玄徳道

道を語るブログです。

超抜冥修道

2023-04-18 04:55:00 | 奇道
人は、死ぬ。

例え、それが聖人であり、仙道の奥義を究めた仙人でありとも、神人合一を窮めた神人でも然り。

神界、神仙界なる世界は存在する。

そこは、やはり、死んだ魂がおもむきます。

もちろん、天国と地獄は存在し、其処は、自己の想念、思念により赴く世界でもあります。

それは、真実でございます。

日本古来の神道で言えば、隠り世であり、人は死ねば、魂は、神に還り、魄は、大気に返り、肉体は地に帰るのみです。

故に、神道では、教えはありませんが、神なる根源に戻り、また、復活を致します。隠れたら、また、必ず現れるからです。

佛を述べれば、人が死ねば葬式があり、その想念の流れは、三途の川があり、姥捨が俗世の着物を脱がし、魂魄は、人生の功罪により、閻魔の裁きを受けます。

子孫は、先祖にあの世で幸せになって欲しいために、戒名をつけて、お寺にお布施して、あの世の裁きを少しでも楽になって欲しいと、極楽に行って欲しいと願いますね。

佛道には輪廻があり、六道を巡り、また生まれ変わる事となります。


縄文時代には、葬式なんて無く、人が死ねば隠れて古い着物を脱ぎ捨て、時が経ち、時節か来たらば、復活すると確信して、死とは、穢れではありませんでした。

太古の時代は葬儀もなく、自然こそが、全てであり、人の屍は大地へと還元され、土へと還るのみであります。

言わば、魂は、根源に帰り、魄は、人の思念なる、世界(霊界)に留まり、身体は大地に還ります。



人情でいえば、愛する家族が死期を迎えるのは、耐え難く、また、家族の情は、それを納得せず、様々な情念に覆われますね。

それが今の人でございます。


人が死ねば、魂は神に帰り、魄は、天国と地獄に堕ちて、そして、残された人は、嘆き、悲しみ、その情念は、霊界を更に、穢す行為ともなり得ます。

愛する人が死に、何故、人が悲しむのでありましょうか。

全ては、執着でございます。

愛欲でもあります。

愛するが故に、死んだ後も、ひたすら心配、執着を致します。

道を歩む者は、人の死の本質を覚り、人の魂魄の行き先を観て、人の神の本質を悟ります。


故に、道を修める者には、超祭を許されます。


超祭とは、神の赦し。

自然なる根源なる先天炁に委ねる法であります。

超祭の功徳は、粉砕された、魂魄ですら、回光救済、致します。

戦争、テロ等で殺された、人の魂と心なる魄は、肉体と繋がっており、特に、爆弾等で死んだ人の魂魄は、肉体と同様に粉砕し、偶然に、魂は神に帰っても、魄なる人の心は、粉砕、破壊された無限ループに囚われるのでございます。

故に戦争等における肉体の破損は、魂と心を破砕し、修復する事は、かなり難しいとされます。
 
されど、唯一取り戻せるのが、先天の炁でございます。

炁とは、原初の始まり。

炁とは水。水は万物を育む親。

水炁を化すれば、火炁となる。

言わば、超祭とは、水炁と火炁の祭り。

祭りとは、真釣り。火水合わせ。

阿衡なり。均衡なり。調和なり。


そして、超祭ありてこその超抜冥修。

道院による超抜冥修とは、神様から、許可を得て、修方の先祖の為に、子孫なる修方自身の功徳、功行によりて、故人を輪廻の軋轢から度(すく)い、その霊人を聖霊、神霊の元で修行させる、法でごさいます。

女霊であれば、蓮台聖なる観音様が、霊界の聖域、「潮音」にて、霊修、冥修してくださります。

男霊は酒仙、済仏さんが霊界の聖域、「南屏」にて、霊修、冥修してくださります。

当然に、日本人であれば、その霊は産土神が働き、その神縁により、産土界により、超抜冥修が行われると考えます。



超抜冥修とは、例え、人殺しや自殺し、地獄に囚われている霊魄でも救える唯一の神宝でもあります。

人殺しも自殺も共に、人の御魂、自分の御魂を殺した、神殺しであり、大変な罪業であります。

それを救える、超抜冥修は、古神道にある十種神宝なる、死返しの宝(法)と同様であるの考えます。

かつて、道院では、香資(献金)により、フーチにて神使により、超抜冥修を許可されておられたようであります。

フーチ無き今、真の修道者は、坐功により、自己の小周天を大周天へと回光させ、自らを回天の礎として、多くの縁ある諸霊、先祖霊を聖域へと導く筏となり、神霊、聖霊、産土神と共に、諸霊を超抜冥修の法により、済度される事を行って頂きたいと考えます。

太陽なる光があり、漆黒の闇があり、それらに、照らされ照らすが月照神。

弥勒神とは同履なり。

未来へ至る道を示し、全てを救う当体なり。






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内流道。

2023-03-13 20:40:00 | 奇道
何を内流と言うのであろうか。

神と人とが、他人、宗教、教祖と関わらず、神と一対一に直接に交わる。それを内流と呼ぶ。

ちなみに、守護霊や眷属神との会話とは、大分意味が違う。

スピチュアルの世界では、人を教育し、守る守護霊があるらしい。

人を守る為の霊。また、反対の人を害毒する為の霊。

まあ、守護霊云々の御伽話に頼れば、世界には争いは生まれるはずもない。なんせ、人には必ず、守護霊が教育すると言う。しかし、邪悪なる因縁霊や悪魔的要素が、人を惑わすと。

いやいや、人が神と親しむ時代の太古には、守護霊もいないし、因縁霊や悪霊も居なかった。

霊界の増大は、人の私欲、智慧、人の産み出す想念に伴っている。

仮に守護霊が太古から居れば、教育宜しく、戦争なんて起きるわけがない。

人と人との争いは皆無である。

例え農作物による、指導者と従事者との身分差などあろうとも、正しき聖霊や守護霊が憑いておれば、人の役割の尊さは変わらなかった筈。

善も悪も守護霊も邪悪霊も人がその歴史と造化の最中にあらわれた。

まあ、なんにせよ、人の歴史とは、互いに欲しがり、奪い合い、大いに戦争をして、互いに殺し合ったのが真実である。

都合勝手な人の欲望こそが、あらゆる思凝霊(善霊悪霊)を膿んだに過ぎない。

道を修める人は、守護霊や云々に拘り、関わるべきではない。また、存在を否定すべきでもない。

道とは、克己復礼。内省。誠。潜修あるのみ。

自ら歩み、自ら修める。修身斉家治国平天下。


さて、神は外にも内にも居られるが、現代人は、外的要素をもってのみ、神へと交わろうとされる。

パワースポット、神社仏閣などなど、自然や、樹木、磐座などの、外的要素に概念を向ける人がほとんどである。

故に、人と神との垣根を自らがつくる。

吾が内なる神を覚神せずして、外の神の何が判るのであろうか。

神は神をもってしか通ぜず。


内流には、みなもとがある。

人には御魂が備わり、それは、親神に繋がり、授かれた、内的な吾が主神でもある。

水に源あり、木に根本あり。

これを水源木本と呼ぶ。

人は親に基づき、親は先祖に基づき、先祖は神に基づく。

内流的には、「人は自然に基づき、自然は神に基づき、神は宇宙に基づく」なり。

全ての人は神から天授の玉(魂)を備えられておられる。

故に、自己の本源(御魂の素性)を知りたいと思考するのであれば、自らの源を探求、探索せねばならない。

しかし、今の人は、娯楽に溺れ、地位や名誉に囚われ、文明社会に犯され、自己の天命を知ろうともせず、また、悟れず、自己の素性を覚れず、ただ、環境に流され、また、思想の渦に囚われて、神たる人の本質を見失っておられる。

まして、我自身こそが、神の魂そのものである事を知らない。

なんせ、他人を見れば、神の様な人は一人もいないからである。

他人の中の御魂を見出す事もできない。

そもそも、神は悪も善も内包する。

神は全てを含む虚包なり。

善悪を兼ね備え、括り、超越する神を直覚で信じる事が出来る、人が少ないのである。

他人や、親や、宗教により、教えられた神を神とするが、人間であります。

神は観念では無い。

神は人の思考を超えた存在。


さて、簡単に言えば、内流とは、神との対話である。

神とは人にあらざる。

故に、会話は成立しない。

何をもって、神と対話するのであろうか。

真神は語らず。示さず。感合(和)するのみ。

神は炁。

神は光。

人の魂もまた、光。

神は闇。

人の魂もまた、闇。


相対する世界の垣根を超えた世界にこそ、素(す)あり。素は、糸あり。素から糸をほぐせば主。

主は、意図なき、我無き、産土心なり。

神と対話とは、魂と魂との響き合い。

言語に頼らず、鳴り響き共鳴、共感して、明らかとなり、覚る。

人間は、人と同様に、神との会話や対話を求め、それを概念に思凝り、観念するが故に、誤るのである。

草や木と動物と会話するに、言語は必要ない。

ただ、スピリットあるのみ。

「内流をより、多く受けるには、どうしたらよいでしょうか。」

「小我を出さぬようにして、気持ちをつねに、神様の方へ向けている事が第一です。」

「向けようと思っても、向かない気持ちの時がありますが。」

「自分で自分を引きずる努力が必要です。どんな場合でも、神様へ向かうということは、一番大事な事に決まっているのですから。」

無邪気なる 子供ごころに 神様と おすがり申すが 宜しかりけり。

み光に 会うたびごとに 内的の 視力いよいよ 強まりてゆく。

内的の 視力すすめば おのづから ものの判断 かわりてぞくる。

神は空。

神は虚。

神は霊。

自我(我よし)を無くし、小我(正義)を無くし、大我(調和)へ至り、虚(霊)を悟り、真炁來復して、無我(虚空)へ至れば、神と日竎(ひび)き合うなり。

道を修めるには、坐よりはじめるが適格です。

そして、虚空に至る道こそが先天坐法なり。

神は万物普遍の霊。

炁とは、唯一、虚霊のみ、感合するなり。

内流も外流も和合して、はじめて、神人合一となるのです。





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磐笛呼応道

2018-11-23 13:59:35 | 奇道
何億万年前の地球創造により、磐や石に穴が空くる。それを神縁ある人が手に取り、音霊を発声する。

ああ、億万年の奇瑞。磐笛とは、人との呼応によりて、その真価を発揮するのである。

たかが石。その石に貫通する穴あり。。。中途に留まる穴あり。。。人により、息吹を通せば、天地にこだまする、音功を発する。科学適見地によれば、発す音は、人に影響を与えるらしいが、此処ではどうでも良い。


なんせ、磐笛って科学では、とらえられない。

人の科学ってさあ、未だに、癌化を癒せない。風邪すら、治せない。緩和するのみ。人の病を治すは、あくまでも自身の免疫力を含む人間機能のみ。


望めば与えるは、悪魔。それでも、欲心に添えるのみ。悪魔に癌の完治を望めば、如何に。それにソナワセル、希望を与える。そして、死なせる。

まあ、人間は老若男女、何れも死するなり。


磐笛を吹くのは、如何なる人なのであろうか。 

多くは、天地を創造した、龍神の化身。その身魂である龍男龍女であられます。


此処で龍による因縁が存在する。


龍は存在するのであろうか。

霊長の生物として、鳳凰、麒麟と共に存在する。

人に見えるのであろうか。

人には見えない。不可視なり。

霊視により、見えるは、あくまでも霊界の想念界であり、龍を見たと称するは、使神や眷族神により、特別な因縁により見せられており場合もある。普通は見えない。

されど、霊能力の虜となった人の多くは兇頭界妖魔界により、ハッキリとした、姿や一片の鱗まで魅せられる。そこで霊能得意となり、増長する。そして、その人の魂を蝕ばれ成長力を無くすなり。

何故、龍に近しい魂が、磐笛を見出すのであろうか。

天地を創造し、運行し、自ら、血みどろになり、海、地、山を切り開いた由縁である。

ここにヨリシロとして磐座磐境が存在する。

多くの磐座に神氣宿るは、その開けし岩戸渓流に因るのである。龍なる神霊と、その守護者として、麒麟が存在するのである。

磐笛も磐境のヨリシロとして、産まれた神簫であられる。

山界の守護者である仙界と天狗界は、法螺貝を得意とすると、同様に、龍神界、鬼神界は、磐笛を以て道とするのである。



私個人の磐笛を述べて恐縮ですが。

参考までに。
天橋立海岸、真名井大神より初めて賜った磐笛。
奈良の丹生神社下社、丹生川より複数賜り、丹生姫、瀬織津姫の巫女へ。そして、吾が磐笛、龍顔石を以て神業の奉仕とする。
伊勢の五十鈴川の磐笛は、太陽の巫女へ。
貴船神社の貴船川の磐笛も、呼応する磐笛を除いて、数多の神人のもとへ。

mixiの方から賜った、木化石の磐笛。

住吉大社より塩土之老翁から賜った磐笛。
西宮廣田神社にて六甲姫より賜った磐笛。
六甲山、観音山、友なる麁乱神に賜った磐笛。
伏見稲荷山、大磐大神より賜った磐笛。
奈良、三輪山、三輪大神より賜った月日の模様の磐笛。
巻向山、ダンノダイラの神霊より賜った磐笛。
天河神社、天河神域の四石三水八つ杜の船丘杜にて賜った磐笛も太陽の巫女へ。

最期がどうか。いちおう止め。

玉置神社、玉置龍水社の神霊より賜った、磐笛。

私の神業は、この十一の磐笛を以て、道とする。いや、幇助してくださる。 

磐笛とは、私の友である。


磐笛を友とするなんて、現実世界でどんだけ、人の友達がいないのであろうか。


ははは。人は人。


確かに私には人の友が少ない。

それでも、私は多くの、磐笛の友に恵まれているのである。
磐笛は無機質なる石である。無機質ゆえに、草花と共に精霊が宿るのでもある。










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磐笛道

2015-10-10 19:53:52 | 奇道
正道に不思議なく、大道に奇なし。磐笛は、奇道。奇道と称する由縁は、奇なる文字を分けると「大」は上であり「可」が下にあります。大は、人を意味し、可は、不安定の意味があります。二つの組み合わせは、人が定まらず揺れるを意味します。言わば人の能力を超える神妙であり不可思議な道でもあるとも言えます。

磐笛。そして、磐笛道とは、本質を語れば、無益な道であり、無益な作業であります。
多くの人は、磐笛、岩笛、石笛は、吹けば、神秘的な、働きがあり、善い事が起きるとか、神が懸かり、超能力を得るとか、病気を癒やすとか様々な願望を掻き立てるかも知れません。しかし、磐笛を吹いても、神懸かりや、奇跡を起こりませんし、磐笛の精霊も、お陰を、下さいませぬ。磐笛を吹けば、幸運は、訪れませぬ。全くの妄想であり、現代人からすれば、無意味であります。

しかし、この無意味にこそ真価があります。古来より、無益な、作業は、有益を凌ぐ事がございます。これを、奇術と申します。有から生まれる有よりも、無から生まれる有のほうが各段に有益なのであります。

磐笛は、石笛、岩笛とも、書きます。ネットの世界では、検索したら、様々な、定義があります。縄文時代から、人と神が交わり、磐座、磐境、海、山、川や、とてつもなく、古い年月を経た樹木に対して、祭りの為に石笛を吹いたりします。あるいは神卜の為に吹いたり、癒やしの為に吹いたり、神降ろしの為に吹いたり、と様々であります。

近年では、日本霊学、中興の祖とも、言われる、本田親徳翁が磐笛を神のために使われました。親篤翁は鹿児島の人で、稲荷の眷族による神懸かりの少女を見たことから、霊学にのめり込み、鎮魂法と、帰神術を確立しました。その際の神懸りの、手段として、古事記における、神功皇后の神懸かりを模索し、古事記に書かれている琴に替えて磐笛を流用したのが、有名であります。

磐笛とは、石に穴が空いております。「石に自然の穴ありて、吹けば唱すもの」。が基本であります。

穴には、種類があります。石に空いてある穴が貫通している石と、石に穴が空いては、いるが、中途に、空いておる石。貫通していない石です。

穴が貫通している石は、貫通自在。神通りと成ります。吹き抜ければ神の石は、その意志を人に委ね尊重します。

穴が中途である石は、エネルギー源を溜め込む石でもあります。氣が溜まれば溢れる。これは元気の底上げとも成ります。

磐笛に於ける穴には、一つ穴もあれば二つ穴、多数に空いている穴があります。

穴の数は授かり主に呼応します。多才な才能が有る者には、無数の穴が授かり、二つ穴であれば、陰陽の働き有るもの、私のように一つ穴のみ授かる者は単細胞、良く言えば、一神なる御中主を信仰する者です。言わば御魂相応に出逢うと言う事であります。

私が京都の貴船にて、拝受した、磐笛には、中途の穴と貫通した穴、両方がありました。mixiの友に差し上げましたが。
また、京都の松尾大社の磐座の御前にて、磐笛を発見しましたが、中途な磐笛でしたが、御前にて、奏上。しかし、松尾の神奈備山にては、自然物、残らず、拾い、持ち帰り禁止ですので、磐座御前にて、置いてきましたが。

余談になりました。

磐笛とは、精霊石でありそれ自体が人と同じで、小宇宙を顕しております。
そして、磐笛の定義とは、「石に自然の穴ありて、吹けば唱すもの。」

霊学の大家、友清歓真翁は、「岩笛は、本来、鎮魂石と同じく、神界から、奇跡的に授かるものであるけれど、仮に相当なものを尋ね出して用いてもよろし。普通は、人のこぶし大。鶏卵大の自然石で、自然に穴が開いたのを用いる。」

霊積真人、出口王仁三郎聖師は、「天の岩笛なるものは、一に天然笛と云い又、石笛とも称えて、神代の楽器である。之に口をあてて吹奏するときは、実に優美なる声音を発するものである。此れ岩笛を吹奏するには余程、鍛錬を要するのである。」

ちなみに、本田親徳翁の岩笛は、二つのこぶしを合わせたくらいの大きさのもので、穴は斜めに抜け通り、少し青みを帯びた黒色のもので神光奇しき逸品であったという。貫通自在、神通りの石であったようです。

私が初めて磐笛を吹いているのを見たのは、十数年前です。知り合いと丹後の元伊勢籠神社と真名井神社に行きました。そこで宮津市に住まれる丹後の神人、三六九神示の小長谷修聖氏のもとを知り合いが親交があるので訪ねことによります。

修聖氏は、霊覚者で当時、阪神淡路大震災を預言された事で一部の神業者の間で知られる存在でした。

修聖氏の自宅で会談後、神殿に案内され、磐笛と言霊歌を拝聴したのです。
知り合いは、そこで修聖氏から磐笛を貰っておりました。私は、内心羨ましかったのですが、知らぬ顔をしておりました。

私が初めて、私の磐笛と出合ったのは、十年前に家族と京都の天橋立へ日帰りで旅行に行ったときです。天橋立海岸には、少なからず石があります。当時から、何気に磐笛を探しておりましたが、穴の開いた石など、なかなかありませぬ。海岸沿いを家族と散策しながら、無意識で、砂に埋もれている石を拾いました。その石は、卵二つ分の石で真ん中に一センチぐらいの穴が貫通しておりました。上から、下にかけて、細くなる穴です。

磐笛得て吹きましたが、空気が抜ける音がするだけで、音はなりませんでした。相当練習しました。ある時、音を発しました。
貫通しない、中途な石は、息吹を逃がす時、音が鳴りやすいです。
貫通した穴は、息吹が抜けるので、唇を密着し、息当たりにより、音が発生します。

音が鳴りだしたら、音階を授かると申すようです。即ち授音です。

二度目の磐笛との出合いは、奈良の丹生神社下社、側の丹生川にて、拝受。川の中で見つけました。おそらくこの磐笛は、元は、土器や瓦のかけらが、自然に風化したものです。貫通した石であります。

三度目は、京都の貴船神社、側の貴船川。二つの磐笛を吹いて、気がつくと隣にありました。この貴船川は磐笛のメッカでありまして、貫通、中途の石が多いです。貴船山に登った時も、同様に奇岩を多く見つけました。

その他、私が磐笛を賜った地は、伊勢の五十鈴川。京都伏見の稲荷山。大阪住吉大社。兵庫県の廣田神社。奈良の三輪山とダンノダイラがある巻向山の間にある渓流。

磐笛とは、人が見つけなければ、ただの石です。しかし、それを見つけ、磐笛とするは、人の真心、そして、神器、神具となります。精霊石である 磐笛達は、実に聖人、賢人、神人を待っているのです。

霊能者の世界では、石に霊が寄り、自然石は、持ち帰るな、磐笛を吹くと霊が寄りやすい、などと申される方がおります。
そもそも、太古の時代、神と人は、一体でありました。当然、霊界の存在も希薄であります。人類の歴史と共に霊界は発達し、人の心は、幽霊や動物霊に心を奪われ、知識の発達と共に迷信を生み出し、霊界もそれに感応しました。即ち、霊や霊界とは、想念界です。人が生き、心で思念するエネルギーが、溜まり霊界となったのも真実なるたとえであります。
人が、神なる魂と肉体との間に思念を持つようになり、今の人間ができたのです。ゆえに、人と神に間があるから、人間なのです。人は、心を尊重し神に依存し、自己の内なる神に見向きしなくなった由縁でもあります。

基本的に、石とは、無機質であり、先天的元気が備わっております。そこに本来は、霊の介在は、ありませぬ。

何故に、石に霊が寄りやすいと述べるのであろうか。

石に寄るのではなく、人の心に寄るからであります。霊界とは、想念界。悪魔や邪気が嫌いと憎悪、意識するだけで、そのものが寄り付く世界です。人は、偏った知識で生きています。全ての人は本来、皆、霊能者ですが、それを特別、特種と考え、霊能者に依存し尊敬し畏敬をされる、人間が多いのが実情であります。

磐笛を吹いたから、霊が寄るのではなく、吹き手に、神に通じる、真心なく、誠をあらわせず、その吹き手の、心のありようが、表れるだけなのであります。

多くの霊能者は、すぐに、霊云々を持ち出すのは、御魂相応に、自己の心が霊界に通じるだけの話しです。

神に通じる者は、霊を語らず。道を明らかにするのみです。

霊に通じる者は、神を語るに奇異を持って誇りとし、人には、霊を以て、脅し、自己を貴いと尊敬せねば、短気を発するなりです。


磐笛を神社で吹き、いつ頃からで、あろうか、磐境、磐座で、吹く事が、楽しくなってきました。そこには、望みなく、願いなく、吾と磐笛、そして、磐座のお互いの宇宙を顕し、交わる、無形の感合あるのみです。

磐笛と音は、ピ~と鳴らすのではなく、ユ~と鳴らすのが良いと先人は、云われておられます。私的には、磐笛には、穴の形がそれぞれで形違いであり、息吹に相応する世界で在る以上、音は、自然のまま、が一番であると考えます。吹き手が、誠を掲げ真心込めれば、ピ~であろうが、神に通じるのであります。

「故、その八重事代主神は、天岩笛を
製りて、皇美麻命に奉りて、祝ひ給ふ。」

「これほど、自然が作り上げた物で面白い物はない。」



平成二十九年十二月三十日。誤文の訂正と文書を加筆いたしました。
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