玄徳道

道を語るブログです。

黙真人訓 月道。

2023-08-22 20:12:00 | 道院
月は、満ちれば欠けるし、欠ければ、また、満ちて丸くなる。


天の心は、唯自然であって、人為で造作することは無い。

自然なるものは、道慈であり、道慈に連なる存在は、安心と安全が附与されるのである。

月が円くなったり、欠けたりすることは、人々のよく、目にする所であって、別に不思議とは、思わないのである。

天の心は、無為自然にして運化し、無心にしてめぐっているのである。

これは、唯、人が天の心を持っているので、このように言ったのである。

そこで、人意が一度、起きるのは即ち、一念より、起こってくるのである。

例えば、月が円くなったら、自分に有利であろうか。

欠けたら自分に不利であろうかをどうしても考える。

月が円くなった方が有利であれば、必ず、その利益を手に入れてようとして、妄念を起こす事になる。

また、月が欠けた方が自分に有利であれば、必ず欠けるようにはかり、その利益の幅をいなかる方法をもってすれば、二倍十倍百千万倍に膨らますことができるかを考えるのである。

このような、利益を貪る心を起こす以上は、必ず、私利私欲を貪り、自分一人の快感や、喜びを満喫しようと思い、その為には、一切の手段を択ばないのである。

これらの利益を手に入れようとする、重いがつのるほど、その利害を冷静に、分析する余裕が無くなるのである。

ただ、利益の二字によって、心が束縛され、念は利益の為に、がんじがらめに縛られて、その縄を断ち切る事が出来ないのである。

事業を始まるに当たって、皆利益や、プラスの面のみを強調して、マイナス面を軽視しがちである。

これが長期に渡って来れば、その考え方を改めることは難しい。

時には、良心が迷っている自分に対して、警告を発してくれるが、そこで、一時的には、又自覚して、改めようとするが、しかし、私利私欲を追求してきた、長い間の習性によって、これを放棄することは、忍び無いのである。

たとえ、仲の良い、友達がいても、正しい道をもって、戒めてくれる人は少なく、また、再び、利欲の海に沈んでしまうのである。

ひとだび、これを悟って目覚め、ひとたび目覚めて明らかとなり、ひとたび明らかになって、改めるという事が出来ず、誤った道に入り込んで抜けられなくなるのである。

聡明なる智慧というものは、本来人々が持っているものである。

それが何故に聡明なものほど、一たび迷路に入り込むと、愚か者よりも更に愚かとなるのであろうか。

それは、僅かな小さな智慧をもっているものが、大きな智慧をもっていると過信しているところからくる、誤りである。

そのようなことで、どうして、「大智は愚の如し」(大いなる智慧のあるものは、それを隠しているので、表面から見ると愚か者のようである)と言えるのであろうか、言えないのである。

その僅かな知識や智慧に頼っている者は、これをひけからして、自らを損なっているのである。

これに反し、大いに智慧のある者は、有にして、無のごとく(為して恃まず。)、実にして虚のごとく、時々に謙遜すれば、事ごとに益を受ける事ができるのである。

これは、社会や人情の上に於いても普段常に目に触れることである。

たとえば、われわれ会員(紅卍字会会員、修方、老祖の弟子)の中においても、常にこのような状態である。

修道の人と言うのは、世俗を超越して、非常に高尚ではあるが、ただこの一点の平易な工夫を修める事が出来ないのであろうか、そのようなことは、多分無いであろう。

このような状態になるのは、皆その原因があり、その原因も非常に多いのである。

もし、自己の主宰である本心から離れる事なく、しっかりこれを把握していれば、世俗の利益の為に引きずられて、直ちにその主宰を失うことにはならないであろう。

これらは、全てが人意(後天の人の意念)の中に汚れた、ものが付着しているからで、たとえ自分心中にゴミや汚れたものがあっても、これに気が付かず、自分では聡明だと過信しているのである。

しかし、現実において、そう言う事実にでくわすと、知らず知らずのうちに、過信して、自ら迷っているということに気が付かないのである。

そこで、結局は失敗するのである。

そうなる原因は、それがヒトに知られなければ自分では無事だと思っている。

しかも、人はたとえ、私欲の為に作為を施しても、ヒトには知られないと思っている。

それが、いよいよ、救うことの出来ない段階に至って、後悔しても、すでに遅いのである。

道慈の為に至っては、このようなことで、道慈がどうして安全を保つ事が出来るであろうか、それは、出来ないのである。

全ては、人意の私欲によって、作為を施し、道慈をして、不安不全のおそれを抱かせるような事になるのである。

この僅かな人意による作為こそは、わが心身に於いて、先天の三宝(炁・霊・性)と後天の三宝(精・気・神)及び、道慈や自己の本心をも、壊滅させてしまう事になる。

この人意や作為による影響は大にして、あらゆる苦心の上に既につくりあげて、固まった道慈の基礎を、その根底よりは崩壊させる事になる。

それは、始めの内は、もともと、僅かな欠点や、汚れであって、これらを消滅させることは甚だ容易であったが、しかし、その僅かな欠点や汚れが、段々と大きくなって、燃え広がって来ると、それを消し止める言葉出来なくなるのである。

そこで、人意を勝手気侭に、活動させないようにして、小さなうちにこれを慎み、微かな内にこれを謹まなけらばならないのである。

各位には皆、修養の素質があり、その功侯は深くして、純粋なる大徳あり。

本人(黙真人)がこれを語るのは、老婆心であろうか。

各位はどう思うであろうか。




カタカムナ道。(鬼雷考察)

カタカムナ 身体を運(めぐ)る 神の道 己が使命を 言解きしがな。

カタカムナ 金を欲しがる 亡者とは 己が欲に 焼かれてしがな。

カタカムナ 大月日の道 自然歩み 道導(みちしるべ)なる 己が神を見出さん。

カタカムナ 穢れを祓う 無素まるの玉 御魂で感ずる ひふみよの道。

カタカムナ あめとこたち くにとこたちの神 あめみなかぬし かみさきさとり。



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黙真人訓、虚空道。

2023-08-09 19:05:00 | 道院
鬼雷、先に述べます。

虚とは、空であり、空であれば、全て同一であり、故に無となる。そして、無とは、極であり、極とは、は終わりから始まりである。

無極にして、始めて、炁となる。

無極、霊極、亜極。それらを自然の運行と述べる。

荘子の言に、「唯道は、虚に集まる」とあり、荘子は、これを判り易く説き、万物の中で、知覚の作用を備えているものは、皆、呼吸をすることによって、生命を維持している。

その呼吸が十分に出来ないというのは、天の罪ではない。

天は、時々刻々休む事なく、穴を開けて気を通しているのであると。

ところが、人はこの、自然に従わず、かえって、この穴を塞いでしまうのである。

人の肺臓には、空虚な場所があり、これで、呼吸していると同様に、心にも、また空虚な場所があって、道を楽しむ事ができるのである。

室内にも空虚な余裕(ゆとり)がなければ、家庭の中でも争いが絶えないと同様に、心にも、道を楽しむ余裕が無ければ、六根の情欲によって、こころが塞がれ、乱れ、争う事になる。

己自身の胸中にも、虚空の天地が無ければ、道を楽しむ事が出来ず、深山幽谷が隠遁者の住処として、もてはやされるので、ある。

そこで、老子は、「道は沖(虚)にして、これを用う」とある。

そこで、また、土を捏ねて、焼き物を作るにも、土器を土器として、用をなすのは、その中の空虚な、部分にある。

そこで、一切の形あるものが、役に立つのは、その中の空虚な、形無き、無の働きがあるからである。

これと同様に、体の中の呼吸器は、中が空虚であるから、役に立つのであり、消化器も中が空だから、飲食物が、通って行き、血管も中が、詰まっては、血液は流れず、人の心も、物欲や物に囚われて、虚空の心が塞がってしまえば、霊妙不可思議な、働きが失われてしまうのである。



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慧真人訓、病気道。

2023-08-07 18:50:00 | 道院
鬼雷が先に述べる。

人が病を発症するは、因果に依る。

添加物を沢山、喰らえば、自ら破れ、癌となる。

ジャンクフードを沢山、喰らえば、自ら破れ、癌となる。

精製された、小麦粉による、食パン、ラーメンを喰らえば、全身の細胞は即座に拒否し、抵抗するが所以により、己が細胞は腫れる。

ああ、人が便利に食物を得る方針を得れば、飢えはしないが、因果により、人を滅ぼす一因と為す。

食物で言えば、精白とは、邪悪である。

砂糖、白米、小麦粉。

されど、此処で日本人の主食である、白米が、一番優しい。

されどされど、玄米に及ばす。

玄とは暗黒。砂糖は黒糖が一番。そして、小麦粉とは精製されない、黄金の全粒粉が一番である。。。

慧真人訓。

人は、皆、有形の病を治すことは知っているが、無形の病を治すことは知らない。

有形の病を取り除くことは、容易では無いが、無形の病を治すことは、更に難しい。

仮にも.無形の病が起きて来なければ、どうして、有形の病が生じて来るのであろうか。

そこで、無形の病が起こって来ないようにするには、どうすれば、善いのであろうか。

それは、人の予防の如何に懸かっているのである。

所謂(いわゆる)、人の五臓と言うのは、心臓、肝臓、脾臓、肺臓、腎臓である。

心臓の病が起きて来ると、物が言えなくなる。(鬼雷の妻が、心臓の手術をしたが、お喋りが止んだ様にはならなかった。病には個人差があり、訓文は参考にすべきのみ。)

肝臓の病が起こってくれば、怒りの気によって損なわれる。

脾臓の病が起きれば、食べても、その味がわからず、かつ消化しないのである。

肺臓の病が起こって来れば、水を生ずる働きが無くなって来るので、咳が出て来る。

腎臓の病が起こってくれば、五臓の最初に当たる、肝臓(木)に滋養を与えることが出来なくなる。

これが病の有形なるものである。


水(腎)が能(よ)く火(心)を尅(相手に打ち勝つ)して、(水が火を尅する)水を調え、火を能く金(肺)を尅して火を調え、金は能く木(肝)を尅して、金を調え、木は能く、土(脾)を尅して、木を調え、土は能く水を尅して土を調える。

このように、五臓がみな、その調和を得れば、病はどこから起こって来るというのであろうか。

ただし、これを調える、ところの方法について、皆の為に告げなければならない。

それは、喜怒哀楽の七情六欲がみな、病を招くところの源となるのである。

これを用いるのに、その中庸を得る事が出来なければ、病の原因と、なるのである。

喜びも度を越せば、木(腎)を傷(そこ)ない、怒りも度を越せば、木(肝)を傷ない、哀しみも度を越せば、火(心)を傷ない、楽しみも度を越せば、金(肺)を傷ない、この四つのものが一つでも傷なわれれば、土(脾)もまた、これに従って、傷なわれるのである。

土は万物を生育するところの母なので、金木水火の四つのものに、比べて特に大切であり。これを傷なってはならない。

故に、五臓を調和しようとすれば、土が最も重要である。

しかし、この四つの中で、一つでも傷なうことがあれば、土は、これに従って傷なわれる。

そこで、他のものと比べて、土を調和させることは特に容易なことではないので、これを実験によって証明する事が出来るのである。

土を傷なうということは、もし心に病があれば、食は必ず減少し、肝に病があれば、食もまた、必ず多く食べられない。

その他、肺や腎の如きも、いかなる病であろうとも、一たび病めば土(脾)を傷なってしまち、健康の時のように、飲食することもできなくなる。

土と即ち脾であり、脾を調和することは容易では無いという事が分かるので、また土は金木水火によって病を招くことが明白になったのであり、これが無形の病の内に発するところのものである。

また、外から来るものも気を付けなければならない。

それら陰陽風雨晦明などは、皆、病をまねくもので、これを、予防すべきには、どうすべきであろうか。

それは、陰に対しては、これを防ぐに陽を以ってし、陽に対しては、これを防ぐには陰を以ってし、陰陽相和すれば、病は無くなるのである。

風邪には、これを防ぐに、静を以ってし、動静が、全て適宜であれば、病はどこから入って来るのであろうか。

明には、これを防ぐに暗を以ってし、明暗相交われば、自然に合致し、戻る事はないのである。

しかし、その陰陽風雨晦明というものは、皆、陰に過ぎ、陽に過ぎ、風雨に過ぎ、晦に過ぎ、明に過ぎ、その中庸を得ていないところに病の原因がある。

故にこれを予防すれば、内外の病は入って来ないのである。

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