神は本来普遍であり、神の気は天地間、至る所に満ち充ちている。しかし、人間側に気づく人は少ない。
真理の探究者、神覚者、霊覚者が霊界の存在を明らかにしておられます。出口王仁三郎の霊界物語、スウェーデンボルグの霊界日記、宮地水位の異境備忘録、平田篤胤の仙境異聞など。これらの先人の書物との出会いは縁であり、先人達は己の宇宙を顕わしておられます。これらを盲信せずに、参考にし、幅広い見識を得られるのであれば唯意義でもありますね。
霊界とは言わば、心の世界であり、想念の世界でもあります。多くの霊覚者たちは、あくまでも自己を主とした主観的霊能により様々な異界を観られておられます。霊能力者が百人おられても、一つの異界に対し、観える世界は違うようです。また、時折一致する事もあります。
人の死後に天国と地獄に行きつく先が分かれるのも、人生を歩んだ自分の心境に即した世界に行くことになるのも、霊界が想念と心と深くかかわりがあるからです。
神界とは、神々がおられる世界であります。ちなみに道院では「妙山」と呼ばれております。妙山はあくまでも喩えだと私はおもいます。
神界、霊界、幽界、様々な「界」を創造したのは人間であります。太古の時代、人がはじめて生命の活動された時は、霊界の存在は無く、人と神に境界は無く、神と人は常に一体となっていました。当然人と神を分ける神界の存在もなく、神は普遍に満ち充ちていたのです。
人間の成長とともに霊界は発達し、知性、知能の高まりとともに、神は人から離れて行きました。いや、人が神から離れたのです。神を拝み拝し、奉る、畏敬の存在とし、祈願の対象のみとしてしまったのです。
ある意味では万物の生生化育の中で、人間の霊性の進歩発展の為に一時的に神から離れさせたのは神の経綸があるのですが。
今の人は神界、霊界、幽界と分かれているのが当たり前なのかもしれません。それでも人々が自己の神性に目覚めなければ悲しき海、永遠の輪廻の世界を彷徨ってしまいます。今の人は心である、魄が主体となっており、高次の自分である魂が心の欲望により隠れています。岩戸開きの天照太御神の如く、自己の神性が顕われて、魂が主体とならねば、真の自分を、真我を悟り、神人合一を得、神の働きを、真に援けることは出来ないのです。
多くの霊能力者、教祖様は、自分が神界から来て神界に帰る存在であると自称します。そして、その信者達は尊敬と羨望のまなざしで見られておられるでしょう。
もし、神の世界から来られたのであれば、普遍で無限なる神の存在に神界などは無いのですから、その存在を覚する人であれば、自分が神界からやって来たと言う発言はありえません。神は自らの存在を決してアピールするはずもないからです。神界の守護と言う言葉を発する人、霊もいますが同様です。
自称、他称共に神界から来たと言う観えない存在、人間の言動は眉唾モノかもしれません。参考程度に聞きましょう。
人には神性である魂を宿しています。ゆえに人は神の御子でもあります。人が数多くの転生を繰り返し繰り返し、輪廻を廻った中で、様々な成長がありました。当然、善くも悪くもです。堕して魔に覆われた魂。昇り光輝く魂。上乗し、調和を得た魂。肉欲に溺れ、小さく摩耗する魂。この中で、神に帰一することができるのを多くの人が忘れています。
禅で言えば、「祖父母以前の自己の真の面目に帰る。」自分の先祖様を超えたルーツであり、根源神への道です。
吾が師、至聖先天老祖、国祖国常立之尊をはじめとする八百萬の神々の出現、聖人賢人の生誕は一重に、根源なる神に帰一できる教えを説いているのです。一人一人の人間が道を修め、社会生活の中で愛と真心で生き、互いに思いやりを持てば、世も善なる方向に赴き、平和な世界に成れるのです。
吾が師、老祖は先天坐法を以って回帰への道を降ろされておられます。その縁は御魂相応でもあるようです。先天坐法により、心を超え、高次の自分との対面があれば覚神への道に入ったと言うことです。そして、高次の自身が主体となった時こそ、輪廻の世界を離れ、解脱し真の働きが出来るのです。
「外に神を求めるのではない。吾が内に、道を見いだすのである。」
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真理の探究者、神覚者、霊覚者が霊界の存在を明らかにしておられます。出口王仁三郎の霊界物語、スウェーデンボルグの霊界日記、宮地水位の異境備忘録、平田篤胤の仙境異聞など。これらの先人の書物との出会いは縁であり、先人達は己の宇宙を顕わしておられます。これらを盲信せずに、参考にし、幅広い見識を得られるのであれば唯意義でもありますね。
霊界とは言わば、心の世界であり、想念の世界でもあります。多くの霊覚者たちは、あくまでも自己を主とした主観的霊能により様々な異界を観られておられます。霊能力者が百人おられても、一つの異界に対し、観える世界は違うようです。また、時折一致する事もあります。
人の死後に天国と地獄に行きつく先が分かれるのも、人生を歩んだ自分の心境に即した世界に行くことになるのも、霊界が想念と心と深くかかわりがあるからです。
神界とは、神々がおられる世界であります。ちなみに道院では「妙山」と呼ばれております。妙山はあくまでも喩えだと私はおもいます。
神界、霊界、幽界、様々な「界」を創造したのは人間であります。太古の時代、人がはじめて生命の活動された時は、霊界の存在は無く、人と神に境界は無く、神と人は常に一体となっていました。当然人と神を分ける神界の存在もなく、神は普遍に満ち充ちていたのです。
人間の成長とともに霊界は発達し、知性、知能の高まりとともに、神は人から離れて行きました。いや、人が神から離れたのです。神を拝み拝し、奉る、畏敬の存在とし、祈願の対象のみとしてしまったのです。
ある意味では万物の生生化育の中で、人間の霊性の進歩発展の為に一時的に神から離れさせたのは神の経綸があるのですが。
今の人は神界、霊界、幽界と分かれているのが当たり前なのかもしれません。それでも人々が自己の神性に目覚めなければ悲しき海、永遠の輪廻の世界を彷徨ってしまいます。今の人は心である、魄が主体となっており、高次の自分である魂が心の欲望により隠れています。岩戸開きの天照太御神の如く、自己の神性が顕われて、魂が主体とならねば、真の自分を、真我を悟り、神人合一を得、神の働きを、真に援けることは出来ないのです。
多くの霊能力者、教祖様は、自分が神界から来て神界に帰る存在であると自称します。そして、その信者達は尊敬と羨望のまなざしで見られておられるでしょう。
もし、神の世界から来られたのであれば、普遍で無限なる神の存在に神界などは無いのですから、その存在を覚する人であれば、自分が神界からやって来たと言う発言はありえません。神は自らの存在を決してアピールするはずもないからです。神界の守護と言う言葉を発する人、霊もいますが同様です。
自称、他称共に神界から来たと言う観えない存在、人間の言動は眉唾モノかもしれません。参考程度に聞きましょう。
人には神性である魂を宿しています。ゆえに人は神の御子でもあります。人が数多くの転生を繰り返し繰り返し、輪廻を廻った中で、様々な成長がありました。当然、善くも悪くもです。堕して魔に覆われた魂。昇り光輝く魂。上乗し、調和を得た魂。肉欲に溺れ、小さく摩耗する魂。この中で、神に帰一することができるのを多くの人が忘れています。
禅で言えば、「祖父母以前の自己の真の面目に帰る。」自分の先祖様を超えたルーツであり、根源神への道です。
吾が師、至聖先天老祖、国祖国常立之尊をはじめとする八百萬の神々の出現、聖人賢人の生誕は一重に、根源なる神に帰一できる教えを説いているのです。一人一人の人間が道を修め、社会生活の中で愛と真心で生き、互いに思いやりを持てば、世も善なる方向に赴き、平和な世界に成れるのです。
吾が師、老祖は先天坐法を以って回帰への道を降ろされておられます。その縁は御魂相応でもあるようです。先天坐法により、心を超え、高次の自分との対面があれば覚神への道に入ったと言うことです。そして、高次の自身が主体となった時こそ、輪廻の世界を離れ、解脱し真の働きが出来るのです。
「外に神を求めるのではない。吾が内に、道を見いだすのである。」
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