玄徳道

道を語るブログです。

弥勒菩薩の試練道

2012-11-04 11:46:33 | 練道
道を志し、道を歩むものは、それが信仰であろうが、学問であろうが、芸術であろうが、坐道であろうが、堅、誠、恒を心中に保たなくては、道から外れてしまします。志は堅固でなければ、地に足が立ちません。心に真心(誠)がなければ、神様は動きません。そこに継続が無ければ、天の命を悟る事が出来ません。
まして、世の劫火を消し、鎮道弭刧への道を歩む老祖の弟子なら尚更です。

そして、鎮道弭刧経を拝受された至聖先天老祖の弟子たちは、先天坐により己の昇華をも成していきます。しかし、自己の道が高く極まれば極まるほど、魔の働きも凄まじくなります。かつて、大本教の教祖、出口ナオさんも自己に帰神されている、艮の金神の善なる働きにより、それに呼応する、魔王級の魔が、夜な夜な出口ナオさんを襲い苦しめました。しかし、ナオさんは盤石たる至誠と信仰によりそれらに打ち克っていました。

古の聖人は朝に道を歩み、夕べに死すとも可なりとも言われています。言わば、道を歩み志す者は、死すら日々覚悟せねばならないと思います。


人がこの地球上に存在する以上、悪しき心が蓄積し業となります。それを受するは地球であります。全てを受け入れる地球神の宿命ながら、悲しき存在でもあります。蓄積し業が日月を経れば刧となり、地球を鳴動させ、人に落ちる災刧となります。言わば、人が自ら創り出した不幸でもあります。

ここに、老祖の弟子達、及び、弥勒の神業を為す者、世を人を救済する者は覚悟が要ります。刧を化すと言うことはその業を自身にうけ入れねばならぬからです。業を化すは霊光です。各々が、自神の神霊と一体となる奇蹟です。そして、根源神、地球神と繋がるゆえに、受難もあります。この相対世界での幸せを望むのであれば、そのような志、道を得ない方がよいのかもしれません。しかし、輪廻の悲しみの海を永遠に漂わねばなりませんが。

出口王仁三郎さんは在家菩薩が法を説く世が、弥勒の世であるとされています。

地球神を救うのは弥勒菩薩です。多くの人が地球の苦しみを悟り、自己の中に天の弥勒、地の弥勒を見いだし、人の弥勒、弥勒菩薩となることを期待します。


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