天の命ずるをこれ、性といい、性にしたがうをこれ、道といい、道を修めるをこれ教えと謂う。
天命を覚らず、占法や神術ヒ─リングに秀でても聖賢や覚者となることは出来ない。道徳や秩序、規則を守らない人は、社会人には、成れない。礼儀作法を知らない者は、世で、出世する事は出来ない。人の言動をみて、正しいのか正しくないのか、判断する事のない人は、善悪正邪を見抜くことは出来ない。
多くの人は、規則や秩序、礼儀作法、善と悪の意味合いを知識で知っております。しかし、天命とは、天の神から授かった人それぞれの使命であるのでしょうか。それとも、天から与えられたら、役目なのでしょうか。
天命の二文字については、漢学者や、坊さんや宗教家、教祖教主が万言なる言語を費やしてもこれを説き尽くすことは、出来ない。何故ならば天命とは、私たちが生まれると共に天が私達に授けてくれた、正しい道理であり、一心虚空となりて、はじめて天命が降臨し、真宰(真の主宰)の指示が顕現されるからあります。ゆえに天命とは、人に備わっているが、その命を知るは、自分自身であり、他人には、判らないのであり、悟りの世界と似て異なるもの。
天命の所在は、全ての人は同じであります。しかし、同じ、人間でありながら、聖人、仙人、神人、盗賊、悪人、偽善人、魔人と相違があるのは、何故であろうか。天の賦与するところに、厚いと薄いのと、根本的な相違があるからであろうか。
天から賦与されたところの命は、皆同じである。同じであるが、同じでない要因に因るのである。
聖人とは、この天の命を受け、本性を顕現し、学を好んで怠ることなく、日々、自分に過ちがないか、戦々恐々とし、己の非を常に省み、慎んだので、これを保ち、これを養うことが出来たのである。悪人や偽善者は、気質の偏向があるとは言え、
修めれば、元に還る事ができたのであるが、欲望や、妄念によって惑わされたのである。全ては、物質による偏向であり、好悪嗜好により、自分から動揺し、天命を失う。いや、見えていた、天命を見失うのである。
釈迦もイエスも孔子も老子、マホメット、晏子、孫子、空海、行基、川面凡児、出口王仁三郎、出口日出麿、宮地水位各々、の聖人仙人神人は、人が言うことを出来ないことを言い、人が、知ることが出来ない事を知り、人が行うことが出来ないことを行った。従って人が成就出来ないことを成し遂げ、万世にわたって、導師として仰がれるのである。
天の命を悟り、天からの本性を顕現し、天命にそむくことなく、賦与された、天の本性をそのまま、天にお返しされたのである。
今世の人は、天命による本性に興味もなく、娯楽性に好み、道がなんであろうか、知らないゆえに、天命を悟り、自己の本性を十分に発揮することは出来ない。その原因は、多く、時代の流れもあるのかもしれないが、要約すると、迷いと
鬱繰にある。迷う所がある以上鬱となり、繰となる。そこには、天命が顕れないのである。
天命を悟りたいものは、道を修め、心を静め、靈を養うのである。
靈を養うとは、善をなすことある。靈は、陽に属し、善も陽に属するからである。善をなして、積善することは、陽光が増す。古代よりの聖人仙人は、大忠であり、大孝、大節、大喜、大慈であり、とくに修心練性の修行が無くても、没してみな、神となるのはその靈が充実しているがためである。そして、災禍の絶え間なく起こる現在、これに、処する方法は、善事に頭を向けることであり、人々に善心が芽生えれば、世界の災禍は、自然に解消しえるのである。
養靈の方法とは、凡人の域を超越し、聖者の境界に入る基である。故に靈を以て性に合するを仏と言い、陰を脱して陽に還るを仙と言い、魂と魄を合一するを神と言う。坐の道と縁無き衆生は養靈により、道を成就できるのである。
孔子ですら、五十にして天命を知るのである。奥竅の秘、ここにも天の命が在るのである。
天命を覚らず、占法や神術ヒ─リングに秀でても聖賢や覚者となることは出来ない。道徳や秩序、規則を守らない人は、社会人には、成れない。礼儀作法を知らない者は、世で、出世する事は出来ない。人の言動をみて、正しいのか正しくないのか、判断する事のない人は、善悪正邪を見抜くことは出来ない。
多くの人は、規則や秩序、礼儀作法、善と悪の意味合いを知識で知っております。しかし、天命とは、天の神から授かった人それぞれの使命であるのでしょうか。それとも、天から与えられたら、役目なのでしょうか。
天命の二文字については、漢学者や、坊さんや宗教家、教祖教主が万言なる言語を費やしてもこれを説き尽くすことは、出来ない。何故ならば天命とは、私たちが生まれると共に天が私達に授けてくれた、正しい道理であり、一心虚空となりて、はじめて天命が降臨し、真宰(真の主宰)の指示が顕現されるからあります。ゆえに天命とは、人に備わっているが、その命を知るは、自分自身であり、他人には、判らないのであり、悟りの世界と似て異なるもの。
天命の所在は、全ての人は同じであります。しかし、同じ、人間でありながら、聖人、仙人、神人、盗賊、悪人、偽善人、魔人と相違があるのは、何故であろうか。天の賦与するところに、厚いと薄いのと、根本的な相違があるからであろうか。
天から賦与されたところの命は、皆同じである。同じであるが、同じでない要因に因るのである。
聖人とは、この天の命を受け、本性を顕現し、学を好んで怠ることなく、日々、自分に過ちがないか、戦々恐々とし、己の非を常に省み、慎んだので、これを保ち、これを養うことが出来たのである。悪人や偽善者は、気質の偏向があるとは言え、
修めれば、元に還る事ができたのであるが、欲望や、妄念によって惑わされたのである。全ては、物質による偏向であり、好悪嗜好により、自分から動揺し、天命を失う。いや、見えていた、天命を見失うのである。
釈迦もイエスも孔子も老子、マホメット、晏子、孫子、空海、行基、川面凡児、出口王仁三郎、出口日出麿、宮地水位各々、の聖人仙人神人は、人が言うことを出来ないことを言い、人が、知ることが出来ない事を知り、人が行うことが出来ないことを行った。従って人が成就出来ないことを成し遂げ、万世にわたって、導師として仰がれるのである。
天の命を悟り、天からの本性を顕現し、天命にそむくことなく、賦与された、天の本性をそのまま、天にお返しされたのである。
今世の人は、天命による本性に興味もなく、娯楽性に好み、道がなんであろうか、知らないゆえに、天命を悟り、自己の本性を十分に発揮することは出来ない。その原因は、多く、時代の流れもあるのかもしれないが、要約すると、迷いと
鬱繰にある。迷う所がある以上鬱となり、繰となる。そこには、天命が顕れないのである。
天命を悟りたいものは、道を修め、心を静め、靈を養うのである。
靈を養うとは、善をなすことある。靈は、陽に属し、善も陽に属するからである。善をなして、積善することは、陽光が増す。古代よりの聖人仙人は、大忠であり、大孝、大節、大喜、大慈であり、とくに修心練性の修行が無くても、没してみな、神となるのはその靈が充実しているがためである。そして、災禍の絶え間なく起こる現在、これに、処する方法は、善事に頭を向けることであり、人々に善心が芽生えれば、世界の災禍は、自然に解消しえるのである。
養靈の方法とは、凡人の域を超越し、聖者の境界に入る基である。故に靈を以て性に合するを仏と言い、陰を脱して陽に還るを仙と言い、魂と魄を合一するを神と言う。坐の道と縁無き衆生は養靈により、道を成就できるのである。
孔子ですら、五十にして天命を知るのである。奥竅の秘、ここにも天の命が在るのである。