玄徳道

道を語るブログです。

祈り道

2023-10-06 20:15:00 | 地道
昔、ある宗教団体に属していた時(
その団体は、株式会社にて、宗教団体しないと言われていたが、手の平を返して、宗教団体申請を行い、宗教教団となりました。)

その団体では、神様に通じる祈りを、秘伝として、教えてもらいました。当然に金銭がかかります。

その宗教は、教祖教主(大本教の出口直刀自と王仁三郎聖師の関係の如く、教祖と教主の関係があったようだが、教祖の女性が認知症となった噂があり、教主は教祖にもなりました。女性の教祖は表から隠されました。)

話は変わるが、最近では予備校などの学習塾にて、宗教やそれに繋がる団体が蠢いていますね。

そこには(予備校と占いも事業としている)、占い師がおられ、多くの人々を幸せへ導いていると、自画自賛。

さらに、北極老人、南極老人とのたまう。

人間は、知らないのであろうか。

他者から、与えられた助言に従えば、自信の御魂の輝き無くとも、ある程度の幸福を得られるが、それは、給料の先取りの如く。

自らの徹底努力無くして、真の幸福は得られない。

また、真の神様と出逢った事がある人は、占いを否定と肯定は、しない。

神様は、この苦海の最中、ある程度の占いを黙認しておられるが、願わくば、自己努力を臨んでおられる。


しかし、悩める受験生を籠絡し、洗脳する働き。やはり、若者の純粋さは、思想を植え付けるには最適であり、多少の若者は、因縁とカルマにより、善きも悪しきも、囚われる。

ああ、かむながらたまちはへませ。

さて、神様に通じる祈りとは、簡単に云うと、神様を感動させる。神様を、感激させる。神様を心から喜んで貰う。神様を心から納得して貰う。

朝、目が覚めたら、会社のこと、人間関係のこと、自分の働きなどを、神様の為となるように祈る。

私は、その祈り方に遇わないから、祈りませんでした。

神様の為に云々言いながら、結局は、自己の願望を叶えようとする、嫌らしさ、に嫌悪したからです。

いえいえ、本音は、そんな祈りを、1時間も2時間もしなくちゃならないの、自己満足するだけの祈り、面倒くさい。

その点、根本誠乾先生は、「彼らの祈りは、世の宗教と、等しく、祈らねば信仰の証しが無い。祈らねば、信仰が続かない。

しかし、道院の先天坐は、祈る事は無い。ただ、黙って坐る。そして、見方.変えれば、坐とは、無極に至る為の祈りでもあると。」

私は考える。

祈りとは、素直であるべき。

自己の邪悪、嫌悪する部分、隠さずに、神様に祈る。

私は神様に祈ること、願う事もありませんが、ただ、いつも、自己の浅ましさ、至らなさ、邪悪さ、愚かしさを、言葉に出来ない、自己のありのままを、「しせいせんてんろうそ」と現して、唱えます。

私は考えます。

信仰とは、自分と神様の唯一無二の世界。

そこに宗教的な、儀式や遣り方などは、参考にする事はあっても、大した問題も無く、正しい祈り方云々も必要無く、無二の空間を揚々悠々中中する。

至誠が天に通ずと、ありますが、「誠は天の道なり。誠は神の道なり。これを誠にするが、人の道なり。」

「心だに 誠の道に 叶いなば 祈らずとても 神は守らん。」

日本には多くのイスラム教徒が海外より渡来し、働いてくださっております。

彼等はひたむきに、アラーへ、朝昼夕方晩祈ります。

そのイスラームの儀式的祈りは、日本人から見れば愚直であるかもしれないが、異国の地で働く彼等を神様は厚く守護して、いらっしゃっる。

たかが儀式、されど、魂で通じれば、真祈。

故に、彼等は、自己信念のままに、祈る。

祈りとは、形式では無い。

祈りとは、自らの御魂の発露あるのみ。

そして、神に通じるのは、自らの神の分魂のみである。

また、真音なる、言霊のみが、神に至りて、全てに通す。


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水源道。

2021-12-13 18:27:00 | 地道
太乙北極真經で曰く、木に根本あり。水に水源あり。

水源木本。

道院の故、根本誠乾先生は、全ての存在には、必ず根があると。

貴方の根は親であり、親を大事にしなければ、自分を汚すと。

確かに、人は祖に基づき、祖は神に元づく。

しかし、安易には、うなづかない。

親が子を殺して、子が親を殺すが人の真実の世界なり。

太乙北極真經にあるがごとく、その種を滅ぼすのは、親が子を殺し、子が親を殺し、截源、自断として、種の断絶が描かれている。

太古より、滅びた種は多くあり。

人間はどうなのか。ただ、一部の、滅びを推奨する阿頼耶識の因果により、行われている。

故に、今の人類に自断は無い。しかし、未来は不透明であり、人の因果以外に、地球に積もった劫は相当なものである。

老祖の弟子は速やかに、それを化さねばならない。

滅びの阿頼耶識とは、悪意の積算。積もり重なった結果の行いである。


親を大切にするのは、当たり前だのクラッカーであるが、親に虐待を受けた者も確実にいる。

私は大阪で暮らしたいるが、かつて西淀川区の西淀川警察署の後ろのマンションで、幼い女の子が虐待され、バルコニーで死亡した事件があった。

私は神に文句をいった。てめえは、何も出来ない神なのかと。そして、俺も何も出来なかった。

さらに、言う。馬鹿ばかりの無能の神ども、幼き子を守る事も出来ない無能な神ども、俺がいつか、神となり、子供と、女性の、守護者となると。

それほど、自分の無能さに腹が立っていましたね。

未だに無力である。情けなし。


それと、同じく、神の眷族も自然破壊の一端によって、機能を奪われている。


奈良の古代出雲族の聖地、ダンノダイラ。

巻向山の水源地。

そこに水神社があり、よこしまな(邪魔)、気を湧き上がっている。(眷族は水蛇神。)

今回は二度目の対面であります。

經や祝詞を唱えようと、すると、単語が出て来なくなる。意識をそらされ、単語を忘却される。それは、四度目。

蛇は食うものの気を呑む習性があるようだ。

しかし、今度の天の橋立神業には、ここに来なければならなかった。

なんでかは、知らん。


神は悪を為して善とする。


祟り神と畏れられていた、艮の金神。

なんだ、蓋をあけりゃあ、人を信じた愛する神であった。


多くの人間は、今でも知らないが、祟り神とは、太古崇拝された神である。

強いもの勝ちよりも、調和を重んじた神が殆どである。

神は人の崇敬により、力を増すと言われているが、それは、真実でもあるが、人の盲信により力を増す存在もいる。それは神ではなく、思凝神である。

なんせ、人は迷信する。

自己の神を知らない者には永遠に迷信するのである。

神とは、人に左右されない。

しかもだ、人の御魂と能く感合し、神を拝み奉り、崇敬されなくても神は無償で助けるのである。


神は人を無償で愛する。そこでも、人には、信仰を求めない。

自ずから内なる神を覚信した信仰であるならば、神は喜ばれる。

そこで、迷信の妄想を離れた、真実の繋がりによる信仰を神は、臨んでおられる。

神は何時迄も待っておられる。目覚めを。

真の神は求めない。与えるだけである。

それは、人も同じである。愛する家族に見返りを求めない。ただ、与えるだけである。

見返りを求めるのは、仁愛を離れた、損得の世界である。


私が水神社の水蛇に臨んで、何も欲し無い。ただ、磐笛を吹き、經や祝詞咒を挙げ何も欲し無い。

一天指。

帰りに松と榊が落ちて来ました。

眷族神のお気持ちであられようか。



松と榊は食べる分だけと神棚に捧げるだけ頂き、あとは土に刺してきました。

根が生えると良いね。



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心道。

2020-04-23 20:47:47 | 地道
人は、何に因って生きてあるのであろうか。

食べる為に生きている。

働く為に生きている。

家族の為に生きている。

宗教の為に生きている。

まあ、八百万。人の心は本人しか知らない。

ならば、何故人は、新型コロナウイルスで死ぬのであろうか。

煙草による、肺へのダメージが因するのか。

高血圧や持病により、免疫力が堕ちる所以であろうか。

人がコロナウイルスで死ぬのは、自然からの淘汰なのであろうか。

否。

コロナウイルスが人口ウイルスならば、人類は、人類の因果により殺されるのである。

さて、何時の時代でも、心が強くなければ、人は生き延びる。「信念に死ぬこととを見つけたり。」
「死生に活あり。」

心とは、即ち免疫力でもある。

免疫力の機能は、全て氣から生まれる。

氣とは、何であろうか。人間機能を働かす、電池のごとき、天地万物共存共栄を促す、地球と人との合氣である。

人が勝手に生きているのではない、地球により生かされているのである。

体主霊従、物質文明を主体に生きている人は、寝耳に水であるが。


私は毎日、瞑想する。先天坐。そして、毎夕、鎮魂をする。

鎮魂法とは、鎮魂石に意識を鎮座する瞑想方である。かつて、復古神道中興の祖とされる本田親篤老翁が鎮魂石と岩笛を使い、かつての古法を復帰された。古神道の奥義でもある。

鎮魂石は、住吉大社と大神神社にて賜りました。

先天坐は虚空。鎮魂法は鎮魂石なる無機物と相対する。

この二通りは、確実に氣を回す。ゆえに氣が躍るのである。

氣が周り。踊れば、免疫力は衰えないのである。

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疫病道

2020-02-09 16:34:47 | 地道
釈尊は人には四苦悩があるとされた。

それは、死であり、生であり、老であり、病である。これを単純に考えれば、人間とは、苦しむ為に生まれてきたのかと、考える事もある。
老も死も、確かに克復は出来ない。それが神仙と成ったとしても。

しかしだ。生も病も、克復することも可能である。。。そして、それらをもし、克復出来たならば、それを楽しめる事も可能である。


この科学が、発達した現在でも、疫病が発生し、多くの人を苦しめ悩め、死へと導く。

否、文明が発達し、科学が万能となるからこそ、この相対的世界では、必ず、対抗する抗魔が働く。人々が楽しく安定する道が有れば在るほど、抗魔が来たりて脅かす。。。

陰あれば、陽、陽あれば陰。光あれば闇があり、闇があるから光が産まれるが如く。

好事魔が多しとは、この働きなり。

人々が疫病になるのは、現在医学では、感染力によると言うであろう。唾液、粘液等による感染。

そして、疫病とは地球に眠る生命力。怖れるは、人間のみ。

それらを防ぐ為に、うがい手洗い、マスク手袋、による保護の行いは大切である。

それらを含めて大切なのは、邪気や病気を怖れない事である。

病気を恐れれば怖れれば、嫌えば嫌うほど、病は、悪魔と同じで寄る。

意識すれば、するほど、よく感応する。

潔癖症程、病に憑かりやすいと、同じ道理でもある。


さて、坐する者は、免疫力は高い。故に病を退け、健康的であり、長寿でもある。

老祖の弟子は基より、多くの災劫を承け、それを化す。ゆえにその余波を受ける。だから、抗魔を最大限に抑える効果もあるのである。


ありとあらゆる生物の生命力を挙げる言霊は。
「はるち、うむち、つづち。」

出口運霊師の著作にも載っている。




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出口王仁三郎 尋仁道。

2018-12-20 20:14:37 | 地道
嗚呼、至聖先天老祖の弟子、六万年前のいにしえの、えにしによる石門の弟子には、必ず老祖より、名を賜る。

出口王仁三郎氏は、「尋仁。」死後、老祖より、元化真君として、錫位され後、昭和四十七年、神の位として、霊績真人兼、中和成化普渡天尊と錫位された。大本二代教主こと、大地の母ねる出口スミ氏は、「承仁。」娘の直日氏は、「耀宗。」直日氏の旦那の出口日出麿氏は、「運霊。」この運霊は、吾が師、老祖は、その義父である、尋仁よりも、その働きを期待されておられたが、魔盛ん鳴るとき、拷問により、その霊を砕かれた。
そして、娘婿の出口宇知麿氏は、「悟天。」出口和明さんの父でもあります。

ちなみに、伊勢白山道リーマン氏は、出口王仁三郎聖師を天狗風情としか観れていない。はじめて、伊勢白山道リーマン氏の正体の御魂を天照大神と審神した、小長谷修聖氏すらも、蛇と観る。天照大神とされた言葉をアピールして、他を排斥するは、愚者なり。

蛇や狐、天狗と侮る能力者は、すべからく主神の意を汲めず、人を動物と差別される。

天狗も弧霊も、天蛇もすべからく主神の使いなどである。

どの世界、時間軸にても、人とは、差別し、階級を定めて、自己を誇るのである。

世界平和への祈りを提唱された、白光真宏会の五井教祖は、「晃修。」元、日本船舶振興会の会長であり、紅卍字会の会長にとフーチにより、示された笹川良一さんは「正謙。」鶴に乗った仙人こと、笹目老人は、「秀和。」大本の物語、「大地の母」の著者、出口和明氏こと、野上龍氏は、「誠荷。」言霊学の権威にして、大本の大久保彦左衛門こと、神声天眼道立神示を著した倉田地久氏は、「正晶。」中部、宗教団体の三五教の教祖、中野与之助氏は、「震甦。」六命星術の細木数子氏と縁があられた、陽明学者、安岡正篤氏は、「誠恪。」etc.

道名とは、その御魂に備わった、修道の目標であり、指針であり、その人の本質でもある。

尋とは、右手と左手を重ねる意があり、普遍なる普通の意もある。人には、右寄り左寄りと好悪がある。それに左右されない、普遍なる、おもいやり、愛を探求せよ。

出口王仁師は、警察に追われてていた、共産主義者の娘を頼まれ預かり、自分の不始末で出来た子として、信者に預けた経緯もある。

当然、出口王仁師は宗教家であり、共産主義とは相容れないと考えるが、王仁師とは正に仁道主義者である。

後日談で、その娘と預けられた、信者は本気で王仁師の子として大切に育てた。後、共産主義の父親が名乗り出た。おそらく、「あんぐり。」


五十歳となった星田悦子は田中家の女将として、遊廓きっての男勝りと人に言われ、定まった亭主を持たず、子も産まず、ただがむしゃらに働いた。しかし、老いた肉体。女たちの憎しみや涙で築いた財産にある時、たまらぬ嫌悪を感じたりもした。
大本を知り、貧しい身なりでも食うに困っても、元気はつらつな大本人に感化された。
尚且つ、大本教祖出口直の粗末な綿服にも包みきれぬ人格。高潔な魂の輝き。生きている神のごとく厳格と優しさに心打たれた。まして、直の御魂は、稚姫君尊といい、神代では色の道を違えて地に落とされ、艱難辛苦の道を極めたと聞き、自分の生業を省みて愕然とした。

大本教主出口王仁三郎にしても、男を見る眼識を自負していた悦子は、はじめて観た男でもあった。豪放磊落な男も知っている。正直に野放図な強い男も知っている。几帳面な紳士も知っている。されど、王仁三郎は、それらの基準で計れないほど、タガが外れていた。人前構わず裸となり、詰まらぬ取り巻きと野卑な会話し、女癖が悪いと評判な王仁三郎。とても嫌いであった。
しかし、女癖が悪いと言っても男たちの取り巻きが普段いる。それとなしと見ると、噂の女達自身が、それを匂わせる言動と態度で自己宣伝しているのに気がついた。女達にそうさせずにはおれぬほど、王仁三郎の魅力とカリスマ性があるのかも知れないと考えた。そして、どんな噂が流れても、決して、言い訳、弁解を王仁三郎の口から聞いたこともなかった。

ある昼とき、神苑内を歩いた、某女に背後から、王仁三郎が抱きつき、羽交い締めにした。女が驚き悲鳴を上げた。近くにいた信者達が飛び出して、王仁三郎を取り押さえた。王仁三郎は、照れた顔でにやっと笑い、引っ張られて行った。
目撃者達は、大本教主とは痴漢かと怒り心頭。悦子もそれを知り、激しい怒りが沸いた。「この大本こそは、情欲の泥沼のような汚れきった遊廓とは最も遠い、純で清らかな聖地と信じたからこそ、己れの過去を棄て、全てを投げ打って来たのに、それなのに教主ともあろう男が痴漢の行為をするとは。」
悦子は王仁三郎にぶつかろとした。その前にその某女にあって、直接真偽を確かめねばならぬ。
悦子はその女を訪ねた。一人暮らしの女性であった。
そこで意外な事実を知った。

その女性な泣く泣く語りだした。

十数年前、相手の夫は、妻と子を捨てて去った。子供が死に、ただ一人となって彼女は生きてきた。日々に夫を呪い、世間を恨んでは泣いた。
何度も自殺未遂を犯したが、死にきれなかった。ふと、大本の噂を聞き、大本に来てみる気になった。信者たちのうしろに座って教主さまに面会したが、特別に声をかけてもらえたわけでもなかった。「神さまなんて、あるわけない。やっぱり死んだ方が利口や。」後悔しながら、とぼとぼ帰りかけたら、ふいに、うしろからふわっと誰かに抱きすくめられた。大きな強い手が肩をつかんで引き寄せ、広い胸に抱かれた、無言で頬ずりされた。幼い時、もしかしたら、お父さんにあんな、抱かれ方をされたかも知れない。一瞬そう思ったほど、それは暖かい、やさいしい抱擁で在った。
その人が今、面会してきたばかりの教主さまと、知った時、思わず驚きの叫び声を上げてしまった。人が来て、それっきりであった。その場にへたり込んで、おいおい泣いた。人がいなければ、教主さまの膝にすがって泣きたかった。恨みも呪いも解けてしまって、凍えきっていた体中の血がら熱く流れ始めていた。

「あの時、長い間背中にへばりついていた死神が離れたのでっしゃろ、胸がすっと軽うなって、空の青いのにしみじみ気付いたぐらいです。あのことは、うち一生忘れまへん。」

涙の中から彼女は嬉しそうに笑った。

愛に飢えた孤独の暮らしがどんなものか、吾がことのように分かるだけ、悦子には彼女の心境が実感できた。
どんなにありがたい説教や難しい理屈よりも、ただ瞬間の抱擁一つが、この女を救ったのだ。

教主の身でありながら、人目や誤解も恐れず、それを出来る男がいるのであろうか、出口王仁三郎の他に出来るだろうか。王仁三郎こそ、肉を越えた途方もなく広い慈愛の持ち主なのかも知れない。

悦子はめまいを感じた。自分もそんな風に男に抱かれたことがあったろうか。

星田悦子の前に新しい人生が開けた。夢中になって大本に加わり、信仰と、奉仕に打ち込んだ。千万金投じても味わえない心の充足を覚えた。

のち、星田悦子さんは、出口直さんから、義理天上日之出神が憑く、福島久さんと対立する出口王仁三郎との和合を取り持ってくれと頼まれ、苦しい信仰の道を歩まれた方でございます。


老祖訓

「尋仁一団(大本信徒)の和気は多くの信徒と異なり、霊光の明らかなること常人に倍す。誠に衆生の光明にして濁海の導師なり。…尋仁の天性として生まれながらに受けたる所は人と同じきのみ。その誠なるによる故によくその道を成し、その信ずるによる故によくその心を成せり。…その悟るところを以てすれば、僅かに東亜一方の危を安んずるに関わるのみならず、その行ずる所を以てすれば実に以て世界人群物類の平安を奠(さだ)むるに足るなり。故に仁者は天に相するに、必ずその道を尋ねて自然に帰するのみ。」
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