玄徳道

道を語るブログです。

青囊秘録なる道。

2021-09-29 18:57:00 | 道院
「青囊秘録」。この書物は千八百年の長期に渡り、失われて来たが、今回(五十年以上前)、道院のフーチにより、再び復活して来ました。

これは中国の歴史上において、一代の名医と言われた華佗が愛読されておりました。

後漢の末期、三国志の時代、魏の国随一の権力者であった曹操孟徳が晩年に深刻な頭痛に襲われていた。

若い時の曹操孟徳は、正義感と才気に溢れ、当時随一の人物鑑定家の許子は、「治世の能臣、乱世の奸雄」と観られました。晩年、人の怨みと権力欲により、良い性が悪性へと墜ちました。

曹操の頭痛を治す為に、中華随一の名医である華佗が招聘された。

華佗は外科手術により、脳の腫瘍を取り除けば、頭痛は完治すると述べた。

当時は頭を開く手術なる方法は無く、曹操は自分を殺害しようとしていると、疑念を持ち、華佗を投獄し、獄中死、させたのである。


華佗は仙なる道を歩み、透視を以って患部の原因を視て、当時では、手の施しようが無い、腫瘍を見分け切除する為に、麻酔を施し、外科による治療は唯一無二の存在であり、神の如き医仙であった

なんせ、東洋医学の原形の時代。時代に先立ち、西洋医学的関知を得たのは、その透視と未来を知り示したのは、仙道を歩んだ所以であろう。
華佗が愛読した青囊書とは、仙から伝えられたもので養生を主とした健康法の一つであったようだ。

余談であるが、昔、道院随一の碩学、大道の泰斗と言われた、根本誠乾先生がある宗教教主に、華佗の青囊書がフーチの壇で降ろされていると、教えてあげたら、教主は喜び、「私のところには、漢方を学んでいる優秀な人材が、いるので是非、その青囊書を貸して欲しい」と言われたので貸してあげたと言っていた。

それから二ヶ月後。

私は当時、その宗教に入っていたのですが、会報に、「華佗降臨す。」と大々的に報じられていて、神仕組みにより、〇〇先生に最高の医者である華佗が、降りて来られました。如何なる病も、治すこの〇〇のメイトは、本当の神様が居られる斎庭ですとかなんとか、そんな感じで、玉串も高額収めれば、〇〇先生が華佗と神人合一し、悪い所を透視する云々。献金を求めて、病院をつくるとか云々などなど。

その、元種と裏話を知れば華佗降臨云々の原因は、道院の青囊書。

まあ、神様の名を借り、お金を募集する団体や教主さん、なんて、そんなもんさあ。

根本先生は青囊書とは、修道的養生法であり、これを読めば神医になれるモノでは無いと言われておられましたね。

青囊秘録より、養生訓。

華佗仙翁曰く。

世間の人はみんな、耳目によって、欲望を生じる。

一般の人は耳目の快楽を極め、本来道を求める心を失って利益のみを貪っている。

まだ、良知良能(孟子が曰く、人が学ばずして自然によくする所のものが人の良能であり、別に考えもしないでも、自然に知るところのものが人の良知である。)が、私利私欲によってかき乱され、これによって疾病が生じてくるのである。

身を養うのは、動にあり、心を養うのは静である。

飲食に節度あり、起居には時間の節度はある。
物熟して後に、食し、水は沸かして後に、飲む。

野菜は多く食べ、肉類は少し食べる。

頭は冷たくし、足は暖かにする。

足る事を知る者は常に楽しみ、求める事が無ければ、常に安らかである。

十五の老婆心。

1 タバコは少なく吸い、お茶は多く飲む。

2 お酒を少なくし、水を多く飲む。

3 少し食べ、多く噛む。

4 お塩を少なくして、酢を多く取る。

5 肉は少なくして、野菜を多く取る。

6 砂糖は少なくして、果物を多く取る。

7 怒りは少なくして、多く笑う。

8 悩みは少なくして、多く寝る。

9 衣服は少なくして、多くお風呂に入る。(鬼雷述べる、華美なるファッションに目を向けず、自己の清潔を求めるの意味であると思考致します。)

10 言語は少なくして、多く実行する。

11 欲は少なくして、多く施す。

12 車には少なく乗り、多く歩く。

13 休みは少なくして、多く働く。

14 薬は少なくして、食物から栄養をとる。

15 考えを少なくして、静坐を多くする。

健康の秘訣。

1 笑顔は病をしりぞける、楽しめば憂いを忘れる。

2 足ることを知る者は、常に楽しみ、人を恨まず、人に求めない。

3 食べ物は適度であれば、過ぎる事も無く、不足する事も無い。

4 野菜に豆腐があれば、それで十分だ。

5 食物は、腹一杯食べる事無く、飲み物も飲み過ぎる事無く。

6 暴飲暴食は健康を害する。

7運動は身体を丈夫にし、これを間断することがないように慎む。

8 雑念を取り去って、静坐し、神を養う。


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至生命先天老祖訓、愛鳴る坐道。

2021-09-28 19:03:00 | 道院
修めるは、坐(瞑想)より始める。

今日に、至る所で、修を語り、坐を論じているが、しかし、能(よ)く坐の奥妙を得ている者は、実に暁天の星の如く稀である。

昧然(道理に暗く、わからない様。)として進み、少しもプラスを得る事が出来ない者が大多数を占めている。

これは修める者が、未だ道院に入門していないか、それとも、修坐の方法が違っているのかのどちらかであろう。

さもなければ、坐功が、どうして人身にとって無益であるということが、あろうか。

吾はその原因を知っている。

何となれば、それ、坐とは、人が修め、性を養い、気を固め、霊を充すところの根本であり、また、人として、身を立て世に処し、事に接し、物に応じる上での重要な務めであり、人々の片時も離れることが出来ないものである。

そこで、古より、以来能く、聖となり、賢となり、仏となり、祖となり、また、大事を成し、大業を立てた者は明らかに坐功とは言わないが、みな、坐の中より得たもので無いものは無いのである。

今日の修者を見てみるに、未だ道院の門に入って、いないのに、坐に心を用いる事を知っていても、坐の主旨がどこにあり、坐の奥義がどこに存しているかを知らず、昧然として坐り、坐とは仙となり仏となることが出来、坐とは寿命を伸ばすことが出来ると思って、未だ坐らない先に、仙となり、仏となるところの願望を抱き、未だ坐らない前に、長生きを、したいという妄想を持っている。

このような考えでは、必ず求めれば、求めるほど、それより遠ざかり、坐れば坐るほど、昧(くら)まされることになる。

老人(至聖先天老祖の自称。書画壇では、ggと署名される。ggとは、grand gottたぶん。)は、深くこれが為に嘆息するのである。

それは、坐の真の主旨が自然にあると言う事を知らないからである。

修者がもし、能くその当然を尽くし、その自然に任せ、急がず、躁(あせ)らず、因循することなく、これを長期に渡って続けていえば、念は至善の地に止まり、自ら坐功の大益を収めるのである。

しかし、念を止めるには、必ず先ずその雑念妄想をとり去るのである。

雑念をとり去る事が出来れば、心は自ら、その空洞を得る事が出来て、少しのカスも無くなる。

心に滓(かす)が無ければ、その清いことは水の如く、その明らかなことは、鏡の如く、人に対してと、己自身に対する事を論ぜず、均しくこれに、対応して、違うことなく、そのものズバリで、ツボに適中する。

その事がうまく適中するのは、坐功による大益ではなかろうか。

諸子の坐が能く、空であるべき事を知るのは、元より当然の理であるが、さらに、その空でないものを空とすれば、良いのである。

もし、ただ、空のみを語って、実際の中から、以って、その空を求める事を知らなければ、必ず枯寂に流れる。

枯寂の害は、あたかも、枯木死灰の如く、又、何の役に立つのであろうか。

この故に修者の修坐は、全て中を執(と)りて、以ってその究極を求めるべきである。

能く中を得る事が出来れば、頑空に流されることなく、また、枯寂に陥る事も無く、そして、活(大昔、活の意は、気質が薄弱で、欲望により、気が散っている状態。)の一害もまた、化除することが出来る。

坐境能く、ここに至る事が出来れば、仙となり、仏となることが、たとえ出来なくても、必ずしも病を退けて寿命を伸ばすところのプラスを得られることは、疑いが無いのである。

修者はこれを審(つまび)らかにすれば、自ら坐は静默の中から以って玄妙なる事を悟ると言う事がわかるのである。

玄とは玄では無く、静だけである。

妙とは、如何なる妙であろうか、黙だけである。

「一たび、静すれば、則ち霊となり、一たび動すれば即ち昧となる。」(太乙北極真経亥集。後天の人心が妄動すれば、其の霊を昧[くら]ます事になる。)


このように静霊動昧の妙諦は実に修坐の奥義である。

能(よ)く、その静黙を得れば霊明は自ら復し、精神は自ら聚(あつま)り、炁気は充ち固まる。

これが坐の真の上乗である。

修者は、どうして、詳細にこれを尋ね、悟りて、以ってその中の、奥妙を極めないでいられようか。









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吾が聖地道

2021-09-26 11:27:00 | 神業道
コロナウイルスって奴は、企業的に社会的に面倒くさいですね。
身近な人が発症したら次々と感染する。

そして、現場が止まる。

私はヘルペスウイルスと子供の時から付き合いがあり、宿主(鬼雷)にウイルスが既に憑いているので、他のウイルスに感染しづらいのでは無いかと考えております。

当然に、周囲が発熱しても、私は発熱しません。元より、インフルエンザに感染したこともありません。

理由のもう一つには、毎日、納豆、医者いらずの皮付きりんご、柑橘類、リコピン豊富のトマト、腸にバナナ、おまけに、松を三食、頂いております。

そして、邪気や悪気を好むように努力しております。

邪気とは、嫌いな人間にほど、寄ってくるのです。悪魔は意識すればする程寄って参ります。

余談ですが、古事記に曰く「蛆たかれ心来て、頭には大雷、胸には火雷・・・・。合わせて八種の雷神鳴りき。」この言葉は、人体に於ける病を除く奥義があるのです。

蛆は、子どもの頃見たことがあります。釣りの餌と動物の死骸に。

しかし、悪く、汚く、言われる蛆もかつての世界大戦の時、多くの負傷した、世界の兵士を救ったのであります。蛆は壊死した細胞、不浄物のみを喰らい、多くの怪我を直したのです。

悪く言われて、良くなる仕組みでございます。


さて、思わぬ休みが一日だけ取れたので有給を消化します。

久しぶりにマイ聖地へ。






保久良神社へ参拝。磐笛を吹き、空無咒と天津祝詞を奉唱します。

ここから、一時間かけて、金鳥山を越え六甲山風吹く磐を目指します。






ロックガーデンを越え、もう少し歩きます。


此処に入ります。















私だけの聖地、日之出磐座(自称)でございます。何度も書いてすみません。

六甲姫の磐座が女陰磐座であるならば、此処は男陽磐座でございます。

此処で磐笛、経、咒、祝詞を誦します。磐笛の宇宙、吾小宇宙、磐座の宇宙を交わり化合を致します。

そして坐へ。


ちょうど先天坐に最適な高さの座れるベンチのような磐があります。

そして、その頭上は。



松があります。しかも松ぼっくりが沢山実となっております。
松ぼっくりは、瞑想時、人体の脳の松果体に良い影響力を与えるようで、私の家の神棚にも、住吉大社の松ぼっくりを供えております。

ここで坐ります。私の瞑想方法は先天坐です。

足を組んだり、正座する事はありません。締め付ける動作は一切ありません。背筋を少し伸ばし両手を膝につけ、気のロスを無くし、舌を上顎につけ、任脈と督脈との交わりをさせるだけです。

自然の空間の中、渓流の揺らぎ、風と鳥の囁きを受けながら、坐ります。気持ち良すぎて、眠くなりますが、寝たら坐では無くなります。

すっと、空無感を得易く、そのまま、ずっと坐っていたくなりますが、小一時間ぐらいすると、山蟻さん🐜が身体を登り出します。そこでストップです。坐も長時間過ぎたら毒となり、何でも過ぎたら毒なのです。



この日之出磐座も松の群生地であり、松をお土産に賜りました。

食用の松、神棚に供える松、そして松の実。

松の実は固く、調理しにくいのですが、ご飯を炊く時に入れると良いと、聞きました。
私の家では、御飯を炊くのは、私の役割なので、家族に内緒で入れますね。
そして何度も使えるとの事でございます。

帰りに保久良神社の御手水にて、水業の水を賜り帰りました。





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令和三年九月 三六九神示。

2021-09-25 20:17:00 | 神示道
世界中のコロナ禍を始め、ミャンマーやアフガニスタンの事など、大きな渦が巻き荒れる世界の中、オリンピック、パラリンピックも済みたな。

物が豊かになる程に、始めは、真面目に助け合いておりた人類も、段々と思い上がり、神の定めた人類の道を外れ、好き勝手の道に走り、この地球を汚し穢し、戦争を重ねて、争い絶え間の無き、強い者勝ちの世として、しまったのであるぞ。

この地球の五大陸に住まわせてもらっておる五色の人種は、和となりて助け合わねば、いまのような主勝手のやり方では、その末、世も行き詰まりてしまうのであり、世界が和と輪となり、道を守りて、共に助け合い、大輪(大和)の世を開けよと、この和の国、日本でオリンピックを開かせたのであるぞ。

今の時代、日本にも世界にも真に世を治めて行く御魂の者を、未だ出ておらぬから、日本の首相も次々と替わり、世界にも様々統治の変化が見せてあるぞよ。

現の世の事は、人民に任せ、自由にさせてあるが、その手に道を外れなと原因結果(めぐり)の法則が定めてあり、良くなるのも悪くなるのも、我が身の心言行の原因結果であるぞよ。

神が罰をあたえるので無く、我が身が罰をつくっておる事を、人民も世界の国々もしかと覚らねばならぬぞよ。

それぞれの国には国魂の神があり、それによって国々の風土や風俗も異なるのであるぞ。

世界の大国は貧しき小さき国を、大国の風習を押しつけて、自在にいたさんとするが、貧しき国を豊かな国が助ける事は良いなれど、我自在にいたさんとする事は、国魂の神が承知せぬから、アメリカが二十年間も自在にして来たように見えた、アフガニスタンから軍隊を撤兵せねばならぬような事も起こるのであるぞ。

信奉する者には、わが宗教思想は絶対のものと思えども、一部の民族や人民の守りや救いの為に、教祖が出て、人間が作り出したものであり、食い物も水とても無きところで、宗教や思想の違いで殺し合いをいたす如きは、決して真の神の道では無いのであるぞ。

盲信し凝り固まれば、真実の事が見えぬようになるのであるぞ。

今や世界の人類は、宗教思想の偏見を越え、人は更なり、万物の生命は一連であり、共生せねば、生命の継続も、新しい道も生まれぬ事を、しかと覚り、宗教思想より、元の生命の道、即ち天地親神の神理の道へ帰らねばならぬのであるぞ。

様々厳しい警告を示し、世界の気候まで変へて、人類の誤ちを氣づけておるが、未だ未だ主勝手、利己主義の改心が出来ず、何よりも物金さえあれば、自在になると、楽な道にばかり走る、今の人民であるぞ。

それ故、中々コロナも終息せぬのであるぞ。

見てござれ、コロナを抑える事ばかり考えておる人類であるが、コロナは今日迄の人類の歩みの様々の誤りを氣づかせ、次の時代への道もこれから教えてまいるぞ。

世界の流れには順(したが)いつつ真実の姿を見忘れぬようにいたさねばならぬぞよ。

濁り切りたる世界の歴史の大きな流れ、その流れを清く変えて、地上の天国を開く、真柱の御魂の神人を選(よ)り出す為、泥も砂も石ころも、篩(ふるい)にかけ、掻きまぜ、掻きまぜ、〇九十(まこと)の御魂の選り分けをいたしておる今の世であるぞ。

新しい世は近まりたと申せ、今すぐに世は改まらぬのじゃ。

掻きまぜ、掻きまぜ、世界には、荒事が重なり物や金や人間の知恵だけではどうにもならぬ事に氣づくまで、厳しい浄めの世は続くぞよ。

この地球に住まわせてもらっておりながら、地球も宇宙の星までも我が物の如く思い上がっておる事に氣づくまで、やむをえず、荒事の氣づけは続くぞよ。

その中で、藤づるで網みた篩で〇九十の御魂の者を選りわけて、まいるのじゃ。

落ちており、隠れたおりた〇九十の御魂の者が光出し、新しき世の柱と立ち、世界五輪の輪となる恒久平和地上の天国を開くのであるぞ。

その時が来るまで、それぞれ利己主義を慎み、苦しき中にも恵みに感謝し、まず心の中に、神人和楽の天国を開き、じたばたせず、今為さねばならぬ我が身の使命の果たしに努力する事であるぞ。

コロナに感染し、あるいは世の荒波にもまれておるとも、つねに御魂の親神は見守り、禍の転じて福と為す道を開いてくれる事は決して、忘れてはならぬぞよ。

形ある物は、必ず滅す如く人の肉体も、時来れば皆平等に土となり、水へと帰るが、魂は残り、御魂の親神の下へ帰れば、永遠の仕合わせなるのじゃ。

それ故、辛い時こそ。世の元の神、又我が御魂の親神との神交を忘れてはならぬのであるぞ。

現の世の想念相応の霊界へ行くのである事を忘れてはならぬぞ。

世界を九九る(括る)大和の御魂の者(救世主)が現れるまで、忍耐の心忘れず歩まねばならぬぞよ。

艮坤の霊筋通り、一段と世の立替立直しは、厳しくなるこの時であるから、世界の大芝居の舞台にふさわぬ、御魂の役者は次々と替わりて、大芝居を進めてまいるぞよ。

党利党略、権力争いに、明け暮れる政治では、らちがあかぬから、それぞれの人民が、造り主と造られた者、神と人の理をしかと、心得、狂わぬ柱を心の内に立てねばならぬこのときであるぞよ。

言霊神也 ン

令和三年九月八日

天橋道士龍華斎 修聖拝写。
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令和三年九月八日 小長谷修聖 三六九神示 霊視篇

2021-09-23 18:46:00 | 神示道
始め北海道の中央部にある、大雪山が見え、次に南の屋久島が見え、縄文杉の下に、長く髪を垂らし金冠をつけ、剣を持たれた女神が立たれました。(注 大雪山は日本の北東、艮[うしとら]にあり、屋久島は大雪山から見て南西、坤[ひつじざる]方にある。縄文杉の下の女神は、坤金神、豊雲野尊であろう。艮坤の線は、地球生成の氣の通る線であり、旧い誤りを破壊する建替[立替]の氣を発す線である。今、日本と世界も、旧来の誤った事象を建替える厳しい神氣が発せられ、コロナ禍等、渦巻く中、新しき世の建直し[立直し]も始まっている事の御示しであろう。)

次に、青森の十和田湖より、青龍に乗られた女神が出現になりました。
(注 是は善女龍王とも、現れ給う瀬織津姫の神であろう。東北の恐山、十和田湖、田沢湖、猪苗代湖は、直線上に連なっている。瀬織津姫の神線であろう。)

次にどこの河か判らぬが濁り水の流れる大河が見え、その河の岸辺で、和服姿の方が尻から、げをして、川の浅瀬に入り、藤づるを編んで作った平たいザルのような篩いに砂や岩混じりの泥を入れ、河の水でふるって、小石やその中にある光る玉石を選り分けておられました。
(注 濁った大河は、この地球の歴史の大河であろう。新しい真の世界平和、弥勒の世の建設に役立つ御魂を泥の中から選り分けておられる。その方は、出口王仁三郎聖師であり、聖師は坤の金神豊雲野尊の顕身である。今は新しき世を開く真の御魂の人は表に現れていないので、神界は氣のもめるところであり、それ故、世界大芝居の役者も未だ真の魂で無いので、次々に替わるのである。)

(注 昭和五十三年8月十日、日本守護の為、大雪山に真鍮製の十字の剣と丹後旭の洞窟の玉石を鎮む。)
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