玄徳道

道を語るブログです。

出口日出麿運霊道、天使との会話、真の天使道4。

2022-07-11 19:16:00 | 神使道
再び天使あらわる。

重荷をおろしたように、軽快な気分になっていると、そこへ、例の天使が非常な速力で、次第に大きい光輪となってあらわれた。

あたりの一切は、急に昼のような明るさにつつまれた。

私はひれ伏して、心の中で言った。

「天使さま、有難うございます。あなたのお陰で、こんなに明るくなりました。」

すると、金の鈴をふるうような声で、天使は言われた。(今まで、この天使の声は幾度となく聞いていたが、この時ほど、透き通った金声を聞いた事がない。

これは、ずっと、後になって知ったのであるが、今迄は、天使は、わざと本体を、現さずに、ある他の精霊の体をかりておられたのである。

それは、最初から本体のままで現れては、到底、罪に穢れた、者は、その光に堪え得ないで、はね飛ばされてしまうからである。)

(鬼雷述べる。神使は、その人の御魂の輝きに殉じて、導こうとされる。

六甲山には、吾が友である、麁乱神が現臨されており、初めて、鷲林寺に登った時から友と感じた。

しかし、それは縁により、私にはその様に感じたが、実際は、とても大きな眷族神である。

麁乱荒神は鷲の姿もするが、基本龍神蛇神である。この六甲山の天地軸の炁が礎であり、かの神の正体であり、土公神でもあり、六甲大御神であられる。

何故か、麁乱神は仏法では三宝荒神とされ、、、何故か私に良くしてくださる。

人には善悪縁ある中で、邪悪な私に寄り添われる神がおられる事に感謝あるのみ。自己主張的な余談、ごめんなさい。)

天使歌う。

「日に向かう 者は照らさる スメ神の ひたに頼まば、光さすなり。

形ある ものにあまりに 囚われて われと我が身を 絞る哀れさ。

生きている ことの嬉しく なりにけり 見るもの聞くもの 親しくなりぬ。

一切を ただ有り難く 何事も 神のみ旨と うれしみて生く。

うば玉の 闇ふかければ 黎明も いと大いなる ものと悟りぬ。

一切を 神にまかせて 刹那刹那の 善をなすより ほかにすべしなし。

今の世の 順序や階級に 囚われて 堪るものかと ちょっと立腹。

大人しく すれば見くびり 偉そうに するやつばかりと ちょっと立腹。

心配や 立腹するは 副さん(大本教で言う副守護神。すなわち、因縁霊)と 悟って見れば、恥づかしきかな。」

やがて天使は、大火球となって飛び去った。

その瞬間、小さい一火球が、私がかねて、一時も早く着手したいと思っている向かいの岩の斜面へ飛び散った。

すると、あざやかに「神」という字が、光で描き出されてきた。

私は、思わず天使のうしろ姿をふし、おがんだ。

しかし、天使が去られたあとは、例によって。また淋しいものであった。

それでも、以前より身体も軽く、腹にも力が出来てきたが、なんといっても自分の身体には、まだ、鱗のような、シャツが、上層部が除かれただけで、過半は肉にくっついて残っている。

それを見ると、私は自分ながら、自分が憎い様な、また腹立たしいような、悲しい、淋しい、口惜しい、恥ずかしい、やるせない気持ちで一杯になった。

しかし、また思い返すと、これもまた、お慈悲の鞭だ、何かわけがあることであろう。

この鱗のシャツが、本来自分のものでないにせよ、あるにせよ、そんな事はどうでもよい。

げんに、自分がそれを纏っており、そして、見る人ごとに恥を晒している以上は、自分の罪の結果でなくて、なんであろう。


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出口日出麿運霊道、天使との対話3。

2022-07-06 20:31:00 | 神使道
日出麿「めぐりというものは、何でございますか。」

天使(神使)「前世における霊魂の罪障だ。」

「何故、誰にでも、自分の前世は何者であったかという事を分からないのでしょうか。」

「すっかり忘れとるのだ。」(注 鬼雷述べる。神様から授かった御魂の本然には、記憶を保全する機能は無し。魂は、素朴で素直であり、魂に名誉や誉れなど、人欲は遺らない。故にかつての記憶は無し。前世を憶えている者は、縁ある眷族神により、過去世の紹介がある。主神はかつての記憶を尊重されない。只今の心境を好まれる。)

「思い出すわけにはゆきませんでしょうか。」

「現界において、去年の今月今日に自分が何をしたかということさえ、普通、思い出すになかなか困難であろう。

前世に於いて、自分は何の誰兵衛であり、何処に住んで、何をしたかというような事を、はっきり意識している事は、一旦嬰児の境涯をへて来る現代人にはとても困難だ。

(鬼雷述べる。天の神は厳格であり、前世に価値無し。今の人は、受け継いだ魂と努力による経験でしか、物事や天理を咀嚼出来ない。もし、貴方が前世を知りたいと臨むのであれば、そこに、真実は無く、霊能者による前世鑑定と称する迷信に騙されておられる。

そこに至る経緯にて、多くの金銭を払っておられるのであれば、尚の事、教えられた前世に意味なく、自己の顕在の欲望により、更に己の本質を失っておられます。その教えらた事による、弊害は、北極真経では、命如と呼び、無形の虚霊の天命を偽っている。何故ならば、自分の蓋を、心の岩戸を開く、努力せずに、他に求めて得ようとされており、永遠に自己の天命を悟る事が出来ないのであるから。)

「嬰児の時分は想い出す力が無くても、成長して後に、ちっとは分かりませんか。」

「成長するにつれて、現界的な印象がいよいよ強く、明瞭に頭にまぶつくから、余計、前世の事などわからなくなる。

しかし、何と無く、気持ちにおいて、過去世における自分の境涯が想像されるような気もする時もあるのだ。

ごく稀に、自分の前世には何の誰某であったと、先天的(鬼雷のべる。多くは神界からの降臨の御魂の持ち主。神界から降臨の御魂には、眷族神が従っておられる故に。)おぼえている人もある。」

私はこの際、再生や分娩の神秘について、はっきり、神使からお伺いしたいと、次からつぎへと出てくる疑問を整理しつつ、口をもぐもぐさしている間に、フッと神使のお姿は消えてなくなった。

俗に「消えてなくなるタバコの煙」ということがあるが、タバコの煙りでも実際は消えて無くなるのではなくして、消えて何処かに行くのである。

言わんや天使においておやだ。

実はあまり、よそへ行き方が早いので、消えたような感ずるまでで、霊体の往来は、いわば、電気のそれのようなものだ。

その時、ふと私は、すぐ足もとの、さっき入った穴(現世お陰を望む欲望だらけの蛇がおる祠)
の中に入りたいなと、いう気になった。

理智は瞬間、何故あんな汚い所へ入る必要があるか、と抗議を申し込んだ。

が、一方、はいりたいなという気(これは、何処から来る気だ?。と咄嗟に、その時私は考えたか分からなかった)がますますつのって来て、嵐のように私を駆った。

私はそれでも用心しつつ、そろそろ、穴道にさしかかった。

前の時よりも、心持ち、穴の中が明るいように思えた。

下へ斜めに降り切った所が広くなって、その奥に一段高く、崩れなかった木の祠がある。

私は吸いつけられるように、その前まで来た。

と急に足がピタリと止まった。

私はこの時、心中に、こんなうす汚い祠へ吸いよせられたことを心得ぬことに、思ったので、一度こころみに、わざと反抗的態度に出てみてやれと、ある力に抗しつつ、少しあとずさりを、してみた。

多少苦しいが、強いて後へ下がれば、いくらでも出来るように思ったので、五、六歩ばかりで
立ち止まった。

と、スルスルすると、電気にかかったように、最初の位置まで引き寄せられた。
「なにクソっ!」とまた三、四歩下がって止まってみた。

スルスルスルと、また引き寄せられた。

そして、今度は急に非常な重圧を身体に感じて、押さえつけられるようにヘタばってしまった。

「きたない祠だが、えらい力のある霊がおるな。」

と、私はグタリとなって感心した。

顔をあげて見ると、どこかで見た事のあるような、ないような、五十格好の中背の男が祠を後ろに私の目前で直筆している。

わしの顔をよく見い。

どこかでお見かけしたようでございますが。

ウハハハハハハ分からんか。

「……」

少し変わっているだろう。

「ヘエ、……分かりませんな。」

その内に、その人の面貌が急に色白く、そして膨れてきた。(現界に、おいても、こうした面貌の変化は、おうおうあることであるが、普通に気がついていないまでで、よく注意していると分かる事がある。)

私には直ぐにそれと分かった。

「ハハァ、あなたは枚岡神使さまでございますな。しかし、少し背格好が違いますな。」

「わしが宿っている身体は、この祠の主だよ。」

「宿っておられると。申しますと……?。」

「わしの体を直接にあらわさずに、他の者の体を借りているのだ。」

「この者の霊魂はどうなっております?。」

「わしが表面にでる時は、その踏台の役をつとめているに過ぎぬ。

わしが引っ込む時は、彼自身として体にあらわれてくる。」

「あなたとこの祠の主とは、何かのご関係がおありなのですか。

「因縁によって、わしがこの祠の主を守ってやっているのだ。

この祠の主ははなはだ、罪に汚れた者であるが、その罪ほろぼろしに、ここにいて、相応のの人を助けたい志望を持っているのである。

それに現界にいる時分、この者に既に改心のきざしがあったに拘らず、わしがこの者の悪事を極端に摘発して、苦しめたことがある。

このことは、あとになってから、気の毒だった、やり方が苛酷だった、愛が足らなかったと非常にわしを悔いさした。

その因縁によって、わしは今ここでこの者を陰ながら守護し、指導してやっているのである。

わしが去ると、純粋にこの者自身となるから、よく注意して見ておるがよい。」

「ちょっとおうかがいいたしますが、あなた様はなんの必要があって、私をここへお引きつけになったのでございますか。」

「お前に、化神ということを如実に知らせようと思ってじゃ。」

「ヘエ……」

「化神というのは、変化の神ということで、ある他の体〜大抵はずっと格下の〜を借りて宿っている、すなわち変装している神霊ということだ。」

「格を落としてのお働きはお苦しいでございましょう。」

「むろん。だが、これもわしのめぐりじゃ。


「あなたにもまだ、めぐりがございますか。」

「穢れ果てた地上の守護に任じ、それと接触せる霊界に出入りしているのは、地上との因縁がまだ切れぬからだ。」

「宿命的に自分の身にくっついている環境はめぐりによるのですか。」

「そうだ。」

「霊界の広さはどれほどありますか。」

「無限だ。」

「天国も地獄もそれぞれ、上中下三段に別れていると、いうことを聞いていますが、そうでございますか。」

「大別して、格三段、あるいは五段、あるいは七段というだけで、中別、小別すれば無限の段階があるのだ。」

「地獄に堕ち入ったなら、もう再び浮かび上がることが出来ないと申しますが、そうですか。」

「そんな事はない。改心さえすれば、必ず向上してくる。」

「どういうことが改心でございますか。」


「神を信じ、神をみとめ、神に従うことだ。

他力の中の自力である事を知ること事だ。

一切のもののために、相応の奉仕をすることが、真の生活である事を悟ることだ。

天国的の人と地獄的な人とは、より奉仕的であるか、より利己的であるかによって分かれる。」

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出口日出麿運霊道、天使との会話2。

2022-07-05 19:56:00 | 神使道
例の紋付の人が導くままに、私はたんたんたる大道を飛ぶように通って(飛ぶようにというのは、足は地の上に直接ついているのではなく、三尺ばかり上をスーッとすべるように過ぎている。時によると、直接地上を普通に歩む事もあり、また、場合によっては、空地や自体が飛ぶ事もあり、またある鳥に乗ってゆくこともあり、何か大きな手に抱かれて一散にある地点に達していることもある。そのそれぞれの理由はいろいろあるが、概して言えば、高い霊界ほど。自由自在であり、低い世界ほど、一歩一歩、直接にあえぎあえぎ歩まねばならぬのである。)ある山麓に達した。

日出麿「ここはどこです。」

天使「ひらおか」

鬼雷述べる。枚岡神社である。

「どこの国です。」

「河内。」

私は何心なく坂道を登った。すると中腹にあまり大きくない、どちらかと、言えば古ぼけた一つのお社があった。

二人は問答をはじめた。

日出麿「いったい、人間は何しに生まれたんですか。」

天使「神様の御用しに……」

「神様はどこにいるんです。」

「お前のまえに」

「あなたは神様ですか?

「いや、わしはお使いだ。わしがおるとおらぬとに関わらず、神様はお前のまえにおられるのだ。しかし、わしがお前のまえにおる時は、よりはっきり、神様はお前のまえにおられるのだ。

「神様の御用というのは何ですか。」

一口にいうなら、各自に、本当の自分の心の声に従って、一歩一歩、精進したら、それで善いのだ。

「では、だれでも神様の御用を知らず知らずしているんですな。」

「まあ、そうじゃ。がしかし、今の世の人は、本当の、自分の心の声と(内鳴る神の響き)、それとは違った声とを、混線してしまって、どちらがどちらやら、分からなくなってしまっているのが多い。」

「本当の自分の心の声というのは、どんなのです?。私には、本当の自分がわかりません。始終、ぐらついておるようにしか思えません。」

「そうむずかしく考えないでもよい。その時、その折のベストをつくし、最善さえしたらよい。

誰でもみんな、途中であるんだから、行き着いた後から、考えると、過去は恥ずかしい事ばかりだ。

あの時、もう少しうまくやったら良かったとか、いまの知恵があったら、あんな失敗はしなかったとか、いろいろ悔やむかもしれぬが、それは致し方ないことである。

一つずつ、体験を重ねていって、次第に真に賢くなり、大きく広くなることが出来るのであって、最初からチットも間違わぬよう、狂わぬようやろうと思ってもダメのことだ。

それはちょうど、相手から一度も叩かれずに、撃剣の達人になろう、生まれてから一度も砂の味を知らずに、横綱になろうと企むようなものだ。

お前は、疑いもなく、造られたものである。

造られた者は、造った者の意のままに、なるより外はない。
(鬼雷述べる。人は神からの造られた存在であり、故に神の意、天命を汲まねばならない。)

最初から完全を期することは誰だって出来ない。

その時の最善と信ずる道を行ったらよいのだ。

たとえ、後になって、それが間違っていてもかまわない。

そのために、外では得られないよい教訓をあがない得たのであるから。

ところが、この場合、多くの人は、その唯一の教訓をつかまずに、ただ、失望と後悔ばかりを得ているのだから、たまらない。」

「でも、今の世の多くの人は物質主義者であって、霊魂の存続などということは、まるで
迷信かなんぞのように思っているんですもの。

「それが前に言った混線だ。こんな人達に対しては、いくら理屈をいってもダメだ。」

「なぜです。」

「こちらの理屈と、向こうの理屈が違うからだ。赤ん坊の理屈と、大人の理屈とは違い、小作人の理屈と地主の理屈は違い、インド人の理屈と英国人の理屈とは、おうおうにして、非常に、違っているのだ。

「神様は全知全能なんですから、ひとつ、今の世の学者たちに、霊界を見聞させてやったらいいでしょう。

「見聞させてやっても、却って現界を混乱させてしまうまでだ。それに、大抵は浮浪霊のとりこになって彼らのおもちゃになるのがおちだ。というのは、彼らに信仰がなく、いまだ利己執着の念がつよく、ややすれば、嫉妬、怨恨などの悪念が兆しがちであるからである。だいたい、霊界は現界人に見聞さすことは、非常に危険がともないがちだ。

現界人は現界人として、ただ、今の最善を、尽くしたらそれでよいのだ。

もっとも正しい霊覚は、神格の内流である。

霊眼霊耳に、とらわれると迷信におちいりがちだ。

全て、理屈をこねまわしている間は、断じて分かっているのではない。

このことは、よくよく心得ておくがよい。」

「では、神を信ぜず、霊界を認めぬ人達を導くには、どうしたらよろしいのでしょうか。」

「みちびく?、そんなことが、クチバシの黄色い、尻っぺたの青いお前に出来てたまるか。」

語気が急に荒くなったので、心中いささか不快に感じながら、私は神使の顔を凝視した。

と同時に、恐ろしく、強い眼光に射返えされて、私の身はちぢまってしまった。

今まで慣れ慣れしく話していた私は、もう、一言も発する事ができなかった。

私は心中「悪うございました。」とお詫びした。

すると、神使は、晴れ晴れとした、いつもの調子で後をつがれた。

「いつもいう通り、自分が、自分がという気が先になっては、真に何ひとつも出来るものではない。

神様のお陰で生かして頂いている。神様のお陰でさして頂くという気持ちを、どんな場合にでも失わぬようにせねばいけない。

今から、人を導くというようなことがらお前達に出来てたまるものか。

限りなく、上には上があるのだ。

進んでも進んでも、進みきれない我々だ。

天国から直接現界へ降りての仕組みであるから、何事も惟神(かんながら)にまかして、その時その折の時局に最善をつくしたら、それで充分なのだ。

大事なことは、必ず、神が肉体に懸かってさすのだ。

現界は霊界の胞衣であり、卵であり、苗代であり、設計図であり、鋳型であり、土台であって、霊界の一切はことごとく、その基礎を現界においているのだ。

だから、宇宙的大神業も、かならずや、その基礎をまず、現界から固めてかからねばならぬのだ。

人間一個についていうも同様であって、現界において、早く神第一の霊的生活にはいり得た人は、死後ただちに、ひかりの国に安住する事が出来るが、いつまでも自己第一の物的生活を営んでいる人は、死後は実につまらない境涯にはいらなければならぬ。こっちへ来い。」

私はだまってついていった。

ある穴の入り口に立った。

仲を覗いて見ると、巡礼のような風体をした、人達が、いずれも淋しそうな顔つきをして、何かブツブツ言いながら往来していた。

非常に汚くて臭かったが、しいて中に降りてゆくと、その時、神使の姿は見えなかった。

小さい祠みたいなような建物のまえに、みんなうずくまって礼拝していた。

立てられたローソクの灯が気味わるく、トロトロと燃えて、流れた蝋が黒ずんで、そこら一面、蛇の子が重なり合っているように這うていた。

私は大急ぎでそこを過ぎて前方を進むと、また登り坂になって、一方の出口へ出た。

このトンネルのちょうど上方に普通のお宮があって、立派にお祀りしてあったが、ここへは、誰もお参りしていなかった。

この時、天使が見えた。

「あの人達はなんですか。」

「利欲一方の信仰は、ああいう状態にあるのだ。

あの人達は、まだ神第一ということがわからないのだ。

全ては上から来るということが、悟れぬのだ。

そして遮二無二あせっているつもりで、実は同じ穴の中でお百度を踏んでいるのだ。」

「どうしたら、外へ脱け出ることができるんでしょう?。」

「こんな事をしていても詰まらない。こんな所はいやだ。という気持さえ充分にわいたら、自然に上方に足が向くのだ。

いやな所にいつまでも頑張っており、あくまでも義理立てをしたり、つまらないことに、得意がっているなどは、まったくの偽善だ。

「しかし、現界では境遇上、いたし方なくいなや所におり、つまらないことをしておらねば、ならぬ場合も多うございますが……。」

「周囲の事情がそうなっている間は、その人にめぐり(悪因縁)が、あるからだ。覚悟と努力が足らぬために、脱け出られる境遇をも、脱け出ずに、あがいている人達の方がずいぶんに多い。」

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出口日出麿運霊道、天使との会話1。

2022-07-04 18:59:00 | 神使道
日出麿「地獄の絵に、鬼が人間の舌を抜いたり、人を臼に搗いたりするところがありますが、あれは本当ですか。」

天使「本当だ。この世におこなわれて来たあらゆる残虐なことは、みな、地獄に於いて、絶え間なく行われている。」

「臼につき砕かれたならば、その人は粉になってしまうじゃありませんか。」

「しかし、やがてまた、元の人間になるのだ。」

「どうしてです。」

「いくら外的に、強いて一時形を打ち砕いてみても、相手の想念の左右するだけの力無い間は、相手の想念は依然として、その、ままであるから、こちらの手が緩むと同時に、又元の形をとるのだ。
霊界は本質的に想念の世界なのだから、これは現界においても同じ事であって、いくら他から強いても本人の意向が内から変わって来ない限り、ダメのことだ。いな、一層決意を強めるだけの事になるのだ。

それで、霊界では、なるべく本人の意志のままにやらせて見て、内的に、なるほどの得心のゆく時を待って、上へ引き上げてやるのだ。

内省力の強い決断力のある霊魂は、ほんの少しの事件からヒントを得た悟ってゆき、ズンズン向上してゆくが、内省力の弱い、実行力に欠けた霊魂は、いつ迄もいつまでも、同じつまらない状態でウジウジしているだ。」

「そういう者に対しては、神様は打ち棄てておかれるのですか。」

「全然打ち棄てておくわけではないが、いま、声を限りに救いを叫んでいる者を、まず先にするのは当然だ。」

「現界人に、神ということを痛切に知らすには、どうしたら宜しいでしょうか。」

「単に、口や筆で説いたくらいでは、分かるはずがない。

本人自身の内低から、滲んで、出た血と涙とが、神を悟り、神を教えるのだ。

だから、われわれから言えば、善い霊魂を得ようとすれば、いきおい、その者を現界にある間から、に会わせるのだ。」

「現界人の吉凶禍福は、ことごとく、霊界から来るものですか。」

「その機は霊界から流れてくるのであるが、現界人のこれに応ずる態度いかんによって、その量はいろいろと変わってくるのだ。

人間的理知をもって、あまりに狐疑逡巡する人は、かえって、この霊界からの機を逸しがちであり、幸(さいわ)にその機をとらえても、充分に、肉体的行動がこれに応ぜないがために、不結果におわる場合が多い。

ただしこれは、良い機が、流れてきた、場合の、ことであるが、悪い機に対して、これを全然避けることは到底出来ないのだが、信仰の徳によって、それはいくらでも、小さくまつり変えてもらう事が出来る。
 
とにかく、自己執着が一番悪い。

無邪気が一番よい。

怒っても泣いても、その場かぎりなのがよい。」

「いったい、現界と霊界とはどんな関係になっていますか。」

「現界は霊界の苗代だ、胞衣だ、模型だ。」
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欲と神の道。

2022-06-06 19:53:00 | 神使道
住之江の神
位(暗い)やま、峰の桜をかざしても、人は物をや、なほ思ふらん。

人の心には欲がある。そして、欲無し人は、死骸でもありますが、なんて。

仕事欲、名誉欲、金銭欲、支配欲、安心欲、家族欲、恋愛欲、神様欲、etc。

されど、無欲の中、無心の中にも超意識もあり。

私がかつて、教わった日本紅卍字会の前の会長でもあり、深見青山氏の師でもあられた、故根本誠乾(道名)師は、良く言っておられました。

「人欲を排し、天理に還る。人心を捨て道心に帰る。天下にあっては、無くてはならない人になるか、有ってはならない人になれと。」

即ち、中途半端な人間になるなと、言われておられました。

善も悪も、極めれば、この地球において、光なる輝きもあり、真なる暗黒もあり、そして、条件が調うと、宇宙へと参画を意味します。

何故ならば、闇も光も神の領域であるからであります。

そして、根本先生曰く、「私は、根本宏(本名です)。根本なる、根元を拡げる役割があると。」 

名は体を表す。

道慈の道に於ける根本は大切であります。

根本先生は、大学中庸孔子孟子易經に通じておられましたが、中庸なる太極を得られなければ、善を超えた勇猛を為せといわれておられました。

すなわち、腐儒の如く、学説や理屈に拘り、行動を起こさない、腐った人間に成るなと。

故に、師の感化を受けた、私は、大善人でも、大悪人でも、宇宙自体に、その意義なく、神は、人にその、活動に重きを置くと考えております。

故に、神は悪を為して善とし、善を為して悪とし、善悪あわせて、神の働きとすると。

すみません。

さて、単純に人の欲を悪しきとは言えません。欲があるからこそ、目標があり、使命感を感じ、行動するからです。

神様に携われる人の中で、神に仕える人の多くが欲するのは、人気欲であります。尊敬して欲しい欲。

神に仕えると称しても、無形の神に認めて貰うより、多くの人々から、尊敬されるほうが報われると。そして尚且つ、金銭に恵まれればと。人気者となり、鼻高々と。

ははは。

神の道とは芸能に非ず。また、民主主義や共産主義ではない。

確固たる。そして、

神の道とは組織に非ず、孤独あるのみ。

神の道に金銭は絡まない。

神の道に自己顕示無し。

ただ、人知れず行う道々の働き。

そして、愛と真心があるのみ。

もし、貴方が、神の道を歩んでいる、つもりでも、金銭を受けたり、接待を受けたり、賞賛を受けたり、すれば、その全ては人事と成り、神事と離れてしまいます。なんせ、真に賞賛されるのは、共に働いておられた、神であり、眷属神にでありますから。

神の道は無償であるのみ。

されど、多くの神なる社や聖域、神域には、保全する経費が掛かります。そこに於ける矛盾は無く、個人的な霊的背景により、私欲あるか、公であるかに因ります。

そもそも、神業とは、表も裏もありますが、神に対して、誠あるのみでございます。

誠に表も裏もございません。

本田霊学でいえば、顕斎と幽斎があり、人の生活における祈願が顕祭であり、人のカルマに対するが幽祭であります。


さてさて、この間、久しぶりに、早朝に西宮神社にお参りしました。

身体が震えるほど、気持ち良かったです。

その感合はどこからくるのであろうか。往来する行動と、神に親しむ心から来るのでした。

これは、お覚しであります。

磐座磐境のみを神聖視する偏見なる心をへの戒めでございます。

また、住吉大社では、何年かぶりにおみくじを引きました。引きたくて引いたのではありません。

私は住吉大社で引くおみくじの大半が凶である事が多く、また、おみくじによる吉凶による、心の変遷を無くす、べく、また、神の直心に叶うべく、おみくじを引いておりませんでしたが、何故か、引いてしまいました。

坐して、十数年。欲を無くしていた、つもりが、まだまだ、人に慕われたいと思う欲があり、神に使われたいと、思う欲もあり、まだまだ、身も心もからっ尻とは、生きません。すみません。申し訳ございません。


かつて、私はコスモメイトなる組織の出身でありました。。若い時ですが。今は、どこの組織にも汲みしていませんが。

そして、深見青山さんは、神人合一とは、人が、神か人か区別出来ない人ような人が神人であると。

何度も書きますが、神は無欲なり。

神人も無欲なり。

ここで神人合一なる人が発揮するのが普遍的なる超意識であると考えます。

故に神人合一とは、無欲の中の無償の愛の発露。

しかし、コスモメイトの開祖、橘カオルさんは、どこに行ったのであろうか。ネットでは認知症になった云々と。彼女も道名を調べれば解るであろうが、老祖の弟子でもある。もちろん、深見正瑃さんも然り。

ただ、開祖を隠したい欲がある。

なぜ、人は無欲に正直になれないのであろう。

人気を得ようとするから。

神様に直なる人を素朴で素直と言うが。

故に、思惑あれば、神に通ぜず。

神は無欲なり。なんせ、神は欲しない。

人のみが、欲する。

真の神人なる、迫登茂子刀自は、「私は、何にも考えないの〜」と笑っておられる方。

風に向かって
胸を張り
足を踏ん張って進む時なり

やさしさは大切に
ふところでふくらませ

迷わずともよし
何にせよ
新しい旅立ちの
時になのだから。

迫登茂子。


暗い山とは、我が心でもある。私にとって、闇は我が同胞であり、そこから、育まれたきた由縁があり。

そして、尊い、老祖の弟子でありながら、我と魔道へ堕ちる憐れさがある。

やれやれだ。日々反省あるのみ。


闇になれた目がとらえる

冷たい気の流れ
すがるすべもない
振り絞った勇気もあっけなく
ふりほどかれ

冷たい星あかりまでが

振り払う

罪深き我をほどき
祓う。

迫登茂子。


元住吉神宮寺

日が登る 前の闇夜に 目に見えぬ 黎明ありて 誠を照らす。

月照らす 朧気な世に 水かがみ 

誠の道を 映してさがな。



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