玄徳道

道を語るブログです。

出口日出麿、あいうえお道句。

2023-07-20 20:18:00 | 天道
あてもなく、生まれて死ぬとは、情けない。

いよいよの、時になったら、神様だ。

うんの良いも悪いも、神の守護次第。

駅へ、着く前に、手荷物整理せよ。

お光の射すも、こころの窓次第。

解釈のしようで、神示に異論あり。

気位を低く、実績あげること。

苦労、しただけ、甲斐ある、神の道。

結構に、なるもならぬも、心がけ。

コツコツと、いろいろ、コツを覚えとけ。

幸いは、日本人たる、一事でも。

しっかりと、腹に力を作るべし。

すくやかに、神苑(みその)の若木、伸びてゆく。

せめて、世に何か手柄を、したいもの。

卒業で、学問済んだわけはない。

たね、蒔いておかねば、刈り入れできはせぬ。

ちよろずの、宝こころの、舟につみ。

辛い目に、合えば我儘、治るなり。

ていさいも大事、心もなお大事。

ところどころ、思わぬ所に神柱。

なる儘に、ある儘にある世なりけり。

荷を背負うて登る、山道、油断すな。

ぬかるなよ、今が日本の五分間。

熱誠は真理より人を惹きつける。

農は、世の生命の元ぞ、怠るな。

はたらいて、いることそれがら幸福だ。

必要があって一切出来ている。

筆と舌が、打出の小槌なり。

屁もひれば、沈香も焚く、人が要り。

本や理屈から、世の中は分からない。

真心を込めるに、ました礼儀なし。

見違えるほど、信仰は人を変え。

無理をせず、自然の時を待つが得。

目で見ずに、腹(陰目)で見るのが極意なり。

物事は、産まれる前のひと気張り。

やけクソを何クソにしても、フン張れよ。

因縁の綱に引かれて、踊ってる。

ゆうゆうと、何処まで動く、大宇宙。

えんえんと、無窮の道の旅をする。

よろこんで、おれば喜ぶ事が来る。

楽園は、心次第ですぐ出来る。

理屈ではない、信仰は体験だ。

るいらんの、危うき日本を立て直せ。

礼、言うてもろうて、怒る者はない。

炉によって、おかげ話しや、外は雪。

わや苦茶に、なった世界の大洗濯。

井(ゐ)戸を出て、見聞広めよ、青蛙。

うるさいと、思わず親は子を育て。

餌をやる人に、ライオン尾を縮め。

をく(奥)さんの梶が主人の向きを換え。



小宇宙道

2022-11-03 01:56:00 | 天道
人は、矮小であり、勝手であり、我のみ良しであり、我が一族郎党の幸せを望む。人の小我は、つまる所は、詰まらない。

それが魄を持つ人種である。

様々な銀河から、錘太し、地球に堕ちて来た存在もあり、樹木、草花、石が炁に触れて、晴れて、人なる種へ臨んだ存在もあり、哀しみの輪廻を繰り返して、地球に依存する魂魄もあり、神界の使命ありて、再三再誕される神人もおられる。

複合共鳴体の魂が地球に集うのである。

全ては夢物語。

しかし、肉体を持ちて、真実証を未だに、悟れないのは、現世のみを見るからである。

我がある故に我が在る、物質次元のみを識るからである。

今の人の心の病を癒すには、前世と血筋の因果を究めねば、それを治療することは出来ない。

医者と精神科医は、人を迎合し、言葉を合わせ、病名を作るのみ。

善き医者は、病を癒す手助けをする。

つまるところ、あらゆる病気を治すは、我が身体と本霊であるのみ。

我らの魂魄なる自身には、遺伝子がある。

これは、身体による、物質の復命、即ち、先祖のカルマであり、善性と悪性の因果の流れである。

これを観て、相関する、吾が魂の流れを悟れば、疾病は即座に癒される。

魂の流れとは、現世のみを見るのでは無く、真実なる、実相世界を観なくてはならない。

真実の実相世界を尋ねるには、先後三界を悟らねばならない。

三界とは、過去と現在地、未来なり。これは、後天世界であり、吾が魄を以て挑むのである。

先天の三界とは、根本の自身、即ち、内鳴る、自神を知ること。自己の天命を覚ること。弥勒の当殆に至ることである。

これは、自身の魂の世界である、実相世界であり、高次の自身と巡り合わねば、目覚めは訪れない。

弥勒の当体とは、人が、地球に未だ生誕する前に、国祖との誓約である。

即ち、全ての魂魄が清聖に至れる世界へ到達出来る様に働く事。

されど、人は生まれれば、約束を即座に忘れ、善性悪性兼ね備えた人類は、正に、この世界に於いては、難しく、我儘を貫き、良心を持つ人にせよ、世習に流され、難道となる。

白人主義あり、ユダヤ主義あり、アジア主義あり、大和主義あり、破壊主義あり、自然主義あり、様々な思惑あり。

すべからく、中府に素あり。

素は素直でもある。

故に誤る。何故誤るのであろうか。

吾が強固な、堅実な意志を示さないからである。

悪には、悪の意志があり、善には、善の意志がある。

そして、善悪とは、人の都合なり。

素直の上天には、命在り。

天命とは、人の善悪な、思想を超えた、道。

天命から素直に至り、本性を顕せば即ち、無敵であり、適する道とならん。

素は、命によりて、無敵とならん。

天命とは、人類発祥する以前、天地が生成化育される以前、多くの神々が生誕する以前を遡り、炁包から來たり。

そして、炁は水を孕む。炁水は火を孕み炁火となる。

天地も人も、水火が交わって、初めて生成化育の働きを為す。

多くの人は知らないが、太陽には、水が存在し、水火交わり、合化し、生成化育の活動をしている。

火水、水火、ありて、太陽は存続する。

人も然り。

人の体内も太陽や地球、月と、同様の働きを兼ね備えており、日月地を参考にして、神は、人は創られた。

故に、人もまた、宇宙の子供なる、小宇宙と同様の、仕組みが備わっている。

キリストは原罪を説くが、それは、イエスを崇める後世の人の都合なり。

イエスキリストは、神とは、ユダヤの戒律では無く、神は、人の幸せを希んでいる事を説いたのみ。

坐、祈り、慈愛。

これを、自ら為せば、神に到る。

坐は、克己復礼。只管打坐、己を知る。

祈りは、自捨新生。集中は十字、自他力を越える。

慈愛は、経世済民。愛は世を経(たす)け、人を済(すく)う。

宇宙なる天地は、これらを活動されておられる。

言わんや、人もまた、小宇宙なる。

故に、天地を見倣うが、仁(ひと)なり。




出口日出麿運霊道、うわずべりの学問。

2022-07-21 19:49:00 | 天道





一昨年の秋のことです。

亀岡の光照殿が九分九厘出来上がって、二千貫(七千五百キログラム)もあろうという庭石を、山の手から庭へ引っ込もうとした際のことであった。

大石をのせた木馬の梶をとったのは、当時天恩郷で献労していた、開安国(ひらきやすくに)氏であった。

斜面の板橋の板橋の上をスルスルと滑り始めたと思う途端、あわやという間もなく、開氏の足よりも車の方が加速度で滑り出したからたまらない。

梶棒の手をゆるめるとともに、車の角で、身体全体が跳ね返されて、反対側にのめってしまった。

それを下敷きにせんばかりにして、スルスルと車は下まで滑り落ちた。

見ると、開氏の身体は、あたかも蛙を地上にブチ投げたようになって、もはや、虫の息であった。

そこへ、出口王仁三郎聖師が飛んで、お出でになって、渾身の力を込めた、ご鎮魂になった。

その時、師の頭髪は、ほとんど逆立ちになっていた。

「ウーン」と言って、開氏は目を見開き「痛い痛い、背中が痛い!」と連呼した。

見ると右の肩の下の背部が赤に染まっている。

聖師は開氏の口に何やらお含ましめになり、お館にお帰りになったが、それと同時に発熱されて、ちょうど、開氏の瘡所と同じ箇所が終夜痛むのであった。

さて、開氏は、そこから戸板に乗せられて、宿舎に運ばれ、招電によってその夜、綾部より来た整骨医安井氏の診察と結果によると、右背の肋骨が三本折れているとのこと。

その夜、安井氏は、病床につきっきりであったが、開氏の苦痛が案外少ないので、奇異に思われていたが、翌朝になって、出口聖師が昨夜は大変な発熱で、右背が痛み通しであられたと言う事を耳にして、「なるほど」と今更ながら、生き神さまの感を深くしたそうである。

私はその際、そこに居合わせた者であり、なお、出口聖師の身体は、始終、こういう事があることを以前から知悉しているので、別段、事新しいとも何度も思わなかったが、始めてこんな事実を見た人達は、随分不思議な、有り難いことに思って、固い信仰にはいったそうである。

これについても、私は始終思う事であるが、今の世の学問はあまりに、上滑りで、その範囲も案外狭いものであり、霊的干渉、霊的相応という事実については、ちっとも分かっていないと
言う事である。

出口日出麿。

鬼雷述べる。

物事には、必ず道理があり、事に終始あり、先行するところを知れば即ち、道に近し。

ふむ。世には、皆が知る現実世界があり、蒙昧な想念世界、霊界があり、ふつう人や霊能者には、見えない聞こえない理解できない、釈迦やキリスト、モハメット、孔子、老子が到達した、実相世界がある。

吾が師、老祖(至聖先天老祖、太乙老人、天帝老祖、大国常立之大神)は、先天後天を明らかにされ、人の天命を悟る道を明らかにされた。

人の霊明は、その神を存し、その気を充すことで、精が結ばれる。

精が結ばれれば、神が凝り(神が集まる意)、神が凝れば、性は善となり、霊は明らかとなり、炁は充ちて、後天より、先天へと返る。

先天の三宝とは、炁 霊 性であり、性は炁の体であり、霊は炁の光である。

後天の三宝とは、気 精 神であり、精は気の体であり、神は気の光である。

三宝とは何ぞや。人が道を修める。修身する。坐する。修業を通じて、遍く、誰でも得られる、神が与えて、賜る宝であります。

大本教では、鎮魂を病気治しとされる意味合いがあります。

鎮魂とは、轉霊の法であり、審神の本筋であり、神を結ぶ機能を有するのであります。

故に鎮魂とは潜修、即ち、人知れず、行う道であり、鎮魂石を以て転霊の業を磨くのであります。

鎮魂法で修練が積むと、鎮魂印を組まずとも、人差し指で病を治したり、扇の先を当て直したり、活用は自在となります。

世界で羽ばたく、ケンヤマモトさんの一本指整体の本質とは、彼自身は、熊本の震災のボランティアをされていた時に、天から降ろされと言われておられましたが、正に鎮魂の法であると考えます。

先天老祖は、六万年前に先天の炁包により、遍く全ての生命を救われました。

出口尋仁聖師もまた、鎮魂により、自己の性霊を削り、瑞の御魂の如く、多くの人々を救われておられました。

実際に、その場で人を癒す力とは、不思議でも何でもなく、誰にでも備わっている機能でございます。

しかし、同じ動作をし、治せる治せないの不明が起きるのは、物事の本質を悟っているか、いないかと違いによるものと考えます。

多くの人は、人を救って有名になろうとか、欲が絡むと蒙昧となり、その転霊を活用する事は難しくなります。

また、人を救う前に、吾が身を救われなば、本源にたどりつかず、また、無私な心でなければ、虚霊は働かずです。

出口王仁三郎聖師や出口日出麿師のご鎮魂は、限りなく、愛ありて、他人の苦悩を我が身に受け入れる度量が神に近かった所以でございます。


神道と人道。

2021-12-07 19:55:00 | 天道
地球は遍く自転し、宇宙は普く回天する。

神が人に臨むのは、調和と和合である。

例えば、ゴキブリ、ぼっかぶり。

人は忌み嫌うなり。

されど、大本二代教主出口すみは、第二次大本教事件で獄中におりながら、ぼっかぶりと仲良くなられた。

人は自己が忌み嫌う存在が神により、役割を与えられている事を知らない。(すみません。私もあまり解りません。)

害虫と称される存在。それは、人の見方一つ。

グネグネウネル気持ちムカデ。雀蜂とは悪い存在、人に刺す蚊。人に害悪を与える存在。

しかしだ、神は悪を為して善とするなり。

人の感情とは、好悪あるのみ。

やれやれだ。

この今、地球が壊れ痛み耐えている中で、何故人は、調和より、好悪を発揮するのであろうか。

それは、自分を愛して、自己の周りのみを愛する由縁。

神が調和を臨むならば、人は、真理を明らかにし、全ての存在に和する心を持たねば、惟神の国でも、かつての神国なるム宇や、アトランティスの如く、沈む日も近いのかもしれない。(太古の時代、神国は松葉(ミツバ)、三つ葉であった。その内、二つは、津波により、地球の自転の傾斜により、滅んだ。最期の残った1つ国が龍国大和日本である。)

物質の文明力とは神が与えたもの。叡智と閃き。

故に文明の開花には神が働いておられる。

しかし、その中に調和は大切であり、弥勒の世とは、出口聖師は、在家菩薩が法を説く世と申されましたが、実なる極めは、誰とでも天真爛漫に、老人も、中年も、青年も若者も、幼年者も垣根なく、仲良くなれる世界と致す世界なのである。

そこに宗教があっても、互いに尊重し、善き善き良き良き佳き佳き世界と、なる。

まあ、そんな世界が来ないと誰もが思う。そこが御魂返しの御神業であり、不可を可能と成す。

人に競争は必要であるが、呑気にぼちぼちでんなあ、の世界も大切なのでございます。

誰も彼ものんびり垣根無く暮らせる世界。

そんな、世界に呑気にくらしてみたいもんだなあ。

クリスマス道

2020-12-24 19:59:46 | 天道
クリスマス。イエスキリストの誕日とされ、その前の夜を聖夜、クリスマスイヴと言う。
12月25日をイエスの誕日とせずに、バベルの王であった、ニムロドと誕日とすると言う説があるが、それは、五十歩百歩神拳。

イエスは、確かに神の御子であられた。

しかしだ、貴方も、貴女も、私も、内鳴る神、内在神のを宿す、神の御子なのである。

イエスも釈迦も、出口王仁聖師も、その本源は、人と同じ木の実。

イエスの誕生を祝う、聖夜とは、キリスト教の権威が創った妄想と陰謀でしかない。

多くの人は知らないだろうが、人が生まれる。神の子が増え、地球の神は、何時も祝福してくださっている。

汝らは、知らない。

親から、例え、愛されずに、嫌悪により、生まれたとしても。

君は、悟れない。覚れない。判らないだろうが。

神は、吾を汝を、我ですら、祝福し愛してくださっている。ヤレヤレだ。

それが生命。

産まれる事に、誕生することに、意義がある。

人類は、寿命を競うが、それは、因果律の果て。

地球とは、神の御子であり、人種が活かされる星。実に不可思議な星なのである。

毎日の聖誕日々に、メリークリスマス。