玄徳道

道を語るブログです。

無名の神人道

2012-06-30 21:08:21 | 天道
「名も要らず、命も要らず、地位も名誉も金も官位も要らぬ人は始末に困るものである。しかし、この始末に負えぬものでなければ、真の大業を為す事は出来ない。」

多くの神の如き崇拝されておられる宗教の教祖たちは、名を好み、名誉の為に金銭を使い、有名な財界人、政界人、芸能人が大好きで喜んで交際を望み、信じる信者からはお金を摂取する道具であるように考えています。いえ、考えているかもしれません。かつて、無名の時代、自分の教えを広める時代は純粋で、一人一人を親切にして過ごされた事もあるのかもしれません。しかし、取り巻きにより阿諛やオベッカを受け続けるとプライドが高くなり、自分が神の如く振るまい尊大、傲慢に知らず知らず、なっているのかもしれません。初心忘れるべからず。

私が述べる無名の神人とは、自分に職業を持ちながら、家庭をもちながら、誰にも知られず、誰も知らずに、自己の小宇宙、道を完成させつつ、人間が発生させる邪(よこしま)な気や刧障を先天のうちに弭化、浄化する人物です。地球神が人知れずに感化されている人物です。神のみが知ります。そして歩む道は宗教の枠を超えた自分道です。
自分の道を得れば、心に正を得、純真になります。心が純粋であれば名も要らず、自身の内なる神を知れば、命を大事にしその帰る所を知ります。命が天に帰する事を確信するのです。自らが正業を得る以上、余分なお金に執着する事もありません。なにより与えられた環境と融和し可不足を得ないからです。地位も名誉も官位も人間世界の上辺だけの世界であります。真の実相世界。涅槃を知ればこれに一寸の価値もない事を悟ります。そして無名の神人は世情を無形に感化しつつ、自分の為すべき仕事をもくもくこなしておられます。

無名の神人の言葉は穏やかで、いたわりがあり、言葉に優しげな気が乗っており、真実の言霊を為しております。言葉と行動が一致しています。言霊は神であり、神は言霊でもあるからです。それは自分自神が誠であるからです。
人体は小宇宙、小天地であり、たゆまなく道を修める至誠には、諸天善神がその小宇宙を守護されておるのです。

地球上に数多の無名の神人は存在します。私は2名ほど、そうかなと思う方がいますね。あなた様方の身の回りにもおられるかもしれません。乞食かもしれません。あなたかもしれません。いずれにせよ、己が宇宙で感じるのみです。


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道の厳しさ

2012-06-28 20:39:11 | 人倫
「己を愛することが善からぬ事の始まりなり。」
ある友人にこのように述べたところ、「道とは厳しいものですね。」と言われました。私は、今まで無我夢中で、道を求め、道を探してきました。絶えず付き纏う、不安と言う業火。世間一般の人と違う感性であり、それが孤独感をさらに煽っていました。先天坐との出会いがあっても、業火は絶えず、私を焦がし続けていました。様々な宗教書を読んでも決して癒される事は無く、神に対する依存心、依頼心と言う欲は人一倍大きかったです。修道と言う言葉を知った後も、業火は消えることはありませんでした。

私を救う契機は道院紅卍字会、会長の正備さんが送って下さった英訳太乙北極真経演技の日本語翻訳バージョンです。太乙北極真経は全て漢文であり、これの意を知るとなると、漢学の教養が必要であり、無学な私では理解することが無理なのです。日訳の真経もありますが、これも難しく、チンプンカンプンでした。この英訳の日訳は意味がストレートであり頭の悪い私でもなんとなく理解することが出来ました。これを拝読しながら、真剣に先天坐に打ち込んだ時に初めて、自分の中に、いつもお参りする神々、そして至聖先天老祖が私の中に宿っている事を知りました。ここで初めて、業火が少しずつ、鎮火するのを感じてきました。そして、堅・誠・恒の道の中、先天坐は私を業火から完全に救ったのです。今は、きらく仙女さんの「生きる!意味と方法」が私の道を広めています。

今改めて、道が厳しいのかどうか聞かれると私は戸惑います。なんせ、私は自分を救うのに一生懸命でしたので、厳しさはあまり感じ無かったかもしれません。しかし、人間は苦労した時の事は時がたてば楽しい思い出にも為るので、一概には言えませんね。

現代の世界では、ゲーム、娯楽、快楽がお金さえあれば簡単に手に入ります。この中で自分の欲望を排斥して、道心、即ち本当の自分を探す道は厳しさが伴います。しかし、これは他人が強制する事ではありません。自分が厳しさの中に「真」を見いだすことが大切だからです。儒教ではこれを道統として、このように述べます。「人心惟れ危うく道心これ微(かす)かなり、これ精これ一、允(まこと)にその中を執れ。」人心は人を堕落させる欲望であり、欲望が増大すれば、道心、内なる神は隠れます。精は純粋で、人心にまじわらないことであり、一とは無欲であります。精一の工夫は間断なく欲心の排斥であります。欲心を無くしてこそ真実の誠である自分を見出し、中庸の道を得られるのです。

人の真の幸せとは何でありましょう。困難を避け、自分の欲に忠実であり、その場その場が楽しければ、幸せなのでしょうか。

女性の偉大なる神業、出産は男性如きではその痛みに耐えられぬといいます。堪えられぬ痛みと苦しさ、厳しき道を乗り越えて初めて愛する吾が子との出会いがあるのです。

「十目の見る所、十手の指す所、それ厳なるか。富は屋を潤し、徳は身を潤す。心広く体(たい)胖(ゆた)かなりと。故に君子はその意を誠にす。」


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ブログ道

2012-06-27 20:25:33 | コメント道
ブログの更新は基本的に毎日、しようと決めています。しかし私は肉体ある人間です。なかなか思うようにはいきませんね。昨日も更新しようと思っていたのですが、朝8時から日中の仕事がずっと炎天下(これからますます熱くなると思うとゾッとします。)の中の仕事でおまけに休憩が取れませんでした。太陽の光を浴びながら、1時過ぎにようやく昼食を食べて、休む間もなく、すぐに仕事で、晩の7時にようやく終わりました。熱中症対策で水分は取るようにしてはいますが、さすがにへろへろです。家に帰り坐だけは、やっておこうと坐をして、飯食って、晩酌したら、朝になっていました。私は肉体労働なので、どうしても疲労により、家に帰れば、ボーとする時があります。残業などあれば、なおさらです。
人気の無いブログですが、楽しみで毎日読んでくれる、貴重な御方も要るかもしれません。更新しない理由は仕事か飲み会かどちらかです。つまらないブログですが読んでくれてありがとうございます。

ブログは毎日、更新する理由は「伊勢白山道」を真似ています。伊勢白山道氏は毎日欠かさず更新されています。これはなかなか出来るものではありません。伊勢白山道については賛否両論あるかもしれません。しかし、継続する力は本物です。
道は、堅実であり信念を持つことが大切であり、その発する心は、真心、誠でなくては真に通じません。そして恒とは、継続であり、不変なる心です。志をもった以上これを続けねば為らないと思います。そして、志は気の帥でもあります。志とは元気の源でもあるのです。元気な人ほど目標をもっているのです。

私は、伊勢白山道氏のように内在神からの啓示によりブログを書く事等出来ませんが、一生懸命書かせていただきたいと思います。そこで、お願いがあるのですが、コメント欄でコメントを書いて下さいましたら、励みになりますし、正直ネタに為るかもしれないのです。玄徳道でコメントされて下さる方は、現在かなり少数です。記事に関係ない事でも結構ですのでよろしくお願い致します。ああそうそう、御批判コメも頂いていますが、私も凹む時がありますので、返答しない時もあります。御容赦下さい。


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内省と修道

2012-06-25 20:49:44 | 地道
修道とは、自分で道を定め、歩む道です。ここに於いて君子は独りを慎みます。
慎むとは自分の歩む道に、日常に、省みる事でもあります。他人に対して、威張ったり、ズルをしたり、しんどい事を他人任せにしなかったか、悪口を言わなかったか、そして、一番大事な事は、行動する心に誠があったであろうかを反省する事です。
ここに他人を挟めば、独りを慎む道、修道から離れてしまします。「あいつが生意気だから懲らしめてやる、気に食わんからいじめてやる、あいつの失敗のせいで迷惑がかかりしんどい思いをした、あいつの尻拭いをした。あいつが悪い。」人間は他人の欠点をすぐ解かり理解する動物です。そして他人の欠点が愉快でたまらないのです。

汚い話ですが、「吾が糞は臭くない。しかし他人の糞は死ぬほど臭い。」これは、人間にとって永遠の真理です。

修道とは、他人の過失を見ずに自己の過失を改めることにあるのです。他人に過失を見てもこれを自己の事と考え、慎み、自己を戒めるのです。故に聖賢の恐れるところは、我が不明を恐れるのです。

心に誠と書きましたが、誠とは、真心であります。人倫は人の守るべく道義であり、「他人がして欲しくない事をしない」と言う思いやりから来ます。思いやりは仁であり、愛であります。他人を慈愛する心は人にとっての本性であり、真の心です。真の心のみが唯一、天地と感合するのです。これを「誠」と称します。誠は天の道であり、道を修める人は、心に誠を掲げねば道を得ることは、出来ないと考えます。

「われ日に三たび我が身を省みる。人の為に謀って忠ならざるか、朋友と交わって信ならざるか、伝えて習わざるか。」
「非礼視るなかれ、非礼聞くなかれ、非礼言うなかれ、非礼動くなかれ。」


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道院紅卍字会と玄徳道

2012-06-24 18:02:43 | 宗教
玄徳道はあくまでも様々な道を追求し、応援するブログであります。ここに道院との関係は本来は無いのです。しかし、私は老祖の弟子であり、私が学び得た道院の教えは、私の血肉となっている現状で、道を語れば、道院の教えがどうしても出てしまいます。私自身、幅の広い見識がないにもかかわらず、様々な道と称する事をお許し下さい。しかし、様々な道を応援する事は真実であります。

玄徳道に関して道院の先達より、様々な意見が出ておられるようです。大恩ある紅卍字会の会長である正備(道院の道名)さんが代表で御意見を下さいました。大変、優しい方ですので、正備さんを挟むと柔らかく、丸く私を励ます意見になっておりました。実際にはもっと、きつい意見であるように感じております。
道院には、綱則(規則)が神示により定められており、太乙北極真経、先天坐をはじめとする奥義は道院の修方のみに限定され修することが出来ます。言わば、老祖の神前で四つの誓願を為し、はじめて許され、道名と先天坐の伝授されるのです。
昔、ある宗教団体が道院の呪文(道院には神伝の神呪、経等様々降ろされています)をその宗教本に載せていいのか、悪いのかで神様にフーチで問うた事があります。黙真人はこれを深く戒められておりました。

太乙北極真経は天界に於いて秘中の秘であります。またこれを述べることは禁じられております。玄徳道でこれが漏れているのではないかと危惧されておられるようです。私は、決して洩らすつもりはりませんが、私の血肉から出た言葉として当てはまるのであれば、ご指摘いただければ考察した後で削除する事もさせて頂きます。

私の目指す所は天地自由人であり、悪人を目指しております。私は思うのです。至聖先天老祖は人々を済度、救済するために自らの真理であられる太乙北極真経を伝経されました。ゆえに、真経とは老祖の御神体でもあると思います。誠ある修方のみがそれを演じることが出来ます。ここに於いて、人々の救済が第一義であります。綱則も大事ですが、人々を救うことこそが老祖の意志であると私は感じます。
昔、ユダヤ教で律法こそが神の意志であると言われた時代、イエス キリストは神は人を幸せにする為に律法を定めたのに、日曜日は安息日であると医者は病人を見ない。イエスはこの現状を見て、あえて律法を破り、病人を癒し、神は律法に非ず、神は愛であると示されました。
私が語る玄徳道に於いて、天則に違反することでおこる罪は当然私の罪です。しかし、私は道を語る上でその罪を覚悟しています。地獄に堕ちても構わないのです。

様々な意見を出される方には大変感謝しております。願わくば、私の様な悪人が道を語る必要が無くなるように、世の災いを弭化し、真人となり、全ての人の救済される事を望みます。


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