玄徳道

道を語るブログです。

龍宮水火土(しほつち)伝授日の出世開きΘ三六九神示11

2017-06-27 20:53:31 | 神示道
三千世界一度に開く梅の花、艮(うしとら)の金神(こんじん)の世となりたぞよと、明治二十五年、丹波綾部の出口直殿の手を借りて、筆先(神示)に示してあるが、実地に梅(埋)の花の開く
時節とめぐりたのは、平成二十三年、三月十一日からであるぞよ。この日から、真(まこと)の神々、誠の人民が活動を始めねばならぬ時となったのであるぞよ。
この日本を根底から立て直す為、艮金神、国常立大神、龍宮乙姫、相計り、人民には、氣の毒なが、日本をこのままにしておきたら、先に大変な事となり、滅びてしまう事となるから、意を決して、荒神を使いて、海の底で大地震を起こし大津波を起こし、福島の原発の損壊となりたぞよ。未だに放射能を垂れ流し、これまでの世も大地震や津波は幾度もありたが、日本始まって以来、この国土に人の住めぬような所が出来たのは、始めての事であるぞよ。皆、他所事(よそごと)の如く思いて居るが、この事をよほどしっかり受け止めて、生命あっての物種と言う事を真剣に考えて、改めてまいらねば、又大事を起こすぞよ。
三千世界に梅の花が開くと申すのは、今から三千年前の日本の、国は体主霊従(からたま)の強い者勝ちの世となり、世の元からの神々は埋没され、あるいは、祟らぬように、押し込めの祭礼をされ、それまで、穏やかに暮らして来た、人民も逆らう者は亡ぼされ、無理やり従わされて、神武東征以来、二千六百有余年の歳月が経ちた日本の国であるぞ。金権主義(金毛九尾)に振り回され世は乱れ穢れ、人類の存亡にもかかわる、原発をこの国によ持ち来たり、生命の存続よりも、経済の発展のみに走りて居る今の日本であるぞ。
天地の元からの神への畏敬の念を忘れ、人の道の義や恩の大事も忘れ、今さえ良ければ良いの考えで、道をさ迷う今の世の中、世の元からの神々は、是ではならぬと、あの大津波のなりたのであるぞ。是を機に神々も人民も目を開きて、世の立て直しに勇まねばならぬのであれど、思凝霊(しこりがみ)にさえぎられ、皆腰折れとなる有様は、残念なぞよ。
白山の霊系、八幡の神々、八岐大蛇を退治せし、素盞鳴尊も霊系の御魂に懸かりて世の浄め祓いや立て直しに、はたらかせようといたせども、切格開きた、梅の花も、雪に会いて蕾をちぢめておる、今の有様であるぞ。何時までもは時は待てぬぞ。神々よ人民よ…嘘偽りの言葉で、穢し乱して来た世の中を、神授の直霊(なほひ御魂)から、神理の言霊を発して世の立て直しを急がねばならぬぞよ。
世界の様を見れば判るが、国を牛耳る、為政者は、策をこうじ、嘘偽りの言葉で我が権力を守らんとし、人民を苦しめ、他国との争いの種を作っておるぞよ。これまで、下積みにされて来た人民が、目を開き神民となりて、世界中の人民と仲良くては交流し、和の道を開くようにいたさねば、為政者や大企業の為すがままにさせておけば、又大戦(おおいくさ)ともなりかねぬぞよ。
然し、金力や情報ですでに世界の大戦は始まりて居る今日であるぞ。長いものには巻かれよで、お上の命令に、飼いならされた日本の人民の改心は仲々むずかしい事であるが、これからは、事なかれ主義では、改まらぬから、下から突き上げてゆく勇氣を皆がもたねば世は替わらぬぞ。
それぞれに、授けてある御魂(みたま直霊)の発動を神は願うぞよ。神理(真理)は、しかと守り、誤りは改めてまいるのじゃぞ。これからは、神が表に出て居るから、神理に外れた事は神は許さぬ。
何時までも強い者勝ちは続かぬと申してあるぞよ。未だ原発を推進して、核兵器の原料を造るような政府に任せてはおけまいぞ。
これまで、大本の筆先や、日月神示に伝えてまいりた、世の改めの神の言霊、おろそかにならぬぞ。すぐに事が成らぬから信じられぬと申すのが人間の浅知恵であるが、言霊の力は消えぬぞよ申してある。
世の改めの警告は、必ず現れてまいるぞよ。
それぞれ、魄(肉体霊)の利己主義(われよし)から立ち直り、御魂(直霊なほひ)の心で、この日本を始めて地球が清く安全な楽土となるよう、なる迄、祈り続けねばならぬぞよ。ちょっと都合の悪い事がありたら、祈りを忘れ道を外れてしまうような、信心は、魄(肉体霊)の作用であり自ずと義と恩の道から外れ、我が身も人も困らせてしまうぞよ。
雨の日、風の日、如何なる艱難あるとても、誠一筋、貫き通し、天晴れ、御魂の使命を果たす事が出来、親神の元へ帰る事も出来るのであるぞ。
厳寒を堪へ梅の花咲く世となりたぞよ。蒔いてめぐりた、玉石(魂意志)の芽がふく世となりたぞよ。荒(あ)れると言う事は、現(あ、生)れると言う事、荒れる時こそ、新しき世の始まりであるぞ。
神々も人民も勇めよ、元氣だせよ。道は、目の前、身近なところから改めて、大いなる世の立て直しに尽くせとぞ宣りて伝うる、大海の水火土(塩土)翁の神示(つたえ)であるぞ。

言行枢機

言霊神也    ン

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龍宮水火土伝授日の出世開きΘ三六九神示10

2017-06-27 17:57:06 | 神示道
平成二十六年一月二十二日

御空や、高い山の上から、地上を見おろしてみなされ、小さなマッチ箱のような家が、ならんでおるぞ。もっと高くから見れば、丸い緑の地球が浮かんで居るぞ。マッチ箱のような家の中で、人民は暮らして居る。時には喜び時には争い、どなりて、暴力を振るう事もある。戦争となれば、愛も慈悲も捨てて、殺し合いをする。多数殺した者が勝者となるぞ。
喜怒哀楽の渦が巻く地上の世界であるぞよ。
争いの心を捨てて、和の心に返りなされ。どれだけ、喜び嬉しさが増す事か…マッチ箱のような家の中で、慢心し卑下し争いに明け暮れる、愚かさを、我が身の心を高くして、見おろしなされ。和と輪となし、地球上が環(わ)となりて、成り余れる者は、成り足らざる者を補い助け、助けられたり助けたり、弥勒の世とは、恒久平和の成る世と申してあるぞよ。
真の和の道とは、言うは易く行うが難し、利己主義(われよし)の自我を磨く厳しさもあるぞ。大和なる、弥勒の世を開くには、縁を大事にいたさねばならぬ。絆大事にいたさねばならん。ささいな事で、我を卑下し、人をも怨み、切格の縁を切り、絆を断つのは、我が身の自我である事に気づかねばならぬぞ。肉体あるいは、自我を捨て切る事は、出来ぬが、自我の思凝(しこ)りを少しでも薄めるのが、神交(しんこう)の大事であるぞ。切格(せっかく)の天照国照神の照らす明るき世を暗くして居るのは、それぞれの自我思凝(しこ)りであり、それが岩戸となりておる事に氣づかねばならぬぞ。感謝か、喜びか、悲しみか、怨みか、どこに我が心を置いて居るか、良く良く考えねばならぬぞよ。
我が心を置いて居る所を返り見なされよ。   ン

一月二十七日

世の元の神々が、構う昔の神の代は、正と邪がはっきりとしておりたぞよ。人民も神の目を信じ、邪曲の道に走る事を慎み、天地の神を敬い恵みを分けあい、和の道を何よりも大切にいたし、皆助け合いてゆく事を一番の大義として、争いを避け、穏やかに暮らして居りたのであるぞ。されど三千年前、外国から、体主霊従(からたま、物主人従)の道が入り、人民も悪知恵がつきて狡猾な者が、真面目な者を押しのけて自在にいたす世となりたぞよ。争い絶へ間無き、闇の世となり、正しい道が通るとは、限らん世となりたぞよ。
世の元の神は、裏からの守護となりたが、神は見て居る。負けて勝つと申してあるぞ。負けても正しい道を歩む者は、その末に神が助けて事を成らせてまいるぞよ。人を、押しのけ勝って一時の栄えを得ても、邪曲(よこさ)の事は、神が裁き改めてまいるぞよ。
この世は、時の流れの中にあり、原因結果(めぐり)が現れるにも時がいるから、悪事を為してもすぐ結果は出ぬから、それを良い事に、悪事を為しても罰等あたりはせんと、尚も悪事を重ねてまいるなれど、人民に任せてあるようであって、天地の元からの神が、裏から見て居る世であるから、最後の最後まで、思凝霊(しこりがみ)や人民の自在にはさせぞよ。
人の身魂には、神が授けた清き魂(御魂)と肉体の霊の魄があると申してあるが、その両方から心に思いが、映るのであるから、自分の思いが一番、正しいと思い込んでも、そうまいらぬぞよ。
神が授けた、御魂は、常に神理に根ざす正しい道を思い、恩義や礼儀を大事にして、誠の道を通さんとするが、魄の方は、我が身を守る、自我であり、欲であり、すぐ目先の損得に走り思い上がりて、慢心したり、卑下して見たり、利己主義(われよし)の心となり、恩義も忘れ、礼儀もおろそかにいたしてしまうぞよ。
あまりにも、我が我がと思う念が、思凝りとなり、それが岩戸となりて、御魂を押し込め、正しい判断(神理)が出来ぬようになり、自ずと道を外れてしまうぞよ。魄から、喜怒哀楽、欲も起こりてまいるぞよ。されど、自我や欲は、肉体のある間は、捨て切れぬものであるが、我欲が強すぎると、御魂の岩戸閉めとなるから、氣をつけておくのであるぞ。
御魂は陽であり、魄は体であり、陰であるぞよ。御魂の正しき思いに魄が順(したが)えば、霊体一致となり、伊豆能売の身魂と申し、人の誠の礼譲の道を歩みゆく事が出来、天晴れ、御魂の使命を果たす事が出来るのであるが、物主人従(からたま)の流れ激しき今の世は、やむえず肉体の霊魄のほうが強くなりておるから、改心せよと申しても、皆々自我が強く、利己主義(われよし)となり、仲々改心が出来ぬのであれど、我が身の都合勝手の道ばかり、走ると我が身を亡ぼす元となるぞよ。
人民の行く末を思い、世界を清浄に安全に立て直す事が今一番の大事であれど、そんな事はそっちのけで、経済の発展、金儲けばかりに走る様こそ、哀れであるぞ。負けて勝つと申しておるぞ。今は、正しい思いが通らずとも、真実(まこと)の九十〇(言霊)は、必ず実る事を信じて、歩む人となりてくれよ。
神授の御魂から、出るのが、言霊であり、魄から出て、嘘、方便、風の吹く
ままころころ変わり真実(まこと)の無いのが言葉であるぞ。自我や欲は、仲々捨て切れぬもの、自我より生じる思凝りをば、祈りを重ね、神の光で薄めて心を澄ませて下されよ。   ン

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龍宮水火土伝授日の出世開きΘ三六九神示9

2017-06-24 05:30:44 | 神示道
平成甲午二十六年一月二日

五黄巳の年送りなし、東西東西幕開きて、天の橋立、内外の波穏やかに迎へたる、甲午年明け初めぬ。穏やか、なりとも思へども、一天にわかにかき、曇り、江の姫龍王息吹なし、激しき雨の浄めあり。さあドンドンさあドンドン、打ち出の太鼓鳴り響き、赤と白との神の馬、世界に掛けて駆けめぐる。午の未歳の幕開けぞ、火つけ約なる、稚日女(わかひめ)や、丹生都(にぶつ)の神は、息吹なし、南海に立つ火の柱、富士の噴火を急げども、まだまだ待てと鎭める、白山菊理比売の神、一度に富士が噴火せば、人民共が氣の毒ぞ、可愛いそうなと押さえたり、されど油断はならぬぞよ。裏が表に出る仕組み、世の元の神現れて、どんでん返しの世とならん。未だ午歳は、よけれども、未申は心せよ。まだまだ厳しき体主霊従(からたま)流れの中の世の仕組み、思凝霊(しこりがみ)の巣くいたる、世界の大国、荒ぶりの、あまり勝手が過ぎるなら、荒神総出で息吹なし、火水土の神力で、この地球をば浄むなり、緑の玉のこの地球、神人結びの天国を、地上に成らせる神仕組み、人類地球に住まわせて、神の手足となきむとぞ、神議(かむはか)りせし事なれど、人にあたえし自由をば、我が身勝手に使いなし、地球を汚しゆくなれば、神は許さぬ事となる、神ありてこそ人の世ぞ、神の許しあり手こそ、住まわせてある、この地球、それを忘れて荒振りて、地球の生命弱らせる、寄生虫とぞなり果てし、今の人類如何にせん、改心急ぐが神心、地球の人類滅ぶとも、神は不滅にあるなれど、折格(せっかく)生みた人類じゃ、神民となれ人民よ、御魂の親神頂きて、神言依(みことよさ)しに順(したが)いて、地球の浄めを急ぐべし、火の氣は強きこの時ぞ、水氣で押さえてあるなれど、汚し穢しを重ねれば、やむえず地球も火を噴くぞ、今穏やかに見えれども、世界の波は荒潮の、潮の八百道(やほじ)の八潮道(やしほじ)の、潮の八百会(やほえ)に開都比売(あきつひめ)、人の犯せし罪科や、汚れ穢れを加加呑みて、海底深く息吹き込み、持ちさすらひ失うは、速佐須良比売(はやさすらひめ)の神の業(わざ)、祓戸の神浄めども、人の心の浅はかさ、神より上にのさばりて、自由勝手にいたすなら、大禊(おおみそぎ)の時来るぞよ。神は優しきその裏に、厳しき顔のある事を、しかとかみしめ覚りなし、素直になれよ人民よ、慎みの道開くべし、世界の民よ改心し、戦争の炎打ち消して、平和の道を開くべし、この日本に伝えたる、言向け和わす、九十〇(言霊)の、助けによりて世を治め、美し御国を開けとぞ、海の御中の塩土の、翁が伝う神言宣(みことのり)、御魂の耳や眼をば、しかと開きて聞くべきぞ、神理の道にのり直せ、誠幸倍(まことさきは)ふ道開け、鳴呼惟神惟神(ああかんながらかんながら)…。

扨(さ)ても、丹後の天橋立真名井ヶ原へどんどん人が集まりて来る時節が来ると申してありたが、その時も真近になりたぞよ。男島女島の中程の龍宮界が指し図して、神山霊地に蒔かせてある、龍宮の玉石(魂意志)が芽をふく時節となりたのであるぞよ。泥や砂を藤の篩(ふる)いで、よりわけて、真の御魂を世に出して、新しき世の御役に立たせてまいるぞよ。表は、誠面いたしても、腹の中に、邪心や野心のあるものでは、この御用につとまらぬぞよ。始めは、宝石も泥も石ころも、寄せてまいる真名井ヶ原であるから、よほど、丹後の者もしっかりといたしておらぬと、十年三十年、信仰致して居る者でも、性根が入っておらぬと、足下をさらわれてしまうぞよ。真の御魂の者を龍宮が引き寄せるのであるから、龍宮の因縁の御魂は、財宝をもっておるから、段々、物金の不足も無くなりてまいるぞよ。思い上がりと慢心だけは、いたさぬよう心がけて下されよ。丹後の者は、何と申しても、身近にあるのであるから、目を開きて、御地場を守らねばならぬ、この午の年であるぞよ。世の流れを司るのが宗像の神であるぞよ。市杵島姫命も龍宮の霊筋であるぞよ。近江の琵琶湖、竹生島より、動い始めるぞよ。近江の者もしっかりといたしてくれよ。五用(ごよう)あるぞ。   



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龍宮水火土伝授日の出世開きΘ三六九神示8

2017-06-23 04:54:15 | 神示道
平成二十五年十二月四日

悩み苦しみは、御魂(直霊なおひ)から起こるのでは、ないぞ。肉体の霊魄から起こるのであるぞ。神授の御魂は常に、真澄であれど魄の自我の岩戸で押し込めておるのであるぞ。悩み苦しみは、魄の浄化の為であるぞ。素直に、清く正しき御魂の思いに順(したが)えるまで、悩み苦しみはあるのじゃぞ。魂魄一体となり、神意に従うのを、霊体一致とも申すぞよ。悩み苦しみからのがれようと、あがいたり、逆らうから尚更辛くなり、悪態いたす事ともなるのであるぞ。魄は、肉体の霊、我を守らんとする、利己主義(われよし)の思いや、欲であるぞ。現(こ)の世に肉体をもちて、生きてゆくからは、魄の働きも必要なれど、程と言う心を心得て、自我を磨く事が神交(信仰)の大事であるぞ。利己主義を通すと、その念が思凝りとなり、岩戸となりて、御魂を押し込めてしまうのであるぞ。正しき物事の判断が出来ぬようになるのであるぞ。親神から授けてある御魂(直霊)を大事にいたされよ。我が身の都合勝手の念の凝りた思凝霊(しこりがみ)を、真の神と信じて居るのが、大方の人民じゃ…それでは、何にもならぬぞ。今、我の歩む道、置かれた立場しっかりと見すえて、改神(心)いたせと申してあるぞよ。思凝りの岩戸は、自ら開かねばならぬぞ。   ン

十二月十日

情けなくとも、辛くとも、悲しくあるとも、時の流れのこの道は、後へ返らぬ道の上、前を向いて歩もうぞ。勇氣を出して歩むなら、時の流れのこの道は、景色を変えて見せるなり。春は花咲き若葉萌え、夏の暑さや嵐越え、秋は紅葉の美しく、散りては新芽の肥やしとぞ、なるが如き道歩め、悔い無き人世の道ようは、その時々な誠もて、明るく歩む道ならむ、日々新生の道と言うなり。   ン

十二月三十日

伊勢(五十)も出雲(五百)も遷宮成りて、さあ東西東西、新しき四九三(しぐみ)の幕開けじゃ…日と月や…鶴と亀の四九三(しぐみ)、九九理(くくり)、結ぶは、白山の菊理姫であるぞ。統べる要(かなめ)は天橋立真名井原、籠は籠宮その中に、世開けの十理(とり)が唱くと言う…さあ、赤と白との馬と言う…白山菊理姫、丹生都姫(にぶつひめ)の神、白と赤との神力が振るい、結び(産霊)なり、桃(百)の実りとなるぞ嬉しき…日本も、真に、のるか、そるかの節となりたぞ、午の年は未だ良いが、未申(ひつじさる)は厳しいぞ。国の頭(かしら)の安倍殿、靖国神社へ参らせたのは、神の計りじゃ、先のあの大戦は、大きい犠牲をはらい、真の日本と立て直す為の五八十(岩戸)開きであった事を忘れてはならぬぞ。何事も無しに世は替わらぬのじゃ、掻き混ぜ掻き混ぜ、泥や砂や、石ころの中の、宝石を取り出してまいる、これからの四九三であるから、一般と何が何やら判らぬようになるが、真の玉は光るぞよ。蒔いてある、玉石(魂意志)が、あちらこちらに芽をふく、めぐりとなりたぞよ。



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龍宮水火土伝授日の出世開きΘ三六九神示7

2017-06-22 02:04:27 | 神示道
九月八日は、大事な日と申してあるぞよ。行くへも知らぬ、日本であるなれど、九月の八日一つの光が見えたぞよ。東京のオリンピック招致、裏には、龍宮の計りがあるぞよ。されど、浮いてはならぬぞ、国の頭(かしら)も国民も力を合わせて、しっかりと果たさねばならぬぞよ。それが為には、日本の浄め急がねばならぬ、安全を第一の国とせねば、後で、外国から笑われるような事となってはならんぞよ。
扨(さ)ても神は、菊の座、佛は蓮の座に乗りて居ると申してあるぞよ。菊の座は、光の座でもあるぞよ。神々や人の御魂の菊の座を司るのが、菊理姫(くくりひめ)であり、佛の蓮の座を司るのが、阿弥陀如来であるぞよ。神佛の世界には、鵲(かささぎ)の橋を掛けて結びてあるぞよ。是も菊理姫の括(くく)りのはたらきであるぞよ。菊座に神が乗るのは定めであれど、これまで、その事は封じられ、皇室の十六菊の紋のみ輝きて、日本の国を治めてまいりたが、真は、十六弁より弁の多い菊座もあるが、未だ明かされぬ事であるぞよ。神や佛は、菊座や蓮の座に、でんと、胡座(あぐら)をかいておるだけではないぞよ。神にも、喜び、悲しみ、怒りもあるぞよ。されど、人民の我が身中心の欲から出た、喜怒哀楽の感情で無く、神理に照らしての神の念(おも)いであり、神理(真理)に合いた行いは、喜び、神理に外れた行いは、悲しみ哀れみ、怒りもするぞよ。どんな時でも神の念いは、正しき道に返さんとするのであり、時の流れの如く止まる事は無く、常に弥栄であるぞよ。福島の原発の垂れ流しの汚染水も、海の潮
の力で浄化を早めるよう、神は苦心いたして居るぞよ。人民は神の事等、そっちのけで、山を崩し海を埋め、大氣を穢し、地球の生命をちぢしめておるが、是は神の悲しみであり、怒りともなるぞよ。人民は、神があろうと無かろうと、おかまいなしで、物金豊かに恵まれて、栄耀栄華の暮らしを求めて日々送りておるが、天地の神の恵みあっての人の世である事を忘れては、必ず人の世も行き詰まりてしまうぞよ。人が現(こ)の世に生きるには、金も物もいるなれど、生命あっての物種と言う事を忘れず神理に照らして、精神を豊かに育てねばならぬぞよ。
扨ても、この年は、伊勢も出雲も遷宮の重なる奇しき年であり、世界が変わる節目の年であるぞよ。登る日の伊勢、沈む日の出雲と異なる四九三(しぐみ)を結んで居るのが、白山菊理姫の神業であり、菊理姫の神の働きによりて、今日迄、隠されて封じられていた裏の四九三も日が差して表に出るのであるぞよ。菊理姫(九九理秘)の神力を現す為、去る八月三十一日、東近江の真澄人十一名、暴風の中を、十一面観世音、白龍と化しての導き無事、神との誓約(うけひ)を果たしたぞよ。神の導きと、それぞれの御魂の因縁による御用であったぞよ。伊勢と出雲の結びは、天地、日月の氣の結びであり、日月、そろいて世の守護をいたす時節のめぐりとなりたぞよ。括(くく)り結びの裏には、必ず菊理姫の神の働きある事を忘れてはならぬぞよ。五弁の菊座に乗る人の御魂も、始めの神との誓約を忘れ、利己主義(われよし)の道に走れば五弁の菊座も失う事となるぞよ。人(霊止)と現の世に生まれたからは、只、我が身の生活に明け暮れるだけで無く、縁(ゆか)りある神に仕へ、仁義礼智信(五常)の道を守り、義務と責任を忘れぬよう細かく氣配りをして、身魂を磨き、末に御魂の親神の元へ帰り、天晴れ人としての使命を果たした事となるなれど、今のままでは、親神の元へ帰れる者は少ないぞ。それ故、初志を忘れな、初めの神との誓約をわすれなと、くどい程申してあるぞよ。もう少しのところまでまいり、慢心して落ちてゆく者、哀れじゃぞ。慢心いたして居るものは、自我の岩戸閉めて居るから、守護神守護霊の言う事も、人の注告も耳に入らず、自ら道を外れてしまうぞよ。良く良く心いたされよ。恩義忘れぬ事が、道から外れぬ要(かなめ)であるぞよ。人にばかり好い顔して、もてはやされても現の世だけの事であるぞよ。常に見ておる神を忘れてはならんぞよ。人の世に於いても、人との約束守れぬ者は、誠無く、人の信用も失いてしまうぞよ。本ありて末ある道と言う事を、軽く思いてはならんぞよ。常に我は慢心して居らぬか、我が身を返り見て、人を逆恨みしておらぬか、常に氣をつけておらねば、肉の身には、すぐ魔がさすぞよ。我が身は正しい間違いないと思う時すでに慢心であるぞよ。慢心取り違へは、神の道、第一の禁物であるぞよ。今ぞ、大きな時代の替わり目、この時道を外れては、もう帰る道も無くなるぞよ。さあ、この日本から世界に向けて大和(大輪)の道を興さねばならぬ時となりたぞよ。

一點素心

言霊神也 ン

平成二十五年九月十日 天橋道士 龍華斎 修聖拝写
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