玄徳道

道を語るブログです。

令和五年一月 三六九神示

2023-01-27 21:15:00 | 神示道
丑寅の年を送りて迎えし卯の年であるぞ。

卯は東方の日の出の時であり、穏やかな年明けでありたが、その裏に予測通りにまいらぬ、変転奇象の事も起こる厳しさがある年のめぐりとなるぞよ。

艮の金神 国常立大神、三千年の四九三を実らせてまいるのが、日の出の神と龍宮乙姫の働きであり、その四九三の型を日の丸扇に見せてあると申してあるぞ。

現の世では、男島女島の間より昇る日の出で見せてあるが、世の闇を晴らす、日の出の光を、さえぎらんと、北から迫り来る黒雲、北西から吹き来る風強し。

その事は、現の世に神人和楽の三六九世を開かんとする、日の出の神の出現を思凝霊等が黒雲となりて、さえぎらんとする様であり、現の世に於いては、日出る和の国、日本の国の台頭を、おさえつけ従わせんとする大国の圧力とも申せるのであるぞ。

赤き辰や赤鬼の手先になりておる北朝鮮を悪くばかりは申しておれず、先の大戦の後、アメリカの手下となり、日本も戦争の場に立たされる企てが進みておるのであるぞ。

世界平和の為に、アメリカと日本が協力する事は良いが、平和惚けとなりておる間に戦争に巻き込まれる事、迫り来る黒雲である事を忘れてはならぬぞよ。

和の国日本である事の狂わぬ要の柱を立てねばならぬぞよ。

世界の国々も国取合戦や経済戦争をしておる時ではないぞよ。

その上、宇宙の星取合戦、何時までも愚かな利己主義(われよし)の争いを重ねておれば、それこそ人類は食物も無く荒らした自然の報いを受け、山火事、水害と自然の災いを受けて苦しまねばならぬぞよ。

別けても戦争に核兵器を使うような事となれば、人類の滅亡ともなるのであるぞ。

厳しき道の上に立たされながら、我が我が世界を我自在にいたす野望に走りたり、我が身の国だけの栄えの為に争う如きでは、この地球はどうなってゆくのじゃ。

月や火星に人類の住めるようにいたさむともいたしておるが、そんな事が成るまでに、この地球が亡びてしまうぞよ。

今は無益な争いをしている時ではないぞよ。

世界の国々の頭が、知恵をふりしぼり、如何に人類が生き残れるか、戦争の無き世が開けるか、この地球のどうにもならぬ汚れ穢れをどうして浄めてゆくか、真剣に考えねばならぬのが今の時代の重大事であるぞよ。

神界も荒神龍神を使い、雨風嵐、地震、雷と現れて地球の浄化を急いでおるが、神々の力をもっても、すぐには浄まらぬところまで、汚れ穢れておるのであるぞ。

人類は地球の上で、我世の春を生き残れると思いておるが、人間の為した業によりて、どれだけの動物植物が絶滅したかと返り見ねばならぬぞよ。

今こそ、人類が伸るか反るかの大節に到り、何十年前、人類、風邪引き(コロナ)倒れむと神示した時節に到りておる事を厳しく記しておくぞよ。

特に東方、日の出る国、日の出の神出現の地場、日本の人民はしっかりと目を醒まし、先の大戦や様々試練を経て得た、今の平和を、あたりまえの事と思わず、性根を入れて、世界平和の要の国となる事を芯と立てねば、外国と同じく軍備をして、国を守るが如き考えでは、国を亡す原因ともなるぞよ。

万物の御魂や生命を結びなす、括りの要の四九三で成らせた現の世であるぞ。

万物を生み、現の世の営みを人間に任せた結果は、元の神の四九三、計画ありて成りた現の世である、肝心要のことを忘れ、人間の知恵学だけで世は、成りておるように思い上がりであるぞよ。

天之御中の大元の神、白山菊理姫の神と現れて、宇宙万有総てを括り結び、調和させて宇宙は成りておるのであり、この地球の修理固成の時も、今の新しき世の立替立直しの時も、神々の先鋒に働くのが龍宮神界であり、その中に厳瑞万神を結ぶ金勝要の神と菊理姫(九九理姫)は現れて、陰から日の出三六九世の開きに働くのである事を忘れてはならぬぞよ。

菊理姫の神、金勝要神の大事な御用を現す神業は、令和五年一月七日、〇〇〇〇〇〇○殿〇〇〇〇〇〇殿、御苦労になり、男島女島、中津神岩をめぐり白山の水を撒き、中津神の岩には白山手取川の玉石も鎮め、真名井神社に、金銀の扇面の日の丸扇(白山の石)を納め、龍華館神前に、塩椎翁を祀る丹後夕日が浦志布比神社の石、白山手取川の石、日の丸扇を献(たてまつ)りて納めといたし、但馬神鍋山や金龍神社より始まる金勝要一段表へ出現の神業が成りたから、如何に黒雲おおい雨風嵐吹きすさぶとも、それに負けず黒雲の奥には、日の出の神の輝き、日本の国はぐるりと龍宮がとり囲み守る事を信じ、日本に迫る黒雲も必ず晴れる事を思い、それぞれの御魂の三九十(みこと・命)の果たしに勤めゆけよと示すなり。

誠をもって勤めなば、必ず親神守るなり。

日の出の神世の開きぞよ。

パット開きし日の丸扇、日の丸扇に秘めてある深き深き厳瑞結びの要の道、伊豆能売の神力に世界人類立直り、大和となりて地上天国(うましみくに)を開くべし。

言霊神也 ン。

令和五年一月九日

天橋道士龍華斎修聖拝写

(注 子=北、夜中 丑寅=北東、夜明け 卯=東、朝 艮金神=国常立尊 卯=日の出の神を暗示する。)

(注 日の出神界=天照国照彦火明命の本体、真の太陽神、真の天照皇大御神=みろく神)

(注 厳霊=高皇産霊神、伊邪那岐神、天照大御神(大本で出口直刀自)、瑞霊=神皇産霊神、伊邪那美神、素戔嗚尊(大本で出口聖師) 、厳瑞結びで伊豆能売神、天之御中主神=白山菊理姫の神と現れ給う。)

令和癸卯五年一月八日 小長谷修聖 三六九神示霊視篇。

2023-01-26 20:35:00 | 神示道
男島女島の中程にある、中津神の岩の上に、塩椎(水火土)翁が立たれ、表裏金銀の扇面の日の丸扇持ち、海の水平線の方へ向かい、あおがれると、海上より太陽が昇り始め、海面は金波銀波に輝きましたが、太陽をさえぎる如く、北方より黒雲が迫って来ました。

(注 塩椎翁は大綿津見神(海の御中主)の変化である。

世の闇を晴らす、日の出の神の出現であり、それをさえぎる黒雲は、これまでの世の中を自在にして来た、思凝霊の体主霊従の氣であり、日の出の国、日本の台頭をはばむ、外国の圧力であろう。)

次に和歌山新宮の神倉神社の磐座コトブキ岩が拝され、その岩の上に、三つ足烏が居り、岩の周囲には、澤山の烏が居りました。

飛び立って熊野本宮、大斎原の上を飛び、熊野三山奥の院、玉置神社の方へ飛んでゆきました。

(注 熊野神宮の神倉神社は、熊野を開かれた高倉下命(天香山命)を祀る。

烏は熊野の神の使いであり、三つ足烏は太陽まで飛ぶと言うので、日の出の神に縁がある。

天香山命は天火明命の御子である。)

次に亀岡市の大本聖地、高熊谷山の岩窟から、白梅を一枝持ち、素戔嗚尊の姿に扮された、出口王仁三郎聖師が出て来られました。

(注 出口聖師は瑞霊の顕身であり、素戔嗚尊の顕身とも言える。

素戔嗚尊は熊野とは深い縁がある。

母なる伊邪那美命をしたいて、熊野へ行き給う。

八岐大蛇退治の時との御示しか。)

(注 卯の歳=卯は午前六時、日の出の時、方位は東、一年では春。)

(注 昭和五十四年七月一日(旧六月八日)中津神の岩へ登り、龍宮石の種蒔きの神業納めとする。

昭和四十九年六月二十一日、志布比神社の下にて、老人に旭(あさひ)へ行けば、様々の玉石のある事を教えられる。

七月一日、旭の岩窟より玉石でる。)


三六九神示 国祖への道

2023-01-11 19:41:00 | 神示道
現の世の初発の時、国祖 国常立尊は、神霊(みたま)を分ち、それぞれの神に役目を持たせて世を修理固成(つくりかため)たのであるぞ。

あまりにも厳格なきびしい神でありた故、下々の神々は不足を申し、挟蝿(さばえ)なす如く荒びて治らぬようになりた故、やむえず、艮(うしとら)へ隠退いたし、陰から世の守護をいたす事となりて、それ以来、表に出て居る神々や人民の自由自在に、構う世となりたのであるが、是も深い神策のありての事であり、確(しっ)かりと、現の世が構いてゆける人民に育つように、苦労もせよ、頭打ちもして目醒めよと、陰から見守りておりたのであるが、利己主義の念の凝りた思凝霊の力が強くなりて、表に出ておりた神々も、手のつけられないような世となりたのであるぞ。

もう、これ以上、思凝霊の自在にさせては、おけぬと、時節まつりて、艮の金神 国常立尊は、明治維新二十五年、丹後の沓島から表に現れ、丹波綾部の出口直殿の手をかりて、世の立替立直しの神示をお筆先をして出し、世の裏には封じられておりた、世の元からの神々を、御出しいたす神の業も始まりたのであるぞ。

世の始めの時、国常立尊は神霊(みたま)を二十二に分け、太占奇路(ニ十0ニ九四六)の要(かなめ)のところに鎮めたのであるが、それ等の神霊(みたま)も艮金神と同じく、封じられて来たのであるぞ。

熊野の奥院玉置神社にも国常立尊の神霊が封じられておりたのであるが、この度、瀬織津比売の神が〇〇の御魂に、鍵を持たせて、神を押し込めて居る、封印の扉を開きたから、玉置の国常立尊はら大なる白き、大鳥(白鵬)
と化して、この龍華館へ参られたのであるぞ。

この水戸谷の地は、神世からの大事な御地場でありたぞよ。


扨も、修聖に始めて、玉置の宮へ参らせたのら、昭和四十八年四月四日(旧三月三日)の事であり、その年の八月四日の玉置神社の本殿で言霊の修法を授けたぞよ。

(注、鬼雷示す。小長谷修聖師の、祭祀には、言霊が響くなり。

各々の身魂を介して宣り給う。

私の体験を述べれば、シタテル彦さんと共に。

「すおあえい、天の扉は開かれて、新しき世と、時は変わりて。

甲山、六甲の山、神の山、降す神示を受けて、立たなん。

高砂の、沖に浮かべる、神の島、瑞の御魂の、光を受けなん。

前の世が、恵比寿の神に、仕えたる、御魂の今に、甦り。

世の人の、迷える時に、己が身は、勇みて暮らす、鏡となるべし。

様々に、禊の道は、あるなれど、越さねばならぬ、今のこの道。

この道を、通りて知れる、悟りあり、己が心の、扉開かん。」等を言霊にて歌われます。

天意を述べる言霊歌は、素晴らしいものでありました。)

それより、四十三年経ちた、この年、五月十四日、熊野玉置の宮へ参らせた証が出たのであるぞ。

国常立尊の本神霊(もとつみたま)はもう大本教を出て、丹後真名井の磐座に鎮まりてあるぞよ。

各地に封じられて居りた国常立尊の神霊(みたま)も真名井ヶ原へ御集まりであるぞよ。

昭和四十一年八月十六日、上山田の大栗坂を修聖、単車で走っておる時、突然「世界一の悪神が憑かりておるから、その身は地獄へ落ちねばならぬ」と響き、それ以来、三ヶ月家に、閉じ籠りて、心身共に身動きならぬ、地獄の行をさせたのは、国常立尊の計らいでありて、その事が、但馬豊岡の宝観主光のもとへ修聖を参らせ、神の言霊の取次に育てる為でありたぞよ。

御用のある身魂は、逆捩をくらわせても、御用の道に立たせると申してあるぞよ。

国常立尊は、世界の悪神邪神と言われて、艮へ押し込められたのであるが、修聖に憑いたと言う、世界の一の悪神とは、国常立尊でありた事を証しておくぞよ。

ン。



三六九神示 悪の道

2023-01-10 20:34:00 | 神示道
人間肉体を持つからは、誰も利己主義(われよし)の心あるぞ。

皆、氣をつけねばならぬのが、思い上がりの心であるぞ。

宗教を信じる者は、特に氣をつけねばならぬぞ。

自分の思いが最高に正しいと思いておるから、独善となり、他に悪をつくるのじゃ。

神々と言いながら、一所懸命、真の神の心から外れてゆく事もあるぞ。

宗教も思想も同じようなものであるぞ。

凝り固まったら、自分等だけが正しく、他は間違いの如く見えて、悪を作りだしてしまうのじゃ。

神等あるか無いか、自分に判らぬから、神など無いと言うのも間違いじゃ。

人間には判ろうが判るまいが神は在るのじゃぞ。

草木石ころ一つ作れぬ、人間でありても、天地自然の恵みによりて、生かしておるのじゃぞ。

少し霊能がありて、神の姿等、見えたら、偉い者になったように思うのも、思い上がりであるぞ。

霊能があろうが、無かろうが、神に生かされてある事を感謝し、誠心で己が使命を果たして行く事であるぞ。

真の善悪は人では判らぬぞ。

まず、我が真実と思える事を行う事じゃ。

善悪の裁きは神々いたすぞよ。

皆、心いたせよ。

少し霊能があると思い上がれば、邪霊や思凝霊(しこりがみ)の器となりてしまうぞ。

自己審神(じこさにわ)が出来ぬと気違いの如くなりてしまうぞ。

そんな者これから増えてまいるぞ。

自己審神の基本は、人に迷惑をかけぬ事、人様、慈しむ心じゃぞ。

霊も体も五分五分じゃ。

結びて、十、神となるのじゃ。

霊に偏しても、体に偏してもならぬのじゃ。

神の御用をいたす者は、決して慢心はならぬぞよ。

我が身は、世の裏方、縁の下の力持ちでありても、不足申さず、神々の弥栄、人の幸福、世の平和を祈る心でなければならぬぞ。

霊的の仕組みも、知らねばならぬが、只の物知りや独善となりては、真の神の意に適わぬぞ。

真の神理、太占(ふとまに)は、真の神しか判らぬ事であり、人はその片鱗しか判らぬが、片鱗が判れば大した事じゃぞ。

神々も人民も生きとし生ける、物響き合いて、生命幸倍(いのちさきは)ふ、現の世であるぞ。

言霊によりて響き合うのであるぞ。

言霊とは、只、大きな声で宣る事では無いぞ。

無声の、声であっても誠心の御現れが言霊であるぞ。

さあ、南海の事、一の役ニの役とあるが恐れてはならぬぞ。

地震も噴火も修理固成(つくりかため)の神業であり、神界が為す事であるぞ。

ン。









伏見稲荷山道2。

2023-01-09 09:36:00 | 神業道
伏見稲荷山への登拝です。

伏見稲荷大社は観光客が多いので人の少ない早朝に参拝致します。

まず伏見稲荷本殿と奥宮を参拝。

その後、神宝神社に参拝。

大岩神社を目指します。


大岩神社。




此処の神様は、その神社の鱗型紋章から、アメブロブログ玉置の森ブログ、玉置の森さんは、蛇か龍かの話しでありましたが、この謹書を読むと実に、太陽神と関連しているようです。

三輪山の神とも関連しているとも考えます。

まあ、真実なる神は、己を名乗らず。

吾が師、至聖先天老祖も、吾は姿も形も名も無く、どのように唱えても良いとされて、おられ、金光大神(金光教の教祖)も、神様は、各自、好きな神様の名を挙げれば良いと、申されております。

しかし、此処も、あそこも、太陽の神と縁が有るとは、善きかな。

此処は、私のみ、唯一人が祀る磐座。

場所はだいたい知っているのですが、久しぶりぶりなので磐座の神氣を頼りにして探しました。

神気を感じましたが、磐座が見えなくて(早朝で暗くて)通り過ぎて、見つからず、「私の感合も迷信の部類に堕ちたかと」反省しましたら、やはり、行き過ぎてまして、私が神氣を感じた場所を、戻って、よく見たら、宇賀の御魂の磐座がやはり感合した場所にありました。ちゃんちゃん。

視覚に、頼るのは、モノの見方。それが決して真実では無い事を学びます。

道を修める者は、ひたすら見えない、聞こえない実相世界を模索しなければならないと、反省した次第であります。

伏見稲荷は、多過ぎるぐらいの多くの祠と、また、少し離れても、多くの稲荷八百万の神々を祀る塚がございます。

それを神とするは、利益を求める人の思念でもありますが。

人の欲望の数だけ、祠があり、塚があります。

かつて、稲荷山を探索した時に、その一族を隆盛させた、稲荷神を祀った稲荷塚があり、今は山上にて、誰も祀られず、廃棄された場所もあります。

当然に、真に祀られているのは、豊受大神また、宇賀之御魂ではございません。

人の利益のみに応える、キツネの相姿をした、霊魂であります。

それらは、祀られている以上、繁栄を約束しますが、一度反故にしたら、祟ります。 

両親が稲荷信仰を大切にしてきたのに、跡取りが、迷信と馬鹿にすると、その子孫に祟ります。

言わず、自己の運勢が弱くなった時を見計らい、脳内にシコリを現すのです。

祟りとは、どういう仕組みなのであろうか。

人知れず、悪意を脳内に囁き、動く。

故に祟りとは脳の萎縮であると吾師、老祖は申されております。

先祖代々の恨み辛みを受けている、人は、酒を飲み理性が弱くなると、その本性の中に潜んでいる魔が現れて、暴れます。

因縁が強く出ている人は、酒を飲まなくても人格が豹変いたします。今の言葉で言えば、直ぐキレます。

勿論、酒を飲めばそれが顕著となります。

子供でも判る正しさを理屈でも知っていますが、とても頑なに、それを拒否し、否定致します。

道理がまるで通じません。

世は不思議にて、求めれば与えられる。得られますが、されど、必ず、失うものがあるのです。

必要以上に求めない節度が大切であります。

扨て、祟りついでに私のお話しを。

私、鬼雷は、父親が自殺しております。

東京大井町のビルから、転落死。

父は借金で蒸発し、行方不明となり、長い年月が経ってから、自殺した事で身元が判明いたしました。

父の母親、私からしたら、祖母は、肺癌により亡くなっております。

真実は知りませんが、お寺の住職によると祖父は早くに亡くなり、祖母は母子家庭の為に女性を売り買う商いに手を染めておられたようで、自殺した父もその誹謗を受けていたようです。

私は、幼い日には、女性の恨み辛みの幻覚を見せられました。

人を不幸にする者には因果律が子孫にまで、確実に働くのです。

祟りに対応する手段としてば、坐にて、氣を集め脳髄を回光させること、また、神仏への信仰(神交)により、神氣と交わる事が大切です。

また、お経を唱えること、道院には神伝の経があります。

また、出口王仁三郎聖師の霊界物語も音読する事でも効果を発揮、致します。

言霊により、徐々に因果を弭化するのです。

よく、救霊とか浄霊とか除霊とかの言葉を聞きます。他者や団体に高額なお金を払い、因縁の清算を行うものです。

溺れるモノ藁をも掴む。

天地の律法があるならば、お金で全てを清算出来る事はありません。

なんせ、貨幣価値とは、経済にこそ適用するからです。

お金で神様は動きません。真心あるのみです。

そして、自己の救済は、自己にしか出来ません。神も幇助することしか出来ません。

人は、自ずから道を切り開き、因縁雲も斬り祓う道を歩む事を希望致します。



ああ、かむながたまちはえませ。