玄徳道

道を語るブログです。

神仙の寵児、秀和道。

2023-11-04 18:36:00 | 考察
鶴に乗った仙人こと、笹目秀和先生。

かつて、朝鮮白頭山にて、また、チベット崑崙山において、二人の神仙(受肉された、本物の人間であり、特命を背負う神の使徒。)に出逢われた。

月の精気を喰らう秘法。太陽の精気を喰らう秘法を授かり、その二つを合わせて、「いずのめのみたま」と呼ぶらしい。

しかし、これば、先天坐における、水火の交わりでもあります。

余談ですが、太陽とは火であり、月とは、水であり、水火が交わり、自己、宇内において、初めて、「いずのめのみたま」、神人合一と申すのでございます。

秀和老師は、出口王仁三郎聖師や出口日出麿師とも、交流があったのは、事実でありますが、かつて、崑崙山行く前に、金毛九尾霊の邪魔が入ったさい、聖師と日出麿さんに会い、大本神を崑崙山へ奉じされた神事が、秀和さんの著者(神仙の寵児。モンゴル神仙邂逅記)に書かれております。

そこで、十和田湖の龍神こと、出口和明さん(出口聖師の孫)が、本人に取材されましたが、どうも話がコロコロ変わり、和明さんは、彼を信用することが出来なかったと、見聞しております。

秀和老師は、不当にシベリアに逮捕され、水牢(くるぶしまで、水を入れられる牢獄。激寒の最中、寝れず、ずっと立ったままであり、糞尿も垂れ流し。老師は糞尿に対しては、工夫されたが、人が生きていけない環境であった。)をも乗り越えたが、親切なる人から忠告を受け、共産党に全ての言われ無き、犯罪を自分がやったとされ、水牢から解放された。

秀和老師は、シベリアから奇跡的に解放され、日本に帰国。

帰国してからは、至聖先天老祖の弟子として、活躍し、笹川良一、正謙さんを道院に導いた功を受け、寿命を十二年賜った。

ここで笹目老師の道名を紹介しよう。

秀和である。

和に秀でる。

老祖の弟子には、必ず、道名を賜る。

みな、その人への修道の目標を示されておられる。

なんせ、笹目老師は、喧嘩早い。

彼は自己の正義を重んじる事百千倍。

笹川会長を道院に招き入れた功績もありましたが、かつて、碁の神様と謳われた、呉清源(道名は、弈霊)さんが、笹目さんが、独善が酷すぎると、笹川正謙会長に相談したところ、正謙さんが、そういう意見があると、笹目さんに申したら、笹目老人は、怒り狂い、それを言ったとされる、呉さんに、怒鳴りこみました。

そこで、組織としての東京紅卍字会(笹川会長)は、これを憂え、神様に判示を乞いました。

東京総院弟子正謙、奕霊は謹んでテイハン(神様にお伺いし、判断をお願いする)致します。

弟子秀和は院会に於ける和衷恭済を欠き、その障害となり、堅誠なる修方の敬遠して去る者も多く、道慈進展の妨げとなっております。
如何に処遇すべきか、謹んで判示を請います。

また、笹目老人も、自分は間違っていないが、優劣で言えば、追い出されそうなので、神様に取次を依頼しました。

弟子秀和。師の恩恵に浴し、前五年無給、後五年有給を以て、ここ十年を奉仕し、得たことを感謝し、厚恩にすがり、更に願わくば、近く離京して、塵世の俗務(鬼雷述べる。私は左官職人で有るが、それぞれの職とは尊いでものあり、全ての人々が経済(世を経し、民を済(すく))っていると考えます。秀和老師が神様に尽くすのみが、正しく、天職とされておられるニュアンスは、間違っていると考えます。)に就職するのは、已むなきに至るかも知れず、院に職宣院掌簎と坐院の指坐職を増加し、賜わらば、幸甚に存じます。(ここで笹目老人は、神様に、道院の役職を過去の功績を交えて、欲し、それにより、東京総院に居座ろうとされた。)

黙真人判示。

「秀和は、院会に服務して、十年以来、その辛労は、記録するに足るものがある。

たた中(神様に対する信仰)に秀でているが、和を失っている。

それ、和というのは、天下の達道である。

特に院会は、道慈を以て綱要となし、誠正和平を尊ぶのであり、これが東京総院の額である。

ただ、汝が誠正和平にもとづかなければ、ならないのであり、すべての修方は、みな、この四字を以て基とする。テイハンしたところは、全て判った。

別に判示を聞け。」

この後、東京総院は、更にフーチをテイハンした結果、全ての役職を休職とし、秀和老師に、退職金(慰労金)を支払い、秀和老師は、東京を去るが、多摩道院を建設する兆しとなる。

多摩道院。ここでは大いなる功績となす。

しかし、香港のフーチ(正当な老祖の霊を受けた人が行う神様、爾来。)と台湾のフーチ(半分が老祖の霊を受けた人と全く老祖から許されていない人が行った土公神の自動書記)が争うようになると、笹目老人は、権威ある道職を安く命じ、皆んなに与える、台湾フーチ重んじ、台湾フーチが正しいとされ、(香港のフーチは、台湾フーチに魔が入ったので即刻、出された訓文を焼き払うよう、言われたが、台湾の多くの人々は神様から多くの役職を貰ったと喜んだ後なので、それを未練とされ、道を違えた。)、結末、予定寿命より、早く天からお向かいが来られました。

若いうちの間違いは、正しやすい。

老人の間違いは、正す事は困難であります。


翻れば、私、鬼雷も老人の域に足しつつあります。

そこで、何時も考えるのは、「私は、何時も間違っている。私は、常に正しくない。」

正義なんて、ものは、糞食らえ。

ハマス、ウクライナに正義あり。

イスラエル、ロシアに正義あり。

人間が、どちらかに、取り憑くだけで、神様は、どちらの味方もしないと考えます。

なんせ、神様は教義や、真理にあらず。

神様は、運行。自然の運行。

そこに、喜怒哀楽善悪正邪過去未来なんて、なんくるないさあ。

ただ、日本人として、生まれ、神に仕えるものは、滅美ある中で、足掻く、地球神の為にその御心に添うのみ。

破壊と再生。

再生は美しく、人の自助努力あり。

破壊は多くの民の生命を失う。

いずれ到来する、破壊の波。

やれやれだ。

それまで、精一杯、足掻くのみ。

次代の世代の為に。

自ずから、徳(自己の神)を明らかにして、全てを調和すべし。

明和あるのみ。


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主観道。

2023-05-03 05:10:00 | 考察
スオアエイ

人の魂には、多くの因縁カルマが刻みつけられており、故に、善悪、正邪なる思想も、その人の歩みや修業により、主観は偏ります。

多くの魂への切磋琢磨は、磨かれる人がおり、研かれる人もおられ、また、身が枯れる人も当然におられます。

傷が練磨となる人もあり、傷が乱魔となる人もあり。

昭和の時代、神人合一された方は、昭和天皇であり、また、佐藤愛子さんの著書「私の遺言」に出て来る、神界から来たとされる相曾誠治さんも昭和の時代に神人合一された方でもありました。

相曽誠治さんは、1910年に静岡県に生まれ、1999年に亡くられておられます。

大変に皇室を大切にされ、大嘗祭を重んじておられました。

彼は謫仙(天上界より、人間界に追放された仙人とされるが、実際は、主神のより、使命を受けられた方。また、土佐の神仙たる宮地水位師が神仙界より、彼を指導されたとされる)であったようで、彼と接する人は、「無私で清らかな魂の持ち主。どんな人でも、どんな時でも、同じ表情、変わらない態度、常に自然体であり、接すると何も言われないのに、襟を正され、俗人とは次元が違うお方」と思われたようであります。

その神人、相曽誠治さんは、佐藤愛子さんが北海道の別荘を買う事により襲う、ポルターガイスト、霊動、先祖カルマ(佐藤家のカルマについては、愛子さんの著書「血脈」に詳しいです)の流れを助ける役目を負います。

「私の遺言」には、若き日の霊能者、江原啓之さんや、美輪明宏さんも出て来ます。また、多くの霊能者も、佐藤愛子さんの霊動を救おうとされますが、最終的に、相曽誠治さんが、榊の枝、一本を手に取り、北海道の多くのアイヌの怨念を鎮められました。

その祓いの神光は夜でも大変明るく眩しく感じと言われております。

此処では、佐藤愛子さんの前世がアイヌの姫様であり、アイヌ迫害の怨念が刧となり、地霊を動かし、カルマと縁により、彼女に因り、愛子さんを多く苦しめましたが、相曽誠治氏による、天津神の祓により、一時、鳴りを潜めました。

されど、因縁とカルマと刧を弭化するには、それを受けた本人の御魂の働きと輝きが必要であります。

霊動は、天津神の光だけでは、浄化出来ず、最後、佐藤愛子さんは、相曽誠治氏より指導された日拝鎮魂法の助けもあり、見事に、自神の御魂の輝きにより、自霊浄化する事が出来ました。

日拝鎮魂法とは、午前8時から10時までに、日を拝み、太陽の御神氣を頂戴し、「アマテラスオホミカミ」と唱えます。雨天でも曇り空でも然り。

午前中の太陽は生気です。生命を活かします。

午後の太陽は死気です、生命を枯れさせます。

故に、午前中の太陽の生気を頂くのだと、されております。

これは、仙鶴に乗った仙人、笹目秀和老人の太陽の精気を喰らう秘法とも繋がります。左右の人差し指、親指を合わせて、三角を作り、太陽を口に収めて、その中で太陽光を咀嚼するのも善しでございます。


他からの神の光だけではカルマは解消する事は出来ない。

自己浄力なる、自己本来の切磋琢磨による身魂磨きなる御魂の輝きが必要でございます。


佐藤愛子さんは、相曽誠治さんに、「失礼ですが先生は神界からおいでになった方ではございませんか。」と訪ねると、すると相曽誠治氏は驚きも笑いもせず極めて冷静に頷いて「わたしは、ことむけのみことと申します。」

言向之命。

ちなみに、神道霊学中興の祖であった、本田霊学の本田親徳師は、「ことだまわけのみこと」異霊別命であります。

江戸後期から平田篤胤等による復古神道は神仏習合をは排斥する働きがありました。

宮地水位師の「異境備忘録」によりますと、仏仙界なる世界が存在し、空海や親鸞などの高僧が存在しており、神界に向かう魂を騙して仏仙界へ誘っているようです。

相曽誠治さんも、仏教に対して、あまり良い感情はお持ちでないようで、空海についても、山霊に誑かされると、言い、「四国高知の室戸岬の洞窟にて断食して修行していました。真魚なる空海に、天狗は奇術を行い、[明けの明星]として、天狗霊が、空海の身体に入りました。そのため、空海は死後相応の霊界に収容されて、悲惨な苦しみを受けながら、抜け出る行(禊)を続けています。」
 
まあ、明けの明星云々の話し、その真意は、御本人しか知りませんが、弘法大師空海が、一介の留学生にして、なんの権力も無く、唐に渡り、中華にある、密教を全て会得体得し、胎蔵界金剛界全ての密を日の本の国に持ち帰り、真言密教を顕した功績は、人智を越えておられます。

天狗は確かに存在しますが、悪しき存在ではありません。山界の守護をされておられます。

しかし、天狗にも正邪あり、人の想念に感合して、惑わす事もありますが、あくまでも、その人の御魂想念、相応に感合するので、自己責任でもあります。


神仙、宮地水位師は、「天狗を信仰してはいけません。霊力を得ようと独りで山中に入って修行しようなどと料簡を起こすと、必ず、山霊に誑かされて、天狗界に引きずり込まれるのが、落ちです。」

相曽誠治さんも同様の考えであります。

「滝に打たれたり、山にこもって、過酷な肉代行を積まなくても自宅で穏やかに鎮魂を目指す事ができます。滝行や、山籠りしますと、山霊(魄=スサノオ系の分魂=天狗系)の虜になり、真の鎮魂の境地に至りません。天狗系の霊能力を得ることは出来ても、正しい神界に参入することは不可能です。古来、多くの霊能者や霊学者がこの過ちを犯しています。山、洞窟などにこもって強大な、霊能力を得たと言われる、大本教の出口王仁三郎師や、霊学者の本田親徳先生などは、その典型ではないかと囁かれています。

数多くの「立替立直し宗教」が、その大本教から派生していますが、推して知るべしです。

近代日本に誕生した、霊学者や新興宗教の教祖、言霊学者たちの殆どは、天狗界の申し子と言われています。

スサノオ系が如何に猛威を振るっているかを物語っています。欲を減らそうとか、性格を是正しようか、いうのも確かにミソギの一種なのですが、スサノオ系の霊的影響を薄めるのが、本来の禊です。

スサノオ系を脱却して、正系(アマテラス系)に復帰することが、禊の原義です。

ところがスサノオ系の中に、身を置いたまま、厳しい禊(滝行)を励行しているかたもいます。

これはミソギにはなりません。

多少身は清まるにしても、スサノオ系の中の進歩にしかすぎません。

スサノオ系の霊界は日本に外国の生まれの宗教を持ち込んだ(聖徳太子等)だけではありません。

特に幕末以降、信仰宗教という形で、日本国内でスサノオ系宗教が乱発したのです。

仏教系あり、キリスト教あり、神道系ありで、表面の形こそ異なっていても、いずれもまぎれもなく、大陸宗教(スサノオ系)の系統といえましょう。

ただし、黒住教だけは例外です。

開祖の黒住宗忠は、本当の神仙です………。」

また、中国で発祥された、道院紅卍字会が日本に無償で米と銀を老祖からフーチにより、送った当日、関東大震災が起こりました。

しかし、相曽誠治さんによると、「昭和天皇が富士山頂で執り行われた神祭の結果により、支那から米と銀が送られて来た」と。

確かに、天孫降臨側から観ると、霊眼にもそのように映るのでありましょう。


しかし、山霊や天狗等と天孫側から虐げれて来た、山禍族、土蜘蛛族、蝦夷族、アイヌ族などは、決して自ら争う(侵略者が来ない限り)事なく、彼等は縄文からの自然精神を守って来られた。

人の主観が違えば、「霊界物語」なる魂の発露と救済を示された出口王仁三郎聖師も、また、密教により、宇宙を奏でた弘法大師空海も天狗でしかないようです。

その昔、侵略して来た、天孫側に依り、創られた思想学問(古事記等)を尊重し、古史古伝等は全くの偽書とする流れ、また天津神のみを尊重し、国津神を蔑める。

確か、伊勢白山道リーマン氏も、出口王仁三郎師を天狗扱いされておりました。リーマン氏の思考は、実に相曽誠治氏からの教えによるものと、理解出来ました。

彼は金井南龍師と龍宮乙姫藤田妃見子さん、また、相曽誠治氏からの教えを宗に、伊勢白山道を造られたのであろうかと推測致します。

また、仏仙界も確かに存在し、これは、日本仏仙界と言うのが良く、日本人の僧侶しかおられません。

しかし、霊界とは人の想念ほど、存在致します。

ゆえに、好悪なる感情にも左右されやすく、人の心の数だけ、界数が増えるという事でもあります。

想念を介せず、真なる御魂の世界は、霊眼は通用致しません。

人の主観は、正を得る事は出来ません。

故に、己を正しきとする者は、たとえ、神人であっても、道を違えます。

人は決して、正を得る事は出来ません。

ならば、何が正しいのであろうか。

人が絶対に干渉出来ない、自然なる神の働きこそが、唯一、正しいのでございます。


私は、思考する。

自分が正しいと思った段階で、魔が、違える働きをなすと。


主観が違えば、神示(あくまでも、人を介する)と、言われる発信もまた、誤りもあるのかも、知れません。

いずれにしても、本当の真理を理解したいのであれば、死んでも、道理を理解して出来るように、する修行は大切です。

それは、玄胎。

玄胎には、魂魄の力が必要であります。

生きているうちに、慈善活動を行い、多く学び御魂を磨くのです。

健康体を作り、体力筋力を耕して、魄力を培うのであります。

死んだら血肉は、腐って地に帰りますが、魄は胎となり、魂と合一されます。

それを玄胎と呼び、死後、あらゆる神界霊界を探索することが可となります。

ス神なる 天照る神も 素戔嗚も 元は一つの 伊邪那岐の神。

善きを摂り 悪しきを捨てて 中庸の 誠の心ぞ 人の道なり。





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食道

2023-01-04 09:26:00 | 考察
先ず始めに、天と地の狭間にて、穀物を育てる人は、宝であります。

吾が師、至聖先天老祖は、水から生まれた人は、穀物によらねば生きられず、火による暖が無ければ生きられないと、言われております。

故に、農作物を育て、人に貢献されるお方を神様は、国の宝と示されているのでございます。

農作物を育てる人が少なくなる中、懸命に育ててくれてありがとうございます。


何時頃であろうか。コンビニの弁当が臭く不味く感じるようになったのは、若い時は、朝飯代わりに飲んでいた缶コーヒーが不味く、味に嫌悪感が感じるようになったのは。


私がまだ、小学生の頃、食べた玄米が美味かったです。米が口の中で踊っている錯覚があり、それ程美味さを表していました。

今の人は、あまり玄米を食べませんね。

白米が主食の方が殆どであると思います。

徳川幕府の時代、江戸では白米が流行り、多くの人が脚気となりました。理由は簡単、玄米に含まれていたビタミンBは白米により、無くなり、主食とされていた白米により栄養欠損となり、多くの人を苦しめました。

もちろん、白米に良い所と悪い所もあるし、玄米も同様であります。

ちなみに、私の家では、白米に、大麦と玄米を一皮剥いた柔らかい玄米を混ぜております。

玄米だけだと、子供が嫌がるからです。


扨て、パンは、今では朝食にされている方が多いと思います。

しかし、食パンには様々な添加物あり、しかも、加工食品であり、身体の代謝をさげます。おまけに消化も悪く、食べ続ければ、癌化するようです。

小麦粉でも玄米と同様な、全粒粉が良いとされます。

菓子パンなんて、久しぶりに食べると本当に美味しいです。

しかし添加物の宝庫なり。

簡単に言うと、白い食べ物は、アウトと書籍などでは言われております。

白米、小麦粉、白砂糖です。

見た目の美しさにより、精製された白い食べ物には弊害があるとされます。

砂糖は、脳に良いと聞きますが、身体の細胞に炎症を引き起こすとも言われており、老化の原因になるようです。

しかし、その白砂糖よりも悪質なのが、人工甘味料です。

体内で異物となり、臓器や免疫に障害をもたるす、アセスファムK、スクラロース。

よく、糖質OFFとか、微糖とか書かれている物は砂糖の代わりに、これらが入っております。

これが体内で異物となり、臓器や免疫に障害をもたらす可能性があるようです。

そんな簡単に糖質がOFF出来る事はありません。毒物にて応用しているのです。

毒を以って、ニンゲンの欲を毒で満たす。

その多くは、殆どの美味しい乳飲料やジュースに入っております。

ああ、悲しきニンゲン。

私はスーパーにて、ランニング後(水も多く飲みます)の飲み物を探していた時、牛乳にしようか、飲むヨーグルトにしようかと思っていた時、無添加、ノンアルコールの甘酒を見つけました。

直感でこれにすべきと、買いました。

最初は不味かったけれど、身体に慣れてくると、凄く美味しく、身体が喜んでいる感じがしました。

後で調べると、甘酒は飲む点滴と言われ、カロリーは高めですが、麹菌が入っていて、腸にも良く、飲み過ぎなければ、良い飲み物であると知りました。

今ではランニングをした後には、必ず頂きます。

さて、食品には、それを保存する為.綺麗な色に見せる為に、色々な添加物を入れております。

催奇形性があるのが、防カビ剤(TBZチアベンタゾール)。酸化防止剤。

臓器に障害をもたらし、毒性が強いのは、防カビ剤(イマザリル、ジフィニル、アゾキシストロビン)、漂白剤(亜硝酸Na.次亜硫酸Na.ピロ亜硫酸K.二酸化硫黄)。

保存料(安息香酸Na.パラベン「安息香酸Naは、ビタミンCと科学的反応を起こして、人間に白血病を起こすべく、ベンゼンと変化さることがあります。」)

あと発癌生があるのがこちら。

発色剤(亜硝酸Na,それが変化した、ニトロソアミン類)。

甘味料(アスパルテーム、ネオテーム、サッカリン、サッカリンNa)。

防カビ剤(OPP,OPPーNa.ピリメタニル、フルジオキソニル)。

着色料(タール色素(先食2号、赤色3号、赤色40号、赤色102号、赤色104号、赤色105号、赤色106号、黄色4号、黄色5号、青色1号、青色2号、緑色3号)、二酸化チタン、カラメルⅢ.カラメルⅣ)。

小麦粉改良剤(臭素酸K)。

漂白剤(過酸化水素)。

酸化防止剤(BHA、BHT)。


ああ、プライドポテトは、酒のアテに良く合います。

コロッケは庶民の味です。

やまらないとまらないぽてとちっぷす。

なんてことだ、高温の油で揚げる、デンプンは、発癌性物質、アクリルアミドを産み出すとは。

全ての揚げ物なるジャガイモ(高温で揚げ無ければ無毒)が、発癌性を発揮するするとは、残念な事であります。 たまに食べるけどね。

ちなみに、高音で揚げる食べ物全般にあまりよろしくないようです。

身体に良いとされる小魚でも、揚げると、魚の善い栄養価値が揚げる事で相殺されるようです。

唐揚げなんて、本当に美味しいのに、残念です。


今時、スーパーに買い物に行くと、綺麗な野菜が並んでいます。

虫が付いている野菜なんかは見当たりません。

昔、小学生の時、母がスーパーで買ったキャベツに芋虫がついており、替えて来るように言われ、お店に替えに行ったら、店のおかみさんは、虫が居るから安全なのにと言われたのが記憶にあります。

今のきゅうりは、真っ直ぐですね。大根には大根の葉っぱが付いていません。大根の葉っぱは幼少の時、食べた事がありますが、なかなか美味でありました。栄養価も高いと聞いた事があります。

今の人は、本質を見る事なく、綺麗な形のみを見る。

これは、道でも同様で、今の人は、その人の美貌のみに、偏り、その人の本質、性や天命を観る事が出来ないと同様です。

逆に言えば、自己なる姿形のみに重きを置き、美しく化粧し、着飾り、自己の本質なる天命を知ろうとせず、自己の本性を明らかにすることなく、上辺だけの世界で生きていると言うことでもあります。

野菜に虫が付いていれば、嫌い、曲がったきゅうりは、美しく無く、形の異物な野菜は拒否する。

そして、売れない野菜は廃棄される。

その結果、遺伝子操作にて改良され、真っ直ぐ綺麗な野菜が並び、農薬まみれの野菜を買い、その弊害が我々、家族を苦しめる結果にもなるのであります。

農家も商賣であり、金銭を得ねば生きてはいけません。故に農薬を使います。

遺伝子を操作された野菜を造る。

それは、仕方がない事なのかも知れません。

日本は添加物天国であります。

多くの利権は、国の審査を甘くします。

そして、今の日本人は、多くの人が癌化しております。

それは、ストレスもあり、先天性もあり、酸素の欠乏(昔、根本先生から聞いた、道院フーチで示された癌の原因)もあり、食べ物が原因であります。

その最中、自己を守る為には、納豆食がお勧めです。

納豆は死のリスクを下げます。

そして、運動。筋肉を鍛えれば若返りホルモンが働き、免疫力をアップし、尚且つ、癌化を抑制致します。尚且つ、腹筋を鍛えれば、腸もまた、動き躍動します。

食べ物の栄養は、根と皮に因ります。故に、皮を食い、根を食べます。

農薬が心配ならば、無農薬の野菜を探し、求めるのも大切な事であると考えます。

しかし、そんな手間も暇もお金も、かけられない人もおられます。

私もその一人です。

故に松の葉を食べる事をお勧めします。

神様は人間が過ちを犯し、自らを苦しめる薬毒を造り、それに苦しめられる事を御存じでおられました。

故に、松の葉を用意されておられました。

松の葉には解毒作用があるようです。

ワクチンを受けた方にも有効であるようです。

私は六甲山に登ります。

六甲山には松が多く自生されておられるので、神様より頂いております。


そして、最大限に人が食べ物を口に入れるにあたっては、感謝する心が大切であります。

今の日本では、無添加ばかり、追い求めては食べる食物をの範囲が極端に狭くなってしまいます。

悪しき食べ物でも感謝して食べれば、毒は半減いたします。


故に、松を食べ、食物に感謝して食べれば、多くの心配は無くなると考えます。











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宝石道。

2022-05-19 19:44:00 | 考察
蓋し、今の人は光る石が好きらしい。更に、輝く金の延べ棒が好きらしい。

ダイヤモンド、サファイア、ルビー、エメラルド、アメジスト。金銀、翡翠。

すみません。わたしは武骨な男にして、宝石に何の価値も見出せません。何の興味もありません。何が素晴らしいのかわかりません。

変人鬼雷でございます。

私は磐笛好きですが、翡翠の磐笛には、何の興味がありません。

そもそも、天の磐笛とは、自然石に穴が貫通したり、中途の穴が空いており、息を吹き込めば鳴る存在でございます。

その地域特色なる天然石の自然石の磐笛が大好きです。

故に、例え、翡翠なる石に、人工による穴を開けて、音が鳴る石となっても、それは、天の磐笛ではありません。

ただ、人の手により、穴を開けて、息を吹けば、音が鳴る笛なる石であり、天然自然の淘汰を受けて、いない、人工的な笛でございます。

真なる天の磐笛は、人の手に関わらず、自然の感化を受けて、故に、神々が授ける、神受の磐笛となります。

すみません。ごめんなさい。石笛を買われたお方。

されど、あなた方が買われた高額の石笛は、吹けば鳴る笛の石、それだけの存在です。

各地の自然の淘汰感化感合を経た自然の造作が加わったもののみが、神授の天の磐笛と成るのでございます。

私、鬼雷の偏見でもあります。重ねてご容赦を。

縄文時代の神人は、己が身魂が光る故に、宝石には興味がありませんでした。

出口王仁師が述べるには、ダイヤモンドの宝石を身体に装飾するのは、曲神のやり方を真似ておられると。

言わば神ご自身が光に坐(ま)しませば、ダイヤモンドの宝石を身にまとうのは、神のご自身の光の弱気を示す理由となられるようです。

例え、宝石が好きでもよい。身に付けるのも良し。

しかし、身魂への価値観は皆無でございます。

宝石を身につけた、人が光暉となる事は無く、人の価値観で高貴な身分と見える事もありましょうが。ただ、自己満足の世界でもありますね。

真に人を輝かせるのは、宝石では無理です。

人を真に輝かせるのは、笑顔で、愛善の徳に満ち、真信の光が備われば、身に宝石を附着せずとも、自らが輝いているのでございます。


あまてらす、神の誠を、悟るべし、文句を謂わず、万物光らす。

欲芯 、捨て去る、心を、持ちいなば、心に残るは、慈悲と微笑み。

成金の、成り果て見れば、悟るべし、争い多き、休息出来ず。

宝物で云えば、竜宮の乙姫の海に眠る財宝があるが、竜宮の乙姫は全ての宝を国祖に献じた。

物質的に光る石に、興味を持たれる方は、欲に溺れる御魂の持ち主でごさいます。

ダイアモンドで人が真に救われ、幸せを得ることは、あり得ません。

物はモノでごさいます。

ものとは、物の怪に繋がります。

大金持ち主に、けっして平穏なる絶対安全なる安心の日を送れる人間は、少なく、心は常に、苛立ちと、不平と、文句ばかりなり。

いにしえの 神は示す 宝石に 禍津に親しむ 曲がりの心を。

御魂とは、思いやりを 示す道 誠の道なり 意志光るなり。
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死道。

2022-05-13 17:55:00 | 考察
人は、生物は死ぬ。

そして、自ら、自己の種を滅ぼす生物も存在する。それらを行う事を自断と呼ぶ。

人類にもその傾向が確かにあるようです。

扨て。

武士道とは、信念に死ぬ事とを見つけたり。

信念に死ねば人はどうなるか。輪廻に帰るのみ。

人の思いとは、信念とは、縛りでもある。

ある宗教を信仰し、教団の中でも地位を獲得し、自らの立ち位置を天国としながらも、癌で死んだり、また事故で亡くなり、死後、行き先は地獄であったと云う伝えを聞いたことがあります。

まあ、死後の世界なんて、自分が死んで初めて判るお話ですが。

今、自殺なる言葉がある。自死した存在はどうなるのか。永遠の自死を繰り返すのみ。無限地獄の如く、永遠のループ。

私の父は、私が幼稚園の最中、蒸発し、撫育を放棄し、借金を作り、行方不明となったが、今から十五年前に、自殺者となって見つかった。

東京の大井町のビルから、飛び降り、足から着地し、内臓と背骨、足腰は崩壊して、死んだ。

その苦痛と苦悩は、魂に刻まれ、永遠の自死の世界に彷徨い、霊と肉体は塵となり、その霊魂の一部は私に宿り、子の私にその苦痛を覚れる。

自死した存在を救うのは、難しい。

神ですら、自死した者は救い難し。

神は、無限絶対、永遠の存在でありながら、人の意思を尊重される。

私がいつも、早く死にたいと思考するのも、吾が父を救わんとする為に、父の因縁と咎を受け入れた由縁でもある。

因果の精算をしながら、坐して道慈の道を歩み真人を欲に囚われず目指さねばならない。

真の人とは金井南龍師によれば、人は、神からの分け御霊を与えられており、その本質的、自己の深奥なる身魂の親神の本質を悟り、行動実践し、自らが神の働きを為す存在は、ミコト持ちと言われる存在となるらしい。

これは、笹目仙人が曰く、大和言葉で、いずのめの身魂となり、神仙道での玄胎と同様にして、死後輪廻の世界に掴まえられない。囚われない存在となる。

死んで神や仙と聖となる、稀なお話でございます。

ある宗教では神の為に死んだり、殉職すれば、神の身元に行けるとされるが、それはまやかし。

阿弥陀仏を信仰し、南無阿弥陀仏をただ、唱えれば多少は感合があっても、救われるなんて、ことは三千世界は存在しない。

救いとは自己に於ける根源への回帰であり、自分自身のみが真に自己を救えるのであると考えます。


人が死んだ瞬間、その人の想念により、人の霊と魂は悲しみの輪廻に囚われる。

人が天に昇るのは、自らの結果であり、人が地獄に堕ちるのも、自らの結果あるのみ。輪廻に彷徨うもまた、その人の結果であり、魂が破砕され、虫となるも、自らの結果でございます。

天地災害で亡くなられた人はどうなるのであろうか。人の生き様は消えて、輪廻に還るのみだあると考えます。

戦果で亡くなられた一体、どうなるのであろうか。人の魂と肉体は、常に繋がっており、肉体が飛散し破砕した身魂、戦争で亡くなった人は、その霊を保持できず、魂は根源に還り、霊は飛散し虫と化すと聞いたことがありますが、真実であろうかと思考致します。

故に、人の存在意義として、戦争はしてはならない。兵劫なる核兵器や科学兵器で人間を殺戮し、滅ぼしてならないと、思考致します。そして、その兵劫が積もり積もれば、人類を滅ぼす、因業の種死となります。


さてさて。
何故、私の親父は、自殺したのであろうか。

借金があったから、心が弱かったから、神なる存在を知る機会が無かったから、優し過ぎたから、思いやりが無かったから、自己を愛し、痛みをそれ以上受けたくなかったから、そして、人に嘘をついたから。

信念に死ぬ事とを見つける。そこに生きる意義がある。それは、宗教であるかも知れない。仕事であるかも知れない。家族であるかもしれない。恋愛であるかも知れない。善事であるかも知れない、悪事であるかも知れない。

自己の生き様を貫ければ、それが、病死でも、寿命でも、死んで地獄に堕ちても本望であろうと考えます。

されど、生きる意義を見出せなく、自らが死を選ぶ。

ああ、人間って大変な生き物であります。

死にたいと、思えば、全てを放棄してして、怠惰に生きる。

借金や人間関係、くそくらえ。なんて思えれば、死を放棄出来るのでしょうが。

しかし、人が病気となり、病いにおける苦痛苦悩により、死を賜りたいとされる思考もございます。

ああ、悲しき世界。しかし、人の世は常に進歩している。

人の文明には、文明による被害もありますが、幸福が確かにあります。苦悩や苦痛を和らげる働きがあります。

されど、人にはいつまでも減らない、苦痛も苦悩があります。

主神は人の幸せに関与しない。人の望みを叶える存在ではありません。

が、我が子が受ける苦痛や苦悩を、取り除く働きをされます。

ああ、ただ、素直に、赤子の如く、神に縋るのみ。

神って何なのか。全ての産み親である。


神は願いを叶えない。されど、吾が子の苦痛や苦悩を決して放置されない。

天は自らを救って欲しいと考える者を必ず救わんとされる。

そして、人身には、どんな悪人でも、私のような魔人にも、神が宿っておられます。

自己の内成る神は、主神と初めて通じて、鳴り響きます。

死を臨む者よ。多くの神人が、死を愛する所以は、親元に帰れるからで御座います。

故に自殺したことがある聖人は皆無。自己の御親神に永遠に会えないから。

死ぬつもりならば、死んだつもりで、全てを放棄し、新たに生まれ変われば、良し。

人の世とは、幸福と不幸とは一瞬の心の持ちようあるのみ。





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