玄徳道

道を語るブログです。

日記道1

2013-06-30 19:32:34 | 日記
今日は久しぶりに朝早く目を覚ましました。普段は肉体労働者なので疲労のために朝早く目が覚めても体の疲労物質が一晩、寝ただけでは、取れないからです。いや、仕事に追われ、気づかれしているためなのかもしれませんが。

今日は日曜日なので、週に一回の神棚の雑巾がけを行います。榊の水、お米、お水をかえました。ちなみに私の神棚は、伊勢白山道の三社式です。伊勢白山道を批判しても良いと思ったことは取り入れています。三社式の由来は知りませんが、真ん中に伊勢神宮の大麻のお札。右社に野里にある住吉神社(司馬遼太郎さんの小説、一夜官女に出ています。)のお札。左社は住吉大社、大海神社のお札。西宮神社の笹札です。

そして、ろうそくを灯し、坐して、瞑目をします。毎朝、坐するのは私の基本です。時間は、現場が遠く、朝早く起きなければならない時は16分です。現場が近ければ32分行います。坐して気の流れが心地よければさらに時間を延長します。

早起き出来たので久しぶりに住吉大社に行きました。バイクで、45分ぐらいで着きます。

いつも、神社に赴くに、なんだかんだと言っても、神様の守護を、依頼心が多少あるのですが、今日は自然と気が付いたら、一宮を無心で、二礼二拍手一揖しておりました。神様に何の依頼心も想念が起きなかったのは不思議でした。

住吉大社を参拝した後、隣りの大海神社に行きました。誰もいなければ、岩笛を吹こうと思ったのですが、参拝者がおられたので今回は吹きませんでした。

返りに、住吉大社のの境内に、薩摩の島津家の紋、(丸に十の紋)を見かけました。誕生石を献上された跡です。

家に帰れば、心が軽く、無形の感化の心地よさが気持ち良かったです。


最近、普段を思い起こせば、仕事の工程、出来高に追われ、心がこれに囚われている自分がいます。仕事も大切ですが、自分の心の安らぎを見失なっては、何のための、先天坐であるのでしょうか。自省しています。

仕事は、その今を一生懸命働き、仕事を離れれば、自己の本心に還る。

人の世を生きて行く以上、悩み、苦しみは誰でもあります。それに囚われぬ、自由な心、適当な心を得る道こそが坐であるのですから。

コメント
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