玄徳道

道を語るブログです。

令和四年十一月 三六九神示

2022-11-29 19:47:00 | 神示道
今日のこの日は、日月地と天王星、一直線に結ばれる、真に大事な月食の日であるぞよ。

宇宙の氣も新しくなり、この地球も新星に向かい、一段と立替立直しの神業が世界に進むぞよ。

(注 日月地、天王星が重なる皆既月食は千五百八十年以来四百四十二年ぶりの事である。千五百八十年は土星食であった。)

先月の神示には、日の丸扇が神の四九三の大本の型であると申してありたが…さあどうじゃ、扇を開き、手にもてば、要(かな)は、手の中に隠れてしまうであろうがな。

人に現の世を任せて三千年。

扇の要を手にかくし、人間だけの世の中であると思い上がり、肝心要(かんじんかなめ)の神あって生まれた人の身である事を忘れて、頭でっかちとなり、人知人学で何でも自在になるものと、我が我がで…争いをいたし、未だに大事な人の生命を犠牲にしながら、国取合戦をいたしておる世界の様であるぞ。

肝心要の事を見忘れての争いであるから、扇の要が外れた如く収集がつかぬのじゃ。

この大宇宙は地球だけが存在するので無く、果て無き宇宙、無数の星があり、その調和があってこそ地球の存在もあるのじゃぞ。

この小さな地球の上で未だに国取合戦をいたしておるような事では宇宙の星からも笑われるぞよ。

争いに明け暮れ、物質文明の発展のみに走り、益々、地球を汚し穢し、我が身で我が身の首を締める如くであり、自ら地球に住めぬようにいたしておる人類であるぞよ。

神あっての人、生命あっての物種(ものだね)であるのに、要(かなめ)の事が判らず、少しの土地を我が物にして天下を取った如く思い上がりておる愚かな様は、如何に理屈を申すとも末は、共倒れとなると申してあるぞよ。

上に立つ者の意地張りで人民は右往左往(うおうさおう)いたし犠牲になり、真に可哀そうな事であるぞよ。

個人の事から、国の事から、勝った負けたの利己主義(われよし)の争いは、我が身をかえり見ぬ限り、おさまらぬぞよ。

日の丸扇の理を今一度、しかと返り見て、扇の要は、我が手の内に隠れておる事に気づかねば、収集はつかぬぞよ。

要を忘れ、根を忘れ、皆、我が我がの自己主張意地張りで、我が身を返り見ぬ事は、哀れであるぞ。

(注 扇(王義)の最も大事な要(神目)を隠す我が手とは、自我や欲、利己主義(われよし)の心である。)

要とは何であろうか。

神ありて生まれた人、親ありて生まれた我が身とも申してあるが、要とは、神目(かなめ)であり、神理であり、宇宙が存在し地球も存在し、その上で万物が生成化育いたすのは、命の力じゃ。

命とはミコトじゃ、神言(みこと)じゃ。

現の世を修理固成(つくりかため)のは、神の言霊の力であるぞ。

人間、我が力で現の世に生まれた如く思いておるが、人が現の世に生まれる時、魂の親神から魂を授かり、それぞれの使命の神言を頂いて生まれて来ておるのであるが、その事に気づいておる者は、少なく、肉体の霊の自我や欲、自己保存の本能の為、我が御魂を押し込めておる者がほとんどであるぞ。

それぞれ、御魂の使命があり、親神から、頂いた神言を果たしてゆく事が、命持ちであり、真の命の果たしであるぞ。

肉の身の自我や欲も神ある事は知っており、神の祭祀はいたせども、形ばかり。

人間都合勝手のご利益を頼むばかり。

神を世に出すどころか、祟らぬよう、障らぬよう、神押し込めの祭りをいたして来た三千年でありたのじゃ。

明治以来封じられて居りた神々が、段々世に御現れの時となり、闇に隠れた、夜の世より、何事もありやかに見えて来る日の出の世の開きとなりた今の世であり、ありやかに見えて来ると、人間とは、こんな事をして来たのかと驚かねばならぬ事ばかり…さあ、今こそ、この地球を存続させ、人類滅亡を防ぐか、世界中で真剣に考えねばならぬ時であるぞよ。

要の事が隠れておる事に、気づかぬ内は、右よ左よ、善よ悪よと、世は治る事無く、地球上に、荒事重なるから、くどく申すのであるぞ。

神々の働きは、一神にして多神、多神にして一神の四九三であり、それぞれ異なる神々の働きを括り結んでおるのが、白山菊理比咩の神の働きであり、龍宮神界では、金勝要神の働きと現れるのであり、悪事を重ねても闇に隠れて判らぬ夜の世から、日の出の神の御現れの昼の世となりて、何もかも見透しの水晶の三六九世となるのであるぞ。

その大四九三を開くのが要の神の働きであり、その要の働きは、人民の頭の良いの知恵学では無く、腹の中に生命の智恵と仕込みてあるのであり、損得に走る頭の知恵でなく、神に順(したが)い、生命に任せる腹の中の要の智恵でないと、これからの世を渡る事は、出来ぬぞよ。

そして、月に要と書く、腰じゃ。

腰が浮いているような、事では、これから歩まぬぞよ。

腹に力を入れ、腰を入れ、一歩一歩と落ちつきて歩むのじゃ。

肝腎要の生命の源は、腹にある。

神の授けし、分霊(わけみたま)も腹の中に鎮まるのじゃぞ。

地球に当てはめれば、生命の源の大海原じゃ、大産腹(おおうむはら)じゃ。


海のはたらき、忘れてならぬぞ。


万物の生命の種は、海から産まれたのじゃ。

人も口から食物を食い、腹の中で、栄養を取りら体を養いておるのじゃぞ。

出雲神も稲佐浜から龍宮の神を迎える神事がをなす。

龍宮と出雲は、深き縁があるぞよ。

(注 出雲から見て、丹後は東方である。

古代、旦浦(たには)の国は、日出る、天照国照神の国であり。天照国照神は、籠神社に祀られている。)

海人族と出雲族の結びで日本は成りておるのじゃ。

さあ、日の出の三六九世を迎えるには、地球の浄めを急がねばならぬ、荒事は重なれど、荒事無ければ、新事は開かぬのが現の世の四九三であるぞよ。

気候も変わり自然の恵みも変わりて来る。

一人じめはならぬのじゃぞ。

皆で分け合う心養いておかねばならぬぞ。

荒事の節を越へ、出雲分けて昇る日の出の御世を待つぞよ。

言霊神也

ン。

令和四年十一月十日 

天橋道士龍華斎 修聖拝写。





令和四年十一月八日 小長谷修聖 三六九神示霊視篇。

2022-11-28 20:15:00 | 神示道
出雲の日御崎神社の上宮、下宮(日沈(沈)宮)が拝され、続いて、国譲りや国引きの神話が残り、旧暦十月十日には、神迎えや龍蛇迎えが行われる行われる稲佐の浜が見え、水平線に太陽が沈むと、浜にある大きな岩の弁天島に金色に輝く、大黒様が立たれ、日の丸扇を開き、海へ向かい招く様に扇をあおられると、海上に金銀の龍や、色とりどりの龍が渦をなし、玉の如くとなって、浜の方へ、向かって来る様が見えました。

(注 日御崎神社は、厳霊系(いずのみたま)系の天照大神を祀る下の宮と、瑞霊系(みずのみたま)の素戔嗚尊を祀る上の宮とがあり、厳瑞結びの型を示されている。

下の宮は日沈(沈)宮と称される。それは春分、秋分の日、千葉県房総半島から登った太陽が、丹後の男島女島の間を通り、日御崎の沖に沈む故である。

伊勢系は昇る日を、出雲は沈む日を尊崇する。

出雲大社の大国主命の神座も、日の沈む西方を向いている。

日御崎神社は厳瑞結ぶ地場である。

弁天島には、海神、豊玉彦命が祀られ、神迎えの先導と龍蛇神(海蛇)を迎えて大社に祀る等、出雲と海の龍宮、縁深く東の籠宮の天照国照神と西の出雲の大国主命との深い縁(ゆかり)も感じられる。

東の丹後と西の出雲は、カゴメの歌の解明ともなる。

大国主命の神座は西を向き、後ろの東方には丹後の籠神社がある。)


丹波綾部の大本教の神苑にある、本宮山上にある、月山富士の前に、出口王仁三郎聖師が立たれ、八足案の上の三宝に大なる大根を供へられました。

(注 宗教としての大本で無く、万民、天地の大本、根の道に帰順せよと教えられ、根は艮、国常立大神に帰する事を示されたのであろうか。
又、大根は、金勝要神の意もある。)

(注 厳瑞の厳(天照大神)と瑞(素戔嗚尊)の結びで五男三女が生み給う。

五三とは、伊豆能売の意でもある。)



三六九神示、身魂磨き。

2022-11-18 21:32:00 | 神示道
人の身は、神の御魂の生く宮と申してあるぞよ。

神々は、天地世界、大自然を宮として鎮まり、創造化育の神業(かむわざ)を進めてあるが、高天原の神の四九三(仕組み)を、この地上に実らすにつけては、八百万の神々は神霊を分ち、人の身に鎮め、この地球に住まわせて、地上天国(うましみくに)を開かんとせるのであるぞ。

人の身魂は、神氣霊氣の受信器であり、発信器と四九三(しくみ)であるぞ。

神界や霊界の氣を受ければ、様々の霊も憑って来るから、常に我が身を神の鏡(神意)に照らして正邪を審神(さにわ)しておらねばならぬぞよ。

思い上がったり、利己主義(われよし)の思いでありたら、善き神は憑って来ぬぞ、響いて来ぬぞ。

神は霊、人は体と申してあるが、人の身が善き思いに磨かぬと、神界で善き事を計りても、現の世に実らぬのであるぞ。

余りにも、利己主義の思いが強いと、神の授けた御魂は自我の凝りた岩戸閉めとなり、獣の霊の器となしてしまうぞよ。

本人はその事に氣づかぬが、道義礼節の道から外れた行いをするから、審神(さにわ)出来るぞよ。

その者相応の霊が憑って来るのであるぞ。

霊界へ帰った時は、現の世の想念、相応の霊層界に行くのであるから、この世でしっかりと身魂を磨いておかねばならぬぞ。

この世は、身魂磨きの修業の世と申してある事、常に忘れてはならぬのじゃぞ。

過ぎ事、何程悔やんでも、どうにもならぬぞ。

その時の御魂相応に、通らせてある道であるから、辛く苦しい道でありても、人のせいにしたり、うらんだりしては、ならぬぞよ。

どんな、嵐の日も、黒雲の奥には太陽が輝く如く、我が身の内には、神の授けた御魂(直霊)のある事を忘れず、勇気を出して進む事じゃ。

その事に、はっと氣づけば、御魂の光が道を照らすぞよ。

今は過去の結果であり、未来の原因であるぞ。

その道を人は歩みて、身魂磨きをするのであるぞ。

今の世は、根を忘れた切花の世であり、人民が目先の損得で迷うのも、せんなき事であるが、原因結果(めぐり)の道に狂いは無いから、今が辛く悲しければ、今から気持ちを改め、日の出心で前向きに、一歩踏み出す事であるぞ。

辛いからと求めるばかりでは、ならぬぞ。

辛い中でも、ちょっとでも、人の喜ぶ事をしてみなされ。

それが我が身の喜びとなり、心の闇を晴らす光となるぞ。

何程、世の為人の為に尽くして居ると、申しても、して、やっておると、言うような精神では、不平不満不足のもととなり、道を外れる事となる。

常に、させて頂いておると言う感謝の心を忘れてはならぬぞよ。

その、精神となりたら、人も喜び、我も喜び、嬉し、楽しの結構な道の開きとなるぞよ。

情けは人の為ならずと申してあるぞよ。

良き受信器、良き発信器となる磨き忘れてはならぬぞよ。

それは、常に我が身を省みる、自己審神が真に大事であるぞ。

今のところ、人の身は、未だ未だ未完成であるから、失敗もあるぞ。

その失敗を土台にして、一歩成長となるのであるぞ。

どんな辛く悲しき時でも、あきらめず、自己啓発の勇氣奮い起こす事であるぞよ。

ン。


神は分けへだて等いたさぬが、人民皆、利己主義(われよし)になりておるから、人民が分けへだていたすのじゃ。

世の元の神の意は、天照国照る太陽の、光や空気の如く、万民平等に天照し、国照らして、あるのじゃ。、

神の光を受けるも受けぬも、人民の自由であるぞよ。

どんな者でも、現の世にあるのは、御役目があっての事。

生かしてやりたい、暮らしてゆけるようにしたい、それぞれの使命を果たさせて、現の世に生きる喜びを与えたいのが神の意(こころ)で、あるぞよ。

ン。





三六九神示、大江山。

2022-11-14 08:00:00 | 神示道
新緑に藤の花映える、大江山へ修聖他二名の者、久々に登らせ、御嶽明神(鬼嶽稲荷)へ参らせて、平成八年の神業の変動以来の守護の御礼を申させたぞよ。

大江山は古代丹波の要、丹後の重要な守りの地場であり、豊受大神の分霊、倉稲魂(うがのみたま)の神が鎮まりて、長らくの間、丹後を守りたと申してあるが、元の神魂は、国常立尊であるぞ。

諸神から恐れられ、それ故に大江山は、鬼の住む山と言われたのであるぞ。

大江山の山頂、千丈ヶ岳は、天橋立から坤(南西)方にあたるぞよ。


扨ても昭和六十二年から神業を共になした者等の中に、真名井ヶ原を我が身に等で自在にせんとする野望の者あり。

次第にその正体を現し、海部家や修聖にも反抗するようになり、平成八年の夏、その動きは一段と激しくなって来たのであるぞ。

修聖は何とか円満に納まる事を願えども、相手の思凝霊の働きが強く、修聖も身心共につかれ、神業の行く末を案じ、平成八年八月三十日、大江山の御嶽明神へ参り今後の守護を頼んだのであるぞ。

その時、白金色の大銀龍に乗り、漆黒の装束にて剣を持った御嶽明神、現れ、「しばし時を待て」と神言を伝えられたのであるぞ。


その後、神意に逆らう者等は三六九神示も否定するようになり、真名井神社や籠神社も、神のぬけ空(がら)、福知山の〇〇家に主神が天降った等と申すようになり、その後の態度を見て、これ以上は共に歩めぬと修聖も決心をいたし、平成九年一月十日福知山の〇〇家にて、彼等との決別を宣言したのであるぞ。

御嶽明神への祈願をなして以来二十年の歳月が経ちたが、明神はずっと修聖や神業の道を守りてまいるぞよ。

こらからも、守るぞよ。

神業一筋の道を通すには、未だ未だ様々の妨げもあるから、常に思い上がらぬよう一道を通さねばならぬぞよ。

神の取次と言うものは、よほどの覚悟が無ければ、つとまらぬぞよ。

大江山は鬼の住む山と恐れられたが、鬼とは、国常立尊の事でありたぞよ。

国常立尊は丹後を守る為、鬼の住む山といたし、みだりに人が寄りつかぬようにもしたのであるぞ。

鬼や蛇の住むと言うところは、大事な四九三や御宝が秘められてあるところであるぞよ。

鬼の仮面のその裏に、観音弥勒の笑顔ありと申してあるぞよ。

ン。


(注 大江山=八百三十三m、天橋立から坤方にある霊山で、八合目に鬼嶽稲荷神社、麓に天岩戸神社等がある。

崇神天皇以来、三度の鬼退治に関わっている。

崇神天皇の御世、丹波道主命、千丈ヶ岳の頂きに神籬を立て、倉稲魂神を祀りた山。

鬼と住む山と恐れられたのは、鬼即ち国常立尊の事であろう。)







三六九神示、縁。

2022-11-12 21:02:00 | 神示道
人民が救う役目の宗教も形ばかりとなり、佛事も真の救いの力を失いて、殿堂伽藍を守る事や金儲けに走り、人民も我さえ良ければ良い、今さえ良ければ良いの、利己主義(われよし)の道に落ちいり、国の政治を司るお偉方も仁慈誠信の道を忘れ、党利に走る。

世界の国々も核兵器で威嚇しあい、その末は戦争いたしても、経済の発展じゃと申すような今の世は当に末法の世であるから、神理の道を外れて、利己主義のしたいほうだいでは、世界が潰されてしまうから…男島女島や天之橋立真名井ヶ原が世の元の神、出現の御地場である事を証して、そこから神力を発動なし、神理の判る、誠の御魂を引き寄せて、世を立直し、現の世が万劫末代続く事を神界は願いておるぞよ。

されど、噂を聞きて、どえらい神様がおわすところだから、どんなお陰でも、もらえる所かと、御蔭信心で真名井ヶ原へ参りても、誠の判らぬ者は、何も他の神社と変わらぬし、御蔭も無いと去ってゆく者も多いが、艮の金神、国常立大神を始め、撞賢木厳御魂の神が神力を現し世界の国魂の神々を集え、因縁の御魂の神民を、引き寄せて、誠の者には、神智妙智の玉を授けて、世の立直しの五用に立ててまいるぞよ。

未だ未だ、真名井ヶ原の体制が調わぬから、集いし神々も、真の働きを出せぬところもあるが、これから神力を現してまいるから、見てござれよ。

天之橋立は天の浮橋、世の元の神々の天地の通い路であるから、そこから、立直しの神氣を発するのであるぞよ。

余りにも人民勝手が過ぎると、白山比咩の神も怒るぞよ。

白と名のつく山、白山比咩の神氣通わせてあるぞよ。

ン。

(注 真名井の磐座には、大元神、豊受宇氣大神(国常立尊)と共に元初の伊邪那岐、伊邪那美の神も祀られている。天之橋立は真名井の磐座の神籬でもある。)

天照国照大神とは、真の天照の大御神であるぞ。

弥勒の大神じゃ。

天照国照大神は大元の神と同体。

大宇宙に遍満する光の神であるぞ。

現の世に彦火明命、即ち日の出の神、地の弥勒と現れるのであるぞ。

日の出の神は、大海原を治(しら)す龍宮乙姫と、つれそうて、世の立替立直しを進めてまいるぞよ。

高天原の豊宇氣大神と、天照国照大神は、陰(水)陽(水)の神氣に分かれども、均しく宇宙大元の神であるぞ。

形ある現の世に住まい形ある物ばかり見て暮らす、人民には中々判らぬ神界の四九三であれど…日が昇れば闇は晴れ、何かの事がありやかな見え来るのじゃ。

つつみ隠しの出来ぬ水晶の世の始まり、それを日の出の世と申す。

三六九の世と申すのじゃ。

ン。