不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

玄徳道

道を語るブログです。

令和三年四月、三六九神示。

2021-04-27 19:44:00 | 神示道

コロナ禍、終息せず、第四波と言うておるな。

人民は病争貧の苦渋無く、明るく楽しい、暮らしを願っておれど、中々そうはまいらぬのじゃ。

今は体主霊従と化した三千年の罪科の浄化の時と申してあるぞ。

何事も無く平穏な世を願い、神にも祈りておるが。
願い通りの祈りの通りにならぬからと、神も仏もあるものかと神交(信仰)の道から離れてゆく者も出来てくるが、真は神ある故の浄化であり、浄化の為に人間の願いとは逆さまの事も現れて来るのであるぞ。

されど人民が災いと思う事によりて世は浄化されてゆくのであり、禍(わざわい)転じて福と為す、神の図りが段々と判りてまいるぞよ。

それ故、今の世はすぐには、善くならずとも、しかと生かされてある事をかみしめて、避けても逃げても、迫り来る、病争貧の苦渋や悩み苦しみ悲しみと同居せなばならぬのが、浄化の今の世の万民の歩まねばならぬ道。

形ある物は必ず滅する現の世なるが故に、三千年の間に積み重り、凝り固まった罪科も浮かび上がり浄化されて消えゆく為に避けても逃げても追いかけて来る病争貧やその他の災害の苦渋であり、生病老死の四苦のある事、受けねばならぬ、越えねばならぬのが、必然である現の世であり、様々の苦悩苦渋の招来を悩み悲しむよりも、それによりて、つもり積もった罪科や汚れ穢れが浄化されてゆく、浄化の理をしかと覚るべきであるぞ。

この事が少しでも判れば、辛い悲しい中でも、ああ、それでも生命ある事、食って寝て放(こ)く(大小便)事が出来る。

生きる事の原点が一つ一つ判りそれが喜びとなり、光となりて心の闇を晴らすのじゃぞ。

人の身は、身と魂から成りており、その形ある体は人類発生以来、親から子へ血の繋がりをもって、今日まで続いて来たのであり、我は何も悪い事はしておらぬと思いても、その血の中には、どんな因縁(遺伝子)がひそみておるやも知れず、それが浄化の為に浮かび上がりて来るのであるぞ。その肉体にも肉体を守る為の霊があり、それは自己保存の本能であり、自我や欲の煩悩であり、それを魄と言うぞ。

その肉体を器とし、生宮として、八百万の神々、御霊(みたま)を分けて、現の世に生まれる時、産土神の仲介に鎮めるのであり、その御魂は、明浄正直、輝ける真澄の御魂(直霊)であり、その中に、特技特性も授けてあるぞ。

その清き神授の御魂の意(おも)いと、自我や欲の魄の思いとが重なって現れておるのが霊止(人)の心であり、鏡にたとえてあるぞ。

血の流れの中の悪しき因縁や、あまりにも、我が身を守る為とはいえ、自我や欲が強いと、それは固い思凝りとなり、清き御魂にこびりつき、汚れ穢れとなり、太陽をおおう、黒雲の如く、清き御魂を押し込めてしまう事となり、その様は、霊界まで続き苦しむのであるぞ。

それ故、現の世に身のある内にいろいろ苦労に会わせ、自我や欲の煩悩を磨かせ、少しでも御魂を奇麗にさせてやろうとするのが御魂の親神の愛であり、時には厳しき試練も体験させて、心の岩戸を開かせんとするのであるぞ。

三千年の間、世の元の国常立大神を艮(東北)の方へ押し込めて、自由自在にして来た現の世であり、その原因結果(めぐり)が浄化の為に浮かび上がる今の世であり、コロナ禍もその現れであるぞ。

特に西暦二千二十年、ニ二の令和二年より、世の浄化は激しくなりているのであるぞ。

いろいろの出来事、病争貧の苦渋もその原因は、人間の作ったものであり、いろんな悩みも、その原因は我が身にある事が判り、いろいろの悩み苦しみも時節到来、原因あっての結果の当たり前の事であり、身魂の磨きの為である事に氣づいた者は、自ずと禊れて、新しい世へ渡る事が出来るのであるぞ。

御魂と肉体霊、魂魄より起こる心…。

自分の思った事が総て正しいとは言えぬのであり、困った事を人のせいにしたり、あまりにも、我が身をいためつけると、魂の勢いが弱るから、是(これ)も時節到来の結果と時の流れに身を任せ、自然体で歩みゆくのじゃぞ。

常に順風満帆では、航海出来ぬ現の世じゃぞ。

雨や嵐の中も進まねばならぬのじゃ。

その中で御魂の親神は、見守りておるのであるぞ。

その事が信じる事が出来れば、必ず闇に光が差して来る、嵐の海もおさまりて来るのじゃぞ。

災いと恐れし病争貧も、浄めとなり、成長の為であった事が判って来るぞ。

然しそれは、後で判る事であるが、今の苦しみは、その日を迎える道の上である事を忘れぬ事であるぞ。

魂は、霊主体従の道を求め、魄は体主霊従、目に見えた、地位名誉物金に救いを求めるのじゃ…。

形あるものは滅するのにな…。

避け難き病争貧も様々な災い悩み苦しみも、この浄化の世であるから、やむえぬ事と受け取りて、不安恐怖とも同居して、迷わず、目の前の今、為すべき事を一つ一つと果たしてゆく事であるぞ。

形ある現の世に不安恐怖あるのは当たり前。受けて立つより、先を案ぜず、不安の中に突入じゃ…。

便所の底まで落とされた、金勝要神、守るぞよ。

言霊神也 ン

令和三年四月九日

天橋道士龍華斎修聖拝写。

















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダンノダイラ道

2021-04-26 18:39:00 | 神業道
大神神社のある三輪山の隣りには、巻向山があり古代出雲族の聖地ダンノダイラが在る。

JR西日本の巻向駅より、まずは、徒歩で奥不動を目指す。

一時間ぐらい歩くと奥不動寺。






巻向山の奥不動寺の裏手の奥にダンノダイラは広がっている。


三輪山と巻向山の狭間には、渓流があり、此処で磐笛達を沐浴させる。



ダンノダンノダイラである。

杉の養殖が凄まじく、見映えはしない。








私の御用は、磐座にあるので磐座を目指す。




上下二段の磐座の上座。





下座。





此処で私の友である、磐笛十二躰をそれぞれ、呼応する、咒、経、祝詞と添わせ、磐笛を吹き、磐笛達の宇宙を表し、磐座と感合する。

そして、鎮魂により、磐座と一体化とする。

ただ、無心無形の感合あるのみ。

ここより、巻向山を目指す。

巻向山頂上。





五六七、一。コロナか、弥勒か、一厘か。

巻向山は、三輪山の隣りにある神域でもある。三輪山には多くの参拝者が訪れるのに対して、巻向山には殆ど人が来ない。

古代三輪山は太陽の奉斎地であり、巻向山は大地水源の奉斎地である。三輪山が陽ならば、巻向山は陰。三輪が厳ならは、巻向は瑞なり。

ゆえに、巻向山に訪れるのは、裏の神業奉仕者のみ。

そして、水源地へ向かう。

なんだこりゃ。




ネットで調べると、白石の神域と呼ばれているらしい。


カエルの歌が聞こえてくるよ、「ゲロゲロゲロ、グゥわグゥわグゥわ。」

カエルの歌を聞くと、水神社に到着。




水神坐水沼神社なり。水神社には社はありません。この地より、源泉コンコンと水が湧き、渓流を形成しております。
此処の眷族神は、中々強烈です。人間が森林を伐採し、人間の都合で、山道を切り開き、人間の勝手で自然を破壊する事に怒っております。

しかし、これ程強烈な眷族神がおられるのであれば、この神水源地も安全でもあります。

私は、ただ、水湧く水源におられる、主神に祝詞、経、咒を磐笛と共に奉唱するのみ。

帰りに、次の水業の為に、巻向山と三輪山の間にある渓流で水を汲むと、強烈な眷族神の優しい気をいただきました。

これは、数年前に関西一圓、台風の被害多く、巻向山と三輪山との間の車道が崩れた。その次の週に車は通れなかったが、私が徒歩でダンノダイラへ行った時、土砂から、泥だらけの石を無意識に拾った。


この石を渓流で洗った。貫通してはいないが、磐笛である。

三六九神示の小長谷修聖さんは、これを天授の石笛とおっしゃってくださった。

この石は、三輪山に神業奉仕者のみが参拝する四魂石と呼ばれる磐座があり、その中心磐座とそっくりであった。

余談ですが、泥だらけの石を拾い、それを洗い、たまたま、磐笛であったのは、天の橋立海岸の磐笛、稲荷山の磐笛がある。こちらは、共に穴が貫通している。





天地の 神に使える 者達よ 纏向神の 功を覚られよ。







コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

令和三年四月八日。小長谷修聖、三六九神示 霊視編

2021-04-22 18:54:00 | 神示道
始め、兵庫県赤穂の昔の塩田が見え、何人かの人が木の桶で海水を砂の上に撒き、日光の照り輝く中、木の鍬のようなもので、掻き均し、近くの小屋からは、塩を炊く煙が出ていました。

その様を、椿の花の咲く丘の上から、塩土翁と龍宮乙姫がながめておられました。
(注 塩とは水火〔しお〕である。そして塩田の砂〔土〕。

塩土翁は、水火土〔しおつち〕翁である。

あらゆる動物は、海の中の魚〔龍〕から進化し、体を生じたのであり。

宇宙根源の神、天之御中主神が海之御中主神と現れ、水火土翁の変化されるのであり、その恵みが塩〔水火〕であり、浄化の力を有す。

龍宮乙姫は、地上では、瀬織津姫神であり、水氣根源豊受大神の変化であり、大浄化を有する神である。

塩〔水火〕は、日の神、水の神、土の神、火水土一体で成っており、万物の生命を養い、汚れ穢れを浄化する。

椿は龍宮の神木である。)


次に大阪の住吉大社が拝され、社殿の両脇に朱塗の鉾が何本も立てられ、社殿で何か祭典が行われていました。
(注 住吉の神は底筒男 中筒男 上筒男の神、三柱であり、海の氣が、底から中、上への上昇する働きであり、人体にたとえば、底、即ち腹の氣を胸、口へ上げて発する言霊の働きである。

筒は龍体を現し、朱は、祓いと浄化力であるので、朱の鉾を立てての祭典は、コロナ四波の中、大難を小難に替わる祭典であろう。)


次に那智滝が拝され、瀧口に瀬織津姫の神が立たれ、下の舞台で出口聖師が礼拝されました。

そして次に籠神社の拝殿に黄金の神輿が置かれていました。
(注 籠神社の神輿は、本年も出されぬが、天照国照日の出の神の神輿であり、偶神、瀬織津姫の神と共に世の浄めの為、出現の時を示されているのであろう。)



















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

運霊。日の出道。

2021-04-12 19:46:00 | 宗教
出口日出麿が叫ぶ。「まず、純真の自己にかえれ。

まじりけのない自分のみに戻れ。」


人とは、人に左右される存在。簡単に自己の本源に戻れない。

それほど、人種は昏迷している。、

文明とは誇りと傲り。物資世界と人為的宗教が交わり、そして、魂なる本源を消費する。


「他人が、笑うかも知れん。と。くらい気にして、いつも、クヨクヨ思うままをなし得ないことではならぬ。他人に迷惑をかけることは良くないが、さもない場合、バカげた理由の為に自己を殺している人々は近頃ずいぶん多い。

なんでもないことを独り気をもんだり、遠慮したりしていては、まるで、この世へなんのために生まれさせられたのか分からなくなる。

各自異なった使命をもって生まれているのであるから、各自全力をあげて、良い意味の自己完成をなしたら、それで神も、ご満足、当人の使命をはずかしめなかったというものだ。」


人とは独りでは生きていけない。

故に社会を形成し、相互互譲なる道が生まれる。

助け合い、人を羨み妬み、毀誉褒貶するが、人類の歴史でもある。

この人類の歴史に於いて、自己の使命、役割を覚る人は非情に少ないのである。

出口日出麿さんを初めて知ったのは、大本教による出版、「神仙の人、出口日出麿」です。

今から三十年前、当時、高校生であった、私は、目から鱗が飛び散るほど、感激感動し、読みました。

多く観

良く観

多く聞き

良く聞き

多くかぎ

よくかぎ

多く味わい

よく味わい

多く触れ

よく触れ

多く思い

よく思い

もって悟るよりほかに手はない。



幼少より発達障害者である私は、詞に感動しないが、この詞を然りと感涙した記憶があります。ははは。今から、三十年前も前の話し。

出口日出麿さんは、吾が師、至聖先天老祖より、笹目秀和さんと同じく、特命なる道名を賜り、「運霊」とされる。

霊を普遍に運行されるの意。霊とは一般の人の考える幽霊の霊とは別物の意味であり
、漢語辞典を開けば、神の体を表すなり。

ワールドメイトの深見東洲氏は出口日出麿さんと、面会したことが在るらしい。彼の師の独りであった、根本宏、道名は、誠乾師から、聞きました。深見氏は、日出麿さんは神仙であると述べられていたとか。

「老祖訓。…………………運霊(出口日出麿)を派して大和中央主院の責任宣霊統掌と為す。即日、職に就くべし。…………各々知りて遵え。

運霊の生まれは由って来る所あり。尋仁(出口王仁三郎)を継いで大同の法要を世界に如く者である。汝の負う責任は甚だ重大である。然も、尋仁は基を固むる時代を為し、汝は展開の時期を為す。

基を固むるは、固むるは、困難であると言えども、その実は至って容易である。展進は容易であると言えども、その実は困難である。何故ならば、基を固むる時は堅忍して信じ守れば、宜しいのであるけれども、開展に至ってはこれと大いに異なる。

必ず、時代の潮流にしたがって人心の趨勢(なりゆき)に合し、道の自然を以て人心についてこれを正し、道の平易を以て人心について、これを導く、しかる後に、世界大同の真境が出現し得るのである。

若しそうならなかったならば、我の唱える所を以て、世界宗教を統一し得るであろうか。時代は、既に同じからず。宗教また、背くものと従うもの有り。人心も並に反対するものと賛成するもの有り。

これを大にして、包まざるなき、中道を以て、世界各教の宗(とうと)ぶ、所を集めて、研究するのでなければ、宗教門徒の見解と道徳境域の区別を化(みちび)き除くことは出来ないのものである。
これ、大道が仏教と和し、回教(イスラム)と和し、道教と和し、耶蘇教(キリスト)と和し、儒教と和して、共にその精微なる奥義を参解(りかい)し、以て世界人類の互愛、互善、大楽の本と為す所以である。

汝は既に道運を継承し、ここに霊化を宣揚する以上、必ず、まさに眼光を四海に放って、以て大同の妙機を悟り、知恵を人類に着(あた)えて、大道の玄諦を悟るべきである。運霊、つぶさに之を悟るを可(よし)とするのみ。」

吾が師は、日出麿さんにかなり期待をされておられました。

しかし残念ながら、第二次大本弾圧により、精神が狂うほどの拷問を請けられた。

何とか出口日出麿さんに復活して頂きたいと考える人は、香港のフーチの壇で治す方法を呈判したらしいのですが、運霊は、既に正気を喪っており、云々と根本誠乾さんから、聞いたことがあります。

ある人は神仙の世界に入っておられる。

片方は、もはや、正気を失っておられる。


ここで私は思考する。人間にとって、本質は、身魂。魂と肉体があり、初めて神人合一する。

魂と肉体の使命を遂げて完成する。

故に出口王仁三郎聖師は、人を殺すなよ。殺すなら、殺されよと。

おそらく、人を殺す事は、途方もない、カルマを背負わせられる。

当然に自分殺しも同様である。

殺されるだけならば、神はその四魂を救うなり。






無邪気なる子供ごころに神さまとおすがり申すが宜しかりけり。

神さまのあることだけが分かりたら安心立命はできるなりけり。

吾(わが)ための吾にあらで神さまの心のままの吾にてありけり。



真に神を信ずる者は、真に神を相手としてのみ行動している。ゆえに、どんな場合にでも、感謝があり、希望があり、安心がある。

しかるに、神を信ぜざる者は、つねに自己の利害を基本としてのみ行動している。ゆえに、おうおうつまずき、焦慮し、絶望する。

世に神を信ずると称している人々は多いが、真に神を信じている人は少ない。


私は毎日神さまのことで頭が一杯だ

世間の人が聞いたらフフンと笑うだろう

神さまより外に頼るべきものはないと

いよいよますます思うてやまない

神さまは私には在る

見える

聞こえる

感じるのだ

昔の私には神さまはなかった

見えず

聞こえず

感じなかった。


bye出口日出麿。




























































































































































































コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

住吉、大海道。

2021-04-07 20:35:00 | 神社道


私は、東北岩手県、陸前高田の出身である。母の実家でもある。

東北大震災により、かつての故郷は、一度、塗炭となった。私はその地から、産まれた。

私にも、かつて、実父があり、東京に住んでいたらしい。賭け事が好む癖があり、会社の金を持って逃げた。当時、わたしには姉があり、母は私を孕っていた。

我が母は、一種の烈女であり、父を愛しつつ、蒸発した為に、故郷なる岩手県陸前高田市に帰り、出産に控えた。当時、母のストレスから私は逆子となったようだ。親類から、堕ろせと言われながら、私を産んだ。逆子は治まったが、破水し、難産であったが故、わたしは頭を鉗子に挟まれて参道を引っ張られ、生まれた。

頭頂が盛り上がった。

私は、父の優しさを知る。幼き記憶がある。父が大好き。母はいつも癇癪を起こしていた分に余計。

けど、つまらん人間である。賭け事につまづいておる。

私は、その賭け事の因果を払拭すべく、賭け事は、しない。次の世代へ因果を無くすためにも。いや、それ以前に賭け事を憎むなり。賭け事とは、人を幸せにしない、人間の利器である。

私は、正道、正業にて、金銭を頂くのが嬉しい。
当然に、宝くじ等は買わない。

後、蒸発した父を母は探しだす。そして、私が幼稚園の時に再度蒸発する。そして、二十幾数年を越えた時に自殺した父とまみえる。飛び降り自殺なり。父が落ちた衝撃と痛みは、わたしが治める。四魂は、バラバラとなり地獄に堕ちる。朽ちる魂を私は食べる。(昇華す。)

なんのかんのと、私には神との出逢いがある。

仙台市にある、大崎八幡宮。当時、高校生の時、日参した。私は、発達障害者にて、人と交えられない、独自の思想があり、当時は、コスモメイトの深見青山さんに、心酔していました。しかし、ここの神は、私が独自で審神し、感合していた。



その私が、何かの縁にて、大阪に就職した。

私は、就職活動する前に住吉大社にお参りした。

住吉大社との奇縁。その不可思議の気持ちの良さ。

就職活動し、二つの会社にしぼられた。

その時、朝夢を見た。

首の取れた、魚が現れ、その後に、小さな金魚が現れた。

私は、愚かな心にて、後の会社に就職した。百貨店での仕事。

この就職で私は、私の心を安らげてくださる女性と出会った。

今は左官職人ですが。

 

昔、私は住吉大社で、おみくじを引く。八割が、凶となる。

今でこそ、おみくじの吉凶にも、囚われない、迷いない、不動心となっているが、(もはや、ひくことも無い。)当時は、何年も何年も凶ばかりだから、かなり凹みましたよ。

たかが、おみくじ、されどおみくじ、いつも自省しておりました。

それでも当時、住吉大社は、吾が神父であり、大好きでした。
ちなみに当時、吾が神母は、西宮神社であり、神社を守護される眷族神(亀龍)により、優しく慰められておりました。

ある、宗教団体では、住吉大神とは、白龍神であるとされる。

確かに住吉老人は、白龍と顕現されると、わたしは感じる。

今の住吉大社の境内の近くには、海がありませんが、はるか昔は、海辺に面しておりました。海神住吉大神。

そして。海の神として、塩土之翁なる神が存在する。

宮城県の塩竈神社の主宰神である。

この、塩土之翁は、古事記に存在し、山彦、海彦物語に記されており、三六九神示の小長谷修聖氏の導きの神であるとワタシは思う。

さて、塩土之翁とは、南極老人である。

知らん人は知らない。知っている人は知っている神。

南極老人とは、仕組みの神。

そして対極の北極老人とは、至聖先天老祖。エホバ、天之御中主とされる、思想もあるが、どうでもよい。

神とは拝み、拝し奉るだけの存在にあらず。

神とは、吾、私、我、貴方、天地の万物、悪魔すらも、道玄すべき存在。

この地球の大海原も同様なり。

人間とは神に感謝すれば、全て無事、治ると考えておられる人もいるが、神には、「我を拝み拝し奉れ、供物を備えて、かしこまれ、神に逆らうな、我のみを尊べ、感謝せよ、神に生かされる人間にはそれしかない。」なんて、低級霊のような、感化は、断じてない。

神の思考を考えるなよ、人間よ。

自己の心を燃焼し、精一杯生きてこその、神仕組み。

そこは、信仰よりも、己の魂の顕現、を己の神を進言、真言させる。これこそが、神撚り。神が喜び発露する。

神に供物もおべっかも無用なり。



扨て、住吉大社とは、未だに、神気が湧く珍しき土地の神社。

その摂社に、大海神社があり、そこには、潮滿珠があるとされる、井戸がある。






私は、この井戸の海水のような、御神水にて、私の友なる、磐笛達を清め沐浴させる。


この大海神社の御際神は、諸々の由緒があるが、大海原を総べる白濁の白龍であり、日の本の経綸を司る、潮土之翁なる老神なのである。のかも知れない。

潮み滿ちさせる。珠。潮を引かせる珠。

地球に住まう学ある人間ならば、海の滿ち潮引き潮などは、地球の自転と月の引力による相力であると知れよう。

されど、この運動こそ、地球の生命力の当体でもある。


ああ、私が大海神社にて賜った、穴が貫通した磐笛を載せている。

これは、愚かな私に神が憐れんでくださり、神の真現を明かしてくださった証である。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする