大きな世替わりの時と申してあれど
、その真意を見極めむとするより、今も変わらず、目先の損得、我身の都合勝手の事ばかりにはとらわれておる人民であるが、世界の様を見て見なされ、日本の国の頭も替わり、アメリカのトランプ殿も選挙に敗れ次々の世界の頭も替わりて来たであろうがな。
世界の大芝居、役割が変わりてゆくのであるぞ。
新型コロナの為、これまで通り好き勝手の出来ぬ世と替わりてまいりたが、如何なる世となるとも、親神から、御魂を授かりし神民は、その御魂によりて、それぞれの使命や職業も授けられてある、事のを忘れる事無く、様々困窮あることもそれに負けずら前向きに、清く明るく、誠を持ちて、日々勤めねばならぬぞよ。
その事が神意を現の世に実らせ、行き詰まりた世の岩戸を開き新しき世を開きてゆく事になるのであるぞ。
扨も、生成化育も神業と為せば、天之御中の宇宙の中、日月星辰、この地球を鳴り成らせたのは、艮と坤の神氣の発動であり、それを富士と鳴門の四九三と申してあるぞよ。
艮の神界には、国常立之大神が坐し、坤の神界には、豊雲野大神坐し、厳瑞の四九三にて、この地球も成り、万物も生まれ人の身もこの地球に住まわせて神意を実らす為に働かせてあるぞよ。
化育は、万物を育てはぐくみ、人の身をもって文化文明を成らせ、人民より、神民と成長させ、現の世に地上天国を成らせるのが、乾巽の道であり、世の元の艮金神、国常立大神の神意を実らせる神氣の道であり、日の出の神、龍宮乙姫連れ添うて働く道であり、三六九の神、出現の道であるぞよ。
艮坤は生成。乾巽は化育。
生成化育の神業を現の世のに成らせてゆく、四九三は、神界に成りて、日の出の神、即ち、地の三六九神、出現の地場は、日本の乾、天橋立真名井原、籠宮であり、母なる神、伊邪那美の神子なる、神素戔嗚の神、出現の要の地場は、丹後国熊野郡甲山の四九三で、それを写せしが紀州熊野である事、証してまいりたが、その事が現の世に明らかになれば、これまで世の元からの神々を封じ込め落とし入れて世を自在にしてまいりた、思凝霊は、消えてしまわねばならぬから、神事に仕える者や、真実の事を申す者等は、邪魔になるから、世の改善に働く者等の足下をすくい、様々の悩みや、身の病も、もたらして、現の世から抹殺せんとする妨害は、神が表に出る程、強くなりてまいるから、みな心して、まず、御魂の勢いを弱らせぬよう、清く明るき心を保たねばならぬ、この時であるぞよ。
まだまだ、すぐには、世の改善は成らぬから、根気よく、それぞれの御魂より出ずる職業に、励みつつ、世の為人の為に尽くす。
慈しみや、奉仕の精神を磨き、日々の勤めに勇まねばならぬぞよ。
神さま参りだけが神事でなく、神への祈り感謝と共にそれぞれの使命の果たしに努力する事が真に大事な神事であるぞよ。
祈りとは、我使命の果たしに努力する神への誓いであるぞよ。
さあ、乱れ荒ぐ、今の世。
思凝霊は、正しき事を言い、行わむとする者の妨げを一段と増してまいるから、それぞれに悩みや身の病いや、これまでの和の崩れたり、困った事が起こりて、段々神の道から離れ、利己主義の道へ走るような者も出て来るが、そのような事に振る回されてはらならぬぞよ。
どんな苦しい事や、悩みがあるとも、人をうらまず我が身の因縁の浄化、人民から真の神民と成る為の磨きであると受け取り、心を明るくすれば、思凝霊も歯がたたず、退散してまいるぞよ。
祓戸の神の筆頭、瀬織津姫の神、ハ臂弁財天と変化して、真の神民を守るぞよ。
国常立之大神の御魂を受けし、役行者も現れて、誠の者を守るぞよ。
辛く悲しき事あるとても、決してそれに負けず、時の流れに舟を浮かべて進むのじゃ。
時の流れの中に神の意、四九三は現れて導くのであるぞ。
時の流れに身を任せ、決して焦りてはならぬぞよ。
腹を据え、息を調へ、どんな時も神と共にある事を忘れる事なく、歩むのじゃ。
さあ、水晶の世の開きじゃぞ。
表は綺麗言を申しておる、お偉い方であるなれど、裏では、思凝霊にあやつられ、善からぬ、恐ろしき企みをいたし、人民を惑わして居る事も、段々明らかになりてまいるぞ。
くれぐれも申しておくぞ。
いろいろ騙される事ありても、それでも誠で道を歩む者は、必ず、神が守るぞよ。
神は様々の人の縁に現れて助けてまいるのじゃ。
さあ、艮坤の仕組みは生成、乾巽の四九三は化育と申してあるぞよ。
人はそれぞれ、御魂の縁によりて、生成化育の神業に参ずのじゃ。
艮金神国常立大神、坤金神豊雲野大神、乾巽の道に坐す、日の出の大神、龍宮姫の神に仕えて奉るのじゃ。
仕え奉る誠もて、それぞれの職業使命の果たしに励む時、人足霊止(人)の道が開け、その御魂は、御魂の親神と共に、永遠に栄ゆる事となるのじゃ。
さあ、行き詰まりは、無いぞ。
清く明るくそして、楽しく歩めば、思凝霊も去りてゆくぞよ。
利己主義の悩みは思凝霊を呼ぶ事を忘れるのではないぞ。
言霊神也。
ン。
令和二年十一月十五日
天橋道士龍華斎修聖拝写。