玄徳道

道を語るブログです。

令和五年六月 三六九神示

2023-06-29 19:12:00 | 神示道
艮の金神国常立大神、須弥山なる富士の山に腰掛けて、世界ににらみをきかせ、世の立替立直しの神業を進めておるぞよ。

人民の体主霊従(からたま)のやり方に任せておりては、この地球は益々に汚れ穢れ生物も、滅びてしまうから、神が表に現れて構わねばならぬ時節となりたぞよ。

艮の金神、陰に隠れて三千年の神図りは、人は更なる禽獣虫魚草木石ころに到るまで喜び勇みて暮らす世の開きでありて、天照国照日の出の神と龍宮乙姫が、先頭に立ちてまず、龍宮界の神々や龍神、縁ある人民を使いて仕組みを進めてまいるから、これまでの表に出て地球を自在にしてきた、思凝霊や人民、早く改心して、霊主体従(ひのもと)の道へ帰らんと、尻に火がつく、泥の舟は沈むぞよ。

この前、厳島の龍宮のある広島でG7の国の頭やウクライナの頭も集いて大事な会議をさせたのは、龍宮界の計りでありたぞ。

切格、皆集いたが、真実世界の平和を願い、核廃絶の世を開くと皆、口では言いながら、腹の中では、我が身、我が国の事しか考えておらぬから、この度も表のみ、飾りた実の無い、儀式で終わりたぞよ、

G7の会議は、彼のロシア、益々世界相手の大戦争に熱を上げさせておるぞよ。

日本の頭は皆集いてくれて、大成功と満たしておるが、これからの日本がどれだけ世界の平和の為に働くか、実地の事が出来ねば、何程成功と胸を張っても空喜びであるぞよ。

先の大戦では、二発も原爆を落とされた日本の国であるぞ、

小さい国が世界相手の大戦争を為す事は、無謀であり、大きな犠牲をはらいたが、あの大戦争で白人の植民地となりておりた、アジアの国々の解放の道が開けたのは、日本の働きでありたぞよ。

今、戦争に負けた日本は、やむをえず主権在民にあらず、主権在米で、アメリカの言う通りになり、アメリカ尽くしておるからこそ、今は真の日本の使命を果たせぬのであるぞ。

されどこれも通らねばならぬ道であり、やむをえぬのじゃ…。

アメリカにしがみつきて、頼りにしきっておる日本の頭達(かしらたち)であるが、そのアメリカも今のままでは続かず、次第に国力も弱りてまいるから、その末日本がアメリカを導き助けねばならぬ時も来るのじゃぞ。

そこに日の出の神の日本と龍宮乙姫アメリカが真に手をつなぎ助け合い、一体となりて世界の平和の道開きに働かねばならぬ時がくるのであるぞよ。

その時が来るまでに、昔、白人の植民地となりておりた太平洋の龍宮の縁の深きアジアの国々と手を結び力を合わせ世界の平和の為に働く固き絆を築いておかねばならぬ、日本の役目であるぞよ。

アメリカは、ロシア、中国との和解の道開きにつとめねばならぬぞよ。

夢のような話であるが、神の仕組みは必ず、現の世の様と写りて来るのであるから、神は夢のような事を申すが中々信じられぬという不信や迷いを捨てて、時節の来るまで、それぞれの御魂の使命をもちて、祈りを重ね神の五用に仕へ、平和の為に尽くさねばならぬぞよ。

生きてゆく道には、因縁の浮かび上がりで辛い、悲しい事もあるが、それに堪へ世の元の神に身をゆだねて進むのであるぞ。

この地球を修理固成た要の道は、富士鳴門より地中海の方まで通りておるのであるぞ。

ロシア、ウクライナの戦争も世界の人類が第三次の世界大戦を起こして世界の滅亡などと言う事にならぬよう…戦争の虚しさ辛さ悲しさを身をもって見せてあるのであるから、その事しかと世界の人類、肝に命じておらねばならぬぞよ。

言うても聞かせても聞かねば身をもって苦渋を体験せねばならぬのが現の世の定めであるぞよ。

個人の事から世界の事から理は一つであるぞ。

皆、我が身の可愛いと思うなら、人も可愛いと思い、いつくしみてまいらねばならぬぞよ。

一人では暮らせぬ現の世であるぞよ。

共に助け合い共生の世を開くのであるぞ。

今は主権在米で、アメリカの言う通りに日本も動いておれど、この日本の国には神代より、世界大和の世を開く道が伝えてあるぞよ。

八百万の神々、神集へに集い神議(かむはか)りに議りて、五八十(岩戸)が開け天照大神がみ現れになり、世の中闇が晴れたと申してあるぞよ。

話(和)をもって皆理解しあい、共存共生大和の道が開かれると伝えてまいりたのじゃ。

総てを結ぶ共生の道を開く要は、白山菊理比売神のはたらきであり、佛界に於いて諸仏の意を一つに結ぶのが、阿弥陀如来のはたらきであり、神界佛界と異なれど、白山菊理比売の神と阿弥陀如来は通じる働きがあり、大和の結びの要であるぞよ。

空をおおう黒雲も荒れて荒れて雨風嵐の後に晴れてゆく、悩み苦しむ重い心も泣いて、なみだを出しても気も楽となる、自然も人の心も同じ理であるぞ。

現の世は苦(九)の土(ど)と申して来たこれまでの世でありたぞ。

未だ未だ苦の無き世とはならぬが必ず、苦の土より、楽土となる日も来る。

日の出の三六九世の来る事を信じて歩みゆけよと示すなり。


言霊神也 ン。

令和五年六月九日

天橋道士龍華斎 修聖拝写。





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令和五年六月八日、小長谷修聖 三六九神示霊視篇。

2023-06-28 18:58:00 | 神示道
始め、美しい富士山が拝され、次に大潮の渦が巻く鳴門が見え、次にヒマラヤの山脈が見え、地中海や黒海の辺りまで見えました。

(注 地球修理固成(ちきゅうつくりかため)の要、富士と鳴門、艮坤、火水の神線は、ヒマラヤから、地中海、黒海辺りへと延びているのであり、ロシア、ウクライナの戦争も、世の立替立直しの為、今後、戦争はしてはならぬと、目に物見せて、示されているのであろう。)

次に、水量多い、那智の滝が拝され、滝の拝所に素戔嗚尊に扮された出口聖師が立たれ、剣をぬき、左右左と祓われると、滝の中に瀬織津姫の神か、女神が現れになりました。

(注 出口聖師の御霊は瑞霊で素戔嗚尊である。滝の神は、多岐都比売命即ち、瀬織津姫の神であり、海へ出れば、龍宮乙姫となられる。天照国照神の妃であり、祓戸神の筆頭であらせられる。世の大峠厳しくなるお示しであろうか。)

次に丹後久美浜の甲山が拝され山中の人喰岩の上に、女神が立たれました。

(注 甲山には、熊野神社が祀られてあり、神示では、紀州熊野の元と言われている、人喰岩の上の女神は.伊奘那美命の御現れであろうか。)
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老祖訓、人の救われる道。

2023-06-24 19:46:00 | 道院
全ての基礎は、自分の心にある。

今世及び、来世を救おうとすれば、先ず、自分の身を修めることから、始めるべきである。

万行は、一より.始まり、全ての行いの基礎は、一心が自ずから主体となる。

末は、本より始まり、彰(あきらか)なものは、微かなものは微かなものより始まる。

結果というものは、原因より、始まる。

そこで、原因のない結果はというものは、ありえないし、また、結果の無い原因というのは、ありえない。

このようにして、一切の因果というものは、この心から.離れる事は出来ないのである。

それは、例えて言えば、これがあれば、それに関連して、それが現れてくるし、これが生じてくれば、それに関連してそれが生じて来る。

そこでもし、これが無ければ、それは現れて来ないし、これが滅びてしまえば、それよ滅びてしまう。

心中の一念の僅かな、差がやがて、千里万里の大きな誤ちとなる。

初めに慎むことは比較的容易であるが、しかし、終わりになってその結果を挽回する事は難しいのである。



故に、よく、その始めを慎む者は、その終わりを全うすることが出来る。

又、よくその身近な事を慎む者は、それが、やがて、遠いところにまで、影響を与えて来るという事を知っているのである。

そこで始めに、その根本を重視し、これを慎むのである。

その寄って来る原因について言えば、霊(明)と昧(迷い)の分岐点、人間と禽獣の違いは、ほとんど微かな一点にある。


その心中の妄念に打ち克つことが出来れば、それは、聖賢となる、ところの始まりであり、屠刀(牛や豚を殺す鋭利な刃物であり、これが転じて人の物欲を指す)を放下するのは、仏となるところの始まりである。

これを最初の原因の段階で慎み、これを最初の微かな段階でその、兆しを審らかにして、見極め、この心を、昧ますことなく、これを始めに明らかにするのである。

己れ自身の誠を篤くするにも、これを始めに修めるのであり.吾の四顔(一乞い願わくば上乗に至らせ給え、一乞い願わくば、真諦を得さしめたまえ、一乞い願わくば、功候を得さしめたまえ、一乞い願わくば、衆生を済度なさしめたまえ。)を実践するのにも、この自己の欲望に打ち克つことに始まるのである。

能(よ)く、その為すところを押し広めていくにも、その行いに始まるのである。

たとえ、その夙根(前世でのその修行や基礎)や、智慧や境遇、功候造詣なとば、人によってそれぞれ、同じくでは無いが、ただ、その天性の善によって、その仁愛の徳を広め、人として道理を全うし、道慈によって己を救い、人を救うところの真実の功果を実証することが出来れば、皆同じように、道を覚ることが出来るのである。
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合坐合霊道。

2023-06-15 18:40:00 | 私的考察
霊とは如何なるモノであり存在であろか。

「神は万物普遍のにして、人は天地経綸の主体であり、神人合一して、ここに無限の権力を発揮する。

普遍とは、宇宙創造の現象であり、ありのままと言うことでもあり、そして、そのありのままの自然とその現象には、霊が在ると言う事でございます。

坐とは如何なるモノでありましょうか。

一般的には瞑想と呼ばれ、自身の深奥に至り、また、自然と調和する事と成り得られる道でございます。

私は左足がモートン病になった時に、何とか足指を開きのアイテムを付ければ登れるかもと、六甲山剣座へ登りましたが、途中、激痛により、脂汗を流しながら、何とか到着致しました。

痛みの為、剣座の前の小岩に腰を下ろし、そのまま、坐をする事にしました。

季節は四月中旬にして、藪蚊さん等おいでにならない時期であり、痛みを鎮化する為でもありました。


さて、坐るという事は、実に継続あるのみでして、鎮魂法帰神術と同様に早期の効果は決して得られません。

例えば、ある宗教教祖が先天坐を初めて行った時に、神、仙、仏が降りて来られ、同時に、道院は本物であった等と書かれておられる宗教教主もおられますが、それは、全て妄想であり、坐の功験には、いっときの期間がかかります。

速功は不可でございます。

簡単に言うと、母の母胎にあったとき、胎息していた呼吸が、オギャーと生まれて肺呼吸となり、肺呼吸が自然の呼吸となった人が、直ぐに胎息の呼吸法に戻るには、ある程度の時間が必要である所以であります。

吾が先天坐は胎息をもって、歩む道と至します。


剣座の前に坐し、痛みも何もかも感じなくなり、ただ、自己の気の運(めぐ)りがあり、ふと気がつくと、剣座と一体化のような感覚を受け、また、周りの樹木とも繋がってまいりました。

坐の経典「太乙北極真経」には合坐の道が示されており、かつての老祖は、先天炁により、人、岩、樹等、霊在る存在を枢府に上乗させた事を思い浮かべました。

私達人間は、全てを差別致します。

太古では、人は草木と語り、動物や虫を差別すること無く、一体感をもっておりました。

全ての宿る霊を感知し、その働きは違えども、全ての生物や植物、岩石すら地球に於ける生成化育の役割としての存在意識なる普遍意識が根底にあったからでございます。

太古以降は、人の知恵が増すにつれ、人間は植物、動物、虫類の存在意義を無視し、それらをさげずむ、優越意識の思うがままに、自然を征圧し、また、同類である人間を望むままに、制圧し、奪い合い殺し合うようになってしまいました。


坐るという事は、その欲望、差別意識が薄くなってきます。

故に、坐をする者は、互いに繋がる事が可能となります。

坐のような事を自然体でする、樹木、磐座などは特に、感合し、合坐合霊をしやすくなるのは、当然であるのです。

故に、人よりも、天然の樹や、磐境、磐座と合化するは、易しい。

現実に、多様な思念あるニンゲンと交わるは難しい。


私の自我も人間に漏れず、魔王のように酷く、唯我独尊にして、誰に対しても従う事が出来ない暴れん坊であった時期もありました。

されど、先天坐の道は、本当にわたしを済度(すくっ)てくだされました。


坐の道は無限大であり、先天坐を基礎とする者へ、お願いです。

老祖の弟子である方々は事あるごとに神坐す斎庭に行って頂きたいです。

もし、あなた様が、神氣湧く神社に行けば、坐する者が来れば、その主催神は大変喜んでくだされます。

坐する者は、天地運行を体内で司るからであります。

一般の人間が、神坐す神社に行っても、自己の願いを述べるだけであり、神の生成化育に、関与されないからでございます。

私が面白いと思うブログ、「アメブロの神主が語る「神霊」と「霊術」と古き日本の心を伝へるブログで…」では、「神は人を救わない」と述べておられますが、然りでございます。この方、選別意識が凄過ぎて、中庸を得た人が、学びとして、見れば丁度善い真理を得られる事となると考えます。

ちなみにその方は、神社には、神は居ないとも仰っておられ、私はそのような神社も確かにあるので、その激しき 日本原来の鬼神界を現れを歓迎する、不徳を好む面がある、悪人、鬼雷でございます。


基本、神は人には、関与せず。

神は自然なり。運行なり。太極なり。

ただ、神の眷属による、人との因縁があるのみ。


つまるところ、人の思念が、神様が救ってくだされると妄想するだけなのでございます。

神は人を救わない。

是非あるかもですが、ここは重要でございます。

されど、救わぬ神は、人を扶ける。

神が自然ならば、人たる種も自然物だからでございます。

 

神坐す、神社で、坐する事が出来れば、それは、善き行法となります。

しかし、現実に、神坐す、神社で、先天坐は、出来ることもありますが、人がいれば、この人怪しいと、思われ、坐することは難しいですね。

そこで、鳥居を潜れば、心坐を成し、御神前に至れば、いのり、から、息坐へチェンジ(胎息となる)し、虚空の最中に神柱や、御神霊も交われば、合坐合霊による、清浄化合、天人合化、天地和合、自然安寧へと至り、世の平和の基礎を打ち込む杭となり、この世界を襲う劫業を弭化する事も可能であるのです。

息坐とはあくまでも、無相無念でございます。

磐座磐境が在る神域、聖域でも同様の結果が得られるのです。


扨て、世に云う、悟りを開く人、聖者、聖人、神人の霊種とは、過去世には、岩石と樹木の霊であった者が多く、黙然として、態度と言動に出さず、静黙をもって、人を導く聖者が多いようであります。

言わば目立たない、騒がない、自慢しない、敬虔な人。


人を導くに当たるには。

お金を取らない。

見返りを求めない。

親切に教える。

質問は大好きである。


真に神に使える者は、如何なる事があろうとも、金銭を要求しないのです。


救いに、命の次に大切なお金を払うことにより、悪劫を祓う事が出来る云々、それに連なって、カルマ、業、劫を述べられる人も多いのです。

しかし、結局、大金を払わなければならないのであれば、それは、商売であり、神の道では決してありません。

神にお金は無用であります。

それに携わる人が欲しいのであります。

ただし、神社仏閣による運営、維持にはお金が必要なことは、確かであり、納得して、玉串なり、賽銭なり、喜捨をする事は大切な事でもあります。


いずれにせよ、自分を救えなければ、他人を救えないのは、自明の理でございます。


われ自身を救えるのは、真我である、自分自身の深奥でございます。

もし、貴方が宗教や占いを欲する人であれば、永遠に、それに依存し、自己深奥の道は決して得られないのでございます。

坐すると占を欲しなくなりますよ。占に依存しなくなりますよ。


そして先天坐を為し、合坐する神人が一人でも増えれば、その貢献は計り知れません。

もし、あなたが、至聖より、道名を得た人であるなれば、一宗教に偏らず、吾が老祖の大道を歩むべきであると考えます。









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