ああ、坐って面倒くさい。そんな事を思う事もある。
しかし、坐(す)われない、時の事を思い起こせば、贅沢な思想である。
私は左官職人で、ごく稀に地方へ長期出張へ行く時がある。昔で言う、出稼ぎの如く。そうすると、一人一部屋では無く、二人一部屋であり、その中で坐する事が出来ない事がある。そこでは心坐を道とするが、礎たる形坐が出来ないのは、辛かったですね。
その時は身体が坐を求め、心も魂も坐を求めて、渇いておりましたよ。
なんせ、坐すれば、気が廻る。邪悪な私でも、光が吾が身体を回るのである。
この、至福は、先天の坐をした者でしか、理解出来ない。
故に、坐すると言う事は、幸せな道なのである。
私の知人に坐する神の巫女がおられ、その躍動は半端では無い。水を得た魚の如くである。
おいおい、あっという間にぬかされてしまう。
共に上下は無いが、心が純粋であればある程、坐はその本領を発揮する。
その知人は、坐して更に、神氣を集め、また、人の師となり、神に幸せを齎せ、また、世を救うのである。
坐に勝ち負けは無いが、私も負けてはいられないのであります。
いま、人の世は乱れている。
原子の機能は、修復を不可とし、人間の生存圏を穢している。また、人を服従させようと争う。
病を得ている者は、松を食えよ。
松は神の機能なり。ゆえに、弥勒の世を松の世と申す。
ああ、そう言えば、私は三回目のコロナワクチンを受けました。
私は坐する存在であり、ウィルスと共存出来る者であり、ワクチンは無用であるが、家族がそれを望むのであれば、ナンクルナイサあ。
ワクチンを打てば、二年で死ぬと言われる方もおられますが、残念ながら、死にません。
後、三十年もすれば、ワクチンを攻撃した者も、ワクチンを推奨した者も、騒いだ功が無かったのを知れる。
人間の身体は、かつて、多くの滅びを経て、なかなか、しぶといので御座います。
もし、人間種が滅びるとすれば、イクサ、戦の一字あるのみ。
坐する。最近は、心は竅を離れず、身は道と神を離れずを良く考えて坐しております。
坐する。そこに、心理的努力は無用。私は坐して、後は、吾が身体に、吾が内なる神に、任せております。
時折、呼吸が浅く、なだらかになり、肺呼吸がわずかとなり、身体全体で息をしている事を覚えます。
呼吸が無くても、苦しくならず、胎息している感があります。
それは、本当か嘘なのか。しかし、確実に呼吸は少しで充分となっているのです。
ははは。坐って素晴らしい。
私は、至聖先天老祖が、坐なる道を人に薦めるのは、坐により、吾が救われ、神化の道を得られ、尚且つ、地球のポールシフトに善なる影響を与え、地軸を安定させる効果があるゆえだと、考えております。