玄徳道

道を語るブログです。

無限道

2013-11-09 19:47:06 | 大道
人の天性は同じ木の実。

孔子の弟子、顔回は相対世界、つまり、人間種のむなしい、物質世界の価値観に囚われ無かったため、相対世界では貧しく、その姿は不細工であり、異性から敬遠される存在で、彼の信を知る人は、少なく、貧困ゆえに、友も少なかった。しかし、聖人はその当体、魂の発露を感得し、真の彼を観た。聖人は孔子である。
貧しく不細工、その姿は、垢に覆われ、異臭を放ち、それでも笑顔を絶やさない、人間に、違和感を感じぬ者は無いのです。それでも孔子は、彼を観た。

孔子は垢に覆われた人間に何を観たのであろうか。人の内なる神の発露を観たのである。

今の人は外観で人を見定める。人の真奥を観れる、覚者は少なく、身分、学歴、仕事、会社、親、親戚、先祖、血縁、霊等で判断する。ゆえに内なる神を覚神しない人間は、天の目は開かれていないのである。

確かに霊界の世界には、階級があり、序列があり、次元の壁がある。これを観る霊能力者は、見たままの世界観に陥る。さらに、龍神界等、眷属界に使役される人間は、階級、次元が大事であるとし、これを尊称するのです。

顔回は、「暁、舜何人や、私も何人や」と言いました。暁や舜は古代の聖王です。今の世で言えば、釈迦やキリストは、私と同じ人間ですと言いました。出口聖師に言わせれば、同じ糞製造機であると言うかもしれませんね。

いやいや、釈迦やキリスト、出口王仁三郎は、高次元の存在で愚かな人間と同一出来ないと言う、霊系もあります。それも一理、しかし、自己を限定する以上、釈迦やキリストの前に、永遠に跪き、自己の真なる宇宙を顕わすことが不可ともなりますが。

至聖先天老祖と言う神霊、出口王仁三郎は「大国常之立大神」とサニワされましたが、出口王仁三郎を観て、述べた神示は「尋仁の天性は生まれながらに受けたる所は人と同じ木の実。その誠なるに因って能くその道を成じ、その信ずるに因る故に能くその心を成ぜり。これ僅かに日本一の明哲なるのみならず、亦東亜大陸の先覚者なり。その悟る所を以ってすれば、僅かに東亜一方の危を安ずるにかかわるのみならず、その行ずる所を以ってすれば、実に以って世界人群物類の平安を酋むるに足るなり。」

日本最大の霊覚者、出口王仁三郎と言えども、根源神から派生した同じ木の実なのです。その天性には、差別はありません。違うところは、篤誠のみが違うのみ。熱烈な大本狂信者、オニサブラー事、鬼三郎依存者達からは批判され、怒られるでしょうが。

誠とは自分の真心。聖人と人間の違いは、簡単に言えば、至誠の発露の違い。ゆえに中庸の書物は「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり。」と述べているのです。

人は、誰でも、釈迦になり、キリストになり、聖師ともなれる事を知るべきです。尊敬すべきは尊敬し、決して、垣根を造らない。自分で、限界の垣根を定めない事が、道なのです。どのような人でも、無限の可能性を秘めているのです。

「たとえ、その夙根(前世での修行の基礎)や智慧や境遇、功候造詣などは、人によってそれぞれ同じではないが、ただその天性の善によって、その仁愛の徳を広め、人としての道理を全うし、道慈によって救い、人を救うところの真実の効果を実証する事が出来れば、皆同じように道を覚ることが出来るのである。」

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天地人道

2013-11-07 21:33:01 | 大道
天地は本来無心であり、地球は運行回転し、生生化育している。人身もまた小天地であり、一身の成長、働きは自己の善悪に偏り、知らずしらずして一生を波乱万丈に過ごしている。

天地が出来てから、人も生来し、万物が生生化育する陰陽の氣から生死の流動、淘汰、化育、また、輪廻の回転が生まれた。

天の時を知り、地の利を執り、人の和を生かす。

天の働きとはなんであろう。星星の運行。輝ける生命の絆、太陽の恵み。月の引力による満ち潮。四季折々の、風雨の働き、雷雨、台風、雪、霧、霜。季節に応じて様々な変化を顕わす。そして、天の働きは不変であり、変化は知らない内に訪れるのです。

地の働きとはなんであろう。天の働きから得た水を受け、山の気ともいうべきマグマの隆盛を合し、山岳を形成し、水は低き所を流れ川となり、海となり、空を飛ぶ生命、地中に生きる生命、大地に生きる生命、生きとし生きる全ての生命を育てる。即ち、地の働きは生生化育し、万物が生じ変化するのです。

人の働きとはなんであろう。頭上は天に通じ、足は地で接し、心は万物と調和します。そして、行動には因果があり、陰陽に支配されている。そして、その変化には必然的なものがあります。ゆえに人は、天地と相通じ、相互互助をもたらすのです。ゆえに人は万物の霊長とされます。
人類が生誕した際、人の心は純朴で、私心、欲心がなく、上は神と通じ、下は精霊と接し、人とは和し、神と霊と人は調和の世界で生きていた。人は草木、動物とすらも心を通わせていました。
人類に所有欲が生まれ、便利を求め、差別意識が芽生えてから、人は神に通じなくなり、草木の言葉も受け取れず、科学の進歩を人類の誇りに思うようになりました。ここに万物と調和する道を放棄し、万物に害する存在となり、多くの種族の生命を滅亡させ、尚且つ、空気をも汚し、海を汚染し、地球のオーラすらも、我良しの悪想念で穢しています。
しかし、人の働きは聖人、神人、哲人、真人等を優れた人材を輩出し、偉大な足跡も残しているのも真実です。

人の働きは変化しやすい様です。人間性の善悪が定まりにくく、不安定であり、正となれば邪となります。その理由は嗜好欲が外より攻め、邪悪が内より誘い、内なる神を覆い、心を乱し、邪悪なる世界が正しいと思わせるからです。
神聖仙仏はこれを心配し、ありとあらゆる救済法を考えて活動する所以はこれを救うためなのです。

天地の間に充ち満ちているのは皆「道」であり人は道と一心に貫通しているのです。心がもし、この道と本体の働きを統一し、人間として踏み行うべき人倫の道や行いがこの心を拠り所とすれば、全ての一切が皆正しくなるのです。

もし、地域、地域に、道に目覚め、覚者、神人が現れれば、その人物の出す、「正氣」が天地、万物と和し、その地域の災刧を未然と消滅させる事が可能となると考えます。

「人身は一つの小天地であり、天地は一つの大人身である。吾が身より、吾が心より、吾が行いにより、工夫を用いるようにすれば弭化の道功、救済の慈功は半分の努力により倍の効果を挙げることが出来るのである。」

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最高無上の慈悲道

2013-11-05 19:22:04 | 大道
何を以って慈悲行と言うのでしょうか。観世音菩薩は甘露水を以って衆生の苦しみを癒し、不動明王は一切憤怒の世相で障害や悪魔を遠ざける。七福神は努力する庶民を応援し福を授ける。地蔵菩薩は六道に彷徨う諸々霊を導く。されど、神霊の働きは守らずして守り、感合してはじめてその働きを知る存在であり、神仏の働きに無私の施しであるのが感化する者に解かる真理であります。彼らの慈悲行に依存する人は道から離れます。

我々の人間の慈悲行とは、生きとし生きる全ての生命を至福の境地へ導く事です。その為には何をしなければならないのでしょうか。自分自身を救うことから始めなければなりません。自分を救うと言うことは、自己の魂による自神への目覚めであり、自己の正しい本性が発揮され、根源的神へと回帰される覚神を得ることであります。
自己を済度、救い、はじめて他を救済する事が可能となります。そして、即ち救済とは、自身が修養、修道により、練磨葛藤を得て、輝ける御魂の発露であり、その霊光により、神霊と合化し、大いなる共済の光が、生きとし生きる存在から惨禍や穢れを取り除き、正しくない人々を救い、その根源なる神へと回帰する道を示す事であります。

しかし、最高である慈悲行とは至聖先天老祖の道であるのです。これを「弭化」と申し上げます。弭化とは、災いが未だ現れない前に、これを無くし、刧が現れない前に、これを自然に消滅、「化」することです。

今の地球環境は、人の想念、霊界が妄りに乱れて、刧が積り、その悪業を治めようとする地球神は苦神されております。人の心の「我良し」の悪意は増え続けて、地球のカルマとなっているのです。まして、科学文明による環境破壊は加速し、地球自体は自浄作用に奮いたたねばなりません。異常気象は起こるべきして起き、全世界における自然災害は、止む事は無く、増え続けるでしょう。この地球に潜伏するカルマを未然にふせぐ道が弭化であります。人がすでに災刧の蜘蛛の巣にかかる前に、救う為に弭化を施し、蜘蛛の巣を祓うのであります。この弭化の行を行えば、人をして、災刧の恐怖から免れさせ、地球をして、正常の運行を成ささせるのです。言わば人と神とを惨禍から救うことを意味しているのです。

老祖の弟子であれば、鎮道弭刧経を授けられ、弭化道に参画する資格が出来ている以上、後は実践あるのみです。
一般の人であれば、言霊の学を学び実践する事で、真なる魂の発露である真言を発する事が出来れば、祓いの機能は十分にあると考えます。言葉は神なのですから。

「天地は生を好み、殺生を好まない。人間は善を宝とし、善を行うことが福を招くところの原因となり、因果の理は本来間違うところはないのである。」


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無為自然道

2013-11-04 11:37:32 | 坐道
坐の道に本来は強制はありません。ただ、道を歩み継続を志す、初発に少々の強制力が必要なのです。これを継続し、自然体になるまでには時間がかかります。全ては自己の意志力により、はじまるのです。

道が三尺高くなれば、魔も九尺高くなると言う格言は、実は強制による、抵抗、「抗魔」の働きがあるからです。

抗魔とは、陰陽における反発力、反抗力であり、一方にエネルギーが赴けば、必ず元の場所に還る道理であります。悪人が善へ目覚め、善人に成ろうとした時、悪友からの報復、誘い、全ての反動がキツくなります。普通人が善人への道を歩もうとしても当然、抗魔の働きがありますが悪人よりはキツくありません。
気功による、気の働きによる癒しは、病人に弱った気を正常に働かすエネルギーとなりますが、気を出した本人には必ず抗魔の働きがあり、気功の達人であろうとも、自己が病気に成りやすくなり、寿命を縮める結果となるようです。体内の氣を放てば必ず抗魔が働く所以は、人為による強制があるからです。体内の氣は体を自然に流れているのです。その流れを変えれば、必ず反発があるのです。まして、生命である氣の放出は出来るだけ避けた方が賢明であるのかもしれません。先天坐では氣を自然へと丹田への集積があります。坐による運命、気質変化は氣(炁)の集積量の運行があるからです。

ある人が私に、一切の他の書物をよむこ太乙午集正経の日訳のみを読み、そのお方の尊敬する本を百万回読み、坐を一日一時間以上するように、アドバイスして下さった方がおられますが、私は、道では無いと感じました。かつてのオウム真理教では強制による修行をされ、導師にのみ従い、社会の全ての知識を放棄し、オウムの教えのみに従ったようですが、逆に真理への道から遠く離れ、魔逆の世界、業の海に引き込まれていきました。アドバイスされたお方の親切心はありがたいのですが、その道、強制による坐の道を歩めば盲信、洗脳への世界に至り、道院の経典のみに重きを置けば、偏ると言う事もありえると考えるからです。まして、道院の教えでは、自己が信ずるものを他人に強制してはいけないと、謹告されていますし、他人の坐の境地を侮ってはいけないとされています。そして幅広い見識を得るためにも多くの書物を読み読書される事を進めておられます。

先天坐では任運自然への道が臨まれます。あくまでも継続が大切であり、それが自然に行えるように、抵抗する魔をモノともせず、努力する姿勢・至誠が大切なのです。ゆるぎなく、不動なる堅実なる心。天地に感応する真心、至誠。たゆむ事無く歩き続ける継続、恒久なる心。堅・誠・恒への道が揃えば、努力も努力でなくなり、無為自然なる大道に同化し、天地の神々と等しき運行を為す事も可能となるようです。

天地は至大にして万物の親であり神であり、人は小天地にして、自己の中の神に出会うからこそ、万物の働きを悟ることが出来る。
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