玄徳道

道を語るブログです。

瞑想道

2014-09-14 17:10:10 | 坐道
瞑想と禅の大家、故ダンテス ダイジと云う方の弟子とお話をしたことがあります。その弟子は、師であるダンテスさんの事をダイジと呼び捨てにしていました。だけど師をとても尊敬していました。かのオウムの教祖の瞑想の師でもあるようです。

ダイジさんは、偉ぶるところが無く表情は、子供のようだったみたいです。彼の説法は、独特で、酒を酌みかわしながら、釈尊を語り、イエス、キリストを語り、道元さんを語り、ヨガの聖者を語り、出口王仁三郎さんを語ったようです。教師と学生の様な一方的な説法は、本当の説法でなく、ざっくばらんに、語りあうのが真の説法だと言っていたようです。ああ、私も酒を飲みながら、ダンテス ダイジさんと語りたかったなあ。

瞑想で仮死を体験し死を克服するような教えもあったような気がします。あまりはっきりと憶えていません。すみません。
ダイジさんは、瞑想しながら自殺されたようです。私は、非常に残念に思います。

その弟子の方は、ダイジさんの死後、老祖の弟子と成りました。縁は、笹目仙人で、仙人の著書を読み、太陽の精気を食らう秘法、月の精気を食らう秘法を教えてもらいに行って断られ、代わりに道院に入るように指示されたようです。

ヨーガの瞑想は、1,2時間は、座り続けるのに先天坐が、初心者は、16分。最大で104分だと聞いてその程度かと思われたようです。ヨーガは、意識が下部に集中するのに対し、先天坐は、どこにも集中しない事に驚かれたようで、本当に自然の坐であると言われていました。

先天坐は、どこにも意識を集中しない為に、気が充足すれば、体の八脈全てを気が回り、長じては、すべてのチャクラが自然にバランス良く開かれるようです。

瞑想で気をつけなければならない事は、自分のみを見つめ続け自己の阿頼耶識に囚われてしまう恐れがある事です。阿頼耶識に刻まれた悪の因(前世の)に触れるとやはり心が病むようです。これを防ぐためには、日常生活の中での五常、仁、義、礼、智、信が大切なようです。日常の社会生活が主で瞑想が従であるのが良い様です。

ちなみに瞑想ではグルと言う、指導者に盲目的に従わねばならぬようです。これが瞑想の道を穢していると私は考えます。善き指導者に会い、御想を指示されるのは善い事ですが、それをグルからの相伝とし、服従せねばならぬのは誤りであると考えます。

瞑想とは簡単に言えば、「内なる神と出会う、旅」。他人の瞑想的、悟りを真実であり、悟りの境地と考えるのは、自己の宇宙を否定してしまいます。やはり、善き指導者の意見を大切にし、その悟りを鵜呑みにせずに、己が神に出会う道でなければ、瞑想の真なる道から、離れてしまうと考えます。

多くの方に尊敬されておられる中村天風さんは、昔の軍部の暗殺者でした。彼も因果に因り自分が死の病気になった時、ヨーガをされるグルと出会い、ヨーガの秘伝を得て、命を救われています。たとえ、人斬りであってもヨーガで真を得て覚神すれば、その悪しき因をも超越してしまうということでしょうか。瞑想とは、静であり、黙です。静寂の中に回光の働きがあります。その境地は体に自然の治癒力を与えるのは真実であります。

三国志の関羽も武将として、たくさんの人を殺めています。しかし、関羽の誠は輝き死後、神と成っています。道院にも神使として登場しています。生前、関羽も仏教に寄与されて禅もされておられたようです。

だからと云って人殺しは、絶対にだめですよ。自分の魂を輝かせると陰陽も超越するという話です。

「多くの道は、山ほどあります。しかし自分が歩む道は、一つだけです。」

「道の一途は、万修の帰する所なり、偽為らず、虛ならず、無為よりして有為に、有為を復して無為と為す。」

<2014-9-14、一部記事を訂正致しました。>

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信仰の道

2014-09-14 16:33:36 | 宗教
信仰は、人の自由意志です。ここに強制があれば、道を誤ります。ちなみに先天の坐にも強制がありません。部位(チャクラ、丹田等)に着相(執着)することなく、人為をすて、自然のままに坐ります。邪念が出てもそのままほっときます。無理に無空、無想になることは、強制になります。無理に強制するとさまざまな弊害が生まれるといいます。だから無為自然のまにまに。

覇道でなく王道の坐なのです。覇道とは全てを力で民を従わせる事です。王道は、民意を尊重し、無為自然の徳により治める事です。

神様に感謝するのも信仰。祈願するのも信仰です。子は、親を親しみ頼み、親は、父母を大切にし、祖父母は先祖を大切に崇拝し、先祖は、神に基づきます。

人により、神様を祭り、拝み拝し、媚びへつらい、供物をし、わが身の幸福を願い、わが一族の繁栄を願います。人としての情では、当然かもしれません。人間とは我儘ですよね。

祈願される立場の至聖先天老祖と云う神様は、このように述べています。「外に神を求めるのではなく、内に道を見出すのである。」と。決して、自分に供物をささげたり、敬い拝し、奉るなと言う事でもあります。人の親心と同じで、自分の面倒など、除外して、自立してほしいと言うことです。それよりも、自己の内なる神に、道に目覚めて欲しいのです。

伊勢白山道氏が述べる内在神ということでしょうか。(ちなみにこのお方は、坐禅や瞑想に否定的なようです。)

相対世界、物質世界において、お金があれば、幸せだという方もいます。ものがあれば、素敵な恋人がいれば、欲望がかなえられれば。人の幸せは、欲望の数だけありますね。

しかし、お金も地位も名誉も民族も関係なく、人の根源たる「道」を見出すことが、人としての真の幸福なのではと私は、考えるのです。

そして、信仰していれば、幸せになれる事はありえません。信じても、救われません。自己の中に、唯一の内なる神こそが、自分を救えるのです。

信仰せずとも、如何に、自己の内なる宇宙を発露する者こそが救済出来るのです。その道は芸術であり、音階であり、吾が道であるのです。

「人心を捨て、道心に還る。」「人心惟れ危うく道心惟れ微なり、惟れ精惟れ一、允(まこと)にその中を執れ。」


<2014ー9-1。記事を一部訂正致しました。>

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神の道

2014-09-14 15:40:03 | 神社道
私は、昔から神社が好きです。関西圏なので住吉大社にお参りに行くことが多いです。昔は、困ったこと、悩みごとが有る度に良く行きました。これと云って御蔭もありませんでしたが。親に甘える事が出来なかったので神様に甘えていました。

道院紅卍字会による先天坐法も自分を救いたい、現状を打破したい、超能力、霊能力が得たい等と云う動機もありました。しかし、残念ながらそういう功能は、ありませんでした。

至聖先天老祖と云う無形の神様がそれでも、わずか16分座(すわ)れば、気質が変じ、体も壮健になると申してます。血液の増量も意志で変化させることが出来るとも説きます。あくまでも間無く断無き同じ時間に座ることよって、気の流れが正常に流れて行くようになるのです。途中でしたりしなかったりするのが一番悪いらしいのです。するなら継続する。しないなら止めるということです。坐に因り、気を温めたり、坐をしない事により気を冷やすのは、操と鬱に繋がるのです。気は心を支配しているのですね。

変らない自分にいらだちながら、それでも、神は申します。継続することを目標に、坐をすれば、神でも仙でも聖でも鬼でも自在に成れる、と。私はその言葉を信じて、継続をむねに、坐(すわ)り続けましたね。

数年たち坐っている時に神社にいる神々が老祖が、実は、自分の身の内に居らっしゃることを感じました。


「内なる神との出会いです。」


今でも神社に良く参拝します。お願い祈願は、しません。感謝もしません。神様の前では、無想を心がけています。
住吉大社に行きますとほのぼのした気分になり、体中の気の流れが正されるような気分になります。

怪しい私は、たまに、人目を気にしながら岩笛を吹きます。人に見られると恥ずかしいので誰もいないのを確認して吹きます。

天地の気を調和するつもりなのです。たぶんこれは、私の妄想です。神様ごめんなさい。

「誠は、天の道なり。これを誠にするは、人の道なり。」

<2014-9-14.記事を一部訂正致しました。>

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坐道

2014-09-14 15:25:24 | 坐道
坐禅や瞑想には、宗教の数だけ秘法と行法があります。皆それぞれが、自己の秘法と行法を誇りますね。

何故、坐をするのか。禅をなすか。瞑想もしかり。悟りを啓きたいとか、真実の自分に会いたいとか、その理由は、人それぞれです。

人が道を歩もうと覚悟すれば、堅、誠、恒が大切に成ります。堅実でなければ、道が定まらず、心に誠(真)心が無ければ、天の道に添いません。そして、継続しなければ、道を歩んでいる事になりません。間無く断無く継続こそが最大の試練でもあるのです。

様々な坐道が有る以上、自己の坐を誇るのは、道を歪めます。一子相伝の秘奥も、師から受け継がれる奥義も、自分は正しいと思うだけで誤りであるのです。人は、驕れば滅びます。亢龍悔いアリです。龍は実在するエネルギー体ですが、悠久と時を旋回する龍神でも高みに辿り登り続ければ神ともなります。しかし、過信の慢心が身を滅ぼすことがあるのです。

ちなみに、私は、先天の坐と言われる、中国で起こった「道院紅卍字会」の坐を修しています。さらにちなみに、この団体と関係は在りません。全てが縁だということです。お金もかからないし、楽な姿勢で、四度、16分(地球の回転速度に関係があるらしい。)座るだけです。当然毎日しています

至聖先天老祖という神様が人を救済、済度するには、上元の坐こそが、人心を回光させ、その光が先天の炁(自己の内なる神)と合一し、又世の災刧を消去することが出来ると言われています。老祖は名も無き、無形の神であり、各自好きなように称えよと言われる、宇宙創造の虚無の神であります。

信じる信じないは、人の自由です。私が面白いと思ったのは、至聖先天老祖が、神がどうしても坐をして下さいと懇願されている感じがしていました。自ずから成す坐により自己を救う。神が無条件で救うのでは無く、自己を救えるのは唯一自分のみであることを教えて、それにより神様が人を救済、済度したいという気持ちに私は感動した記憶が有ります。

しかし、坐禅とは、神に会ったら、神を滅し、仏に会ったら仏を滅し、先祖や師に会っても滅します。坐中に不思議、奇異は幻魔です。坐とは、ただ、己が神と向き合う者、そこに不思議はないのです。

正道に不思議なし、大道に奇は無しです。そして、坐道に、神化(進化)ありでございます。

<2014-9-14.記事を一部訂正致しました。>
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人が歩む道

2014-09-14 14:53:30 | 坐道
生きとし生きる人は、悪も善も兼ねて歩みます。その歩みが惰性で歩めば、何の感慨も無く、生命を消耗しています。しかし、生きがいを持つ者は知らずに、己が宇宙を開いています。

夢を歩む人。恋に生きる人。趣味に生きる人。生きがいを見つけて歩む人。しかし、相対的な世界、物質、お金至上主義に生きるのであれば、それは、欲心欲望であり、欲望は、利己主義であり、そこに見出すものは、因果に因る物質であり、心は感銘も受けますが、内なる神、即ち吾が魂には何もありません。

「道」とは、地位や名誉、お金、欲から放たれた、人が真の自己と出会う歩みです。


「道」とは、少しでも離れては為らない人の自己発露であり、損や得も人の目も気にしない無形の存在であり、自己精進の歩みです。決して誰も褒めてはくれません。

惟神の道。感謝道。坐道。様々な道を私は、肯定します。しかし、日常生活に馴染まなければ、それは、道から離れます。馴染むというよりも、己が意志で継続できなければ、歩み続けることが出来ません。継続無くして、「道」では無いのです。

善く道に随(したが)う者は、耳で聞くこともせず、目で見ることも無く、力や、心を使うこともありません。耳目身体でこれを求めようとするのは、見当違いであります。無為自然こそが至上の道の歩みだからです。しかし、それを吾が道にすべくは多少の努力も必要であります。

「道」と言う存在をあえて、前に観れば、後ろに在り、これを用いれば四方上下に充満し、これを捨てれば解からなくなる。有心の者だから遠ざかることもなく、無心の者だからと云って、近づけるわけではない。ただ、黙して、回天すれば、これを得られ、内なる神、真我に還り、成ずる者がこれを得られます。道とは、神で在り、神の概念これを超え、ただ、吾が宇宙に随う道なのです。


<2014-9-14.文章を一部訂正致しました。>
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