされたし。













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黙真人訓 月道。

2023-08-22 20:12:00 | 道院
月は、満ちれば欠けるし、欠ければ、また、満ちて丸くなる。


天の心は、唯自然であって、人為で造作することは無い。

自然なるものは、道慈であり、道慈に連なる存在は、安心と安全が附与されるのである。

月が円くなったり、欠けたりすることは、人々のよく、目にする所であって、別に不思議とは、思わないのである。

天の心は、無為自然にして運化し、無心にしてめぐっているのである。

これは、唯、人が天の心を持っているので、このように言ったのである。

そこで、人意が一度、起きるのは即ち、一念より、起こってくるのである。

例えば、月が円くなったら、自分に有利であろうか。

欠けたら自分に不利であろうかをどうしても考える。

月が円くなった方が有利であれば、必ず、その利益を手に入れてようとして、妄念を起こす事になる。

また、月が欠けた方が自分に有利であれば、必ず欠けるようにはかり、その利益の幅をいなかる方法をもってすれば、二倍十倍百千万倍に膨らますことができるかを考えるのである。

このような、利益を貪る心を起こす以上は、必ず、私利私欲を貪り、自分一人の快感や、喜びを満喫しようと思い、その為には、一切の手段を択ばないのである。

これらの利益を手に入れようとする、重いがつのるほど、その利害を冷静に、分析する余裕が無くなるのである。

ただ、利益の二字によって、心が束縛され、念は利益の為に、がんじがらめに縛られて、その縄を断ち切る事が出来ないのである。

事業を始まるに当たって、皆利益や、プラスの面のみを強調して、マイナス面を軽視しがちである。

これが長期に渡って来れば、その考え方を改めることは難しい。

時には、良心が迷っている自分に対して、警告を発してくれるが、そこで、一時的には、又自覚して、改めようとするが、しかし、私利私欲を追求してきた、長い間の習性によって、これを放棄することは、忍び無いのである。

たとえ、仲の良い、友達がいても、正しい道をもって、戒めてくれる人は少なく、また、再び、利欲の海に沈んでしまうのである。

ひとだび、これを悟って目覚め、ひとたび目覚めて明らかとなり、ひとたび明らかになって、改めるという事が出来ず、誤った道に入り込んで抜けられなくなるのである。

聡明なる智慧というものは、本来人々が持っているものである。

それが何故に聡明なものほど、一たび迷路に入り込むと、愚か者よりも更に愚かとなるのであろうか。

それは、僅かな小さな智慧をもっているものが、大きな智慧をもっていると過信しているところからくる、誤りである。

そのようなことで、どうして、「大智は愚の如し」(大いなる智慧のあるものは、それを隠しているので、表面から見ると愚か者のようである)と言えるのであろうか、言えないのである。

その僅かな知識や智慧に頼っている者は、これをひけからして、自らを損なっているのである。

これに反し、大いに智慧のある者は、有にして、無のごとく(為して恃まず。)、実にして虚のごとく、時々に謙遜すれば、事ごとに益を受ける事ができるのである。

これは、社会や人情の上に於いても普段常に目に触れることである。

たとえば、われわれ会員(紅卍字会会員、修方、老祖の弟子)の中においても、常にこのような状態である。

修道の人と言うのは、世俗を超越して、非常に高尚ではあるが、ただこの一点の平易な工夫を修める事が出来ないのであろうか、そのようなことは、多分無いであろう。

このような状態になるのは、皆その原因があり、その原因も非常に多いのである。

もし、自己の主宰である本心から離れる事なく、しっかりこれを把握していれば、世俗の利益の為に引きずられて、直ちにその主宰を失うことにはならないであろう。

これらは、全てが人意(後天の人の意念)の中に汚れた、ものが付着しているからで、たとえ自分心中にゴミや汚れたものがあっても、これに気が付かず、自分では聡明だと過信しているのである。

しかし、現実において、そう言う事実にでくわすと、知らず知らずのうちに、過信して、自ら迷っているということに気が付かないのである。

そこで、結局は失敗するのである。

そうなる原因は、それがヒトに知られなければ自分では無事だと思っている。

しかも、人はたとえ、私欲の為に作為を施しても、ヒトには知られないと思っている。

それが、いよいよ、救うことの出来ない段階に至って、後悔しても、すでに遅いのである。

道慈の為に至っては、このようなことで、道慈がどうして安全を保つ事が出来るであろうか、それは、出来ないのである。

全ては、人意の私欲によって、作為を施し、道慈をして、不安不全のおそれを抱かせるような事になるのである。

この僅かな人意による作為こそは、わが心身に於いて、先天の三宝(炁・霊・性)と後天の三宝(精・気・神)及び、道慈や自己の本心をも、壊滅させてしまう事になる。

この人意や作為による影響は大にして、あらゆる苦心の上に既につくりあげて、固まった道慈の基礎を、その根底よりは崩壊させる事になる。

それは、始めの内は、もともと、僅かな欠点や、汚れであって、これらを消滅させることは甚だ容易であったが、しかし、その僅かな欠点や汚れが、段々と大きくなって、燃え広がって来ると、それを消し止める言葉出来なくなるのである。

そこで、人意を勝手気侭に、活動させないようにして、小さなうちにこれを慎み、微かな内にこれを謹まなけらばならないのである。

各位には皆、修養の素質があり、その功侯は深くして、純粋なる大徳あり。

本人(黙真人)がこれを語るのは、老婆心であろうか。

各位はどう思うであろうか。




カタカムナ道。(鬼雷考察)

カタカムナ 身体を運(めぐ)る 神の道 己が使命を 言解きしがな。

カタカムナ 金を欲しがる 亡者とは 己が欲に 焼かれてしがな。

カタカムナ 大月日の道 自然歩み 道導(みちしるべ)なる 己が神を見出さん。

カタカムナ 穢れを祓う 無素まるの玉 御魂で感ずる ひふみよの道。

カタカムナ あめとこたち くにとこたちの神 あめみなかぬし かみさきさとり。



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