玄徳道

道を語るブログです。

令和五年四月 三六九神示

2023-04-25 19:00:00 | 神示道
三千世界一同(いちど)に開く梅の花。

艮の金神の世に成りたぞよ。

梅で開いて松で治める神国の世になりたぞよ、と。

明治二十五年旧正月、丹波綾部の出口直刀自に筆を持たせ書かせた、艮金神国常立尊、三千世界の年月契、封印解けた初声であるぞよ。

厳寒の冬を堪えて花咲く梅(埋め)の花。

この地球も修理固成(つくりかため)た、国常立尊は、三千年、艮(うしとら)の方に、鬼や蛇じゃと.封じ込まれ、厳寒の冬の如き艱難辛苦を堪えながら、陰から、現の世の守護を致してまいりたぞよ。

丹後の荒海、絶海の孤島、女島に封じられ、龍宮乙姫が御仕えして、お世話を致し、陸の真名井原磐座から、御祭りを海人族がいたしてまいりたのであるぞ。

龍宮島女島へ隠棲いたしたのは、時来れば、隣の男島より、籠宮に鎮まる、天照国照日の出神、龍宮の乙姫つれそうて、お出ましの仕組みもあった故であり、女島は、大本教の神出現の神島であり、男島女島は、籠大神出現の神島でもあるのじゃぞ。

三千年前と申せば、縄文時代からやよい時代へ変わる頃でありて、石器縄文の時代は何万年も続いたのであり、縄文の世は世の元の神を祭祀り、人民はその言霊に順いて、互いに助け合い、争う事無く、恵も皆で分けあいて、貧しくとも、平穏に暮らしておりたのであるぞ。

体主霊従(からたま)の物質文明は大陸から先に始まり、段々日本へも、体主霊従の智恵学や、利己主義(われよし)の道が入り、この神国、霊主体従(ひのもと)の日本の国も次第に、強い者勝ち、利己主義の国へと変わりて来たのであるぞ。

物質文明も大事であるが、物の栄に目を奪われた、日本の人民は、次第に霊主体従の道を忘れて、しまったのであるぞ。

今や、人民は、縄文の昔とくらべれば、結構な楽な暮らしをいたしておるが、強い者勝ちの体主霊従のやり方であるから、恵の奪い合いの争いは、絶え間無く、物質文明の発展の為に、大事な地球をどうにもならぬほど、汚して穢してしまい、核兵器まで造りだした、今の世は、世界の大戦争となれば、人類滅亡にもなりかねぬところまで、まいりておるのであるぞ。

その事に気づき、和の道を開かんとする者が出れば、又、それを封じ込まんとするのであるぞ。

我が我がの国取合戦をやめようとせぬ人類であるから、これ以上人間に現の世を任せておけぬ、時となりたから、先々からの筆先の如く、艮の金神を始め、世の元からの神々が、構な行けぬから、神界は神々や龍神を使い、荒事も起こして、警告をいたし、人類の改心を迫りておるのであるぞ。

人類の災いと恐れる、地震や噴火も、世変わりの氣を起こす為であるぞよ。

昭和二年三月七日(1927年)には、丹後の大地震を起こし、三千人もの者が犠牲となりたが、今騒がれる南海の地震も世を替えてゆく為のやむなき修理固成(つくりかため)の神の業であるぞよ。

神は大難を小難に済ませてやりたいと思へども、世の氣を替える為にはやむをえぬのじゃぞ。

荒事を起こさねば形ある世の氣は替わらぬ定めであるぞ。

これまで、人類が災害(わざわい)と思う荒事の度に、世の気も姿も、替わりておるであろうがな。

火の迦具土の神が生まれる時、母なる伊邪那美命は、火傷して死んだと伝え、父なる伊邪那岐命は怒りて我が子、迦具土の神の首を切ったと申すのも、一つには、マグマが吹き上げ、山の頂きが、吹き飛んで、溶岩が山を焼いたり、形を変えた、この地球の修理固成の様でもあり、争いは、親子夫婦の近親から起こり広がる事も示してあるぞよ。

何としても、この地球の汚れ穢れ、浄め祓い、人類を元の霊主体従(ひのもと)の道へ返して、神人、天地、万物、共存共生の世を開かんとするが、神の御図りの仕組みであり、その実現がみろくの世であり、地上天国、日の出の世であるぞ。

厳寒の冬を耐えねば、梅も桜も、桃も咲かぬ。

世の元の神々の三千年、封じられ、苦渋いたした事、正しき事を説く者が消されて来た事、即ち埋めの花じゃ。

これまで埋められて来た神理が花と咲く事を、三千世界の梅の花と申してあるのじゃ。

これから、新しき世の開きに世の元からの神々、神氣をふるうのであり、人民も様々な苦しき試練の節を越え、禊れ、自我や欲の思凝の岩戸が開けて、神の授けし、御魂の光がら輝いて来るのであるぞ。

綾部大本教は、神事型を出すところと申してありたが、日本は世界が平和になる為の型をしっかりと、出さねばならぬ、神命の国であるぞよ。

外国の言いなりや、真似をいたしておるような事では、日本は神の命を果たせず、腑抜けの国となり、亡びてしまうのじゃ。

しっかりと.狂わぬ世界、平和の要の型を打ち立て始めて、日本も世界も救われる事となるのであるぞ。

国中に、蒔いてある龍宮の石の種(魂意志の種)必ず、芽吹くぞ。

各地各所に世を憂い、平和の世を願いて立ち上がる御魂の者の芽吹きを待つぞよ。

闇の世は明け日の出の御世を松の橋立、神風吹く、令和五年は神仕組みの新しき一歩の踏み出し、籠宮の日の出神の神輿出るぞよ。

言霊神也 ン。



令和五年四月八日

天橋道士、龍華斎修聖拝写。








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令和五年四月八日、小長谷修聖 三六九神示霊視篇。

2023-04-24 21:02:00 | 神示道
紀州熊野の伊邪那美命の陵と伝えられる、花の窟と、その前の火の迦具土の神の磐座が見え、次に伊邪那美命と迦具土の神を祀る産田神社が拝され、その前に白衣の女神が赤い布でくるんだ、赤児をだき、にこやかな顔で御立ちでありました。

(注 伊邪那美命は火迦具土を産まれる時、火傷して亡くなり、我が母を殺した子を怒り、父なる伊邪那岐命は迦具土の神の首を切り給うと言う。

この事は、自然現象ではマグマ(火迦具土)が山頂を吹き飛ばし、溶岩が山を焼く、この地球の修理固成の様であり、又争いは親子夫婦近親の争いから始まり広がる事を示されている。

火は天の太陽だけで無く、この地球の底にもあり、マントルやマグマは火迦具土神であり、天照国照日の出神は、太陽の氣と地球の底の火気一体となりて、神霊(みたま)が成っている事を示されている。

産田神社の母子の神は伊邪那美命、迦具土の神の和解の姿であり、夜叉から母神に返られた姿であろう。)

次に熊野本宮が昔あった大斎原の石祠の前に、厳霊出口直刀自、瑞霊出口聖師、要神出口すみ刀自、日の出の神の縁の三代出口直日様が御立であり、出口すみ様が日の丸扇をぱっと開かれると、その中から三つ足の烏が飛び出し、その烏は、丹後の真名井神社の鳥居にとまりました。

(注 大本は神業の型を出すところで、日の丸扇は、日の出みろくの神の出現の型が示され、それが出口直刀自から三代直日様の間に示されている。

三つ足烏(ヤタガラス)は、太陽に住み、天地を通う神使であり、熊野本宮のシンボルでもある。

熊野本宮の主神のは豊受大神(国常立尊)であろうか。

南海の気が動いている事を感じ、さわがれている。

南海地震も世を替える神業であり、大難が小難で済む事を祈る。

熊野本宮には家都御子神として、素戔嗚尊が主たる神と祀られているが、熊野三山奥院玉置神社の主神は、国常立尊である。

玉石には饒速日命が鎮まる。)

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超抜冥修道

2023-04-18 04:55:00 | 奇道
人は、死ぬ。

例え、それが聖人であり、仙道の奥義を究めた仙人でありとも、神人合一を窮めた神人でも然り。

神界、神仙界なる世界は存在する。

そこは、やはり、死んだ魂がおもむきます。

もちろん、天国と地獄は存在し、其処は、自己の想念、思念により赴く世界でもあります。

それは、真実でございます。

日本古来の神道で言えば、隠り世であり、人は死ねば、魂は、神に還り、魄は、大気に返り、肉体は地に帰るのみです。

故に、神道では、教えはありませんが、神なる根源に戻り、また、復活を致します。隠れたら、また、必ず現れるからです。

佛を述べれば、人が死ねば葬式があり、その想念の流れは、三途の川があり、姥捨が俗世の着物を脱がし、魂魄は、人生の功罪により、閻魔の裁きを受けます。

子孫は、先祖にあの世で幸せになって欲しいために、戒名をつけて、お寺にお布施して、あの世の裁きを少しでも楽になって欲しいと、極楽に行って欲しいと願いますね。

佛道には輪廻があり、六道を巡り、また生まれ変わる事となります。


縄文時代には、葬式なんて無く、人が死ねば隠れて古い着物を脱ぎ捨て、時が経ち、時節か来たらば、復活すると確信して、死とは、穢れではありませんでした。

太古の時代は葬儀もなく、自然こそが、全てであり、人の屍は大地へと還元され、土へと還るのみであります。

言わば、魂は、根源に帰り、魄は、人の思念なる、世界(霊界)に留まり、身体は大地に還ります。



人情でいえば、愛する家族が死期を迎えるのは、耐え難く、また、家族の情は、それを納得せず、様々な情念に覆われますね。

それが今の人でございます。


人が死ねば、魂は神に帰り、魄は、天国と地獄に堕ちて、そして、残された人は、嘆き、悲しみ、その情念は、霊界を更に、穢す行為ともなり得ます。

愛する人が死に、何故、人が悲しむのでありましょうか。

全ては、執着でございます。

愛欲でもあります。

愛するが故に、死んだ後も、ひたすら心配、執着を致します。

道を歩む者は、人の死の本質を覚り、人の魂魄の行き先を観て、人の神の本質を悟ります。


故に、道を修める者には、超祭を許されます。


超祭とは、神の赦し。

自然なる根源なる先天炁に委ねる法であります。

超祭の功徳は、粉砕された、魂魄ですら、回光救済、致します。

戦争、テロ等で殺された、人の魂と心なる魄は、肉体と繋がっており、特に、爆弾等で死んだ人の魂魄は、肉体と同様に粉砕し、偶然に、魂は神に帰っても、魄なる人の心は、粉砕、破壊された無限ループに囚われるのでございます。

故に戦争等における肉体の破損は、魂と心を破砕し、修復する事は、かなり難しいとされます。
 
されど、唯一取り戻せるのが、先天の炁でございます。

炁とは、原初の始まり。

炁とは水。水は万物を育む親。

水炁を化すれば、火炁となる。

言わば、超祭とは、水炁と火炁の祭り。

祭りとは、真釣り。火水合わせ。

阿衡なり。均衡なり。調和なり。


そして、超祭ありてこその超抜冥修。

道院による超抜冥修とは、神様から、許可を得て、修方の先祖の為に、子孫なる修方自身の功徳、功行によりて、故人を輪廻の軋轢から度(すく)い、その霊人を聖霊、神霊の元で修行させる、法でごさいます。

女霊であれば、蓮台聖なる観音様が、霊界の聖域、「潮音」にて、霊修、冥修してくださります。

男霊は酒仙、済仏さんが霊界の聖域、「南屏」にて、霊修、冥修してくださります。

当然に、日本人であれば、その霊は産土神が働き、その神縁により、産土界により、超抜冥修が行われると考えます。



超抜冥修とは、例え、人殺しや自殺し、地獄に囚われている霊魄でも救える唯一の神宝でもあります。

人殺しも自殺も共に、人の御魂、自分の御魂を殺した、神殺しであり、大変な罪業であります。

それを救える、超抜冥修は、古神道にある十種神宝なる、死返しの宝(法)と同様であるの考えます。

かつて、道院では、香資(献金)により、フーチにて神使により、超抜冥修を許可されておられたようであります。

フーチ無き今、真の修道者は、坐功により、自己の小周天を大周天へと回光させ、自らを回天の礎として、多くの縁ある諸霊、先祖霊を聖域へと導く筏となり、神霊、聖霊、産土神と共に、諸霊を超抜冥修の法により、済度される事を行って頂きたいと考えます。

太陽なる光があり、漆黒の闇があり、それらに、照らされ照らすが月照神。

弥勒神とは同履なり。

未来へ至る道を示し、全てを救う当体なり。






コメント (3)
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