コロナ禍、終息せず、第四波と言うておるな。
人民は病争貧の苦渋無く、明るく楽しい、暮らしを願っておれど、中々そうはまいらぬのじゃ。
今は体主霊従と化した三千年の罪科の浄化の時と申してあるぞ。
何事も無く平穏な世を願い、神にも祈りておるが。
願い通りの祈りの通りにならぬからと、神も仏もあるものかと神交(信仰)の道から離れてゆく者も出来てくるが、真は神ある故の浄化であり、浄化の為に人間の願いとは逆さまの事も現れて来るのであるぞ。
されど人民が災いと思う事によりて世は浄化されてゆくのであり、禍(わざわい)転じて福と為す、神の図りが段々と判りてまいるぞよ。
それ故、今の世はすぐには、善くならずとも、しかと生かされてある事をかみしめて、避けても逃げても、迫り来る、病争貧の苦渋や悩み苦しみ悲しみと同居せなばならぬのが、浄化の今の世の万民の歩まねばならぬ道。
形ある物は必ず滅する現の世なるが故に、三千年の間に積み重り、凝り固まった罪科も浮かび上がり浄化されて消えゆく為に避けても逃げても追いかけて来る病争貧やその他の災害の苦渋であり、生病老死の四苦のある事、受けねばならぬ、越えねばならぬのが、必然である現の世であり、様々の苦悩苦渋の招来を悩み悲しむよりも、それによりて、つもり積もった罪科や汚れ穢れが浄化されてゆく、浄化の理をしかと覚るべきであるぞ。
この事が少しでも判れば、辛い悲しい中でも、ああ、それでも生命ある事、食って寝て放(こ)く(大小便)事が出来る。
生きる事の原点が一つ一つ判りそれが喜びとなり、光となりて心の闇を晴らすのじゃぞ。
人の身は、身と魂から成りており、その形ある体は人類発生以来、親から子へ血の繋がりをもって、今日まで続いて来たのであり、我は何も悪い事はしておらぬと思いても、その血の中には、どんな因縁(遺伝子)がひそみておるやも知れず、それが浄化の為に浮かび上がりて来るのであるぞ。その肉体にも肉体を守る為の霊があり、それは自己保存の本能であり、自我や欲の煩悩であり、それを魄と言うぞ。
その肉体を器とし、生宮として、八百万の神々、御霊(みたま)を分けて、現の世に生まれる時、産土神の仲介に鎮めるのであり、その御魂は、明浄正直、輝ける真澄の御魂(直霊)であり、その中に、特技特性も授けてあるぞ。
その清き神授の御魂の意(おも)いと、自我や欲の魄の思いとが重なって現れておるのが霊止(人)の心であり、鏡にたとえてあるぞ。
血の流れの中の悪しき因縁や、あまりにも、我が身を守る為とはいえ、自我や欲が強いと、それは固い思凝りとなり、清き御魂にこびりつき、汚れ穢れとなり、太陽をおおう、黒雲の如く、清き御魂を押し込めてしまう事となり、その様は、霊界まで続き苦しむのであるぞ。
それ故、現の世に身のある内にいろいろ苦労に会わせ、自我や欲の煩悩を磨かせ、少しでも御魂を奇麗にさせてやろうとするのが御魂の親神の愛であり、時には厳しき試練も体験させて、心の岩戸を開かせんとするのであるぞ。
三千年の間、世の元の国常立大神を艮(東北)の方へ押し込めて、自由自在にして来た現の世であり、その原因結果(めぐり)が浄化の為に浮かび上がる今の世であり、コロナ禍もその現れであるぞ。
特に西暦二千二十年、ニ二の令和二年より、世の浄化は激しくなりているのであるぞ。
いろいろの出来事、病争貧の苦渋もその原因は、人間の作ったものであり、いろんな悩みも、その原因は我が身にある事が判り、いろいろの悩み苦しみも時節到来、原因あっての結果の当たり前の事であり、身魂の磨きの為である事に氣づいた者は、自ずと禊れて、新しい世へ渡る事が出来るのであるぞ。
御魂と肉体霊、魂魄より起こる心…。
自分の思った事が総て正しいとは言えぬのであり、困った事を人のせいにしたり、あまりにも、我が身をいためつけると、魂の勢いが弱るから、是(これ)も時節到来の結果と時の流れに身を任せ、自然体で歩みゆくのじゃぞ。
常に順風満帆では、航海出来ぬ現の世じゃぞ。
雨や嵐の中も進まねばならぬのじゃ。
その中で御魂の親神は、見守りておるのであるぞ。
その事が信じる事が出来れば、必ず闇に光が差して来る、嵐の海もおさまりて来るのじゃぞ。
災いと恐れし病争貧も、浄めとなり、成長の為であった事が判って来るぞ。
然しそれは、後で判る事であるが、今の苦しみは、その日を迎える道の上である事を忘れぬ事であるぞ。
魂は、霊主体従の道を求め、魄は体主霊従、目に見えた、地位名誉物金に救いを求めるのじゃ…。
形あるものは滅するのにな…。
避け難き病争貧も様々な災い悩み苦しみも、この浄化の世であるから、やむえぬ事と受け取りて、不安恐怖とも同居して、迷わず、目の前の今、為すべき事を一つ一つと果たしてゆく事であるぞ。
形ある現の世に不安恐怖あるのは当たり前。受けて立つより、先を案ぜず、不安の中に突入じゃ…。
便所の底まで落とされた、金勝要神、守るぞよ。
言霊神也 ン
令和三年四月九日
天橋道士龍華斎修聖拝写。