月は、満ちれば欠けるし、欠ければ、また、満ちて丸くなる。
天の心は、唯自然であって、人為で造作することは無い。
自然なるものは、道慈であり、道慈に連なる存在は、安心と安全が附与されるのである。
月が円くなったり、欠けたりすることは、人々のよく、目にする所であって、別に不思議とは、思わないのである。
天の心は、無為自然にして運化し、無心にしてめぐっているのである。
これは、唯、人が天の心を持っているので、このように言ったのである。
そこで、人意が一度、起きるのは即ち、一念より、起こってくるのである。
例えば、月が円くなったら、自分に有利であろうか。
欠けたら自分に不利であろうかをどうしても考える。
月が円くなった方が有利であれば、必ず、その利益を手に入れてようとして、妄念を起こす事になる。
また、月が欠けた方が自分に有利であれば、必ず欠けるようにはかり、その利益の幅をいなかる方法をもってすれば、二倍十倍百千万倍に膨らますことができるかを考えるのである。
このような、利益を貪る心を起こす以上は、必ず、私利私欲を貪り、自分一人の快感や、喜びを満喫しようと思い、その為には、一切の手段を択ばないのである。
これらの利益を手に入れようとする、重いがつのるほど、その利害を冷静に、分析する余裕が無くなるのである。
ただ、利益の二字によって、心が束縛され、念は利益の為に、がんじがらめに縛られて、その縄を断ち切る事が出来ないのである。
事業を始まるに当たって、皆利益や、プラスの面のみを強調して、マイナス面を軽視しがちである。
これが長期に渡って来れば、その考え方を改めることは難しい。
時には、良心が迷っている自分に対して、警告を発してくれるが、そこで、一時的には、又自覚して、改めようとするが、しかし、私利私欲を追求してきた、長い間の習性によって、これを放棄することは、忍び無いのである。
たとえ、仲の良い、友達がいても、正しい道をもって、戒めてくれる人は少なく、また、再び、利欲の海に沈んでしまうのである。
ひとだび、これを悟って目覚め、ひとたび目覚めて明らかとなり、ひとたび明らかになって、改めるという事が出来ず、誤った道に入り込んで抜けられなくなるのである。
聡明なる智慧というものは、本来人々が持っているものである。
それが何故に聡明なものほど、一たび迷路に入り込むと、愚か者よりも更に愚かとなるのであろうか。
それは、僅かな小さな智慧をもっているものが、大きな智慧をもっていると過信しているところからくる、誤りである。
そのようなことで、どうして、「大智は愚の如し」(大いなる智慧のあるものは、それを隠しているので、表面から見ると愚か者のようである)と言えるのであろうか、言えないのである。
その僅かな知識や智慧に頼っている者は、これをひけからして、自らを損なっているのである。
これに反し、大いに智慧のある者は、有にして、無のごとく(為して恃まず。)、実にして虚のごとく、時々に謙遜すれば、事ごとに益を受ける事ができるのである。
これは、社会や人情の上に於いても普段常に目に触れることである。
たとえば、われわれ会員(紅卍字会会員、修方、老祖の弟子)の中においても、常にこのような状態である。
修道の人と言うのは、世俗を超越して、非常に高尚ではあるが、ただこの一点の平易な工夫を修める事が出来ないのであろうか、そのようなことは、多分無いであろう。
このような状態になるのは、皆その原因があり、その原因も非常に多いのである。
もし、自己の主宰である本心から離れる事なく、しっかりこれを把握していれば、世俗の利益の為に引きずられて、直ちにその主宰を失うことにはならないであろう。
これらは、全てが人意(後天の人の意念)の中に汚れた、ものが付着しているからで、たとえ自分心中にゴミや汚れたものがあっても、これに気が付かず、自分では聡明だと過信しているのである。
しかし、現実において、そう言う事実にでくわすと、知らず知らずのうちに、過信して、自ら迷っているということに気が付かないのである。
そこで、結局は失敗するのである。
そうなる原因は、それがヒトに知られなければ自分では無事だと思っている。
しかも、人はたとえ、私欲の為に作為を施しても、ヒトには知られないと思っている。
それが、いよいよ、救うことの出来ない段階に至って、後悔しても、すでに遅いのである。
道慈の為に至っては、このようなことで、道慈がどうして安全を保つ事が出来るであろうか、それは、出来ないのである。
全ては、人意の私欲によって、作為を施し、道慈をして、不安不全のおそれを抱かせるような事になるのである。
この僅かな人意による作為こそは、わが心身に於いて、先天の三宝(炁・霊・性)と後天の三宝(精・気・神)及び、道慈や自己の本心をも、壊滅させてしまう事になる。
この人意や作為による影響は大にして、あらゆる苦心の上に既につくりあげて、固まった道慈の基礎を、その根底よりは崩壊させる事になる。
それは、始めの内は、もともと、僅かな欠点や、汚れであって、これらを消滅させることは甚だ容易であったが、しかし、その僅かな欠点や汚れが、段々と大きくなって、燃え広がって来ると、それを消し止める言葉出来なくなるのである。
そこで、人意を勝手気侭に、活動させないようにして、小さなうちにこれを慎み、微かな内にこれを謹まなけらばならないのである。
各位には皆、修養の素質があり、その功侯は深くして、純粋なる大徳あり。
本人(黙真人)がこれを語るのは、老婆心であろうか。
各位はどう思うであろうか。
カタカムナ道。(鬼雷考察)
カタカムナ 身体を運(めぐ)る 神の道 己が使命を 言解きしがな。
カタカムナ 金を欲しがる 亡者とは 己が欲に 焼かれてしがな。
カタカムナ 大月日の道 自然歩み 道導(みちしるべ)なる 己が神を見出さん。
カタカムナ 穢れを祓う 無素まるの玉 御魂で感ずる ひふみよの道。
カタカムナ あめとこたち くにとこたちの神 あめみなかぬし かみさきさとり。