玄徳道

道を語るブログです。

詫び道と回光

2012-08-16 20:44:18 | 地道
大変御無沙汰しております。先ず私の未熟な記事を読んで下さり方に感謝致します。
私は、十年以上前から、「人心の回光」という言葉が顕われました。文献や書物等により自分の心に根ざした言葉かも知れません
しかし私は、その言葉の意味を、吾が師、至聖先天老祖の感化として、大事にしておりました。

現代の人は、自分の本当の気持よりも、他人や流行りを気にしています。宗教界でも、自分の考えを述べる事はタブーであり、教祖や教義に順じなければ、教祖や幹部や仲間であるはずの信徒から排斥されたりします。ゆえに真なる自分を見失っている人がほとんどです。

確かに欲心の赴くままに自分の気持ちを大事にするには、「道」ではありません。それはエゴイズムであり、欲心であり、我良しであります。そして、それらの自分勝手な心を「人心」と呼びます。

例えば、母と息子がおり、息子は社会では品行方正であるとします。しかし、母親には甘えがありストレスを平気でぶつけ、母親を困らせます。息子は心の奥では、母親を一番大切に思い大事に思っているのですが、長年の惰性と狎れにより、どうしても母親には罵声をあげてしまいます。ここで云う人心は母を困らせる心であり、道心は心の奥で大事に思う心です。

人心の回光とは、その欲心を、本来生まれ持った本性、道心に帰らせる道です。

イエスは神は愛なりと申します。そして、愛とは光でもあります。本来持っている、仁愛の本性に気がつくと光は、チャクラの回転盤と同様に回り、根源鳴る神に回帰します。回帰した光は、止むこと無く、自身の本性へとまた帰還するのです。その永遠に続く回光が安定する事を、神道では神人合一と述べます。道教では真人です。儒教では聖人です。

道院の老祖の弟子たちが、坐し、仁愛ある救済を志すのは、この為でもあります。坐とは自身の本性に還りやすく、道慈を為すのは神の本質を悟るからです。吾が師は坐こそが自分を救う法であると述べています。そして、如何に坐が良く出来ようとも生活の中で、愛と真心が無ければそこに真は得られないとも申しています。


今日、詫び道と書かせていただいたのは、皆さまに謝らねばならないからです。ブログをできるだけ毎日更新するとしながらも、それを怠った罪です。
私は、道を判ったつもりで書いていましたが、それが私の社会生活での心に反する事がありました。私が弱い人間である事を痛感させられました。心に靄がある以上、それが晴れるまで、ブログを書きたくないと言う決意が生まれました。

約束しながら、申し訳ございませんでした。

これからは、方針を変え、私自身の心の神、内なる神のままに、素直に書かせていただきたいと思います。ゆえに毎日書こうと想わずに、魂が清まり、先天炁の発露した時に書かさせていただきます。勝手な事で申し訳ありませんがどうか宜しくお願い申し上げます。

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コメント (2)
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