玄徳道

道を語るブログです。

令和四年九月 三六九神示

2022-09-27 20:25:00 | 神示道
九月九日を前にして、九月八日は大事な日と申してあるぞよ。

陰陽、霊体、日月、男女、あらゆる物を括り結び、天之御中なる宇宙の均衡調和を司る、白山菊理比咩の神は、地球神界に於いて、大地の金神金勝要神とも現れて機(はた)の四九三とも申す。

経緯(たてよこ)綾に神々の働きを織り上げて見事な錦旗といたすぞよ。

金勝要神の神霊は丹波大本教に於いて、出口澄殿の御魂と現れて、厳の神霊出口直殿、瑞霊(みずみたま)出口王仁三郎殿の神業の結びの役目を果たしたのであるぞ。

神々や人民の異なる働きを経緯綾に見事に織り上げて神人和楽、万物共存共生の三六九の世を開く要(かなめ)の役を果たすのが金勝要神であり、表に出ぬが、裏にあって総べてを結ぶ要であるぞよ。

(注 出口澄様の手織は、昭和十年大本教弾圧の折、但馬出身の国森常松氏が預かられる。国森常松氏は熱心な大本信者で但馬神鍋山のふもと万場の出身である。)

日本の神典では櫛稲田姫とも申してあるぞよ。

荒振る御魂の素戔嗚の御魂を鎮め、救世神とならせたのは、櫛稲田姫の働きであり、世界の神業の型を現した大本教では、暴れん坊の出口王仁三郎の金玉をにぎり、御魂を鎮め、天晴れ五用果たせたのは、出口澄殿の働きであり、その御魂が金勝要神(櫛稲田姫)でありたぞよ。

金勝要神の神霊石(みたまいし)は長らくの間、但馬国、神鍋山の噴火口の底に埋もれておりたが、昭和五十年十月五日、修聖等に神業をさせて、土中より、現し十月十五日に近江国金勝の御香水で神霊石を洗い浄めさせたぞよ。
(注 昭和五十年十月五日神鍋山噴火口の神業の前に龍宮の奥院、鉢伏山の山頂に大根をお供えしてから、神鍋山へ向かう。)

奇しき神の四九三は一歩一歩と進みて来たのであるが、中々人民の改心はならず、白山菊理比咩の神、地に於いて金勝要神と現れ、世の元の神の命によりて、八百万の神々の働きを括り結び織り上げて、神人和楽共存共生の美(うま)し世を開く経綸も遅れるばかり。

神が表に現れたと、前々から申しておるのに世の中、善くなるどころか、段々と悪く危うくなっておるではないかと申す者も多いが、思凝霊(しこりがみ)や体主霊従(からたま)と化した人類が、自我や欲の利己主義(われよし)の思凝で、世の元からの神々を押し込め、この地球を我物の如く汚し穢し、今では宇宙の星まで我物とせんと先を争う有様。

まず、この地球の汚れ穢れを浄めねば、このままでは、地球の生物皆滅びてしまわねばならぬから、神が表に出る程、日の出の光に夜の闇が晴れ、隠されておりた罪科(つみとが)汚れ穢れが皆浮かび上がり段々、世の中悪くなるように、見えてくるのであるぞ。

現の世を修理固成(つくりかため)た神の力ならば、何でも自在になると思うであろうが、形ある現の世は、あの強烈な太陽の光でも、一片の雲で、さえぎられる如く、体を持った人間の自我や欲の思凝は神の力とて封じ込め、岩戸閉めともなるのであり、人民の改心が無ければ、神意の実りも成らぬのであるぞ。

コロナ禍が中々終息せぬのも、人類がこの地球に住まいておるので無く、住まわせてもらっているのである事に気ずき、天地の神の恵みで暮らせてもらっている、おる事の感謝を深め、好きほうだい、都合勝手、金がもうかれば何でも自在になるという思い上がりの心を改め、正常の暮らしの有り難さをかみしめねばならぬ故であり、コロナは太陽の光環であり、思い上がった人類への日の出の神の警告であるぞよ。

世界の国々の人民は皆、倖せに楽しく暮らしたいと望んでおるのであるが、上に立つ者の、自我や欲の意地張りで、物や金も権力も我一人じめにいたさむとするゆえに、争いとなり、その末戦争となり、多くの者が犠牲になるのであるぞ。

核兵器にしがみつき、我が身我が国を守らんと威嚇し合う愚かな考えを改めねば、世界平和は来たらぬぞ。

国々の頭(かしら)から改心をいたし、人民の倖せの願いを適える為に無益な争いを、事止めて、国々の頭は人民の為に皆が倖せになるにはどうすれば良いかと考え、相計りてゆく事であるぞ。

そんな甘い考えでは、相手の自在にされてしまうと、疑いて、牙をむき威嚇しあい、守りの道に走るのであるが、その事が又、争いを生み、その末、共倒れとなる事に早く氣づかねばならぬぞよ。

各国の争いの氣を鎮めむと金勝要神も働くが、争いの無い倖せな世界の来るのは未だ未だ先の事であるから、皆利己主義の心を改め、神理に順う努力を重ねればならぬぞよ。

我を守らんとするばかりに、争いを生じ末は共倒れになるような事は、してはならぬぞよ。

皆で仲良く手をつながねばならぬと、三つ子でも判る事が大人になると我欲為に判らぬようになり、皆倖せを求めつつ争いや不幸の道を開いておるのじゃぞ。

強い者勝ちの世は済みたと申してある事、しかと肝に命じ、勝つと思えば、負けとなる思い上がりの理を覚り、思いやり慈しむ心を起こさねばならぬぞよ。

今世に起こる様々の不測の事件、身勝手に走る人民の改心をうながしておるのであるぞ。


扨ても昭和四十六年五月十八日、日の出の神に因縁の但馬豊岡来日岳開きの神業を始め、丹後、但馬、丹波、因幡、伯耆、出雲越、富士、鳴門、全国縁(ゆかり)ある神山霊地の岩戸開きと龍宮の玉石鎮め(種蒔き)の御用に仕えさせ、昭和五十四年七月一日(旧六月八日)男島、女島、中津神岩の御用で納めとなし、平成元年より、世の元の真名井ヶ原の、整備に仕えさせ、いよいよ令和の御世を迎えたのであるぞ。

(注 来日岳亦、来日山 兵庫県豊岡市にあり五六七m。天照国照彦火明命、丹後より磐舟に乗り来臨の伝承あり。
昭和四十八年十一月四日、この山の中腹に清明金明宮を建て神業の要の場とした。旧十月十日)

令和は霊和であり、体主霊従の世から、霊主体従の世への大転換期を迎へたのであるぞよ。

言霊神也 ン

令和四年九月九日

龍華斎修聖拝写。
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令和四年九月八日 小長谷修聖 三六九神示霊視篇

2022-09-26 20:20:00 | 神示道
北陸白山山頂の奥宮の上空に、菊の花の如く光が四方八方へ放射する御座の上に、白いドレスの如き装束をつけられた女神が大輪の真っ白な菊の花を持って御立ちでありました。

次に昭和五十年10月五日、金勝要神の神霊石(みたまいし)が出土した、但馬神鍋山の噴火口で神業をした赤い溶岩上に、白金に輝く菊座に乗られた金色に輝く如き肌の小太りした女神が大きな大根を持って現れになり、そして、その大根は、大きな金色の玉と化しました。

(注 白山山頂出現の神は、総べてを括り結び、佛(ほとけ)は、蓮座、神は菊座と言われているが、神の菊座を司られる白山菊理比咩神であろう。
地上界神業の要の神と申せる金勝要神は、菊理比咩神の変化であるとの御示しであろうか。
異なる神々の働きを括り結び、見事に織り上げてゆく要(かなめ)の神である。)

次に大本教二代教主出口澄様が髪を頭の上に巻上げ、たすきがけで、手機(てばた)で布を織っておられ、その様を出口直刀自が見ておられる様を拝されました。

(注 大本教の内部を扇の要となり、しっかりと治めておられた出口澄様の御魂は、金勝要神であるといわれている。
経緯、綾に織りなされてゆく神の経綸は、機(はた)の仕組みとも言われており、ある時、澄様は、昔の裃の糸をほどき、その糸で機を織っておられると、それを出口直様が見て、「澄は、大事な御用をしている」と申された。
上下(かみしも)のけじめ正しく、経糸緯糸を織り上げてゆくのは、地上天国共存共生の世を開く神の経綸の型であり、それを為すのが、金勝要の神の働きである事を示されたのであろう。)

最後、出雲の八重垣神社が拝され、神楽が舞われていました。

(注 素戔嗚尊(出口聖師)と奇稲田姫(出口澄)の結び)
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青玄道

2022-09-19 11:58:00 | 道院
老祖訓「天地の間に盈ちるものは皆、青玄の氣なり。」

密(ひそ)かに考えてみるのに、天地の天は空の至極であり、地は静の至極である。

その天地が生まれて来るのは、先天の炁より生まれて来るのである。

その活動は霊によるのである。

それは、先天の炁の中に於いて、これを化するのである。

そこで一切のものには、それぞれの形を授けているのである。

これらは皆、霊の中に於いて、育てられているのである。

息息として(絶え間なく)息吹いて、実体を作り上げるのである。

これを推し進めて行けば、始まりのない始まりに至るのであり、それは、先天の一炁だけである。

至聖先天老祖は、天地日月星辰を生み出し、これらを全て宿しているのが先天の一炁胞である。

儒教ではこれを無極と言い、道教ではこれを太虚と言い、仏教ではこれを真如と言い、キリスト教ではこれを上帝と言い、回教(イスラム教)ではこれを真宰と言っている。

老祖の本体について言うなら、それは大道である。

道は本来無名であり、これを名付けて道と言う。

五つの教え(道教、儒教、仏教、キリスト教、回教)と言うのは、それぞれ異なっているが、それはその土地により、その時代によって教えを設けて来たのである。

全ては、老祖の大道に基づいて、ここに道院を設立し、ここにこれを祭るゆえんである。

"青玄宮一玄真宗三元始記太乙先天老祖"と更に五教の聖人をここに配列されている。

これによって道を明らかにし、五教を合わせて、これを統一し、そこで六と成るのである。

老祖が「坐釈法言」の中元編で述べる。

天地の未だ定まらない前に於いては、先天の先があり、それが乾元と坤元とによって、造られた所の機(はたらき)となり、それがコツリン(勿⬜︎侖⬜︎=⬜︎に勿や侖の文字が入った漢字。変換出来ず。)の一胞(注 コツリンの一胞とは、天地陰陽が分かれる前の先天の一炁胞は、楕円形にして、天地万物の原素である。)の中に隠されている所の本体である。

これより、乾坤(天地)が分かれるようになってから、陰陽のニ気によって形が分かれて来るのである。

一元の働きはこれより分かれて、三となり、五となる。

これが合わさって、九となるのである。

そして、これが大千世界となるのである。

これによっても、精一の水が一を孕み育てるので、これによって、運化の功を知る事が出来るのである。

しかし、先天の炁が生ずるところの初めには、コツリンコツリン(そっくりそのまま)本来の姿である。

混沌としている際においては、所謂孕むとか、運(めぐ)らすとか、育てるということがないが、それから、化して、孕み、運らし、育てるという働きに頼るのである。

これらは、皆、老祖(先天)の初まりの本体の働きではないものは無いのである。

水の精の源の原素は、この一元より生じて来るのであり、従って、その為に各弟子に坐を語るのである。

そこで先ず初めの原素のもとより、分かれる前の相(すがた)を語らねばならないのである。

それには先ず吾を知ることがその根源である。

そこで、その形が分かれるところの必然性を知れば、即ち生成化育の正しい働きに至るのである。

生成化育を知ることが正しい運化の至極である。

そこで先天の炁が孕み、後天の気がこれを運らし、このようにして、男女の功用(はたらき)を悟る事が出来るのである。

そこで先天の炁と後天の気の男女の精が交わることによって、二五(陰陽と五行)の妙用となるのである。

そこで性命の生成化育を知る事が出来るのであり、これは循環して、変わることが無く、さらにこれを改めることは出来ないと言う道理を知るべきである。

これによって、先天と後天の自然の功侯を悟る事が出来るのであり、そこで又、人の霊の始まりも知る事が出来るのである。

人の霊の始まりとは何であろうか。

それは虚の中の虚の至極であり、これによって、虚の至極が化育して、虚中の実を生み出すのである。

そこで、虚によって化し、実によって生み出すという、道理になる。

これによっても、後天の一気によって形が形成されて来るので、これより千差万別の種類に分かれて来るのである。

これらは、全て定まっている不変の道理であり、そこで各弟子は、先天がこれを運らし、先天の炁が化育するところの功用を悟る事が出来るのである。

吾人の最初は何であったか。

それは源の原素だけである。

原素とは、これ精一である。

精一とは何であろうか。

それは陰陽のニ気が交わったものである。

このニ気はどうして交わるのであろうか。

先天の一炁が虚から化したものである。

先天の一炁の虚から化したというのはどういうことであろうか。

それは水の精である。

水の精は先天の炁となり、先天の炁は童子(男)であり、精一にして水となり、後天の気が妃女(女)である。

一元とはその関係するところ、乾坤二つの道が分かれたところである。

それが更に分かれて千差万別となるのである。

これらの最初の根源はただ、一だけである。

一より二となる。

二より三を生じ、これが天地人の三つの位が定まることである。

その一元が未だ分かれない前においては、一より、正炁に至ることを知らなければならないので、これがコツリンである。

各弟子は、嬰児が一気胞の中で、休んでいる時に於いてこれを明らかにする事が出来る。

先天と後天の本の始まりを求めるのである。

そこで坐を捨てて、虚によって運らすところの功用を生ずると言う事は、恐らく不可能であり、坐以外には、この秘訣は無いのである。

故に一元が先天の炁の根となるのであり、そこにニ気は一元を運らすことになるのである。

性命(本性と天命)とは性霊の主宰となるのである。

そこで始めて真一を生じるところの至極の道理を知る事が出来るのである。

更に吾人の霊とは、最初の時は静と動の機は隠れているのであり、これらは純粋の虚である。

故に、人が生まれる時には、人と動物の違いが無く、又識別の自覚も無いのである。

そこにあるのは、僅か一点の霊だけであり、それは虚を運らすだけである。

従って老人(老祖)が石門に於いて、坐を伝えた時、天の老母(斗姥星君)が私に道を聞いた。

その時は僅かに草が歩き、木が語り、これらの為に解説したのである。

動物と植物との区別が無いと言う事を証明するのである。

そこで人の霊を知ろうとすれば、それは草木の霊と同じである。

草木の霊は人の言語に表されるのであり、又動物の霊も同じである。

そこで、ゴリラや鸚鵡など、これらは全て猿の類であり、皆言語を持っている。

そこで先天の一元の主宰を知る事が出来るのである。

即ち、先天の炁の虚の働きが霊を運らしているのである。

即ち、有は天地人の分かれたものであり、そして、天地人の分かれた後に、動静の働きが現れて来るのである。

これによって陰陽ニ気が運る事になる。

そこで、人類に妙用を与えて、これを成就させるのである。

即ち有とは、これを生成化育の相循環する所の働きによるのである。

これら有とは陰陽消長を断絶し、奪うところの無の中にあるのである。

老人(老祖)は七回石門で道を伝えた。

各弟子たちは、先天の大本を実証し、一元の根本に関わる道を明らかにし、各弟子は坐の運用を知る事を期待したのである。

これは正気の根源に従って其の本来に帰ったのである。

各弟子は道の系統に基づいて、これに合し、さらにこれを細分し、先天と後天の妙を体得することが出来るのである。

蓮台聖(観世音菩薩)が女社の訓文で言うには。

老祖の命を奉じて、特にここに来て述べる。

老祖の本来の面目とは次の通りです。

老祖とは先天の炁であり、いわゆる炁胞です。

故に人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道をに法り、道は自然に法るのでございます。

自然とは、先天の炁であります。

天の日月星辰は老祖がこれを分布配列したのであり、これが大なる先天の炁体の世界でございます。

老祖はそこに居るのであります。

万物は皆、その先天の炁がこれを孕み育てたものでございます。

故に道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じるのです。

吾が師(老祖)が化するものとは、万劫を経ても滅びず、混沌を経ても滅びることはないのです。

数千万紀(一紀は十二年)を経てもその化育の跡を留めないことはないのでございます。

生物においても、これを知る事が出来るのです。

人の霊性は、もし虚に返る事が出来れば、喩え大災劫に会っても、少しも損なわれることが無いのでございます。


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