玄徳道

道を語るブログです。

神鳴仕組み道。

2022-05-28 19:45:00 | 神示道
世に神示がはびこるなり。

多くの経典があり、盲信者は、その文字を信じるなり。

神示とは預言の書では、無い事。神示を盲信せず学ぶ、これを道と呼ぶ。

道とは、人の可能性であり、神もまた、人の自神(自身)の道を応援されておられので御座います。

神の示すものはオサトシであります。

オサトシは、人への応援でもあります。

神の仕組みがあり、その中で神が自らの意向なる世界を創る。そんな事は皆無で御座います。

神は人を奴隷とすることは、皆無なり。

そして、真なる主神とは、無限絶対無始無終。そこに人の思考は存在しないし、介在出来ない。

また、人間が自然なる循環を、自然の働きを動かそうとしても、無駄な努力と無駄な働きの如きように(一部に言霊による変化あり。)、自然を人の意識でどうこう出来ません。

神が人の願えを叶える存在と、思考する段階で、人は人の領域におられます。

されど今の人は、日月神示を盲信している人がおられる。

日本神界は、八百万の神々がおられる。

当然に、神の調和なる神言霊に間違いは無し。

されど、岡本天明は、みずから、その過ちを認めた。善き哉。

大本の裏神業、伊勢の三保山には、辻天水神使、武智時三郎老翁師、白山義高老翁がおられ、出口王仁三郎聖示の指示と聖師の亡きあとは、皆が神人合一し、天地の経綸なる神と意志を覚悟し、神の働きとなり、助けとなっておりました。

そんなある日、武智時三郎師が、辻天水神使に曰く、「実はワシを頼って、みのり言う、娘が
駆け落ちしたみたいで、今は岐阜におるが。

武智時三郎師の言葉は、歯切れが悪かった。

「その旦那というのが、一応おるが、一人ならともかく、夫婦で知り合いの所に居候しておりますのや。いつまでもそうさせておくと言う訳にいかんし、弟子でもあるから、ここに連れて来ようと思っておるんや。」

辻天水は、「弟子というと誰ですか。」

「岡本天明と言って、神様のお筆先いうのを降ろす男や。
「ああ、日月神示とか言う神示を岐阜で「ヒカリ教会」とかいう団体を発足させている人でしょう。
「そうや、夫婦で呼ぼうと思っておるのだが。」
「左様ですか。神様のご用する人なら確かでしょう。それもよろしい事かと、思います。ぜひ会わせてください。」

なんやかんやで、天明は天水の元に三尾寄せた。

ある時、天水は、「武地さん。私は日月神示を二回繰り返し読んで見たが、おかしいな。神様がこんな事を云われる筈がない。」

天水の疑問に、呼応するように、どこの箇所かと尋ね返すと、ここと、ここと。返答した天水の発言に、武智もしばらく、腕を組み、ながら頷いた。

武智も「わしもその様におもう。」

武智は早速天明を呼び寄せ、事の真相を尋ねた。

「おまえ、これ、ほんまに、神様が降ろしたんか。」

師匠の気迫ある声に押される、天明は、平頭した。

「すんません。わしの意志だったようです。」武智は「そうか。」と言っただけで、次の言葉が無かった。
「なんで、このようなものを書いたんや。自分が偉くなったからか。」

「申しわけありません。」

ただ、ひたすら、詫びる天明の姿に天水は天明の生き方が何であるかを感じとっていた。

鬼雷述べる。天水師との違和くが此処に始まったが、それでも、我が入ったとされるが天明師もまた、偉大で素直で正直である。天明師の生きた時、後の三典さんの生涯。とても貧乏であったことも一因があります。武士は喰わなど高楊枝などの、精神は、なかなか難しいのです。

そして、多くの愚者が神示が降りたと騒ぎ、狂信し、真なる信仰を誤ってしまい、そして持ち上げられる人もまた、驕り高ぶり、道を誤るのであります。

日月神示を盲信するお方には、ここの文章はどうでも良い、曲がっている神の言葉であるとされるであろうが、神に仕える人間には、半面教師でもあり、自らを省みる天明師に、共感も得よう。
何せ、人は、正しく生きて誤って、悪ともなり、また、反省して、自己をとり戻し、死ぬ瞬間まで、修行だからであります。

鬼も邪も、聖も神も入るが故に日月神示も申されるのかも。

日月の神は、善悪を兼ねるなり。

私個人的には、神示に意義を見出せない。私の道は、坐であるが故に。

坐とは、孤独との対話でもある。

さて、何度も核が、なんせ神の示しとは、オサトシであるのみ。

そこに預言を入れるは、邪道である。

確かに、大本開祖のお筆先、長澤雄楯老師と上田喜三郎の鎮魂帰神法における実習でもその様に預言されておられるが、出口なお刀自は、その示しが御発声であり、上田師もまた、鎮魂法帰神術の修行時代でもあった。未熟の未遂の発露なり。

日月神示。

天言鏡。

龍宮神示。

大本神諭。

霊界物語。

日の出神諭。

伊都能売神諭。。。。。。。

これを7つの経と呼ぶかは知らないけれど、人の助けとなる。

三六九神示は、人の埋もれた身魂を開くにある。ゆえに、八をもって示される。

三六九とは、流れ。五六七は今の時代なり。

そして、時代は八九十の時代へと移り変わる。

はくとは、白頭でもあり、白山菊理姫之大神が主体となられる時代なり。

五六七は、神素戔嗚尊、吾が師、至聖先天老祖や国祖、国常立大神の懸命の汗血の結晶の今の時代。
なにぬねの。名のかみ。
はひふへほ。派のかみ。
まみまめも。間のかみ。

らりるれろ。羅のかみ。

そして、止まる、わん。和と、ん。

螺旋なる富士とナルトの渦の仕組みもあり。

東北の闇夜に日月が登りて、道示す。なんせ、光は、東方より。

四国は死国とも、呼ばれるが、死とは皆が持つ平等を表すなり。故に四国とは四方平らかなる国を示す。差別なき、世界あり。

令和とは、霊和でもあるが、和の十音である。

イエスキリストの十字架とは罪を背負っている示しではない。
後天と先天。物と霊。悪と善を繋ぐ印。 

霊体一致の世界である象徴。

此処に十和田湖の神秘がある。故にキリストの平等なる墓が存在する。

ただし、現実には、戦争あり、人種差別により殺戮あり。富める者は弱者を虐げ搾取する。

愛と誠ある人もあり、弥勒の心を悟れる人々も増えております。

この殺戮と破壊と輪廻を止めるのは、愛と誠の九九〇(心)あるのみであると考えます。

ああ、世界に平穏と安寧がありますように。






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令和四年五月 三六九神示。

2022-05-24 19:15:00 | 神示道

今の人民は、人を恐れて神を畏れず。

天地の神の恵みを、貪り奪い合い、人に勝らむ為に争いを繰り返しておるぞよ。

人間だけの栄えを願いた今の文明は、この地球を汚し穢し、段々と動植物も犯されて滅びゆくもの増えておるぞよ。

その様を目の当たりに見ながら、改める事をせず、我が我がの戦争絶え間無く殺し合いを続けておる事、真に愚かな事である事に何故氣づかぬのか。

先の第二次世界大戦で世界中の多勢の人民が犠牲となり、この日本の国は世界に先駆けて広島長崎と原爆を投下され、そのむごたらしい惨状を世界に見せつけて、もう二度と戦争はしてはならぬ、特に核戦争を起こせば世界は滅亡するぞよと、菊理比売の神、先頭に立ち大警告を発したなれど、人類の利己主義(われよし)強い者勝ちの精神は改まらず、神は全てを見て、原因結果の裁きをいたす畏ろしさも打ち忘れ、恵みへの感謝も薄れ、只の利益信仰になりてしまいたぞよ。

先の大戦の大禊の後も、朝鮮動乱、ベトナム戦争、今も続く中東の紛争、ミャンマーやアフガニスタンの事、この度のロシアのウクライナ侵攻、人類は進歩するどころか、益々悪賢くなりて、争いを繰り返し自ら滅亡を早めておる事に早く氣づかねば、国常立大神が稚姫君命の神霊を受けし、出口直刀自の手を借りて示した、お筆先の如く、世界人類三分一となる如き事も起こりて来るぞよ。

良く良く見てみなされ、ロシアのウクライナへの侵攻は、罪無き人民を多勢犠牲にして許されぬ事であるが、アメリカやヨーロッパの諸国は、ウクライナへの武器弾薬を与援(しえん)してロシアに対抗させておる様は、如何にも美しき事に見えるが、目ざわりになるロシアの力を弱らせる為、ウクライナに代理戦争をさせておる如きであり、ウクライナへの武器弾薬の与援や日本を含めて世界中からの経済制裁は、すでに世界の大戦争が始まっておるとも申せるぞよ。

北朝鮮も、どんどんミサイルを打ち上げて、アメリカに対抗し、ロシアを応援しておる如き様を見せ、静かにしておる中国はロシアの弱るのを待って我が方へ引き寄せようといたして居るぞよ。

赤き辰と赤き鬼の始めからの世界を我等の自在にせんとする策謀に翻弄されておる世界の様。

それぞれ我が身の都合通りにいたさむと策謀いたしておれども、そうはまいらぬ世界であるぞ。

押さえつける程、反抗反発いたすぞよ。

この収拾のつかぬ様を如何に解決いたすか。

神界も苦心いたすところであるぞ。

太陽の強烈なる光も一片の雲で遮られる如く、強き神氣も人民の利己主義(われよし)の思凝にて封じられてしまうのじゃぞ。

皆が素直となり、足らざるは、補い助け合いてゆけば、世界はもっともっと楽しく素晴らしくなるのであるが、それが出来ぬ、人間の自我や欲の思凝、人を恐れて信じ切れず、我が勝らんと争いを起こすのじゃ。

武力で威嚇、攻撃し相手を負かしても、真に安心な平和の世とはならず。

又争いが起こるぞよ。

争いは争いを生み、止まる事は無いぞよと厳しく警句いたすのが、この度のロシアウクライナの戦争であるのじゃぞ。

神は善も悪も使いて、人民の我良しを改心させ、何としても、人民を守りて、その末、神人和楽の世を開きたい念願に変わりはないぞよ。

欧米諸国もウクライナへの武器の与援や経済の制裁だけでは、ロシアも益々反発するばかりで治らぬ事を考えて、真剣になってロシアとの対話の道を開く事に努力せねばならぬぞよ。

武力や経済制裁くらいでは、赤き辰は鎮まらぬぞよ。

アメリカも日本もその他の国々も過去に犯した自国の罪科を反省し、真実の言霊の力で対話し平和の道を開かねば、金力武力で、制裁を加え押さえつけるだけでは、犠牲が増えるばかりであるぞよ。

重ねて申しておく事は、日本の国は、過去、世界相手に大戦争をいたし、その報いに大きな犠牲を受け、原爆まで落とされた試練は、世界平和の要とならねばならぬ神命の国である故であるぞ。

その国が今の世界の流れを見て他の国と同じように、核兵器を持ち、軍隊を待たねばならぬと、先の大戦の苦渋を忘れた考えでは、それこそ日本滅亡の道であるぞよ。

たとえ、外国から攻められても、日本は不戦の誓いを守り、最後迄、平和の道を守り通したと言う誇りを残さねばならぬのじゃぞ。

その覚悟が出来たなら龍宮乙姫、この国をぐるりと囲み、海山河野の八百万の神々総出で、この日本の国を守りて世界平和の要となる神命を果たせてまいるぞよ。

但馬が神鍋山より出し、金勝要神、平和の要の道と門を守るぞよ。

未だ未だ荒れる世界であれど、荒事は新事の道を開く為に起こる事を覚り、荒事に振り回されて道に迷う事無く、苦渋の節に突き当たりた時も、それであきらめず、それを機に一ふんばり、一歩進みて、生き通す勇気の奮い起こすのであるぞ。

時の流れは神の図りであるぞ。

荒れる世界は未だ未だ序の口と思えば良いぞ。

中途半端の平安では人民の改心出来ず、又争い起こすぞよ。

さあ、どんな事も受けて立つ覚悟じゃぞ。

神を畏れ、崇(うやま)い祭り、人は共に助け合い神人和楽万物共存共生の三六九の世を開くのであるぞ。

その為の浄化試練の世界の荒事であるぞよ。

言霊神也 ン。



令和四年五月九日

天橋道士 龍華斎 修聖拝写






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令和四年五月八日 小長谷修聖 三六九神示 霊視篇。

2022-05-23 19:05:00 | 神示道
残雪の白山山頂、白山神社奥宮の所に、白いドレスのような装束の女神が立たれ、諸刃の剣をぬき、その剣で輪を描いておられました。

(注 白山菊理比売の神は、霊体、陰陽、総てを括り結び給う神徳であり、神意に反する時は、逆に核の分裂、破壊の力と現れた、人民の改心を迫り給う。

諸刃の剣は、真実の言霊を意味し、荒れる世界を言霊の力で輪(和)と結び、平和の世を開けとの神示であろう。)

次に大東亜戦争の悲惨な沖縄の戦場、次には、広島長崎の原爆のキノコ雲が見えました。

(注 多くの人々が犠牲となる戦争を起こしてはならぬ事、特に核兵器の使用は人類の滅亡に繋がる事で、決して使用してはならぬと、日本を犠牲にして示されたのであり、広島は一よこ、長崎はIたて、日本に十字架を背負わされた型である。)

次に出口聖師が出雲の安来節のドジョウスクイの扮装でザルを持ち、ひょうきんに踊っておられました。

(注 瑞霊出口聖師は、様々変化して、ドジョウすくいの如く、世界の救いの為、働いておられるお示しであろう。)

次に、大本教開祖出口直刀自が三重県の香良洲神社で、お供二人をつれて、礼拝されていました。

(香良洲神社の御祭神は、生田神社、玉津島神社等と同じく稚日女命・稚姫君命であり、出口直刀自の御魂の親神である。 艮金神国常立尊のお筆先を稚姫君命が取り次がれた。)

(注 広島の原爆は、原爆ドームに到る大通りにある、白山神社の上空にて炸裂した。)
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宝石道。

2022-05-19 19:44:00 | 考察
蓋し、今の人は光る石が好きらしい。更に、輝く金の延べ棒が好きらしい。

ダイヤモンド、サファイア、ルビー、エメラルド、アメジスト。金銀、翡翠。

すみません。わたしは武骨な男にして、宝石に何の価値も見出せません。何の興味もありません。何が素晴らしいのかわかりません。

変人鬼雷でございます。

私は磐笛好きですが、翡翠の磐笛には、何の興味がありません。

そもそも、天の磐笛とは、自然石に穴が貫通したり、中途の穴が空いており、息を吹き込めば鳴る存在でございます。

その地域特色なる天然石の自然石の磐笛が大好きです。

故に、例え、翡翠なる石に、人工による穴を開けて、音が鳴る石となっても、それは、天の磐笛ではありません。

ただ、人の手により、穴を開けて、息を吹けば、音が鳴る笛なる石であり、天然自然の淘汰を受けて、いない、人工的な笛でございます。

真なる天の磐笛は、人の手に関わらず、自然の感化を受けて、故に、神々が授ける、神受の磐笛となります。

すみません。ごめんなさい。石笛を買われたお方。

されど、あなた方が買われた高額の石笛は、吹けば鳴る笛の石、それだけの存在です。

各地の自然の淘汰感化感合を経た自然の造作が加わったもののみが、神授の天の磐笛と成るのでございます。

私、鬼雷の偏見でもあります。重ねてご容赦を。

縄文時代の神人は、己が身魂が光る故に、宝石には興味がありませんでした。

出口王仁師が述べるには、ダイヤモンドの宝石を身体に装飾するのは、曲神のやり方を真似ておられると。

言わば神ご自身が光に坐(ま)しませば、ダイヤモンドの宝石を身にまとうのは、神のご自身の光の弱気を示す理由となられるようです。

例え、宝石が好きでもよい。身に付けるのも良し。

しかし、身魂への価値観は皆無でございます。

宝石を身につけた、人が光暉となる事は無く、人の価値観で高貴な身分と見える事もありましょうが。ただ、自己満足の世界でもありますね。

真に人を輝かせるのは、宝石では無理です。

人を真に輝かせるのは、笑顔で、愛善の徳に満ち、真信の光が備われば、身に宝石を附着せずとも、自らが輝いているのでございます。


あまてらす、神の誠を、悟るべし、文句を謂わず、万物光らす。

欲芯 、捨て去る、心を、持ちいなば、心に残るは、慈悲と微笑み。

成金の、成り果て見れば、悟るべし、争い多き、休息出来ず。

宝物で云えば、竜宮の乙姫の海に眠る財宝があるが、竜宮の乙姫は全ての宝を国祖に献じた。

物質的に光る石に、興味を持たれる方は、欲に溺れる御魂の持ち主でごさいます。

ダイアモンドで人が真に救われ、幸せを得ることは、あり得ません。

物はモノでごさいます。

ものとは、物の怪に繋がります。

大金持ち主に、けっして平穏なる絶対安全なる安心の日を送れる人間は、少なく、心は常に、苛立ちと、不平と、文句ばかりなり。

いにしえの 神は示す 宝石に 禍津に親しむ 曲がりの心を。

御魂とは、思いやりを 示す道 誠の道なり 意志光るなり。
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光は東方より来る道。

2022-05-17 21:23:00 | 神示道



当然に、太陽は東から昇るなり。

大岳光暉。

吾が師、老祖は中華にて降臨されたが、アジアの東方に重きをおかれた。

アとはあらわれであり、、ジとは示しであり、亞とは準ざる。順ずるにある。

即ち、亜細亜とは神に、道に順う国である。

老祖訓。

天の道を奉じて世界を、化すには、世界を善導してゆくには、必ず、先ず東(日本)
からしなければ、ならない。東なるもの、それは、物が生成発展する根源である。

東が暗くじめじめしていたのでは、物は化育しない。

清く明るく、光が輝き初めると、眠れる万物は生気を取り戻して、來るように、東を安んずると云うことが、われわれの生を安んずる所以である。

さて、日本の東とは東北の地方である。

日本三景の松島は、艮の金神の抜け殻であると言われる霊覚者もおりましたね。


迫登茂子刀自 ことといぬしの神示。

いよいよ みちのくの 道開かれん
とじられし歴史の重みおおきなものなり
埋もれし 金のまぶしきみやこ
たどりつくまでの みちのくの道づれ
あかす なぞときの玉手箱
心は やまとの中ほどに
東北のうしとらみすすておくには
もったいなし いよいよ足ふみ込み
その道案内ほほえみて やさしく
力強くその先駆けに立つもの輝きてあり みちのくはやまとなり。
やまとのたましいこもれるところ
宝物はりつけ なだめすかし 出番の待ちてある みたま動きて もそもそ動く なだめも ここまでの動きの気配 しりに火のつく やからも出でて その人 神の御使いと正しくなりて ほりおこし ほりおこしこそ 手しおにかけて やまとなるみちのくの 輝くばかりのたましいを呼びおこすべし。

迫登茂子刀自は、1931年大阪の生まれであります。長年、小学校の教師を務められ、彼女を永遠の恩師と慕う生徒は多い。
1997年2月11日、突然一杯の光に包まれました。

翌年7月13日に右手が動くと同時に、心に大河のような流れとなって映し出される言葉が次々に湧いて来ました。

目を閉じて、手の動くままひたすら、その言葉を書き留め続けました。

それは書き手が私であっても、私のものではありせん。

最初に「ことといぬし」というお言葉を書いたこともありました。

以来十八年間、ただ手の動くままあますところなく書き綴って参りましたが、私の秘事としてそのまましまい込んでおりました。


その後、奇縁により、その神示は世に出られた。

その神示は三六九神示と同様に、真ある人にしか、知られず、誠ある人にのみ、理解出来る言霊であったようでございます。

とのよこして まそたりむそし こころよし などもむなしく とりさそう。
ほのぼのとみよ あめのした。
みずとりなきぬ とこしえに ふとわれ たちて みわたせば この世のみわざ なしとげぬ さりとてみよや あまねくも みどりのおかに われありて とこしてえびとに つたえたり よもやよもやのまつりごと たえなる音にまどわされ ほのぼのあつき むねのうち われ ありませり いまここに
人々のつどい まつりまつりの みよなるや ほのぼのあけるまち人に 心やすらか ともどもに つねにもがもな わがみよに つくづくおもい あけくれぬ ところどころにささゆきて 天の御船のあれくるう 時のあまりにみちみちて 人それぞれに われあらむ かりにとまどうことありて むなしき事のありぬれど かそばき手にて うけとめよ。

山よ 海よ 友よ 空よ。
人々ありてわれあらん。
心がともなる友ありて
我ら栄えん。共に栄えん。

ひとときの静寂に 
めいそうし耳かたむけよ
自然のなりわい
ひそひそあれど
けんきょに気かたむければ
とくとくなっとく
行くきざしあり
つかれたる人
自然と対話せよ
めいそうはいらだちを
くまなく晴らすものなり。
 
日本の国は宗教の到着地点でもあります。古今東西ありとあらゆる宗教を受け入れた、八百万の神々。

その神意を解せず、神道行者の中には、神仏習合を認めない者もおられます。

されど日本の神々は、数多の宗教を受け入れて、尚且つ外国の教えを日本風に変化され、進化致して来ました。

外国では理解出来ない、日本神界の咀嚼力。

全てを受け入れて、全てを回光させる神力。

われわれ日の元御国に立つ人の存在は光なり。
それは、例え外国人であろうとも、大和心が理解出来れば、日本神界と呼応する。逆に日本人であろうとも、大和心が理解出来なければ日本神界に、決して関われない。

善言美詞を、もって言向和す愛と誠の精神こそが、その光の正体でもあると考えます。

たとえ、北から悪魔が吠えようとも、たとえ曲津が荒ぶとも 光は東方から必ず輝くなり。












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